地域社会貢献活動
ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
No.43
金子堅太郎
対談 :昭和62年8月
司会・構成 :土居 善胤
お話:フクニチ新聞社顧問 柳 猛直氏
聞き手: 博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 野口 康見
※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。
金子堅太郎
野口
「金子堅太郎」さんというと、日露戦争の講和にたいへん活躍された人ということは知っているんですが、それ以外はあまり知らないんです。


そうですね。ご存知ない方が多いので、最初に金子さんのプロフィールを要約してみましょうか。
福岡市地行出身。家は足軽の身分でしたが、黒田長ひろ
(博のヘンがさんずいの字)(くろだながひろ)公の援助でアメリカのハーバード大学に留学。帰国後、新政府に出仕します。金子さんは、3つの大きな功績があります。
第1は、伊藤博文(いとうひろぶみ)を援(たす)けて大日本帝国憲法の草案をつくったこと。
第2は、日露戦争のとき、ハーバード時代の学友だったセオドア・ルーズベルト大統領の支援をえて、外債を募集したこと、講和実現につくしたこと。
第3は、明治維新史の編纂です。それぞれの功で、男爵・子爵・伯爵とのぼっています。
大臣も、第三次伊藤内閣の農商務相、第四次伊藤内閣の司法相、最後は枢密顧問官として、昭和17年5月16日に90歳でなくなりました。
地元にも修猷館の復興、九州大学の誘致、八幡製鉄所の設置など、たいへん尽くしているんですね。
とにかく福岡出身者で、日本の近代化に足跡をのこした戦前第一の人物でしょうね。


おいたちからアメリカ留学まで
野口
明治の栄光をいきぬいた輝かしい生涯だったんですね。


堅太郎が生まれたのは、嘉永6年(1853年)2月の4日ですから、ペリーの来航の数ヵ月前です。おじいさんは弥平で、父、清蔵、母、安子の長男です。清蔵はちょうど平野国臣(ひらのくにおみ)と同年ですね。国臣が家に遊びに来ていたのを、金子さんは覚えているようですよ。
樋井川の上流に城西橋があって、そのもう少し川上の方に鳥飼橋というのがあって、大きな栴檀(せんだん)の木があったので、「せんだん土橋」と言っていたそうです。そのそばに、足軽屋敷の金子家がありました。畑をつくったり梅を植えたりで、百坪くらいあったそうです。
鳥飼八幡宮の南手にあたる鳥飼3丁目の埴安(はにやす)神社の境内に、「金子堅太郎先生生誕地」という碑がありますが、生誕地は住宅になっているので、近くから移されたようですね。
最初は鳥飼村の正木昌陽(まさきしょうよう)塾で学んでいます。この人は藩学の修猷館を出た朱子学の漢学者でした。塾の仲間に4つ年下で福本日南(ふくもとにちなん)がいました。九州日報の社長になった、有名な明治時代の新聞記者で、『元禄快挙録』など史論家として有名な人ですね。
9歳のときに、藩黌の修ゆう(※2)館に入るのですが、門の出入りにも身分の区別があったそうです。身分の高い武士の子弟は表玄関から入れたが、軽輩は内玄関からだったそうです。教室は同じですけどね。
成績にも差別があって、軽輩の子はどんなによくできても、上士階級より上にはならない仕組みです。金子さんは修猷館きっての秀才だったので、かなり不満があったようですな。
そうしているうちに、16歳の時に父がなくなったので家督を相続します。

野口
扶持はどれくらいでしたか。


足軽なので、分限帳にも載ってないんでよくわかりませんね。
藩でも、非常に秀才だということで、次には秋月の稽古(けいこ)館へ留学させ、ついで明治3年には東京遊学を命じています。幕府の学校だった昌平黌(しょうへいこう)を新政府が継承した昌平学校で学びましたが間もなく廃校になってしまいます。
その時、たまたま東京に司法省の役人で平賀義質(ひらがよしただ)という人がいました。この人は、長崎の海軍伝習所で、勝海舟(かつかいしゅう)や榎本武揚(えのもとたけあき)などがいた時代に勉強した人です。慶応3年、黒田藩初の海外留学生にえらばれてボストンに留学し、帰って司法省に入り、判事をしていました。いっしょに6人留学していますが、この中に日本の鉄道の父として知られている本間英一郎がいました。
それから、ヨーロッパへ留学した人で松下直美(まつしたなおよし)という人がおります。第4代の福岡の市長になった人です。
金子さんはカバン持ちで、当時は「挾箱(はさみばこ)」で、この箱を持って司法省に毎日ついて行ったそうですよ。
そのころ平賀のところにやはり筑前藩の秀才で、5歳年下の少年が入って来ます。これが、団琢磨(だんたくま)です。夜になると焼いもを食べながら一緒に英語を勉強したらしいですね。
そのころ黒田藩の贋札事件が発覚して、黒田長知(くろだながとも)さんは藩知事を解任され、失意の状態だったんです。それで長溥公が、「長知に外国を見せてやろう」と、1つには慰める意味もあったんでしょう。明治4年長知公の34歳の時です。いっしょに留学生を出そうと、人選をさせ、金子と団が選ばれるわけです。

野口
彼等が同行したのがたいへんな、例の遣米使節でしょう。


ええ。条約改正の準備交渉に渡米した岩倉遣外使節団です。廃藩置県をやったばかりのときに、右大臣岩倉具実(いわくらともみ)を全権大使として木戸孝允(きどこういん)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山口尚芳等が副使、新政府の要人がほとんど乗っていたんですね。政府がからっぽになるくらい……。
あとは西郷さんにまかせて……。明治政府の基礎もそんなにかたまってないときに、あの頃の人はどえらいことをするもんですね。

西島
本当にそうですね。


それで、その時各藩の留学生が50人くらい乗っていたらしいです。中には8歳の津田梅子、あの津田英学塾をつくられた人がいました。このアメリカ号は、日本開国のための?ノアの箱舟?だったという気もしますね。
随分あとで金子さんが、坂本龍馬(さかもとりょうま)について活躍した田中光顕(たなかみつあき)という政府の要人に、「私はアメリカ号にあなたと一緒に乗っていましたよ」と言うと、非常になつかしがった、ということです。

西島
その時は、金子さんはまだチンピラで、目にはとまらなかったんですね。


そうでしょうね。団さんは14歳でまだ子供でしょう。ところがむこうに着くと、団さんは勉強していたので、多少はしゃべれるので、扱いがころっと変ったらしいんです。

野口
アメリカでは、使節団と、別れたのですね。


ええ、ボストンで早速、英語の勉強です。アリスン姉妹というたいへん家柄のいい姉妹を、家庭教師にたのんで勉強するんですが、謝礼が、1時間1ドルだったそうです。この姉妹は学校の教師で、年収7百ドルだったそうで、1日5時間くらい教わっていたそうですから、随分高い謝礼を払って勉強していたことになりますね。それから、小学校に入って、小学生と一緒に勉強もしたそうで、えらいもんですね。
それから金子はハーバード大学に入って、法律・憲法・国際法を専攻。団はマサチューセッツ工科大学に入って、鉱山学を学びます。

西島
小学校から、ハーバードやマサチューセッツですか(笑)。


団さんは、どうして鉱山なんかにと、苦情を言われたらしいですが、それが後に三井三池炭鉱の経営に役立つことになるんですね。そして、金子さんと同じハーバードには、セオドア・ルーズベルトがいました。それから後年、日露講和会議の全権となった小村寿太郎も同じころハーバードで学んでいます。

野口
ポーツマス講和条約の主役たちが出会っているのですね。


そうです。人のふれあいが歴史をつくるのだと、つくづく思いますよ。


アレキサンダーベルの電話発明
アレキサンダー・
グラハム・ベル

電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルをたずねた、面白いエピソードがあるんですよ。

西島
好奇心旺盛だったんですね。


明治9年、金子さんが24歳の時、伊沢修二という人にさそわれて、2人でベルのところに行きました。この人は金子さんの2つ年上の信州人で、芸大の前身である東京音楽学校の校長になった人です。「雲にそびえる高千穂の……」という紀元節の歌の作曲でも知られています。
東洋の日本人が来てくれたというので、ベルはとても喜んだようです。

野口
電気はもう実用になっていましたね。


電信がすでに使われていました。
ベルは聾唖者の教育にあたっていましたから、音声の研究から電気で音声を伝えられないかということを考えて、電話を発明したのだそうです。
日本語といっても標準語ができたのは随分後ですから、金子さんは、風呂場の腰掛けみたいな電話機にむかって、博多弁でしゃべったに違いない。

西島
そうでしょうなあ。おもしろいですなあ。

野口
博多弁と信州弁が、電話に入ったはじめての外国語だったのですね(笑)。


電話は大発明ですが、当時は理解されなくて、ベルは助手のワトソンと食うや食わずだったようです。ボストン大学教授の給料は研究費に食われていたんでしょう。それで、金子さんは援助をしたらしいですね。
これが後年、日露戦のときの金子の外債募集に大きくはねかえってくるのです。その頃、ベルは成功して著名な存在で、金子をずいぶん支援してくれたそうです。

西島
留学費も充分だったんですね。殿様が出してくれたんですか。


ええ、長溥公が出したんですね。

野口
その点、黒田の殿様は、日本の近代国家づくりに大きな貢献をしているんですね。金子、団、栗野、その他有能な人たちを出して。育英資金が、こんなに役立っている例はほかにないんじゃないですか(笑)。


博多の人も、ここらへん、もっと知ってあげないと、殿様が気の毒ですね(笑)。黒田奨学会というのがあって、今でも旧殿様で育英資金を出しているのは、黒田さんくらいだそうです。


憲法発布まで

まあ、そうして、金子さん、団さんは、一緒に明治11年(1878年)に帰国します。その前年の西南戦争で越智彦四郎(おちひこしろう)等が西郷に呼応して福岡城を襲い、“福岡の変”を起こしています。すぐに鎮圧されてしまうんですが、筑前藩の人間はけしからんというときで、金子さんが役所に入ろうと思ってもほとんど門前払いで、だめだったようですね。
しばらく大学予備門の先生などで細々と凌(しの)いでいました。しかし、新政府も人材不足で、有能な人はいくらでも欲しいわけですから、明治13年に元老院出仕となり、権書記官から太政官大書記官へすすみ、各国憲法の調査をやっています。17年に制度調査局に移り、18年には総理大臣伊藤博文との書記官になっています。

野口
この頃から伊藤博文とのふかい縁ができるのですね。


伊藤博文に目をかけられたというのが大きいですね。金子さんの活躍の場は、ほとんどが、伊藤をたすけてのことですから。
この頃は、もうすでに先輩の木戸孝允も大久保利通もなくなっています。維新の生き残りで、明治政府を支える人物は博文しかいない。それで国の基本となる憲法を制定するために、博文は、明治15年から16年にかけてヨーロッパに行って、プロシヤ憲法を研究して来るんですね。18年には初代の総理大臣として、自ら最高責任者となって、日本独自の憲法をつくろうとするのです。
そうなると秀才をあつめねばならない、藩閥にこだわってはおられないということで、憲法起草委員に、3人の俊才をあつめるのです。1人は井上毅(いのうえこわし)という熊本の人、この人は金子さんより10歳ぐらい年上で、イギリスに留学していた人です。権謀術数では右に出る者がないといわれるほど、頭のいい人だったそうですよ。それから金子堅太郎ですね。それから、金子さんより4歳年下で、伊藤巳代治(いとうみよじ)という人、この人は長崎の人です。後に枢密顧問官になって、内閣をいじめるので有名だった人です。鼻息が荒くて、博文が“大天狗”。井上・金子・伊東が“小天狗”と呼ばれていたそうですよ。
えらいと思うのは、憲法を決めるという国の一番大事なことをしている委員に、長州人が1人も入っていない、伊藤博文という人は、視界の広い人だったのですね。

西島
お手本はあったのですか。


プロシヤ(ドイツ)の憲法を基にしたんですね。伊藤はビスマルクに心酔していて、葉巻の喫(す)い方もビスマルクを真似(まね)ていたくらいです。
神奈川県の夏島に、伊藤の別荘があり、そこにこもってさかんに論争して草案をつくったんですね。

野口
4人とも、燃えていたのでしょうね。ところで3人の分担は。


金子は主に貴族院令、衆議院選挙法、井上は憲法本文と皇室典範、伊藤は憲法や典範、付属法典の草案を担当したようですが、金子さんは法律専門家ですから、全てにかかわって大きな支えだったと思いますよ。
そして、明治22年に明治憲法発布。23年に施行されたわけですね。

野口
平和憲法になって40余年ですね。明治憲法は、変えてはならないという欽定(きんてい)憲法ということでしたが、60年たらずの生命だったんですね。


欽定憲法でしたが、まあ、長持ちした方でしょうね。


日露講和に活躍  
アリスン姉妹と、
金子堅太郎、団琢磨

西島
次が、日露講和の活躍なんですね。


帝政ロシアはシベリアから南下政策をとり、日本の自立をあやうくしていました。そこで日本中が「ロシアうつべし」といって大騒ぎしていました。しかし、伊藤博文は日本の国力ではロシアと戦うことはできないと、「日露協調主義」だったんですね。一方ではバックアップを求めて「日英同盟」を結び、また、アメリカにも仲介者として大きな期待をしていたわけです。
それで、元気のいい軍人や外務省の連中が集まって、「伊藤を切るべし」なんて言っていたそうですが、その中に福岡市地行東町出身の外務省政務局長の山座円次郎(やまざえんじろう)がいました。この人は金子さんよりも13歳後輩で、やっぱり足軽の出身です。東京大学から外務省に入った人で、夏目漱石と同級生だったそうです。ポーツマス講和会議では随員として小村寿太郎全権を補佐、日本外交を支える逸材でしたが、大正3年中国公使のときに亡くなり、夭折(ようせつ)が惜しまれました。

西島
外務省の高官でも元気がよかったのですね。


そのころ、筑前人の会合で、金子が山座を呼びつけました。
「貴様、伊藤さんを切ると言っているらしいが、伊藤さんから軟弱外交の話を聞いたのか」
「陸軍の軍人や外務省の役人がそういうことを言っています」
「伊藤さんはお前みたいな小役人に会うはずもないし、陸海軍の少将くらいのやつに、本心を話されるわけがない。貴様たちの放言がもとで、わけのわからんやつが出てきて、伊藤さんが暗殺でもされたらどうするんだ」と、ひどく叱られたそうですよ。

野口
そうして、いよいよ日露開戦になるのですね。


伊藤の協調路線も実を結ばず、とうとう明治37年2月4日、御前会議で開戦がきまるのです。その会議が終って、伊藤が金子を呼びよせるのです。伊藤がいつまでも黙っているので「閣下、何かお話が……」と訊いても、黙ってワインを飲んでいたそうですね。そして、2回くらい訊くとやっと喋(しゃべ)りはじめて、これは金子さんの回想録に書いてあるんですが、「えらいことになった。君すまんけど、アメリカに行ってくれんか」と言ったそうです。
「アメリカ大統領と米国民の同情を喚起して、ほどほどのとき停戦の仲介をしてもらいたい。アメリカにはロシア人もたくさんいて、緊密な関係にあるから、なかなかむずかしいだろうが君が行ってなんとか工作してくれんか」ということです。金子さんがルーズベルトと学友だということは、伊藤さんは知っていたんです。
それで、金子さんは「自信がない」と言って断わったんですが、「自分は死ぬ覚悟をしている。ロシアがせまってきたときは、自分も銃をとり戦うつもりだ。成算がないことはわかっているが、とにかく行ってくれ」と言われて、引き受けるのですね。

野口
悲壮な決意だったでしょうね。


それから海軍大臣の山本権兵衛(やまもとごんべえ)のところに行って、「実はこういうことを言われたけどどうですか」と訊(き)くと、「だいたい日本の軍艦の半分は沈める覚悟でいる。のこる半分でロシアの艦隊を全滅させる。適当なときに米国の仲介をたのむ……」です。
次に陸軍参謀本部次長の児玉源太郎(こだまげんたろう)のところに行って訊くと「五分五分だ。しかし六分四分にもっていきたい。そのとき貴君の尽力でアメリカの仲介をたのむ」という話。金子もそれで決心をしましたが、その翌日、家の前が騒がしいので何事かと思ったら、なんと皇后陛下が金子邸におみえになったのですね。びっくりしてお迎えすると、「大変なことだけど、あなたが行ってくれないとどうにもならないことなので、ぜひお願いする」と言われたので、非常に感激したそうです。

西島
お使いじゃなくて、皇后ご本人がいらっしゃったのですか。


ええ、でもこれは大変に異例なことだったらしいです。
そして2月8日、仁川の沖で戦争開始。金子さんは24日に出発、サンフランシスコまで20日以上かかり、各地で日本の立場を講演しながら3月26日にワシントンに着くと、大男のルーズベルトが、小さい金子さんの肩をいきなり抱いて、「どうしてもっと早く来なかったんだ。君は僕が新聞に公表した大統領声明を見たか」という。「アメリカは中立で日本にもロシアにも加担しない」ということを言っているわけです。
これはアメリカの軍人が、「ロシアはけしからん、日本は追い詰められて戦争を始めたんだ」と言って回っていた……。日本びいきなんですね。で、ロシアの大使がねじこんできた。それで、大統領としては、絶対に中立を守ると言っているわけです。それを金子さんは新聞で見てがっかりしていました。ルーズベルトは「だから早く来てほしかった。君に僕の真意を述べようと思っていた。僕は全くの日本びいきだ。世界の平和のために日本に勝ってもらわなければならん」と言ったらしいですね。ロシアのとめどもない膨張をここでくい止めなければならない。ロシアは満州に進出したばかりでなく、東洋を制圧してしまうかもしれないと懸念していたのですね。

野口
アメリカも危機感をもっていたんですね。


セオドア・
ルーズベルト大統領

帝政ロシアは、西へはヨーロッパの列強国があってなかなか出ていけないので、アジアへどんどん侵出している。それを止めようという気が強かったのですね。
金子さんはルーズベルトの真意を聞いて非常に安心しました。もう1つ、役立ったことは世界各国に張っているアメリカの情報網で、いい情報がたくさん入ってくるんです、ロシア軍の士気、国内状況など。いつ革命が起こっても不思議ではないし、士気も低く、雑軍の集まりであることがわかったんです。
世界最強といわれていたロシアのコサック騎兵も、火器が進歩して機関銃がでてきた時代ですから、もう時代おくれです。
結論として、ルーズベルトが「日本は勝つ」と言ったので、金子さんは非常に喜んで日本に電信しました。

西島
戦争中ずっとアメリカにいて……。


日本支援の輿論をうみだすため、あちこち講演してまわっていますね。ちょうど、この頃、旅順港外で戦艦ペトロパブロフスクが日本の機雷にふれて沈没し、名将マカロフ中将が戦死した事件がありました。金子さんは、講演で「日本は正義の戦いをしているんだ」と強くうったえましたが、「マカロフ提督が戦死されたのは、世界の海軍にとって大きな損失である」と提督をたたえたのですね。アメリカ人は非常に感激して、「さすが武士道だ」と評判になったらしいですよ。その話の後で、ルーズベルトが「武士道の本はないか」と言ったので、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の『武士道』という本を贈ったという話がありますけどね。

野口
五千円札の肖像になっている新渡戸さんですね。


日本に大変共感をもってくれて、中には鉄道の破壊に自分を使わないか、とアメリカの女の人が金子さんに言ってきたりしたそうです。

西島
金子さんの活躍が、着々とみのったのですね。


そうですよ。そして、奉天大会戦で日本が勝つんですね。そのニュースが入った時に、ルーズベルトが喜んで、金子さんの手をとって「勝った」と言ったんですが、その時に「WE」、われわれという言葉を使って“Glorious rejoice we conquer!”(われわれは勝った!)という言い方をしたそうですよ。
これは、日露戦争後、陸軍大学で講義した谷寿夫という人の『機密日露戦史』、戦後出版されましたが、この中に原文で引用してあります。

野口
今、金子堅太郎のような人がアメリカに行ってくれないですかね。日米摩擦の解消に……。


レーガンさんの同級生という人がいたらいいんですけどね(笑)。

野口
それから、小さい国が大きな国にたち向かっていくというのが、アメリカ人好みだったんでしょうね。


「ダビデとゴライアス」だったんですね。ミケランジェロの「ダビデの像」というのがありますね。ダビデは大きな怪物ゴライアスにたち向かっていくんですが、日本がダビデで、ロシアがゴライアスにみえたことでしょう。

野口
講和のきっかけは、東郷平八郎さんの日本連合艦隊が、バルチック艦隊を全滅させたことですね。


これはもう、世界戦史にも例のない大勝利で、これで、ルーズベルトが講和の仲介にのりだすのです。

野口
開戦のとき、終結を考えていた。そのプログラムの通りで、明治の指導者たちは実にすごいですね。


第二次大戦とは大きなちがいでしたね。決死でやるが、引きぎわを考えていましたからね。
外務大臣の小村寿太郎が全権大使、政務局長の山座円次郎等が随員になって、講和会議が開かれるアメリカのポーツマスにのりこみます。ロシア側は大物のウィッテ伯爵です。金子さんは小村さんに引き止められて、会議の間アメリカに残りました。

野口
小村寿太郎という人は、身長が1メートル45センチくらいしかなかったそうですね。金子さんも小柄だったそうですね。ウィッテは大きかったんでしょう。講和会議もダビデとゴライアスみたいですね。


もう日本には、戦争をつづけられる余力がなかったのです。絶対に講和を成立させねばならなかったのです。
ところがロシアも、革命前夜で国内情勢が不穏でした。これには福岡出身の明石元二郎(あかしもとじろう)大佐の活躍もあるのです。結果はご承知の通りで、樺太の南半の割譲、大連の権益という、いまからみれば、夢まぼろしですが、当時とすれば一応の成果で幕がひけたのですね。
ウィッテもまあまあ、日本も有利だと思ったわけです。
金子さんはこの時55、6くらいですかね。男子の本懐をとげた念(おも)いだったでしょうね。

西島
金子さんは、日本のためにたいへん尽力されたのですね。あまり、知らなくてすみませんでした(笑)。ただ「福岡のことは何もしてござれん」という話もききましたが……(笑)。


そうでもないですよ。まず明治18年に、長溥公にたのまれて修ゆう(※2)館を復興しています。彼にとって、日本に母校は修猷館しかないのです。特別の感慨があったでしょうね。
それから、明治27、8年の日清戦争の後、日本も自前で鉄をつくらなくては、ということで官営八幡製鉄所ができますね。これは候補地が企救郡の柳ケ浦と広島のどこか、それと八幡だったんですが、製鉄事業調査委員会の委員長だった金子さんが、八幡に持ってきたということになっています。中国湖北省の大冶(だいや)の鉄と筑豊の石炭という、地の利もあったのですが、地元にという金子さんの気持ちがあったんでしょうね。

西島
八幡製鉄は日本の心棒みたいなものでしたね。


28、9年の日清戦争は勝ちましたが、割譲を受けた遼東半島をロシア・フランス・ドイツの三国干渉で、返還させられます。国力不足を痛感させられた日本は、国力充実は、まず鉄からということだったんですね。
八幡製鉄所がなければ、日清戦争とは比較にならない大規模の消耗戦だった日露戦争を戦えなかったでしょう。八幡製鉄ができたのは、日本にも地元にとってもたいへん意義のあることでしたね。


九州大学の誘致   
野口
九州大学の誘致にも、金子さんがかかわっているのですか。


明治36年に、九大の基になった京都帝国大学・福岡医科大学が創設されます。これはいろいろな人の尽力があったのですが、政府の要人だった金子さんの尽力がやはり大きかったということです。それから、同じ36年に女子師範学校を建てる時も、随分協力をしたそうです。そういうわけで、郷土の教育には非常に熱心な人です。
それから、大正5年には『黒田如水伝』を書いています。その序文に、「自分は黒田家にどれだけお世話になったかわからない」と感謝しています。

西島
金子さんは、中野正剛(なかのせいごう)とか緒方竹虎(おがたたけとら)、広田弘毅(ひろたこうき)という人たちと、つながりはないんですか。


彼等は、はるかに後輩で、対等にはつきあえなかったんじゃないですか。広田弘毅の先輩にあたる山座円次郎さんが、よびつけられてどなりあげられたぐらいですからね。たいへんな勲功があるし、それに伯爵でしょう。上は殿様の侯爵くらいで、福岡では最高の位まで行った人です。栗野慎一郎が子爵で、明石元二郎が男爵ですからね。


人柄 
野口
最後に、金子さんの人柄は……。


金子さんは、威張ってばかりいて、家の中で自分を「おかみ」と呼ばせていた、とか、悪口を言う人もいますね。

野口
教育もキャリアも一流、功績も抜群で、そして伊藤博文に目をかけられたとなると、普通の人には歯がたたず、悪口をいわれるぐらい偉かったということなんでしょうね(笑)。


後年、修猷館に来て演説することが好きだったらしいですね。話によると「憲法はおれがつくった。日露戦争はおれが片付けた。修猷館はおれがつくった」と、自慢話ばっかりだったらしいですけどね。もう80くらいで、母校の後輩に対してですから、うれしくてたまらないわけですよ(笑)。しかも、日露戦争時代に国を支えた連中はもう誰もいないわけですからね(笑)。

野口
自分が戦前の日本を築き上げたという意識でしょうね。


その日本が、がたがたとくずれてしまう姿をみないで、昭和17年に亡くなったのは、彼にとっては幸いだったでしょうね。
しかし金子さんのまとまった伝記はないのです。長生きしすぎて、亡くなったときが戦争中でしょう。とても伝記どころではない。戦後は価値観がかわってちょっと手をつけにくい。栗野、団、それから明石、それぞれに立派な伝記がでておりますが、それが金子さんだけない。やはり残念なことですね。

野口
新たな、冷静な目で、『金子堅太郎伝』が生まれていいときですね。


そうですね。だいたい、福岡の人は、金子さんの話はあんまりしないですものね。ここで生まれた人には二通りあるんですよね。1つは秀才型ですが、栗野慎一郎さんや金子さんはなかなか話題にものぼりませんよね。一方、秀才型でない人、頭山満、それから中野正剛、それから広田弘毅、この人は秀才でないわけじゃありませんが……要するに、豪傑の東洋的風貌の人でないと、だめなんですよ。金子さんは、その点ちょっと損してますね。

野口
今日はどうもありがとうございました。


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