地域社会貢献活動
ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
No.56
解放の父 松本 治一郎
対談:平成4年4月
お話:参議院議員 松本 英一氏
聞き手: 博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 会長 松本 攻
※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。
出現は天の配剤
松本治一郎の一生

松本攻
今年(1992年)は部落解放をかかげた全国水平社の創立70周年にあたるそうですね。松本治一郎さんはずっと委員長をされましたが、氏の出現は天の配剤のように思われてなりません。
戦前のあの時代に、差別の不当をかかげて部落解放のため、絶対の権力であった国や軍に敢然とたちむかわれた。あの力はなんだったのだろうか。知の人、信念の人は当然として、たいへんな仁者でもあったのですね。伝記を読んでいて、胸があつくなりました。

松本
父のことをそのようにお褒めいただいて恐縮です。おっしゃる通り、父は子供のときから、不当と差別に我慢ができず、身をはって抵抗しました。
部落の子が差別されると相手が上級生でも、大勢でも立ち向かっていく。謝るまでやめない。体も大きかったし力もあった。

松本攻
子供世界にも、治一郎少年のほうに、どうも正義があるというか、筋道が通っているのがわかる。大勢をたのみに部落の子を差別し、いじめていた子供たちも、今度は相手がちがう。だんだん、たじたじとなって、一目も二目もおくようになる。
このパターンは、治一郎さんが大きくなって、国家権力を相手とされたときも同様ですね。「真に正しい者は強い」とよく言われていたとか。本当にそう思われますね。

松本
小さいときから、この一筋という生き方だったようですね。治一郎の父も兄弟も、不当を泣き寝入りするような者はいなかった。そして、危機に対処する治一郎を支援しています。

松本攻
見識も、信念も。そして生計をきちんとたてられていて。治一郎さんのお父さんは村会議員、長兄の治七氏は収入役もされ、松本家が、部落の人たちの支えだったのでしょう。
先生のお父上は治七氏ですよね。102歳まで矍鑠
(かくしゃく)としておられ、手形も筆文字で書かれていた。端正なお姿が目に焼きついていますよ。先生が治一郎さんの秘書をされていて、養子になられたのでしたね。いつ頃から秘書に…。

松本
治一郎は全国水平社の委員長で多忙でしたが、若い人と話すのが好きでしたから、いつも20人ぐらいの書生がいました。私が秘書に専念したのは戦後、参議院の副議長になってからです。
開院式に天皇をお迎えしたときのカニの横這い拒否、あれから身辺警護もあって、ずっと治一郎の左側につきそっていました。

西島
左側というと。

松本
治一郎は、不意の防御をかねてステッキがわりに竹の杖を愛用していました。だからスキになる左側を。

西島
なるほど……。ところでカニの横這い拒否はたいへん話題になりましたね。

松本
議会の開院式で衆参両院の議長副議長が天皇陛下を国会議事堂の玄関にお迎えし、控えの間で“謁見”がある。一般で言えばご挨拶で、そのとき天皇にうしろを見せては不敬ということで、横這いをして、正面から前にすすんで挨拶する。終って同様の手順で引きさがっていたんです。
松岡衆院議長松平参院議長田中衆院副議長が慣例通りにして、治一郎の番になった。ところが治一郎は陛下の前へまっすぐ歩いて、普通にご挨拶をし、うしろを向いて引きかえしました。人間天皇をお迎えするのに横這いができるかと…。これがカニの横這い拒否と大きく報道されたのですね。

西島
以後は横這いは廃止されて…。

松本
元華族の松平参院議長の胸の内も、本心は横這い反対だったようで(笑)。
ところが、不敬だと脅迫が続く。私も体をはった気持ちで、親父さんの左側についていました。

松本攻
じゃ、いつも治一郎さんのそばに。

松本
ええ、しかし、ひと頃は治一郎の命令で盟友、鈴木茂三郎先生のボディガードをしていました。

松本攻
それは…。

松本
自分より鈴木先生の安全を気にしていたのです。治一郎はそういう男でした。

西島
いろいろと役目があって書生さんも大変でしたね。

松本
治一郎は書生にはきびしかったですね。朝食も朝7時すぎると絶対食べさせないんです。それでも治一郎に惚れこんだ人が次々とおしかけてきて…。東京のマッサージの名人までぜひにと言って書生になりました。私をふくめていろんな人間がいましたな。
若い連中ばかりでしょう。戦後早々だからみんな素寒貧で、元気づけの酒代がない。それで事務所の敷物を質入れする。親父がくるとなると大急ぎで受け出して…。(笑)
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