地域社会貢献活動
ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
No.67
「九州文学」を支えた群像
対談 :平成10年9月
司会・構成 :土居 善胤
お話: 地域文化研究家 深野 治氏
「九州文学」編集・発行 高尾 稔氏
聞き手:福岡シティ銀行 常務取締役 本田 正寛
※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。
大河の源流に『九州文学』
原田種夫年譜

原田種夫氏
司会
最近の福岡県は、芥川賞や直木賞と、ビッグな受賞作家の活躍でにぎやかですね。

深野
受賞して、福岡に住んで書き続けている作家がそろっているのは嬉しいですね。

司会
地元に住んで活躍した作家といえば、まず北九州若松の火野葦平
(ひのあしへい)さんが思い出されますね。

深野
福岡県出身で活躍した作家たちを、芥川・直木賞を中心に考えて整理しますと、昭和前半の戦前と、昭和後半の戦後を第一期と第二期に分けられると思います。
戦前は地元の『九州文学』を中心に有力候補が相次ぎました。
戦後は、芥川賞の松本清張さんの「或る『小倉日記』伝」の頃から様相が変わります。いわゆる『九州文学』の直系ではないし、県内在住ともいえなくなる。それが昭和戦後の第一期の人たちでした。ところが、一九八〇年代、戦後第二期の高樹のぶ子さん、村田喜代子さん、直木賞の白石一郎さん、杉本章子さん、吉川英治文学新人賞の帚木 蓬生さんたちの受賞からまた様相が変わって、福岡に根をおろした作家が続くのです。

本田
心強いですね。やはり、福岡の文学を守(も)り立ててきたのは、『九州文学』なのでは。

深野
戦後の受賞作家の多くは、直接には『九州文学』に関係のない場から出ています。
ですが『九州文学』は、昭和十三年に創刊されてから、五十八年にひとまず休刊するまで四十六年間、長い歩みで九州全域の文学活動の底流を支え続けてきたのです。福岡の文学の土壌を育ててきたと言えるでしょう。

本田
現在の同人は。

高尾
百十名です。時代とともに、同人のスタンスにも変化がありましたが、一貫して九州全県、今は山口県まで。地域に根づいた文学雑誌です。

深野
そして通巻で現在四八六号だからすごいですね。


和服の着流しで飄々のハラタネさん
司会
『九州文学』以前の文学のマグマの沸騰は、原田種夫さんがこのシリーズ三十号の「福岡と文学」で話されています。
さらに鶴島正男さんにうかがった「火野葦平」(北九州篇五号)で初期の奔騰(ほんとう)ぶりがうかがえます。
今回はその後をうけて、九州文壇の風土をつくった『九州文学』の担い手たちのお話を伺います。

深野
じゃあ、その編集と維持に尽力された、原田種夫劉寒吉の両巨頭。そして九州文学の名を高めた火野葦平さん、岩下俊作さんになるのでしょうね。

司会
人間的に魅かれる群像ですね。じゃ、原田種夫さんから。
細身の原田さんが和服の着流しで飄々(ひょうひょう9として博多の街を歩いておられた。絵になる風景でしたね。

深野
通称ハラタネさんと親しまれていた原田さんは、和服がトレードマークでした。どんな席でも着流しで、風格があった。雑踏の中に鶴が舞っている感じでしたね。作家の田中艸太郎
(そうたろう)さんが「痩驅(そうく)鶴のごとし」と言いました。

高尾
原田さんは敗戦を機に、洋服を脱ぎ捨てて、和服一本にきめたのです。「洋服を着ると外国からヒモをつけられたような気がして」と。戦後早々の、原田さんの気分だったのでしょう。

深野
原田さんが旧制の西南学院中学の第一期卒業生ということは、あまり知られていない。同期生は百五人入学して卒業が二十九人だったそうです。
卒業生が少ないのは、家業の手伝いや、転校したりで、当時ではそう不思議でもなかったのだそうです。
最初は修猷館中学(旧制)を受けたが、数学で駄目。後年、「落ち武者の心境だった」と言っている(笑)。
でも、伸びやかな空気だったようで、ハラタネさんにはかえってよかった。

本田
西南へ入っても、ハラタネさんが仕(つか)えたのは詩の神さまだから(笑)。

深野
原田さんにはなによりの環境で、友人とガリ版印刷の詩誌を作って校内で配ったり、典型的な文学少年だったのですね。

司会
柳川の北原白秋記念館に、九州文学賞を没後も支援するという、原田さんあての遺書が展示されていますね。

深野
北原白秋に心酔していましたからね。白秋を福岡に迎えて出版記念会を開いたり、毎年、柳川を訪ねたりしていますね。
それから、東京薬学専門学校へ進んでいますが、肌が合うはずがないからすぐやめて西南学院高等部へ。それもやめて法政大学予科へ入って中退、青春遍歴が続きますね。

高尾
そのころ友人の山田牙城さんらと詩集「心象」を発行しています。
山田牙城さんは、東邦電力(九州電力の前々身)の社員で、二人は生涯の文学の友人となる。山田さんはあまり表に出ないが、『九州文学』を支えた大きな柱でした。
原田さんは、詩人では食べていけない。それでツテを頼って、福岡貯金局に勤めています。
そのころ詩誌「瘋癩(ふうてん)病院」「銛(もり)」「九州詩壇」「九州芸術」と、次々に発行し、「九州芸術」で「第二期『九州文学』」に合同している。いずれも短命の詩誌でしたが、ひたむきな、キラキラしたものを感じますね。

深野
当時の青年を虜(とりこ)にした文学の風を感じます。一口に軽く文学青年と言うけれど、文学青年は当時の社会では、マルキスト青年とともに、いちばん理想に燃えた存在でした。


ハラタネさんと劉 寒吉さんの出会い
劉 寒吉年譜

昭和52年、訪韓の折の 劉 寒吉氏
本田
そのころ、劉寒吉「りゅうかんきち」さんとの交友が始まったのですね

高尾
劉寒吉さんは、昭和七年に岩下俊作、中村 暢
(なかむらのぼる)さんらと、小倉で詩誌「とらんしっと」を創刊している。ポルトガル語で詩の女神という意味だそうです。

深野
昭和八年八月十五日のハラタネさんの日記に、「夜、『とらんしっと』の劉寒吉君来訪。対座一時間半。詩談。」とあります。
もちろん新幹線はないし、博多から小倉まで鈍行で二時間近くかかった時代ですね。遠来の友を迎えた思いだったでしょうね。
そして、十一月二日には、九州の詩人行脚(あんぎゃ)に出発し、小倉で劉さんたち北九州の詩人たち十数人と懇談し、劉さんの家に泊まっています。

晩年の劉寒吉氏の色紙
本田
訪ねる方も、迎える方も、たぎっている感じですね。

深野
それから原田さんの日記に、劉さんがひっきりなしに登場しています。呼称も“劉寒吉君”から“劉寒吉”、“寒吉”へと変わって、交遊の深まりを物語っています。

高尾
出会いのとき、二人は数え年でハラタネさんが三十二歳、劉寒吉さんが二十六歳ですね。

司会
ハラタネさんは、飄々とした外見とは違って、几帳面な性格だったようですね。当時から膨大な日記を残されていて…。

高尾
相模女子大教授の志村有弘さんがその日記を整理して、「九州文壇日記」にまとめられています。
ハラタネさんの文学彷徨(ほうこう)から。山田牙城、矢野朗、劉、火野、岩下さんらとの交遊、若き日のロマンなどがリアルに窺(うかが)え、『九州文学』の揺籃(ようらん)期を知るにはなによりの貴重な資料です。

司会
昭和四十九年までの『九州文学』の背景が冷静に緻密(ちみつ)に記載されていて驚きました。登場人物も三千人とか。一人の作家の日記ですが、この価値は公文書なみだなと思いましたよ。

深野
サラリーマン生活のハラタネさんの記事は、貯金局を辞(や)めたい、辞めたい、早く辞めたい、ばかりです(笑)。
そして辞めた時は、天下を取ったような喜びよう。これから詩作に没頭できると意気軒昂です(笑)。
ほかのページを、見てみましょうか。昭和十年七月に、カ子
(かね)夫人と結婚しています。夫人は北原白秋の主宰した第一次「多摩」同人の才媛でした。その日の日記を見ると

「貧乏と不満との亡霊を恐れない
お前と腕をくんですっと抜く剣は
僕の寂寞と不幸を薙(な)ぎ仆(たお)す
お前は僕の真実であった
ここにま新しき生活の暦
ここに誠実なる愛情の指」と。

そして、翌年二世誕生のときは、
「父にまさる天才的の人間となれ。よし敗北しようとも身を以て信念を貫いて生きよ。決して俗徒になる勿(なか)れ」とあります。

本田
令息もたいへんですね。なにやら、私たちまで厳粛な気持ちになってきます(笑)。


火野葦平さんが「糞尿譚」で芥川賞受賞 
火野葦平氏(左)
と原田種夫氏
本田
そのころ福岡の文学事情は。

深野
大正から昭和にかけては、夏目漱石と親交があり、歌人として知られていた九州大学の耳鼻咽喉科の権威、久保猪之吉教授とより江夫人らの詩歌誌「エニグマ」があります。教授は漱石に頼まれて、九大病院で歌人長塚 節の面倒を見たことでも知られています。
また柳原白蓮が歌集「踏絵」を出したり、夢野久作が「ドグラマグラ」を書いたり、いくつかの詩集が出たりしています。
しかしハラタネさんに言わせると「福岡という街は、由来、詩人が育たない文化的に乾燥したところだった」ようです。

本田
そこから、『九州文学』の芽が育ってくるまでには?

深野
昭和三年に、原田種夫、山田牙城たちと四人で「瘋癲(ふうてん)病院」という強烈な個性をもった詩誌が出され、そして「九州芸術」へ。
これらが発火点になって、九州各地の詩人たちとの連携が進み、十年後の『九州文学』の創刊に実を結んでいます。

高尾
そのころは、小説よりも詩の方が活発で、火野さんも「山上軍艦」という詩集を出しています。

本田
詩の活動から出発して、火の国九州の文学マグマが噴出した感じです。あの飄々としたハラタネさんが、そうした情熱の人だったとは。目を見張る思いです。

深野
こうして福岡と北九州の詩人たちが親密の輪をひろげた頃、衝撃的な大事件が起こりました。
火野葦平さんが「糞尿譚」で芥川賞を受賞したのです。

高尾
「糞尿譚」の最後のページを火野さんが書き上げたのは、軍の召集令状がきて、原田さんや劉さんたち文学仲間が壮行会を催した会場の若松の「かき正」で、昭和十二年の九月九日のことでした。
火野さんはその場で「日本一臭い小説ができたけ、聞いちくれ」と言って、今書き上げたばかりの終章のサワリを披露して大爆笑だったそうです。
それを劉さんがあずかって、久留米の矢野朗さんが主宰している「文学会議」の十二月号に掲載されて、翌十三年の二月に芥川賞を受賞したのです。

深野
葦平さんは中国戦線にいるため、若松で主(あるじ)不在の祝賀会が催されている。
東京から評論家の小林秀雄さんが使者となって戦地にいる火野さんに賞を渡された。当時の空気もあって、これはビッグニュースでした。
これに刺激を受けて、これまで詩を書いていたハラタネさんや劉さんや、他の人たちも、小説を書くようになった。そして、次々と芥川賞と直木賞の候補になりました。
候補作品を挙げると、原田さんの「風塵」が芥川賞、「南蛮絵師」と「竹槍騒動異聞」が直木賞。劉さんの「人間競争」と「翁」が芥川賞、「十時大尉」「風雪」が直木賞、矢野朗さんの「肉体の秋」が芥川賞、岩下さんの「富島松五郎伝」と勝野ふじ子さんの「蝶」が直木賞の候補にそれぞれノミネートされたのです。
だから、中央の雑誌の編集者が福岡と北九州の作家たちに熱い眼差しを注ぎ出しました。壮観だったでしょうね。


「九州文学」の誕生
「九州文学」同人たちと…(昭和30年ごろ)
=火野葦平資料館(北九州若松区)提供
司会
そして「第二期『九州文学』」の発足が九月ですね。

深野
〈第二期〉というのは、昭和十二年に林逸馬さんらが「九州文壇」を創刊しますが、すぐにつぶして「九州文学」〈第一期〉に改めた短い前史があるからです。通常、『九州文学』という場合は、昭和十三年以後の第二期『九州文学』を指しています。

本田
原田さんや劉さんらが〈第二期〉にこだわられるわけがわかりましたね。

高尾
火野葦平、劉寒吉、岩下俊作さんらの「とらんしっと」、原田種夫、山田牙城さんらの「九州芸術」、旧制福高の教授だった秋山六郎兵衛さんらの「九州文学」、矢野朗さんらの「文学会議」の四誌が合同して、昭和十三年九月にスタートしました。

本田
でも、個性の強い人たちばかりが集まって、合同の話し合いはすんなりまとまったのでしょうか。

深野
秋山さんたちの「九州文学」を後援していた福岡日日新聞(現・西日本新聞)の文化部長だった黒田静男さんの、根回しがあったようですね。
「百年の計に立って、九州に展望のある広い文学風土をつくろう」という意気込みだったそうです。

本田
見識のある人だったのですね。

深野
黒田さんの斡旋で、天神の喫茶店の凪洲屋
(なぎすや)や、中洲のブラジレイロで、アカデミー派の秋山、林逸馬といった人たちと、原田、山田、劉さんたちの話し合いが何度も持たれました。
だが、アカデミー派と野の詩人では、肌合いも違っていてなかなかうまくいかなかったようです。

司会
『九州文学』に吸収されるようで、すっきりしなかったのでしょう。

深野
原田さんの日記には、その話を聞いた十二年九月に「九州文学に入(はい)れとの話である。即答はできんが、九州文学の連中と同席は決してせん」と激しい拒絶反応です。それから火野葦平さんの芥川賞受賞をはさんで、黒田さんが粘(ねば)り強く説得されたのでしょう。
翌十三年六月の日記には、黒田さんと会い『九州文学二期第一号』でよし、加入しようと決める」。そして十八日には、「九州の文化百年の計は成る」とあります。

高尾
編集委員は原田さんと山田さんたちが担当することで、大同団結が実現し、昭和十三年七月十日に第二期『九州文学』が発足しました。そして、九月には創刊号が出ています。
そのときですね、山田牙城さんが『九州文学』の看板を抱えてきて、原田さん宅の表に掛けたそうです。熱気が伝わってくるようですね。

本田
前年に中国との悲しい戦いが始まりましたが、文学への新しい発足もあったのですね。

高尾
時代の流れがひしひしと伝わっていたでしょう。文学への思いも平和な今の時代とは、また変わった真剣さがあったのでしょうね。

本田
『九州文学』誕生は、九州の文化面で、大きなエポックだったでしょう。

深野
合議がなった日の日記に「百年の計はなる」があります。黒田さんとの話に“百年の計”がとびかっていたのでしょうね。
昭和四十年に、黒田さんは七十九歳で亡くなられましたが、原田さんは「黒田氏なくんば、とても今日の第二期はあり得なかったことであろう。気むずかしくて感情の動揺が激しい、あの詩人や、作家を合同させ得る人物が、当時、黒田氏を措(お)いて外にあったとは思われないのだ」と悼(いた)んでいます。

司会
その『九州文学』が諸事困難の戦時中もぎりぎりまで発行されているんですね。版組みしていた第七十七号が、昭和二十年六月九日の福岡大空襲で印刷所とともに焼失している。

本田
終戦ぎりぎりまで発行されたのですか。紙の手配から、当局の統制への配意まで、原田さんたちは口には出せないご苦労だったでしょうね。

深野
終戦後すぐに、第七十八号を復刊しているのです。
戦争末期から終戦直後の『九州文学』をとりまくいきさつは、火野さんの「革命前夜」に詳しい。
デフォルメもあるし、登場人物も実名ではないが、戦争の圧力と敗戦の混乱に振り回される文学者の群像が赤裸々に表現されています。

高尾
原田さんの述懐から、引用しましょう。
「傷だらけの昭和二十一年の正月は世にも侘(わび)しい風景で、街頭に一本の国旗さえなかった(略)。年頭に『九州文学』一月号を出した。
死灰の中から羽ばたくフェニックスのように、『九州文学』は廃墟の中でよみがえった(略)。空襲によって灰燼(かいじん)に帰した六月号をふくめて、わずかに六ヶ月の空白があったことになる。」とあります。
紙を確保していたから出せたのでしょうが、みな活字に飢えていて評判になり、同人も中村地平宮崎康平与田準一ら、錚錚(そうそう)たる連中を迎えています。

司会
創刊当時は戦雲急で昭和十三年には国家総動員法が発令されていますし、開催が決まっていた東京オリンピックも中止になるという緊張した時代での発足だったのですね。それにしても、飄々とされていた原田さんたちのしたたかさは、すごいですね。
ここでハラタネさんの、作品について。

高尾
やはり代表作は「風塵
(ふうじん)」でしょう。劉さんも「原田の作品では、やはり『風塵』が第一だ」とよく言っていました。

深野
「風塵」は、いま読み返しても、青春の鋭い神経が突き刺さってくるようで、若い人には共感されるでしょう。
原田さんの壮年期の新聞小説「伊藤小左衛門」は、私が新聞社時代に担当していました。アンチ権力の気骨を感じさせる作品です。

司会
原田さんの人物伝では、「人形と共に六十五年 --- 小島与一伝」がありますね。
実は、当行の創立者「四島一二三伝」を原田さんにお願いしています。
四島一二三は一番電車で三十三年間通勤するなど、勤倹な生活をし、晩年は顧客行脚(あんぎゃ)をよろこびとしていました。自分を語らない人物だったのでハラタネさんが「テキは語らず、なかなかのサムライですな」と言われたのが、印象に残っています。
経済情勢の機微も、見事に汲み取られていて、ハラタネさんこそ、なかなかのサムライでした。

深野
そして「西日本文壇史」がありますね。
これで九州文学界の揺籃期を彩った久保猪之吉より江夫妻加藤介春長塚節北原白秋ら五足の靴の詩人たちのことも手近に知ることができる。貴重な労作です。
平成元年に八十七歳で亡くなられました。若き日に友人と文学論を交わしあった喫茶店ブラジレイロ跡の中洲西大橋のたもとに文学碑が建てられ、晩年の詩が刻まれました。

「あすの日に
 あすの悦びあり
 あす書くもの
 胸にみなぎる
 もの書きは
 幸いなるかな
 あすの日は
 あすの悦び」

ハラタネさんは小説家ですが、真髄は文学スタートの原点をずっと維持されてきた詩人だった。その本領は「原田種夫全詩集」と「原田種夫全集」(国書刊行会)に結実しています。晩年の随想集「ペンの悦び」「明日の日はあすの悦び」も、私には詩集だと思われてなりません。


九州文学の大きな笠であった劉 寒吉さん
本田
原田種夫さんと劉寒吉さんが『九州文学』を九州全県の作家たちの同人誌に育てられたのですね。

高尾
火野葦平さんの後ろにも劉さんがおられたようです。
火野さんの十回忌記念の「火野葦平展」が小倉井筒屋デパートで催されたとき、終わっての酒の席で、「これで葦平の供養は終わった。これからは、自分の小説を書こう」と低くつぶやかれました。
劉さんの、本音を聞く思いでしたね。

深野
高尾さん著の、「私の中の劉寒吉」と副題された劉さんの回想伝記「吹くは風ばかり」を拝見しました。
高尾さんが傾倒された劉さんの文学へのひたむきさと、人間味が惻惻と伝わってきますね。

司会
あの本を読んで、私は
(りゅう)さんは“(りゅう)さん”だなと思いましたよ。劉寒吉さんは、九州の作家や詩人たちを、大きな笠で守ってられた笠さんでもあったと…。
それでは、劉さんのプロフィールを。

高尾
劉さんは、小倉目抜きの魚町商店街で有名なお菓子屋さんだった濱田屋の跡取り息子です。日露戦争の終わった翌年、明治三十九年に生まれ、本名は濱田陸一です。
濱田屋は小倉・小笠原藩の砂糖御用達商人で、魚町の町年寄りも務める名家でした。
大正八年に、商家の息子の一般コースだった小倉商業学校へ入りますが、すぐに文学の虫になる。
三年生の時にガリ版の文学誌「梧桐」、卒業して本格的な活版印刷で「公孫樹」を発行しています。
そのころ、小学校の同級生で県立小倉工業学校の生徒で、詩誌「潮騒」を出していた岩下俊作さんや、星野順一さんがいて、生涯の文学友人となるのです。

深野
火野葦平さんとの出会いは。

高尾
二十四歳の濱田陸一青年と、一歳下の玉井勝則青年の出会いが面白いですね。
劉さんこと、濱田青年の回想によると、詩人で画家の星野順一さんと、若松のチャップリンという洋食屋でビールを飲んでいると、和服に※トンビ姿の青年が入ってきた。星野さんが「勝ちゃん、こっちへ来んな」と誘った。
その勝ちゃんがのちの火野葦平です。当時はまだ玉井勝則青年で、早稲田中退で兵役をすまし、親の玉井金五郎さんの稼業だった船積み仲仕業、玉井組の若大将でした。

深野
洋食とビールの当時の文学青年にぴったりの新しい雰囲気でしたね。

高尾
玉井青年が中学時代から阿南哲朗さんが発行していた「揺籃」に小説を書いたと、顔をあからめて話したそうで、劉さんはこの瞬間に後の火野さんが好きになったのです。
そして昭和七年に、岩下俊作さんや中村暢さんらと詩誌「とらんしっと」を創刊しています。
原田、劉、火野の、生涯の文学仲間が期せずして。同時に文学の海へのりだしている、面白いですね。

本田
文学青年という言葉が、みずみずしく生きていた時代ですね。


神隠しにあった旅の友から「劉」のペンネーム
司会
“劉”さんは、そのペンネームから、韓国か中国の方かと…。

高尾
ペンネームの由来が愉快ですね。浜田青年は毎年一回一週間、自由な旅行が許されていました。
昭和六年の夏は対馬へ行くつもりだったらしい。それが間違えて釜山行きに乗ってしまった(笑)。麗水(韓国の港湾都市)で気持ちのいい劉青年と仲良しになり、日本に一緒に帰ることになりました。
ところが門司駅、現在の門司港駅で人込みではぐれてしまった。浜田青年がリュウ君、リュウ君と声を張り上げて捜(さが)したそうですが分からない。
間もなく、岩下俊作さんに誘われて詩を書きました。そのときのペンネームに、神隠しにあったように突然蒸発した劉さんの名を使ったのです。

深野
韓国旅行をしなければ劉寒吉は生まれなかった。そして“寒吉”は、貧相な男のことですね。

本田
文学のスタートは、はにかみが…。いや、自虐的で(笑)。
でも、九州文学のリーダーにふさわしい、新鮮なペンネー厶ですね。

高尾
そして三十代の劉さんたち文学仲間を襲った大きな衝撃が、昭和十三年、火野葦平さん三十二歳のときの、芥川賞受賞ですね。
このことを劉さんは「九州芸術」第十二号に、「大酒のみのごんぞうの親分稼業をしている河童のすきな大男の陸軍歩兵伍長として、戦争中の仲間の一人、北九州の虎の子の一匹火野葦平の芥川賞には、敵も味方もあっと叫んで、近頃愉快愉快のことの第一である。」と書いている。六十年たっているが、私たちも愉快ですね。

司会
この年、第二期『九州文学』が誕生して、劉さんたちの文学活動期がはじまるのですね。

高尾
火野さんの刺激を受けて、小説を書き出して、次々に芥川賞や直木賞の候補になる。三十三歳から四十九歳ぐらいまでの間で、劉さんの作家活動に、一番脂(あぶら)が乗っている時ですね。
それでいて、劉さんの心底には、はにかみがあったのですね。職業らしい職業を持たずに、夜ともなればカフェにたむろして、文学とか芸術とかわめいている連中は、大道闊歩(だいどうかっぽ)すべきではなく、道は片隅を歩くべきだと(笑)。

本田
世間への遠慮も、作家の陰翳(いんえい)なのでしょうね。

高尾
歌人の持田勝穂、作家の田中艸太郎、詩人の丸山豊、評論の星加輝光、小説の滝口康彦等、それぞれ一匹狼の同人たちの連携から、若い作家への面倒、財務面のサポートまで、劉さんはよく尽くされましたね。
そしてなによりも、劉さんの中にたぎっていた文学への熱情が、みんなの心をひきつけていたのですね。


宮崎康平さんの『まぼろしの邪馬台国』
晩年の頃の宮崎康平氏
司会
九州文学の同人には、個性ある人達が多いでしょうが、“島原の子守歌”で知られる、宮崎康平さんもそのひとりですね。

高尾
島原鉄道の常務で、吉川英治文化賞をもらいました。「まぼろしの邪馬台国」の著者として知られています。
劉さんは弱っている人や、傷心の人をみると、手を添えないではおられない人でした。
康平さんが『九州文学』の編集を担当していた劉さんを訪ねて「小説ではないがおもしろいものを書きました。一年間載せて下さい」と持ち込んだのが、「まぼろしの邪馬台国」で昭和四十年五月のことでした。
康平さんの邪馬台国への思い入れに打たれた劉さんは編集委員にはからずに掲載を即決した。一回目が出た時に編集委員全員からおもしろくない、小説ではないと苦情がでた。だが、劉さんは、「いや、わしゃあ、おもしろいと思う。盲人が書いているんだ。少々長いぐらい、勘弁してやれや。盲人が古い日本を唄うのだ。だまって聴こうではないか」と、押し通された。
もしこのとき劉さんが強引に掲載を押し通さなかったら「まぼろしの耶馬台国」は生まれなかった。
この連載が終わってから、劉さんが『九州文学』を主な出版社へ送り、それに講談社が注目したのです。

深野
それが翌々四十二年一月に、講談社から出版されて、四十万部のベストセラーになったのですね。

高尾
宮崎康平を世に出したのは、劉寒吉さんでした。昭和五十五年に康平さんが急逝されたときの弔辞も、泣かせましたね。
「かつて私は君の随筆集に『めくら滅法』という題をつけた。君は何事にも規制の法を無視して大胆に行動し、それは一見、無法の世界でもあるように思われた。
然し、君の行動は、その根本において、すべて先覚的な深い思想に発し、つねに凛烈(りんれつ)たる文学精神を忘れていなかった。(略)
歩き、書き、話し、盲目の身をもって、通常人の二倍も三倍もの活動をした。君の突然の死は、じつに壮絶というほかはない。
 よくやったよ、康平君。
 今日は、君の冥福を念じて、骨を拾わせてもらうよ。」

本田
胸にせまりますね。

高尾
私は、康平さんの目になってやろうと思っていましたから、劉さんの温情には、いつも搏(う)たれましたね。 劉さんは頼まれると、即興の詩や歌をすぐ色紙に書きましたが、癖のある書体が、また何とも言えない。陶芸家の丸田正美さんに、

タンポポが風にとぶ日や肥前路の
空低くして陶の家静もる

佐賀にわかの筑紫美主子さんに、

をみなあり肥前の国の肥の女
かなしからずや人をわらわす

私ももらっています。ちょうど
(はぜ)が真っ赤(か)に見事な季節でした。佐賀の天山が遠望されるので、

田園紅櫨仰天山
(でんえんこうろてんざんをあおぐ)

宝物で大切にしています。そうそうこんなのも発見しましたよ。少々ご酩酊での即興でしょう。

 恋の至極「しごく」は忍ぶ恋
 知らずや君よそよかぜは
 音もたてずに吹くものを
 それとも見えず吹くものを

深野
いいですね。即興に詩心があるれている。

本田
劉さんの“色紙即詠全集”があればいいですね(笑)。

深野
劉作品を知るには、晩年に創元社から発行された、「劉寒吉自選作品集」が、まとまっています。古川薫さんが口火を切り、高尾さんの侠気を買って、お前さんの仕事だよと押しつけなさったとか。

高尾
古川さんは、劉さんの人柄を尊敬し、作品の愛読者だった。当時は同人でもなかったのに嬉しい人です。

司会
劉さんの作品は。

高尾
亡父のことを書いた「寝太郎餅」「父の靴」「翁」、山頭火をモデルにした「旅の人」や「炎の記録」などが代表作と言えるでしょう。
このほか、「天草四郎」「竜造寺党戦記」「大友宗麟」「山河の賦」などの時代小説も捨てがたいものです。

深野
晩年の作品で放浪の歌人宗 不旱を描いた「阿蘇外輪山」はいいですね。劉さんも旅が好きな人だったのでしょう。
カメラをぶら下げてふらりと旅に出て、印象に残ることがあれば現場で徹底的に取材して、構想を固めるタイプの方でした。この作品も、そうした熟成を感じさせますね。


吹くは風ばかり
岩下俊作年譜

岩下俊作氏
司会
火野さんや劉さんは、面倒見のいい人だったのですね。

深野
『九州文学』が戦後間もなく創設した「九州小説賞」第一回は、同人でなく、外部の新人・北川晃二さんの「逃亡」に与えられました。
『九州文学』のリーダーたちは、そうした包容力があったのですね。北川さんもそれを受け継がれて、白石一郎さんや日本推理作家協会賞を受賞した夏樹静子さんら、当時の若い作家の後押しを熱心になさいましたね。

司会
同人仲間たちの交流も、羨ましいですね。

高尾
毎年、地区ごとに、当番を決めて、九州各地で大会をしていました。劉さんや原田さんと、文学の炎をぶっつけ合う好機でした。みんな燃えていましたね。

本田
『九州文学』は、同人の炎の連帯だったのでしょうが、発行には危難のときもあったでしょう。

高尾
同人誌の宿命で、財務面で維持が次第に困難になってきた。
それで、昭和三十二年ごろ、流行作家だった火野葦平さんが心配して『九州文学』を東京の出版社が引き受ける話を持ってきたのです。
葦平さんが斡旋するのなら止むをえないな、「九州文学」の改革になるしと、編集委員がみな賛成したのですが、劉さんがひとり、憤然として反対された。
原田さんの回顧を見ると、「『九州文学』は九州で発行してこそ意味があり(略)、地方文化の拠点とならねばならず、また次代の文学を育成する場であるべきだ、というのが劉の意見であった。なるほど、劉の言うことが正しいと思った」とあります。
俺が一人でも出すぞと、その気迫に押されて、火野さんも案を取り下げ、九州での発行が継続されたのです。

本田
劉さんの心中では、『九州文学』は絶対だったのですね。

高尾
だが、後を委嘱(いしょく)したい人たちにも、それぞれ事情があって、二十六年後の昭和五十八年の九月に休刊が決まり、十一月に『九州文学休刊号』の発行になりました。
その中で劉さんは「文学に対する新しい熱情が再び燃え上がって、巨大な結晶体となる日を期待して止みません」と、述べておられる。

深野
万感の思いだったでしょう。『九州文学』は四十六年の使命はおわりましたが、十一年後に高尾さんが遺志を次いで復刊されている。

本田
そうした曲折があって、合同がなり、以来六十年、九州文学は営々と発行されているのですね。天国の劉さんも、さぞかしお喜びでしょうね。

深野
劉さんは各層への交流が広く文運隆昌の役目を、広い見地から果たされましたね。
晩年に読売新聞に三年間連載された「わが一期一会(いちごいちえ)」に、劉さんの人柄の深み、そして劉さんに魅せられた広い人脈が窺(うかが)えます。

本田
劉さんを語れば、北九州の文化が語れるといった存在だったのですね。

高尾
私が心から師事していました劉先生は、病衰で昭和六十一年の春七十九歳で亡くなられました。
九州文学にかけがえのない人を失ったのです。辞世の句となったのが

 戸を押せば夢いっぱいの旅路かな

で四年後の平成二年に北九州市立図書館横に建てられた文学碑の碑文は

 吹くは風ばかり

でした。


戦時色の一篇のロマン“無法松の一生”
司会
岩下俊作さんといえば、戦前の大映名作「無法松の一生」がすぐうかびますね。

高尾
原作は「富島松五郎伝」で、最初は、当時の有力な月刊誌だった「改造」の懸賞小説に応募して、選外佳作だったのです。
それを推敲し直して、結成に参加した『九州文学』に載せた。これが第十回直木賞候補に挙(あ)げられ、「オール読物」に掲載されて映画「無法松の一生」になった。

深野
侠気一本の人力車夫“無法松”(阪東妻三郎)が、陸軍将校の未亡人(園井恵子)に男ひとすじの秘めた恋、まことをつらぬく。

本田
戦時色一本の中で、ほっとするロマンだったのですね。色恋はご法度(はっと)、まして将校夫人に人力車夫の恋慕などタブーの時代で、ずいぶんカットされて、の上演だったそうですね。でも、「無法松の一生」は、昭和を代表する映画だった。戦後も同じ伊丹万作脚色、稲垣浩監督で、主演が三船敏郎に変わって再映画化されています。
いかに大衆待望の映画だったかということがわかりますね。この映画はベニス国際映画祭でグランプリを受け、世界に通用する無法松であることを立証して愉快でした。

高尾
岩下さんは、その前にも、東宝から頼まれて「熱風」を執筆しているのです。これは藤田進原節子主演で製作されています。

高尾
このころの岩下さんは第十回直木賞から十三回まで連続して候補になっています。脂がのった活躍だったのですね。

本田
だが、映画の影響で、「無法松の一生」の岩下さんの印象が強くなってしまって、作家岩下さんとしては心外な面もあったでしょうね。

高尾
それだけ原作「富島松五郎伝」が、すばらしい作品だったということでしょうね。

深野
映画といえば、八幡出身で『九州文学』同人の古海卓二もいます。
市川右太衛門主演で、評判作になった「旗本退屈男」第一回作品を監督した人です。戦前の映画界の右傾化に嫌気がさして九州へ帰り、小説を書いています。掘り起こしてみたい人です。

司会
岩下さんの作品といえば、昨年、北九州都市協会から発行された「岩下俊作選集」五巻がありますね。

高尾
作家の星加輝光さんが行き届いた解説をされています。
それに引用されている直木賞選考会での「富島松五郎伝」選評を借用してみましょう。
佐藤春夫さんは、「特色のある市井人(しせいじん)の風貌と、明治中期に勃興した南九州の地方色や時代の空気などもかなりよく出ているし、実在の人物らしい主人公の大力美声殉性の性格に、一種男性的な感傷に訴へるものがある」とあります。
白井喬二さんは、「一車夫の野性と純真さを描いた作であり、文学形式としては一種の田舎派であろう。然し強く読む者の魂をゆらいでいくところがある。直木賞が第一回より才林に囲繞(いじょう)されている際、斯(か)かる茫野(ぼうや)を其(そ)の一角に押立てる事も、あながち無意味ではないと信じた。」と賞賛しています。

本田
当代屈指の大作家に、それだけ褒められる作品だったのですね。

深野
選集に収められている「鉄の街」はフクニチ新聞に連載されて好評でした。私が担当しましたが、岩下さんはミステリーを読むのがお好きでしたから、鉄の街・北九州を舞台にミステリータッチの珍しい作風になっています。


生い立ちに無法松の背景がセット
映画「無法松の一生」 (監督・稲垣浩、主演・阪東妻三郎)
高尾
「岩下俊作選集」は岩下さんの遺族が、費用を出し合って出版されたと聞きました。
没後十七年たっての壮挙ですね。岩下さんの人柄と文学を、いかに愛していたかの発露でしょう。

司会
周囲も情があふれていて。だんだん無法松の世界に。
男のアイドルである無法松を生み出した人、岩下さんの横顔を…。

高尾
本名は八田秀吉です。
年譜を見ると、劉さんと同年の明治三十九年誕生で、天神小学校時代の同級生が生涯の文学仲間となる後年の劉寒吉さんです。阿南哲朗さんが先輩、松本清張さんは後輩です。
おもしろいことに、お父さんが人力車の※立て場を経営していました。人生の最初から、無法松の背景がセットされていたのですね。

深野
なるほど。岩下さんは、県立小倉工業から町の鉄工所を経て、八幡製鐵所に入社した技術屋さんでしょう。いわば文学には遠い環境だったのに。

高尾
そして劉さんは商業学校で、岩下さんとはコースが違っていました。
だが、劉さんが杉原碌介、岩下さんが古田三平のペンネームで一緒にガリ版刷りの詩の同人誌「公孫樹」をだし、創作や戯曲を書いている。八幡製鐵の社員になってから、また一緒に「とらんしっと」を創刊している。終生の文学仲間だったのですね。
でも、岩下さんは技術者としても優秀だったらしく、電動転轍器の発明で所長表彰を受けたりしている。

深野
照れ性で、人前でカッコのいいことは言わない。どっちかといえは取りつきにくい人柄でした。

高尾
四十年代後半の同人霧島大会は野外パーティで、深酒した岩下さんが芝生に寝てしまわれた。起こすと「高尾君か。うん、わしを部屋までおぶっていけ」と言われ、五階の部屋まで背負っていった。
晩年まで、その時の礼を何度も言われた。そんな人でしたね。

深野
シャイな性格の人でしたね。
酒は好きでしたが、趣味の多い人ではなく、ゆっくりゆったり生きるのを理想とされていました。
「日本は世界一やらならんでいい。ポルトガルとかオランダのような国がいい」と言っておられたのが印象的でした。

高尾
昭和三十六年末に八幡製鐵を定年になって、広告代理店の明治通信社に入り、福岡支社長を六十六歳で退社。北九州市立郷土資料館館長につき、生涯の文学の友、劉寒吉さんより六年早く、昭和五十五年七十三歳で亡くなられました。

本田
岩下、劉、二人の同級生が、お互いに切瑳琢磨しながら、生涯を文学に生き抜かれたのですね。感動しました。

高尾
没後十年の平成二年、北九州八幡東区の八幡製鐵が偲ばれる高炉台公園に、「岩下俊作文学碑」が建立されています。

吉岡夫人の
手を掴んだ松五郎は 直に

「奥さん済まん」と叫ぶと
身を翻へして飛び出した

風の様に、下駄を履かずに
闇に消えた。
(「無法松の一生」より)

司会
原田種夫、劉寒吉、火野葦平、岩下俊作と、九州文学にながれた烈々の文学魂のお話をうかがいました。
『九州文学』の星々は無数ですが今回は代表の四人のお話にて。
ありがとうございました。


福岡県出身の「芥川賞」「直木賞」作家
戦前──
〈芥川賞〉
昭和11年(上)「コシャマイン記」鶴田知也
昭和12年(下)「糞尿譚(ふんにょうたん)」火野葦平
昭和14年(上)「あさくさの子供」 長谷健
戦後第一期(昭和21〜54年)
〈芥川賞〉
昭和27年(下)「或る『小倉日記』伝」松本清張
昭和36年(下)「鯨神」宇野鴻一郎
昭和50年(下)「志賀島」 岡松和夫
昭和54年(下)「モッキングバードのいる町」森禮子
〈直木賞〉
昭和25年(下)「長恨歌」と「真説石川五右衛門」檀一雄
昭和29年(下)「ボロ家の春秋」梅崎春生
昭和50年(下)「復讐するは我にあり」佐木隆三
戦後第二期(昭和55年〜)
〈芥川賞〉
昭和58年(下)「光抱く友よ」高樹のぶ子(福岡市在住)
昭和62年(上)「鍋の中」村田喜代子(中間市在住)
平成4年(上)「運転手」藤原知美
平成10年(下)「日蝕」平野啓一郎
〈直木賞〉
昭和62年(上)「海狼伝」白石一郎(福岡市在住)
昭和63年(下)「東京新大橋雨中図」杉本章子
      (福岡市在住)
平成2年(下)「漂泊者のアリア」古川薫(下関市在住)
福岡県在住の「日本推理作家協会賞」作家
昭和48年  「蒸発」夏樹静子(福岡市在住)
昭和52年  「視線」石沢英太郎(太宰府市在住)

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