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四島
孫文を支援した人と言えば、宮崎滔天についで頭山満がうかびますが。
石瀧
二人と後に黒龍会を組織する内田良平(明治七1874〜昭和十二1937)が代表的です。今の評価ではいちばん右にいるのが頭山と内田良平。いちばん左にいるのが宮崎滔天という図式になるでしょう。
戦後の史観では、滔天は無償の純粋な革命支援者だが、玄洋社の頭山や黒龍会の内田は利権獲得が目的だったとされてしまうのです。
四島
強大な洪秀全(こうしゅうぜん)の太平天国が鎮圧されたのは五十年前だし、蜂起した革命軍も清朝(しんちょう)の軍に次々と敗れている。孫文が革命に成功するかどうかは誰にも分からなかったでしょう。
石瀧
ええ。孫文も後年、「自分の生きている間に革命が成立するとは思わなかった」と述懐しています。
そのときに孫文を、一貫して支援しているのですから、これは利権問題以前の、志の分野の話だったのです。
四島
孫文の財政を支援した人たちも同様でしょうね。
石瀧
まず平岡浩太郎(嘉永四1851〜明治三十九1906)と中野徳次郎、そして安川敬一郎(嘉永二1849〜昭和九1934)ですね。三人とも炭鉱を経営している。安川は、当時の明治鉱業の社長ですね。
西島
大変な金額だったでしょう…。
石瀧
彼らの胸の中にたたまれたことで、具体的にはわかりませんね。
だが、革命軍を組織する資金です。武器だけでも、何万丁(ちょう)といる、膨大な金額だったでしょうね。
西島
成算のない革命資金を事業家の人たちがよく引き受けましたね。
石瀧
平岡と安川は玄洋社員でした。平岡は西南戦争で西郷軍に参加し、禁固一年の刑を受けています。安川の長兄は明治初年の福岡藩の贋札(がんさつ)事件で藩主をかばって死刑。次兄は、明治七年の江藤新平がおこした佐賀の乱に官軍として鎮圧に向い、三ツ瀬峠の戦で戦死しています。
時代の激動を身にしみて感じていた彼等は、士魂商才を地でいった人たちでした。中国革命に資金援助をするのはやはり志の分野だったでしょう。
辛亥革命後、中国との合弁企業を始めた安川敬一郎の述懐があります。
当時の金で、製鉄の漢冶苹公司(かんやひょうこんす)に約六百万円を投下しますが、契約が実行されず事業の見通しが立たない。彼は「全く無償で中国に贈与して手を引いた」と述べています。
司会
子息の寛(ひろし)氏が、「あれに投資したから、うちは貧乏になった。中国へ行くと、親父の七光りで特別待遇だ」と笑って述懐しておられました。 |
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| 宮崎滔天 |
司会
では福岡県民の大歓迎から時計の針を十六年もどして、中国革命を振り返っていただきましょう。孫文との出会いはまず、熊本県荒尾出身の宮崎滔天(とうてん)(本名 虎蔵明治四1871〜大正十一1922)ですね。
石瀧
孫文はハワイやアメリカの華僑の支援で組織した反清(しん)組織、興中会の首領でした。
広東(かんとん)で一八九五年(明治二八)に反乱をおこして敗れ、イギリスに亡命しますが、清国公使館に監禁されます。送還されれば死刑です。
香港の医学校時代の恩師カントリーらの救援活動が英国政府をうごかし、奇蹟的に釈放される。孫文はその顛末(てんまつ)、「ロンドン遭難記」を英文で発表して革命家として有名になります。
イギリス時代に後年の三民主義の着想も得たようです。
西島
そして、日本に亡命を。
石瀧
ええ。アメリカ、カナダをへて二年後に日本に亡命します。滔天は香港の同志から、革命家孫文のことを聞いて関心をもっていました。それで、横浜の亡命先へ孫文を訪ねるのです。
滔天は、新聞『二六新報』に掲載された「※三十三年之夢」で、この時の情景を、リアルに述懐しています。
明治三十年九月のことで、彼が数えの二十七歳のことでした。
孫文は満州王朝への抵抗の意志を示して、弁髪をきり落としていました。
ハワイで少年期を過ごし、香港で西洋医学校に学んだ孫文は、頭髪をポマードでなでつけたモダンな紳士として滔天の前に現れたのです。
だが、髭面(ひげづら)で巨漢の滔天には革命家を英雄豪傑とするイメージがあるから、目前の紳士がなよっとして頼りない。
「余が予想せし孫文はかくのごときものにあらざるなり」と言っています。
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「三十三年之夢」は、明治三十五年一月三十日から六月十四日まで、百二十三回掲載。 |
西島
がっかりしたのですね(笑)。
石瀧
だが、中国革命について話せば話すほど、孫文の魅力に引きつけられていく。
そして「余は恥じ入(い)りて、ひそかに懺悔(ざんげ)せり。われ思想を二十世紀にして心いまだ東洋の旧套(きゅうとう)を脱せず、いたずらに外貌(がいぼう)によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚(はなは)だ多し。」と反省しています。
「孫逸仙(そんいっせん)のごときは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその思想の高尚なる。彼、何ぞその識見の卓抜なる。彼、何ぞその抱負の遠大なる。しかして彼、何ぞその情面の切実なる。わが国(くに)人士中、彼の如きもの果して幾人かある。誠にこれ東亜の珍宝(ちんぽう)なり」と。
四島
革命に燃えた二人の若者が、喧々愕々(けんけんがくがく)と、論議しあっている情景が浮かんできます。英傑英雄を知る。惚れ込んでしまったのですね。
石瀧
孫文三十二歳。滔天が二十七歳です。それから十四年たって、革命成立を迎えます。
四島
回天の業を起こす人の出会いと若さ、感動的ですね。滔天といえば、有名な宮崎兄弟の一人ですね。
石瀧
長兄の八郎は、ルソーの民約論を教典に自由民権を唱え、西南戦争で西郷さんについて、二十七歳で戦死します。
次兄の民蔵(たみぞう)は土地の均等配分を主張して、アメリカ、イギリス、フランスを説いてまわりました。「井」の字を大きく書いた孫文の革命旗は、土地の平等を唱(とな)えた民蔵の影響ではないかと言われています。
すぐ上の兄、弥蔵(やぞう)は滔天に中国革命を吹き込みました。
時代の危機感をわかちもち、ユニークな思考で活動した兄弟で、荒尾の生家が、「宮崎兄弟記念館」になっています。
四島
明治を象徴する、ボルテージのたかい一家だったのですね。 |
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四島
それにしても、宮崎滔天の『三十三年の夢』は、中国革命を語るには欠かせない書物ですね。
石瀧
彼と仲間が、いかに孫文を支援したかということが克明に書き遺(のこ)されています。そして、赤裸々(せきらら)に貧しい窮状をさらけ出していますね。
生活に困窮し、革命運動も思うようにいかない。それで、当時は蔑(さげす)まれていた浪曲界に身を投じ、周囲の反対を押しきって桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)に弟子入りする。そして、桃中軒牛右衛(とうちゅうけんうしえもん)と名乗ったのは有名ですね。
四島
革命に没頭する滔天と、家族たちの苦しさを切々と。文語体の記述が少しもブレーキにならない。
石瀧
「歴史」の「歴」は粘土に記されたもので、「史」は紙に記されたものなんですね。文字として書き残されてこそ歴史なのです。
四島
回天の歴史に立ち会った、このようにリアルで克明な回想を読むと、つくづく、滔天は同時代を記述した一流の歴史家なんだなと思います。
石瀧
ところが、同じように孫文支援に尽力した末永節はなにも書き遺していない。明治時代を代表する健筆家で、九州日報の社長だった福本日南(誠 安政四1857〜大正十1921)も同様です。だからこの本ではじめて、中国革命と彼らとのかかわりがわかるのです。
明治三十年に、孫文と末永節、内田良平、平山周(夜須郡・現、朝倉郡出身)らがフィリッピン独立運動のアギナルド将軍(1869〜1964)を支援したこともこの本で知ることができる。
号を狼嘯(ろうしゅく)、オオカミがうそぶくと名乗っていた末永節が、日南をフィリッピン独立運動に誘(さそ)う一節がいいですね。
「狼嘯また余(滔天)を説いていわく。福本日南はわが同郷の先輩なり。彼、年すでに四十を越え、業 (なりわい)に筆硯(ひっけん)(文筆)のことに従うといえども、思うにこれその志にあらず。彼をいざのうて(誘って)この事に加(くわ)わらしめ、以(も)って死後の栄をになわしめては如何(いかん)(いかが)。
彼、また多少の名声を有するもの。豈(あ)にこの事に寸効なからずや(いいことではなかろうか)」と言うわけです。
四島
当時は「人生五十年」で、四十代が人生の完熟期だったのですね。
石瀧
みな二・三十代で、日南だけが四十代なんです。
「余(よ)その意を賛(賛成)して、これを孫君に謀(はか)る。孫君またその意を賛す。すなわち、狼嘯とともに日南君をその寓(ぐう)(家)に訪(と)い、秘懐(心の内)を吐露して賛成を求む。彼言下に快諾していわく。それは、いい死に場所じゃわいと」。
四島
福本日南という、明治を代表するジャーナリストが、四十を過ぎて革命に参加を勧められ、いい死に場所の一言で参加を決める。まだまだ、たぎりの時代だったのですね。
石瀧
念頭にあるのは、人生をいかに完結するかということだけなのです。
この本は、中国でもベストセラーになって、毛沢東が愛読して滔天に手紙まで送っています。
西島
それで、滔天が左の席に座れるお墨付きになりましたね(笑)。革命支援で、ほかに書き残されたものは。
石瀧
革命は表だった活動ではない。いわば秘事なので記録が乏(とぼ)しいのです。新聞にもあまり載(の)っていません。
だが、末永節が遺した末永文書が市の博物館に寄託されています。彼は長命で、昭和三十五年に九十二歳で亡くなりました。遺族の意向で非公開だと聞いていますが、来翰その他、革命の歳月を物語る貴重な資料の公開が待たれますね。
父親の茂世(しげよ)は名を知られた学者で、明治になって筥崎宮の宮司に。兄の純一郎は明治論壇の中心であった新聞『日本』の編集長で学識の人でした。
四島
いろいろなタイプの人が中国革命を支援していた。玄洋社の一面の面白さでしょうね。 |
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| 黄興 |
四島
滔天に続いて、頭山満らの中国革命を支援する人たちが登場するのですね。
石瀧
明治三十八年に、パリに滞在していた孫文が、決起を促(うなが)した滔天の手紙を読んで来日します。
東郷平八郎大将(後元帥(げんすい)(弘化四1847〜昭和九1934))
の率(ひきいる)いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破ったばかりの頃で、寄港地のアジアや中東諸国の人たちが、有色人種が白人に勝ったと大喜びしていました。
孫文は日本へ亡命しますが、清国政府のお尋ね者だから、日本政府も外交上滞在許可を出せない。
西島
不屈の孫文も困りますね。
石瀧
それで滔天と玄洋社の平岡浩太郎が孫文を、頭山と親交がある犬養 毅(いぬかいつよし) (木堂安政二1855〜昭和七1932)のところへ連(つ)れて行き、援助を頼みます。
犬養は後に政友会総裁となり、総理大臣のとき、五・一五事件の凶弾に倒れる人物で、気骨の人として政界に隠然たる勢力を持っていました。
犬養が政府に圧力をかけ、平岡が孫文の生活と活動費を負担します。
1900年(明治三十三)に第二回の挙兵(恵州事件)を試みて失敗。苦難の歳月でした。
四島
その頃、明治維新で新しい国作りに成功した日本への憧れがあって、多数の学生が留学していましたね。
君主国だから安心と、清国政府が送り出した官費留学生たちが革命家になっていた。皮肉ですね。
石瀧
留学生は、三千名とも五千名とも言われます。
滔天と玄洋社の末永節が中国料理店の豊楽園で、在日留学生や革命家の間に信望の厚い黄興(こうこう)(1874〜1916)を、孫文に引き合わせます。
黄興は湖南省の長沙(ちょうさ)出身で、官費留学生。日本名が中田車之助でした。
黄興は一九〇四年(明治三十七)に留学生を組織して革命結社の華興会を組織し、長沙で蜂起しますが、失敗して日本に亡命していました。同志の張継(ちょうけい)とともに、東京牛込の神楽坂(かぐらざか)で末永と同居していたのです。
四島
なんだか、明治維新の、西郷隆盛と桂小五郎の薩長同盟を思わせる風景ですね。
石瀧
二人は革命団体の合同について語り合い、1905年(明治三十八)七月三十日、赤坂の内田良平の家に、在京の主な革命家を集め、秘密裡(り)に中国革命同盟会結成の準備会を開きました。
内田良平は平岡浩太郎の甥で、内田と末永とは夫人同士が姉妹でした。
西島
結束の絆(きずな)が固かったのですね。
石瀧
八月十三日に孫文の歓迎会が富士見楼で催され、会場にあふれる千五百名もの留学生が集まってきます。留学生たちの革命への熱意を試す、孫文の意図もあったようです。
そして八月二十日、赤坂霊南坂の代議士坂本金弥別邸で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同して、革命の母体「中国革命同盟会」が生まれたのです。
四島
中国革命へ、大きな前進ですね。
石瀧
このとき革命綱領として採用されたのが、孫文の、民族、民権、民生の三大主義で、後の有名な三民主義です。
これまでは失敗につぐ失敗でしたが、初めて中国革命の成功が見え出したのです。
孫文が「全国の俊英を集めて、革命同盟会を東京に結成した日、私ははじめて革命の大業が自分の生涯のうちに成就(じょうじゅ)するであろうことを信ずるにいたった」と述べています。
四島
革命家孫文の実感だったでしょうね。
石瀧
そして、同盟会の機関誌『二十世紀之支那』を発行し、発行人に宮崎滔天、印刷人に末永節がなる。これを引継いだ『民報』は最大発行部数が五万部にもなったそうで、革命の進展に大きな役割を果たしました。 |
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| 頭山 満 |
四島
革命もなかなか多難でしたね。
石瀧
こうした苦労を経て、1911年(明治四十四)に辛亥革命が成功します。孫文の最初の広東の蜂起から十六年、各地でおこった約二十回の革命蜂起が次々と清軍に敗れています。失敗の連続でした。やっとかちとった革命臨時政府ですが、基盤が弱体な革命グループだけで、維持することは困難でした。北方軍閥の袁世凱(えんせいがい)と妥協せざるを得なかったのです。
頭山満は、袁世凱は信用できない、彼と組んでは後悔すると、強く忠告しています。結果はその通りになったのですね。
彼は、李鴻章(りこうしょう)(1823〜1901)の北方勢力を引き継ぎ、テロと買収、権謀術数の限りを尽くして、軍閥にのしあがりました。辛亥革命では、南京の革命勢力を利用しながら、清朝の宣統帝(りこうしょう)を退位にはこんだ梟雄(きょうゆう)です。
臨時政府大総統になると、野望をむき出しに、南京勢力の壊滅にかかる。それで孫文や黄興が反袁で決起する。第二革命の蜂起ですね。
狡猾(こうかつ)な袁は、欧米日に手を回して借款(しゃっかん)を得(え)、この資金で新式の武器の提供をうけています。革命軍は、新装備の袁軍にあえなく敗退し、孫文も黄興もまた日本へ亡命です。
西島
革命の道は遠いですね。一年前は国賓でしたね。今度は。
石瀧
政府も、実業家も、一年前とは大違いの冷たさです。政府は、孫文の入国を認めない方針です。
この時も、窮地にたった孫文を、頭山が救います。頭山の頼みを受けた川崎造船所社長の松方幸次郎が、極秘に孫文を上陸させてかくまうのです。
一方、犬養木堂(毅)は、首相・山本権兵衛(ごんのひょうえ)の宅を訪ね、渋る山本に孫文の亡命を承諾させます。
西島
頭山、犬養、松方と、することが、桁外(けたはず)れに大きいですね。
石瀧
川崎造船所は、袁世凱の北京政府から軍艦の注文を受けていたそうで、松方の剛腹(ごうふく)さですね。このときの孫文の亡命費用は、安川敬一郎が引き受けたそうです。
四島
頭山満の影響力は、筑前玄洋社の枠をこえて、日本の要路を動かしていたのですね。
石瀧
孫文らの反帝制運動はまた時代の勢いとして盛り返します。いわゆる第三革命です。各地で革命軍が蜂起し袁軍の離反もあいついで、袁世凱は在位わずか八十三日で退位に追い込まれ、失意のうちに亡くなります。
四島
そして孫文が指導者につく。袁世凱は歴史のまばたきに過ぎなかったのですね。
石瀧
孫文も辛亥革命成立後一四年に、ガンで亡くなります。1925年三月(大正一四)六十歳でした。
国父と敬慕された孫文は、南京の中山陵に丁重にまつられています。
中山(ちゅうざん)という号は、日本滞在中、中山公爵家の表札から思いついて名乗った日本名中山樵(しょう)に由来したといわれています。
最後の言葉は、
革命尚未成功 革命は尚未(いま)だ成功せず
同志仍須努力 同志仍(な)お須(すべか)らく努力すべし
と壮絶な遺言でした。
その後の国民党、蒋介石(しょうかいせき)(1887〜1975)と、毛沢東(1893〜1976)共産党との内乱の末、1949年に中華人民共和国が成立します。孫文死後二十四年のことでした。 |
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司会
孫文や玄洋社がフィリッピン独立のアギナルド将軍にも支援の手をさしのべています。彼らは民族の目覚めを、中国だけでなくて、アジア全体としてとらえていたのですね。
四島
そして頭山満は、一九一五年(大正四)、インドの独立運動の志士のラス・ビハリ・ボースも救っていますね。
石瀧
政府は英国政府の申し入れで、亡命してきたボースを国外退去にしますが、次の寄港地で英国に捕えられ、死刑になることが懸念される。
各方面に救助を求めますが、頼りにならない。このとき孫文が「ただ、頭山満を頼め」と言ったそうです。
指定の時間に頭山家を訪ねると、裏口から隣家の寺尾 亨(てらおとおる)(前東大教授安政五1858〜大正十四1925)の家に逃がすのです。
そこには、玄洋社の杉山茂丸が車を用意していて、ボースを乗せて隠れ家に運んでかくまう。
西島
肝(きも)ったまが大きいですね。
石瀧
いつまでも出てこないので警察が確かめると、とっくに帰ったからいない。家捜(やさが)ししてもいいよです。
大物の頭山にそう言われれば、グーの音も出ない。「窮鳥 懐(ふところ) に入れば、猟師もこれを殺さず」で、日本政府を相手にしてでもかくまってやる。
頭山は酒を飲まず、そして約束にかたい。行動が損得抜きです。彼の支援は盤石(ばんじゃく)の重みでした。
西島
頭山さんの玄洋社が、政府もできないことをやってのけている。そういう義侠に厚い人たちがつい八十年前の福岡にいたのですね。
石瀧
背景には、欧米諸国によるアジアの植民地化への義憤がありました。アジアは一つになって、欧米の植民地主義を一掃しなければという危機感です。日本の独立維持が、アジア諸国の安全と結びついているという認識も大きかったでしょう。
彼らのかかげた「アジアはひとつ」が、戦前の大東亜共栄圏のスローガンにつながったと短絡した見方がありますが、これはうなずけない。
今はまったく失われている侠気が生きていたのですよ。幕末の日本も欧米の植民地にされる瀬戸際(ぎわ)だった。他国の難儀が見逃せなかったのです。
四島
人生を大きな理想に結びつけたい。当時の人たちの死生観もあったでしょう。
四島
明治維新から、まだ三・四十年しかたっていない。まだまだ、奔騰(ほんとう)の時代だったのですね。 |
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