地域社会貢献活動
ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
No.70
福本日南
対談:平成12年1月
お話:近代史研究家 石滝 豊美氏
聞き手:福岡シティ銀行 副頭取 井上 雄介
※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。
ベストセラーの『元禄快挙録』
Profile:福本日南の歩み

元禄快挙録
司会
明治から大正時代まで、日本の羅針盤の役割を担った一人である福本日南のお話をうかがいます。
言論人であり歴史家であり、たいへんな先覚者でしたが、地元の人にすっかり忘れられている。不思議ですね。

石滝
日南の代表作は『元禄快挙録(げんろくかいきょろく)』で岩波文庫(上中下)で手にとれます。
赤穂義士の忠臣蔵を扱ったものですが、それまでは庶民の楽しみであった浄瑠璃とか歌舞伎の世界で、虚実ない混ぜでした。

井上
幕府に遠慮して、歌舞伎では主役の大石内蔵助(くらのすけ)が大星由良之助(おおほしゆらのすけ)に。史実から離れていても、民衆が共感して当たり狂言でしたね。

石滝
歌舞伎や、浄瑠璃で語られている忠臣蔵は真実ではない。それで九州日報(西日本新聞の前身)の主筆兼社長に招かれた日南が、忠臣蔵の真相はこうだと、『元禄快挙録』を明治41年8月11日から42年9月7日までの間、295回にわたって九州日報に連載するのです。

井上
浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷(にんじょう)事件から赤穂義士の仇討ちの後日談まで、事件の全貌を見事にとらえた国民的ロマン。その「忠臣蔵」の決定版が福岡で生まれた。愉快ですね。

石滝
それが評判になって、中央雑誌の『文章世界』に転載され、さらに明治42年の12月に、東京本郷の啓成社から、菊判823ページ、2円12銭という、当時では破格の大著になって発売され“洛陽の紙価を高めた”のです。さらに大正3年には、東亜堂書房から『(元禄)快挙真相録』が出る。

井上
日南先生、自信満々ですね。それぞれの評価は。

石滝
最初の『元禄快挙録』の方が歴史文学として評価が高いし、読み物としても面白い。岩波文庫も明治文学全集もこちらをとっています。

井上
義士録の名著が、どうして福岡で生まれたので。

石滝
それが面白いのです。日南のそばにいた雑賀鹿野(さいがろくや/本名・博愛)という人の回想では、明治40年ごろ、日南は足に腫れ物ができて新聞社に出社できなかった。退屈だから図書館の本をと頼まれ、雑賀が担(かつ)ぎ込んだ本の中に漢文の義士録が数冊あった。それを読んで、だれにも読まれる忠臣蔵の決定版を自分が書こうと決心したらしい。

井上
足の腫れ物から名著の『元禄快挙録』が生まれたわけで(笑)。
でも、福岡住まいでは、資料集めにご苦労が…。

石滝
日南は後に、不便な地方でわずかの資料で快挙録を書いたが、東京で多くの資料を見ても、当時の見解に大した謬(あやま)りはなかった。ひそかに満足していると言っています。

司会
「忠臣蔵」は、最初は歌舞伎にとりあげられて…。

石滝
いいえ、浄瑠璃です。元禄15年(1702)の赤穂義士の仇討ちから約50年後の寛延元年(1748)に、竹田出雲(いずも)らが浄瑠璃に脚色して大阪の竹本座で上演する。この「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」が大評判になり、同年12月に歌舞伎で上演されてまた大評判。
「忠臣蔵」とよばれて大当たりの狂言になったのです。

井上
討ち入りから約200年たって『元禄快挙録』がでる。忠臣蔵は、日南が中興の功労者ですね。

石滝
忠臣蔵ブームとなり、忠臣蔵と言えば福本日南ということになったのです。
博多では崇福寺(そうふくじ)で義士会が催され、帰京すると、日南を幹事長にして中央義士会に発展するのです。高輪(たかなわ)の泉岳寺にはその功績をたたえた記念碑が建てられています。

井上
『元禄快挙録』が日南の歴史文学者としての声価を、不動のものにしたのですね。
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