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| 走れ“アロー号” |
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| ド・ディオン車を改造して作った幌型自動車と村上義太郎翁 |
司会
ではいよいよ、アロー号のお話を。
矢野
ド・ディオン・ブートンの改造を踏み台にして、翌年、福岡工業を卒業すると、アロー号の製作にとりかかります。大正二年(一九一三)の八月、倖一が二十歳の夏でした。
司会
でも何もかも初めてで。
矢野
タイヤと、プラグと、マグネットだけは、外国製品に頼っていますが、そのほかは、全部工夫しての国産車です。
溶接技術もまだ不十分だったので半田付(づ)けで丁寧に仕上げています。
三年の苦心の末に、やっと出来上がりましたが、どうしてもエンジンがかからない。頭を抱えましたが、ちょうど第一次世界大戦の青島(ちんたお)作戦で捕虜になったドイツ人が、福岡に収容されていて、その中にベンツの技師、ハルティン・ブッシュさんがいたのです。
陸軍の許可を得て見てもらうと、キャブレターがおかしい。上海(しゃんはい)で売っているから紹介しようとのこと。
それで倖一が上海まで行って、英国製のゼニスのキャブレターを買ってきました。代金が四二円六〇銭。往復船賃が十六円だったそうです。
取り替えると、快調なエンジン音で、手作りのアロー号が走りだしました。
本田
そして、実にいいネーミングですね。
矢野
苦心して作り出した、手作りの自動車に、倖一は名字(みょうじ)の矢をとってARROW、アロー号と名付けたのです。自分でも気に入っていました。
本田
国産車の先端を切って放たれた一筋の矢。新鮮な意気込みを感じますね。
司会
振り返って、整理してみますと。
矢野
フランス車ド・ディオン・ブートンの改造に取りかかったのが、福岡工業四年生の明治四十五年(一九一二)、十九歳。
完成が同年、(大正元年)暮れの十二月です。(明治四十五年七月三十日、大正に改元)
工業学校を卒業して、アロー号に着手したのが、大正二年八月で二十歳。完成が大正五年(一九一六)八月二十四日で二十三歳でした。
アロー号は、・四人乗りの水冷直列二気筒・一〇五四cc・一五馬力・ギアボックスは前進三段、後進一段・時速約五十キロの性能です。全長二五九センチ・幅一一六センチ・重量二七二キロ。コンパクトでも、ちょっと誇らしいですね。
本田
デビューは。
矢野
大正五年の秋に、大正天皇ご臨席で陸軍の大演習が筑紫平野で行われ、統監部の直属カーとして、角田書記官を乗せて演習地を走りました。
翌日は、天皇の九州帝大行幸があり、倖一の運転で、眞野九大総長や中原工学部長、そしてアロー号製作でお世話になった岩岡教授を乗せて、先頭の行列にも加わりました。
本田
晴れの舞台でしたね。
矢野
それが、翌日は暗転。警察に呼びつけられて、得体の知れない車で、万一事故があったらどうするのかと、大目玉を喰(く)らったそうです。(笑)
倖一は、栄光のアロー号に、スポンサーの茂登子夫人を乗せて急坂の八木山峠を上っています。だが、途中でエンコして冷や汗ものだったらしい。(笑)
司会
車の登録は。
矢野
大正六年(一九一七)八月に、自家用自動車として福岡県に登録し、この手作りカーに「F-36」のナンバーが付けられました。自動車の夜明けの時代にふさわしい若い番号で、倖一が常に自慢していました。 |
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