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| 末松謙澄 |
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| 対談:平成7年7月 |
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お話:日本近代史研究家 玉江 彦太郎氏
聞き手:福岡シティ銀行 常務取締役 別府 正之 |
※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。 |
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末松謙澄 年譜
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司会
一枚のこの写真から、お話をうかがいましょう。この写真は今日の主人公末松謙澄(すえまつけんちょう)が数え歳二十四・五歳のときですね。
玉江
明治十一年か十二年に、ロンドンの英国公使館で上野景範公使をかこんでの写真です。
官途について三・四年目。時の実力者の※伊藤博文に目をかけられて、一等書記官見習で渡英したばかりですね。
別府 一人一人が新生日本を背負っている面(つら)がまえがいい。明治日本の夜明けを感じさせる風が吹いていますね。見ていて飽きない。
それぞれに、後年は活躍を。
玉江
大臣や公使、日銀総裁や実業界と活躍していますね。
司会
明治維新の薩摩長州の人たちの事はよく知っていても、地元出身で活躍した人たちの事はあまり知らない。今日の末松謙澄はその典型でしょう。
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伊藤博文
(天保十二1841〜明治四十二1909)幼名俊輔。長州出身。公爵。松下村塾に学び維新に活躍。憲法制定に参与。首相、組閣四度。枢密院議長。貴族院議長に歴任。日清戦争講和全権大使。ハルピン駅で暗殺された。 |
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末松謙澄
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玉江
慶応二年、徳川幕府の第二次長州征伐のとき、小倉藩は長州の奇兵隊に攻めこまれて城を焼いて京都(みやこ)・田川郡方面に敗退しますね。俗に御変動と呼ばれる丙寅の役(へいいんのえき)ですが、かつての幕府だから維新になってどうしても分が悪い。
その中から、末松謙澄は躍り出ている。新政府に入って一流の外交官となり、ロンドン時代に世界最初の『源氏物語』の英訳出版をして、いまも読みつがれている。政治家となり、最初の文学博士となり、逓信・内務大臣を歴任して伊藤博文の知恵袋となる。
国の興亡をかけた日露戦争では、英国で日本支持の世論を高め、その功績で子爵に列せられている。
小倉藩の出身では、陸軍に奥保鞏(おくやすかた)元帥(弘化三1846〜昭和五1930)が出ていますね。この二人が歴史にのこる活躍をした巨きな人物です。謙澄が編纂した『防長回天史』は毛利藩の維新史をこえて、広く維新正史としての評価が高まっています。そして四度総理大臣になる伊藤博文の次女・生子(いくこ)の婿にもなっている。
別府
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英国公使館の庭で(明治11年4月〜12年6月の間)。
上野景範公使(前列中央)。
富田鉄之助(後の日銀総裁、前列右端)
末松謙澄(後列右端)。
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まことに壮観ですね。ではその末松謙澄の出生から。
玉江
今から百四十年前の安政二年に、豊前国京都郡前田村(現、福岡県行橋市)の大庄屋、末松七右衛門(房澄)と母伸子の四男として生まれています。男女五人ずつの十人兄弟でした。
幼名を千松、線松とも言います。のちに謙一郎、さらに謙澄とあらため、「のりずみ」のつもりが皆が「けんちょう」と呼ぶので、サインもK.Suyematsuに。号は青萍(せいひょう)、青い水草の意です。父の七右衛門は臥雲の号を持つ歌人でした。
別府 幼時から学問尊重の家風の中に育ったのですね。大庄屋の坊ちゃんで、大事にされて…。
玉江
でも幼いときから鼻っ柱が強かったようですね。頭を剃「
そ」られるのが大嫌い、それで寝ているときに剃ったら、癇癪をおこしては生「は」やしてかえせと周りを困らせたようです。
別府
勉強のほうは。
玉江
十一歳のとき村上仏山という漢学者の塾、水哉園(すいさいえん)に入門しています。同年、二十四人の入門者がおり、筑前筑後、遠くは肥後あたりからも来ていたほどですから、仏山は名声が聞こえた大先生だったのです。
別府
そして漢詩がまた絶品とか。
玉江
仏山先生の影響が大きいのですね。御変動のどさくさで家が暴民に焼き打ちにあって、一家離散になる。
そのとき仏山先生が線松少年を自分の家に引きとり、戦乱のおさまるまで7カ月間親身の面倒を見てくれる。この間の感化は大きかったでしょうね。
別府
数えの十二歳の頃ですね。人物をつくるのは、幼少期の試練が大切なのかなあ(笑)。
父臥雲の国学、仏山の漢学、上京しての洋学と、やはり時代が必要とする人物は、時代が育てるんですね。 |
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