No.1 チンチン電車と渡辺与八郎氏

対談:昭和54年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
日本放送作家協会理事 帯谷 瑛之介 氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄 氏
福岡シティ銀行頭取 四島 司
九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


明治43年はエポックの年

帯谷

長いあいだ博多の人々に親しまれ、おたくの創立者の四島一二三さんが33年間1番電車で通勤されたチンチン電車も、とうとう2月10日(昭和54年)で廃止されましたね。そのチンチン電車のお話なんですが、明治43年というのは、福岡にとってはエポックの年なんです。どういうことかというと、福岡が近代化を始めたのが、この年なんです。それまで、九州の中枢管理都市は熊本だったんですね。その理由として、熊本が地理的に九州の中央であること、福岡は商人の町で官僚の町ではなかったこと、道路が狭いことなどがあげられます。この道路が狭いというのは、黒田藩が町全体を城に見たてて、那珂川と樋井川を外堀として、ユニークな城づくりをしているためなんです。
ところが、明治43年に第13回、九州・沖縄八県連合共進会を福岡で開催することになって、現在の県庁からスポーツセンターまで、湿地帯だったのを埋めたてて会場にあてたんです。その前に佐賀で開催されたとき、出品物で熊本ともめたことがあったもんだから、福岡ががぜん張り切ったわけで、後日談になりますが、次の開催地の大分が、あんな真似はできないというくらい盛大なものだったんですね。
この共進会に、今から話の中心になる渡辺与八郎さんがかんでるわけです。湿地帯を埋めたてるのに、因幡山をけずって埋めたてるわけですが、県も市も金がない。そこで与八郎さんが自費で埋めたてるんですね。そして、福沢桃介(とうすけ)、松永安左衛門という人らが西鉄の前身、福博電気軌道会社を設立し、明治43年3月8日、共進会の開催に合わせて、「福博電車」が開通するわけです。

〝共進会″と電車開通

渡辺与八郎氏

小山

福博電車というのは、最初はどの区間を走っていたのですか。

帯谷

このときは、西公園から大学前(九大)と、呉服町から博多駅前の間でした。この福博電車がタテの縦貫線の電車で、次が翌年与八郎が開通させた、天神からいまの渡辺通を通って博多駅、そして築港へ通じる博多電気軌道の循環線「博軌電車」です。福博電車開通のために、博多の人も協力して勤労奉仕までかってでるんです。ところが、開通式当日大雨が降ったり、〝西公園の開通式の会場まで電車でおこしください″というのに、2時間停電して電車が動かずに、みんな人力車で走っていったというおまけつきでして……(笑)。
この電車の開通を博多の人がどれほど喜んだか、当時の寺原長輝県知事の祝辞の中によく表れてます。「福博両地は唯一の西中島橋によりこれが連絡をなすに止まり、加うるに前行の道路狭隘(きょうあい)屈曲交通運輸の不便忍ぶ能わざるの状態なりしが、今や県庁門前以東市営新設の道路は県営改修の道路と接続貫通し、幅員広か闊四条の鉄軌其上に延び立体の道路と相共に、将に大に運輸交通に便せんと、市内の面目頓(とみ)に新たなるを覚ゆ」とこう言ってるんです。
それまでは西中島橋1本だけが、福岡と博多を結ぶ唯一のものだったんです。しかも大八車がやっと通れるだけの広さだった。そこで、橋をかけかえようという討議が出たんですが、その理由が山笠が通ったら落ちるんじゃないかっていうんですから、いかにお粗末な橋だったかということですね。だから、県知事も喜んだわけですよ。祝辞の中に感動がありますね。
この共進会というのが盛大なもので、出品点数が5万5千735点。それに、那珂川の三角洲2千700坪のうち210坪の2階建ての洋館を建て、迎賓館としてるんです。それがのちの教育庁舎です。

西島

西日本新聞社の裏にあった記念館は違うとですか。

帯谷

あれは違います。

四島

そうとう大きな会場ですね。

帯谷

しかも第1会場から第2会場まで満潮のときは船で行ってるんです。半年間に約100万人の人が入ってますからね。入場料が昼は3銭、夜は5銭。あのまっ暗な時代にイルミネーションをつけてたそうですよ。

小山

そりや、きれいだったでしょうね。

帯谷

ちょうどどんたくもあったし、たいへん博多がにぎわった。

西島

そのころ春日の大神善吉さんたちが、イルミネーションやら作りよんしゃったんじゃないですか。

帯谷

そうです。そのときすでに渡辺与八郎(以下敬称略)は、循環線の電車を計画しているわけです。どういうことかというと、箱崎から今川橋までの縦貫線は福沢桃介、松永安左衛門という福岡以外の資本でできている。今度は地場資本で電車を走らせるべきだというわけです。港と駅をつないで新しい都市開発をやろうということなんですね。そこで、渡辺与八郎が登場するわけです。

数年の間に完全燃焼

帯谷瑛之介氏

帯谷

代々、渡辺家は渡辺与三郎なんです。“紙与”という呉服屋さんで、先代が明治の初め、銀買いなんかをやっていて、大阪に行ってる間にちょうど幕府の長州征伐にぶつかり、あり金全部はたいて投げ売り捨て売りの呉服や反物を船いっぱい買うんです。しかも、博多に帰りつくまでがたいへんだったようです。瀬戸内海は封鎖状態、それをやっと通って関門海峡は危いので40日もかかってやっと中津につけます。沿岸ぞいには行けないという状態なんです。中津で荷揚げして陸路で博多まではこんでいる。たいへん苦心していますが、世の中がおさまると、それを売って、九州で1番の呉服屋さんになるんです。
渡辺与八郎というのは、神屋宗湛よりもスケールの大きな商人なんです。幼名は房吉、明治22年に家を継いでたった4、5年の間に大きな仕事、近代的なことをいろいろしています。昼食1時間休憩をとり入れたり、遠洋漁業会社もつくってます。また、それまで織物は名古屋と大阪から買っていたのが、地元で使うものは地元でつくらなければならないということで、太田清蔵さん等と博多絹綿(けんめん)紡績(後カネボウと合併)をつくるんです。
明治36年九州大学が誘致されるときに、熊本と長崎と福岡が争ったんですが、熊本の方が敷地、出すお金とも大きいわけです。ところが、福岡は市も県も運動費が底をついた。そのとき与八郎さんが5千円というお金をだまって出してるんです。そうしたことも効を奏して、九大がここにうまれるんです。明治36年4月、京都帝国大学、福岡医科大学として開校したのがその発祥です。

西島

なるほど。

帯谷

明治44年に京都帝国大学から分離された福岡医科大学と新設の工科大学をふくめて、九州帝国大学に昇格するのですが、文部省は柳町を移転させなければ許可できないという。学校の近所に遊郭があるのは教育上よろしからずということで、今の清川町の保有地4万7千坪を与八郎がだまって提供するんですよ。いろいろと言われたらしいけど、ほとんどもうけなしで移転させています。それも大変な苦労をしてなんです。それでも3軒が残り、その1つが「新三浦」です。水炊きを始めたけれども、当時は鶏のからあげしか売れない。ところが、大学ができて先生や生徒が、ハイカラで安くて栄養があってということでワァーッときた。それが博多の水炊きが有名になるきっかけになってます。

四島

歴代の九大の医学部の巣だったらしいですね。ところで、与八郎さんは今の与三郎さんのおじいさんですか。

帯谷

ええ、そうです。本来与三郎ですけど、循環電車に身をいれだしたために、親族会議で世襲の名を与八郎にかえさせられたんです。

先を読んで〝博軌″を計画

西島伊三雄氏

帯谷

当時、天神から博多駅までは田んぼで、電車を通しても乗るのは狸か狐だろうといわれた。そこに電車を通すといってきかんもんだから、お灸をすえる意味でまず名前をかえさせた。そして、1番の仲良しの河内卯兵衛さん(後の市長)にやめさせてほしいと頼んだんですけど、河内さんが与八郎の熱心さにまけてミイラとりがミイラになってしまったんです(笑)。
福岡市は発展をとげつつある。伸びていくとすると、天神から博多駅の線と海岸へ電車が通らなければいけない。電車が通れば家ができ、家ができれば人口がふえる。そうすれば町ができ、商売も伸びるというんですね。
明治43年の九州沖縄八県連合共進会が開催されたのを機会に、博多馬車軌道の権利を買いとって有志と博多電気軌道を設立し、翌44年10月2日に開業にこぎつけています。これが最初にのべました天神から渡辺通、住吉を通って博多駅、そして築港から天神に戻ってくる循環線の「博多電車」です。
家の金は全部持ち出して、山口の銀行からまでお金を借りてきてる。おそらく彼は生涯をかけたんでしょうね。河内さんが、〝オマエ、ダメになるかもしれんぞ″というと、〝電車が通れば自分の家は倒れてもよろしい″と言ってるんです。
このために、土地を丹念に買収していくんです。天神から清川町までいくのに、先ほど申しあげた共進会の敷地の埋め立てをして、市から電車軌道の幅だけもらっています。それが今の渡辺通りですが、そのほかの土地は田か畑ですから、電車の幅だけ売ってくれというわけにはいかない。それで丹念に買い占めていってるんです。中には、500坪近い畑を買ったというのまであります。

西島

電車がなくなった2月10日の
当行の新聞広告

まわりをひとつずつ、でこぼこにですね。

帯谷

はい。そして、1番困ったのは、築港から長浜に出るあの道なんです。あそこいらは、材木屋ばっかりで、材木屋は金持ってるから電車なんか通さんでよろしいと言うんです。それを気長に説得しています。

四島

いったい、どういう人だったんでしょうね。

帯谷

丁稚(でっち)や小僧と同じものを着て、同じものを食べて、言葉もお客さんに使うのと同じような言葉で丁稚たちに物を言ったそうです。それに剣道が九段だったということです。九大医学部の学生さんにもずいぶん学費を援助して、大成した人も多いんです。

四島頭取

西島

ほほう。

小山

ずいぶん財産家でもあったわけですね。

帯谷

それはもう。福博ではナンバーワンの金持ちだったわけですからね。

西島

その蓄積の基本になったのは、大阪から仕入れてきた呉服ですか。

帯谷

そうです。九州では紙与よりも大きい呉服屋はない。九州中を征服していたんですから……。

西島

今でも紙与呉服店はあるでしょう。

帯谷

あれは紙小呉服店。紙与は、今紙与産業(天神紙与ビル)になっています。今の西日本新聞のビルも、西日本新聞渡辺ビルでしょう。
とにかく、そんなこんなで開通させるところまでは持っていくんですが、開通させるまでが自分の仕事だが、あとは餅は餅屋にまかせるべきだと、社長をガンとして受けなかった。

小山 泰

小山

そのとき、おいくつだったんですか。

帯谷

それはもう46歳です。

小山

若いですなァ。

帯谷

社長を引き受けないので、それじゃ今の〝渡辺通り″を渡辺通りとつけさせてくれと、重役たちから申し出があったんですが、それもいやだと断っています。
電車が開通してから直後にワイルス氏病で倒れました。ワイルス氏病は当時の難病で、発病して10日目ぐらいに死亡するというおそろしい病気なんです。高熱と黄疸症状が出て、九州で年間1000人が死亡したというんですから……。そのワイルス氏病にかかって、自分が援助した九大病院に入り、発病して10日目、明治44年10月29日に46歳で亡くなったんです。それで、九大にワイルス氏病特別研究班ができ、大正4年に世界で初めてワイルス氏病の病原体を九大の稲田竜吉教授、井戸泰助助教授が発見された。そのためにワイルス氏病が地球から消えてなくなったんですから、九大にとっては劇的な人で、忘れられない恩人です。
与八郎がもう10年生きとったら博多は変わってたでしょうね。とにかく大きな構想を抱いていた人ですから……。

小山

与八郎さんの実際の姿を見知っている人は、もういらっしゃらないんでしょう。

帯谷

まァ、丁稚をなさってた方が紙与産業の中に1人か2人いらっしやるようです。もう80歳ぐらいでしょうか。
その方々の話によれば、月給はカツカツ食うぐらいしかもらわなかったが、ボーナスは多かった。1番たくさんもらったときはその当時5DKを15軒建てられたって言うんですからね。もっとも番頭さん(重役)になってからの話ですけれど……。

四島

志のおこりはなんでしょうか。

帯谷

とにかく博多のためだけじゃなく、九州全体のことを考えとった人なんですね。門司-折尾間の電車も、与八郎の発案ですし、博多-大分、博多-佐世保急行電車も、プランに入っています。典型的な博多商人の伝統を受けついだ大商人です。

四島

そうなると、育たれた環境なんか知りたいですね。

小山

北九州の安川敬一郎さんとどちらが大きいですかねェ。

帯谷

さァ、どうでしょうねェ。自分ではトップに立ってないですからね。
とにかく亡くなってから〝渡辺通り″とすぐつけられたんです。つまり〝渡辺通り″は、与八郎の記念碑とでもいうべきでしょうね。この頃の博多の人口は7万人ぐらいだったと思います。

〝博軌″と〝福博″で競争を展開

帯谷

イラスト 西島伊三雄

ところで、博軌電車に乗った福日新聞記者は次のように書いています。
〝福博電車の市中を横断したのに反し博軌電車は市外線になっているので、郊外散歩をするような感じがする″、つまり当時は郊外電車なんです。ですから、夏には納涼電車を走らせましたが、蚊がとびこんでくるので、蚊取線香をたきながら1周まわったそうです。

小山

風が入ってきてなによりの風流だったでしょうね(笑)。

西島

私が小学校にあがってちょっとして、まっ白な車体に瓜(うり)や瓢箪(ひょうたん)をつり下げてすだれをはって走ってた、あれがそうですか。

帯谷

そうです。翌年の明治44年にはもう合併の話もあったようです。いろいろやったんですが、うまくいかなくて、昭和9年10月に福博電車(株)で統合され、後の西鉄のような形になったんですね。それまでは、博軌と福博を乗りかえるたびに切符が赤と青と違っていて、そのたびにお金を出さないといけなかった。

小山

それまでは、まったく別の資本だったんですか。

帯谷

全然別です。共進会があったとき、須崎の会場に行くのに、福博電車が博多駅の前に楽隊をおいて演奏するので、客が福博の方へ乗ってしまう。それに乗ると東中洲で降りて、須崎の会場まで歩かないかん。でも、楽隊がおもしろいので、そっちにばかり集まって、会場前に停留所のある博軌電車が、じだんだふんだということです。

与八郎氏は最後の博多商人

西島

道路が広くなって、電車ができて……。

帯谷

これから初めて博多が九州の中枢管理都市へと歩き始めるんですからね。それまではまったく熊本が中心だったんですから……。

小山

当時の博多の人口は7万。じゃ熊本はどのくらいだったんですか。

帯谷

きいてみたんですが、だいたい同じですね。

小山

渡辺与八郎さんのあとをつぐ博多商人は誰になるのですか。

帯谷

私に言わせれば、最後の博多商人です。つまり、博多商人というのは、スケールが大きくて、いわゆる物を作って売って、というのじゃなくて、新しい文明、新しい技術、新しい科学とか工業などにすごい夢があるんですね。そういった意味で、渡辺与八郎は最後の博多商人だと思うんです。

小山

いろいろ、渡辺与八郎さんに関するお話ありがとうございました。

帯谷瑛之介氏略歴

もとRKB毎日放送のプロデューサーで、現在、博多町人文化連盟事務局長。放送作家、作詩家、風俗史研究家で、『博多の味』ほか著書も多い。博多麹屋番「帯屋」の13代目。