No.2 日中友好のあけぼの 巷説・遣唐使 1300年前-博多から出発-

対談:昭和54年4月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 波多江五兵衛氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
福岡シティ銀行頭取 四島 司
九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


まずは親善使節として

小山

遣唐使船イメージ

博多はずいぶん昔から大陸との交流が盛んで、遣唐使は全部博多から出たそうですね。

波多江

そうです、全部ここから出ています。
でも、その昔の遣唐使というのは『続日本記(しょくにほんぎ)』とお坊さん円仁がのこした『入唐求法(にっとうぐほう)巡礼行記』のほかは、ほんとのこといって、まともな記録があまりないんです。お寺さんあたりに、チョコチョコ聞き書きが、残っているという程度で……。

遣唐使は前後18回計画されてるんですが、実際に行ったのは15回です。
第1回が舒明2年といいますから西暦でいいますと630年で、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を正使として、このときに初めて遣唐使が出たわけです。
遣唐使はだいたい15年間隔で送られているんですが、妙なことに1回目と2回目には23年の間隔があるんです。なぜかといいますと、第1回を送りこんだあと、蘇我氏の勢力が強まり、それを打倒した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の大化改新とかなんだかんだあったため、23年後にやっといけたわけです。
中国が隋から唐に変わった。聖徳太子のときの小野妹子(おののいもこ)以来、遣隋使が行ってますから、どう変わったのか、新王朝の唐とも誼(よしみ)を通じたいということで、第1回から第3回の遣唐使は親善使節で、友好関係を保つのが目的だったんです。それと、行くときに、こちらからあいさつのみやげを持っていくんですが、唐は世界の王朝で、よくきたと数倍の貴重品のお返しをくれる。これらの品物や、使節の見聞は未開発の大和朝廷にはなによりのものだったでしょうね。それもあったわけですが、最初は親善使節なんです。

貪欲に文化を吸収

遣唐使の航路

そのうちせっかく行くのに親善と品物もろうてくるだけじゃ芸がないというんで、先進国の文化を本格的に持って帰りたいということになったわけです。文化というのは、いわゆる政治のための制度ですね。王仁(わに)が百済(くだら)から1000字文と論語10巻を持ってきてから400年ぐらいになるのですが、これは伝説ですからまだ日本全国、ほとんどみんな無学文盲ですし、強いもんが勝ちだという腕力の世界だったのが、やっと天皇のもとにみんながついてきて、 朝廷に対する租税、貢物をぼちぼち納めるようになってきた。

そうなると朝廷が法律や規則をつくらなければならなくなった。そこで、習ってきたのが法律作りで、それで、大宝元年(701)に律令国家の基本法である〝大宝律令(たいほうりつりょう)″ができたのです。戸籍の作り方も習ってきましてね。戸籍は税収のために必要ですね。ばらばらになって〝あそこにおるげな″じゃいけないので、戸籍を作ろうじゃないかということになったのです。
第8回のときには、もう少し唐の技術や学問を習いたいということになりまして……。このときに行きましたのが、吉備真備(きびのまきび)だとか、お坊さんの玄昉(げんぼう)です。吉備真備は第10回には副使として再渡唐していますが、初めて城の造り方を習ってきました。例の万里の長城を見てきたわけです。日本にもあれと同じものを造りたい、と言って造り始めたのが、糸島郡の高祖山の怡土城(いとじょう)なんですね。福岡市の西の周船寺のうしろに高祖山というのがあって、あれから雷山にかけて、“万里の長城”にするつもりで土塁を積み、石垣をつくってたんですが、中央に必要な人物ですから、“九州でうろうろするな、大和朝廷へはよ帰ってこい”というて、とうとう完成せんなりに引っ張っていかれましたけど……。現在でもまだ、城址に万里の長城と同じ形に築城した跡が残っています。これは、おいでになると、なるほど日本で万里の長城を造るということでこういうことをやりかけたのかな、ということがわかると思うんですが、初めてセメントのようなものを使ったんです。今の石灰石のセメントじゃなくて、火山灰とカキの殻を砕きまして、生石灰をつくったものです。糸島に行きますと、当時つくった瓦が残ってますけど、当時の瓦ですからね。40センチ平方ぐらいの大きな瓦なんです。そのうえに大の男が飛びあがって踏んづけてもわれません。すごく丈夫な瓦をつくっています。
もう1人の玄昉というのは、太宰府の観世音寺を造営した人なんです。この人の建築技術が日本中に広まって、現在残っている寺院建築の古いものは日本式のものと唐の様式をチャンポンにしたものです。つまり、唐様日本建築が寺院建築の基礎になってしまったんですね。

広州市、福岡市と友好都市に

福岡市と広州市の友好都市の調印が、昭和44年5月におこなわれました。

藤原氏の政策 "邪魔者は遣唐使″

波多江五兵衛氏

しかし、藤原氏というのはいやな政権でしてね。あまり偉い人が出ると、摂政、関白の無能ぶりが世間に知られるみたいで、あんまり偉かったらすぐ排斥するんですよね。だから、この玄昉もあまり頭がいいために、観世音寺ができあがってその落成式、いわゆる落慶法要がすんだら、すぐに刺客に殺されましてね。現在でも観世音寺の裏の方に墓が残っています。
遣唐船にはお坊さんたちがつぎつぎのって行くんですよ。お坊さんは当時のいちばんの知識人ですね。仏教は6世紀に百済(くだら)から伝えられたのですが、聖徳太子がご覧になって、唯摩経(ゆいまきょう)、勝曼経(しょうまんきょう)、法華経(ほっけきょう)の3本を 日本仏教の根本にとりあげられたのです。経文というのは極楽浄土を書いてあるものばかりじゃなくて、行政面で参考になることが多いのです。

時代がうつって、お坊さんたちが仏典をもっとつっこんで研究したい、それで〝ようし、現地に直接乗りこんで勉強してくる″と言って次々に遣唐船にのっていくのですが、日本がそんなに仏教を勉強したいなら、〝こっちからも行こうか″といって来られたのが、唐招提寺(とうしょうだいじ)を開かれた鑑真大和上(がんじんだいかじょう)。あの方は、何回も失敗して、5回目にやっと、第10回の遣唐使の帰り便に乗って天平勝宝6年(754)に日本にたどりつくわけです。
しかし、なんといってもいちばんの大物は、最澄と空海で、延暦23年(804)第16回の遣唐船に加わったのです。
天津の近くの五台山というところで、仏教とは何ぞやと猛勉強をして帰ってきました。最澄が帰ってきて開いたのが比叡山の天台宗。空海が高野山で真言宗を開くわけです。これが第16回の遣唐使の功績でしょうね。
こうやって、遣唐使を何回も出すわけですが、数隻にわかれているうち、全員遭難してしまう船もしょっちゅうあるわけです。運が良くないと、帰ってこれないんですね。それで、あんな偉い奴や頭の鋭い奴がおっては、下の者たちが自分たちのいうことを聞かずに困る。そこで、藤原氏は自分たちの政権をおびやかしそうな連中がいると、どうも遣唐使の正使とか副使にまつりあげたりしているんですよね。〝無事に帰ってくれば、またそのときのこと……〝、なんて調子で、まあ、1種の敬遠策ですね。任命された方は〝とうとう自分たちが邪魔になるので遣唐使にさせられたかな″と思います。17回目のとき副使に命じられた小野篁(おののたかむら)は、正使の藤原常嗣が、自分の船の具合が悪いと、船を取り替えてしまった。ひどい話です。そこで病気と言って行かなかった。それで篁は隠岐島に流されています。でも、たいへんな秀才だから、すぐゆるされていますが……。
それから50余年たって、18回目におはちが回ってきたのが菅原道真公なんです。藤原氏に対抗する人物ですから〝あいつ、海の中に押し出してみれ″とむりやりに正使にされてしまいました。そこは菅原道真公です。当時、唐は末期で、内乱があいついで荒廃しているという情報も伝わっていました。唐の滅亡はわずか12年あとのことなんです。朝廷に「もう唐の文化はありとあらゆる部門を吸収してきた。今さらこれだけの危険をおかして、いったい何を持って帰ってこいとおっしゃる。何もないじゃないですか。そんな無駄なことやめたらどうですか」と建白書を出したもんだから、朝廷の方も、もっともだ、ということで、それ以後は全部中止になってしまいました。

遭難覚悟で乗船

西島

菅原道真公がストップをかけたんですか(笑)。

波多江

そうです。朝廷がどうしていとも簡単にやめたかというと、第1に、遭難することが少なくない。それに費用がものすごくかかるんですね。
遣唐使は船4隻に分乗してゆきましたから新船を4隻新造しなければならない。昔の木造船というのは板の張り合わせなんですね。ですから、時化(しけ)にでも遭って、どこか1つでも破れたら、それで最後なんです。命じられた人たちは遭難覚悟で乗船したんでしょうね。それに昔のことですからエンジンなんかないわけで、季節風にうまく乗ればいいけど、そうでない場合はどうにもならない。
それで、風の弱いときは、これは唐招提寺にある資料なんですが、船の外側で漕ぎ手が漕ぐんですね。たいこをドーンドーンと叩いて、それに合わせてイッチニ、イッチニという調子でこいでいく。

小山

張り出したうえにいて漕ぐわけですね。

波多江

そうです。

小山

どんな航路でいったんですか。

波多江

半島の政治状勢や国交などで変わっています。最初は壱岐や対馬から渤海、山東への北路でしたが、新羅との国交が絶えてからは種子島、屋久、奄美、沖縄から東シナ海を横断して揚子江への南島路、そして奈良時代後半からは五島を経て一気に東シナ海を横断して揚子江へ向かう南路ができました。

小山

船もお粗末、航海技術も未熟でたいへんだったでしょうね。で、どんな役目の人たちが乗っていたのですか。

波多江

大使と副使でしょう。その下に判官はじめ役人、さらに船事、訳語、主神、医師、陰陽師、画師、船匠、水夫、留学生、学問僧ほかいろいろの人たちで、204、50人から500人ぐらい、最後の遣唐使承和元年(834)は651人という大勢でした。

小山

すごいですね。その人たちの乗っていた船は?

波多江

百数十人が1隻に乗るので、全長30メートル、幅9メートルぐらいの船だったらしいんです。造船場は安芸国だったようですね。

日本の国花「桜」も輸入品

西島先生
小山 奉

小山

遣唐使の費用もそうとうなものだったんでしょうね。

波多江

どのくらいの費用がいったかというと、まず第1におみやげに銀ですね。現在のお金にすると、ちょっと換価がムリですが、まあ6、7千万円分ぐらい。それから、生糸を束にしたものを5百綾、綿を1000錘、箔を2百匹、麻、椿油、あまかずらの汁など……。これだけでもかなりの費用がかかる。そのほかの経費として、船4艘の新造費、それに乗る数百人の食料品と医療品、それから、もし、途中で海賊に遭うといけないので、武具の用意。それに交際費として大使に銀をいまの金にして2、3千万円、副使に2千万円ぐらい持たせてる。そのほか、同行する官費留学生の滞在費、それからついていくお坊さんの経費。そんなわけで、1回出そうというと、とんでもない費用がかかるんですよね。

西島

そうでしょうね。当時の貧弱な財政でそんなに費用をかけて、もって帰ってきたものというとどんなものでしょう。

波多江

持って帰ったものは、まず第1に錦織のきれ、綾、唐の絹、香料、薬、そして書籍などですね。それからおもしろいのは、みなさんが昔から日本にあったものだと思い違いをなさってますが、桜の木も持ってきたんです。
〝そげなこと言って″と言われましょうけど、貞観16年(874)の宮中の記録が残っているんです。紫宸殿の前に左近の桜、右近の橘といいますが、あれは桜じゃなくて、初めは梅だったんですね。それをこの年に桜に植え換えたと記録してあります。
昔は、日本に桜はなかったんですね。

小山

ああ、そうですか。桜は昔から日本にあるものとばかり思っていました。

波多江

唐から持って帰って、博多に定着させたのが、まず博多織。それにそれまでは〝朱″は日本になかったんですか、その作り方を習ってきた。箔作りの技術、お茶、薬草、そば饅頭、櫛。草木で言えば、菊、ぼたん、もみじ、かえでなど。いろいろなものを持ち帰って定着させています。
ちょっと時代がさがりますが、おもしろいのは、現在魚市場で使っています符丁。博多の魚市場は独特の数え方をしますね。これがなんと、宋の国の言葉なんです。現在でもそのままを使っていますね。1がスッチョウというんです。スッチョウ、リャン、ワサ、ゲンといいますが、それが博多の方言の中にも入ってるんです。〝あの人スッチョウないけんね″なんていいますが、これは〝あの人1文の値打ちもないけんね″ということなんです。
それから意外なのが入れ墨で、遣唐船の乗員がしているんですね。えっ?と思われるかもしれませんが、航海の安全を海神に祈り、悪魔払いをするために入れ墨をしたんで、その記録がのこっています。もっとも入れ墨は自分の好きなところに入れたそうです。
ずっとくだって、室町時代の倭寇(わこう)は、殆どが入れ墨をしていたそうです。

博多っ子海にくり出す

こんなふうに、遣唐使のおかげでいろいろなものが入ってきてるわけですが、18回で終わりになったわけです。やめてみると今度は惜しくなってくるんですね。費用はかかるけど惜しくなって、どうにかならんかとそうこうしてるうちに 唐の国が滅んでしまう。唐の次はちょっと間をおいて宋、宋とは平清盛が交易しています。次が元。その次が明で、日本は足利時代ですね。明へは足利時代に入って遣明船が行きました。同時に、船の技術も進んできて、昔のように遭難しなくなりましたので、何かと言えばすぐ明に行って持ってくるんですよね。御供所町に妙楽寺がありますが、お寺をたてる材料を石から材木まで、全部明の国から持ってきてますね。それと同じことをしたのが天龍寺です。昔の人は大仕掛けなことをやったんですね。
なにしろ博多っ子は遣唐使時代から外に出てますからね。ぞくぞく外に出て行ったわけですよ。出ていくなら交換物資を積まなければなりませんので、それを集めるスポンサーがいるわけですよね。これが、のちの島井宗室神屋宗湛たちなんです。 博多の庶民は、宝くじを買うような気持ちで、それに出資するわけですよ。抛銀(なげがね)貿易といって……。むこうに行って帰ってくると、だいたい倍ぐらいになって帰ってきますからね。

小山

株式会社の始まりみたいなものですね。

波多江

途中で遭難したり、海賊に襲われたりするとパーになるわけですよ。これが室町から秀吉時代まで博多で大はやりだったのです。

浦島伝説も博多から

ところが、今度はそんな大仕掛けで出ていかんでも俺たちで船を出そうというのが出てくる。明(みん)では、当たり前に取引しようと思ったら、あなたの身分は、と聞かれるものですから、藤原の某とか源氏の誰それとか、平のなんとかと名前をつけていきますが、すぐにバケの皮がはがれて、うまく取引ができん。で、〝こげんなったら、ヤレ″といってスグに刀をふりまわす奴が例の倭寇)なんですよ。もっとも、倭寇になりすました、現地の海賊が多かったんですがね。面白い話があって、こちらからある船が行きます。〝ワァー″とやりおうて、むこうの船に乗りこんでみたところが、同じ町内のものが乗っていた。〝なあんだ、アンタか″というのが何回もあったらしいですよ(笑)。

西島

ハチ合わせですな。

波多江

大仕掛けで行くんじゃなくて、2、3人で行く人も出てくるわけです。ほとんど対馬から朝鮮に行っている。途中遭難する船も多かったんですが、うまい具合に朝鮮に着いても、今度は帰りの船がない。仕方なしに、3年も5年もかけて歩きまわって船を探して、やっとのことで帰ってくる。
この人たちが帰ってきて話したのが、例の浦島伝説になったのでしょう。乙姫様の衣装は朝鮮のチョゴリ。竜宮城は、あんな形をした建物は朝鮮に行けば、いくらでもありますからね。つまり、朝鮮文化が華やかなことを、帰ってきて話したのが全部浦島さんになってしまった。そのためか博多湾だけで、浦島さんの本拠はここですばいというのが7ヵ所ある。現在、博多の築港から志賀島へ行く汽船の名前も〝うらしま″と〝おとひめ″でしょう。

大貿易港としてにぎわった那の津

小山

おもしろいですね。博多はむかしから海外との貿易港だったんですね。

波多江

記録によりますと、貿易港は博多の那の津と、伊勢の洞津(あきのつ)、鹿児島の房津(ぼうのつ)(現在は坊津)の3ヵ所だったんです。ところが伊勢は都には近いけど、荷あげしたものは鈴鹿山脈を越さなければいけないのでなかなか困難だ。房津は販売範囲が狭い。ところが那の津は道が発達している。糸島街道、宗像街道、山鹿街道、朝倉街道、小石原街道があって、荷あげしたら陸送があちらこちらにできる。それが1つ。それと大宰府政庁があったために高級品が売れる。それに、今のようにエンジンがないために風まかせですから、もしかすると着いた翌日に出港しなければならない。下手すると1年も待っとかないといけないことにもなりかねない。だから、陸あげしたら、1度にゴソッと買い入れてくれる大きな問屋がなければならない。だから、われもわれもと全部博多の港に入ってくる。

小山

博多っ子は、遣唐使の頃からどんどん外に出て、大いに活躍していたんですね。どうも、おもしろいお話ありがとうございました。

波多江五兵衛氏略歴

明治39年、4百年の歴史をもつ博多綱場町の老舗、漆器商「角五(かどご)」(現在波多江五兵衛商店)に生まれ、家業を営むかたわら、昭和26年より「博多を語る会」に参加し、同会代表となる。『博多松囃子どんたく考』『博多方言』『博多のしきたり』他、博多に関する著書多数。