No.3 博多祇園山笠

対談:昭和54年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地方史研究家 江頭 光氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行頭取 四島 司
九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


山笠は博多っ子の心意気

四島

江頭さんは、西日本新聞に近代の博多の歩みを、“ふてぇがってぇ”で連載されていて、毎日楽しみですが、調べがたいへんですね。

江頭

ひとつのことから、次々枝葉が広がるものですから……。

西島

その中にも、山笠(やま)のことが出てきましたが、私は毎年山笠かき(手へんに昇)に出て山笠の絵を描く方で、その歴史を江頭さんがよくご存じですから、まず山笠が明治何年かにとりやめになろうとしたことなどから話してください。

江頭

山笠は、昔は背の高い飾り山をそのまま威勢よくかき回っていたんですね。ところが明治31年に福岡県知事に曽我部道夫が来るんですが、この人は地元の事情を知らなかったんですね。ヤマが電線にひっかかって、たびたび切断するんで、“山笠は中止すべし”と市議会に申し入れた。当時の県知事は権威があったものですから、博多の人たちはたいへん困ったわけです。
町人には対抗手段がありませんので、玄洋社にかけこんだんです。そのときの社長が、現在の市長進藤一馬さんのおとうさんの進藤喜平太さんだったんです。その玄洋社が発行していた九州日報の初代編集局長に、1年限りとの約束で、国民新聞から古島一雄という人が来てたんです。のち衆議院6期、貴族院1期、戦後も、吉田茂ワンマン宰相の御意見番格で、力をもっていたんです。この人は東京生まれなんですが、直感のすぐれた人で“山笠は、地方自治の根源である”と論評で県知事にけんかを売ったんですね。
“県知事は山笠が裸で走りまわるので野蛮だと言っておる。着飾った人間が上等で、裸の人間が下等だという証明は何もない。現に鹿鳴館で着飾った紳士、淑女にどんなスキャンダルがあったか”という論法で攻めるわけですね。博多の山笠は威勢のいいのが特徴だから、京都の山笠のように、飾ってデレデレできないんだとも言っています。
知事がこたえないので最後には業を煮やして、“県知事出てこい。みんなの前で論戦しようじゃないか”とまで言っています。一方、櫛田神社では博多っ子がかがり火たいて集まり、ワァワァと大騒ぎになったんです。とうとう県知事が中止令を撤回するわけですね。ここで古島が“諸君、もうよかろう。強いばかりが男じゃない。電線に邪魔になるなら半分チョン切ればよい。裸がいけなかったら、そろいのハッピを作ればいい”と提案したんです。それを契機にして、山笠がだんだん低くなっていくんですが、過渡期においては、上の方だけ山小屋に固定して、下の方だけ引っぱり出す、ツリ山というんですか。

西島

そうです。ツリ山です。

 

江頭

そういうのがあったときもあるんですが、それが現在のように、飾り山と“かき山”と二本立になったんです。

四島

それからですか、ハッピ着だしたのは。

江頭

いいえ。昔の写真を見てみますとバラバラのかっこうで、比較的早くから着ているようです。

四島

そろいじゃなかったんですね。

江頭

そうです。

西島

山笠は、流れが単位で、流れは町内の集まりなんですが、町内でハッピを統一していたので、いろいろなガラが一緒になって行くわけですね。ところで、時間を競う現代の山笠のようになったのはいつから始まったんでしょうかね。

江頭

旧藩時代すでに行われていますが形式が整うのは明治になって、時計ができたから競争をしてみよう、とかいうことになったのが始まりでしょう。

祇園信仰から始まった山笠

四島

時計ができたからですね(笑)。ヤマカキのおこりみたいなものがいろいろ言われてますが、そこいらへんはどうなんでしょう。

江頭

従来言われてるのが、寛元元年(1243)ですから、13世紀ですね。
承天寺開山の聖一国師が、博多の町に悪病がはやったときに、施餓鬼だなに棒をつけ、自分がその上に乗り、甘露水をふりまいて辻祈祷(つじきとう)をしたのが始まりだと言われてるんです。
山笠は、正確には“博多祇園山笠”というんですが、この祇園信仰という形態で、全国でもっとも有名なのは京都の祇園祭りです。これは、まことに優雅な祭りですね。九州では、宇佐八幡とか日田、甘木、博多、若宮。直方へ行く所の若宮にも実にいい山笠があるんです。それから、田川、戸畑のチョウチン山笠や小倉の祇園太鼓。なかでも民俗学的におもしろいのは、黒崎の山笠です。まったく飾りをつけていない、木で素組みをしたうえにササを4つつけて、それにしめ縄をはり、スサノオノミコトの神額を掲げる。これは、最も古い形じゃないかと思うんですが……。
一番最初の祇園信仰というのは、古いころ奈良時代までは農村でイネの穫り入れとか、今年は米がよくとれますようにと、春秋の収穫祭が行われたわけですが、都ができて家が密集してきますと、夏になると高温多湿になって疫病がはやるんです。それを鎮めるために祭りができます。最初は民衆の中で全国各地で自然発生的にやっていたものですが、そこによくない傾向が生まれるわけですね。
あやしげなる男があやしげなる祭りをそれぞれの土地でやって、結果として民心を惑わし、政治を乱す、というようなことを朝廷は警戒するわけですね。ですから、平安時代初期の貞観11年(869)に清和天皇が乗り出して一つのモデルを京都でやったわけです。神泉苑という清らかな泉のそばで国家的な祭りをする。これに加茂川の水神祭だった葵祭が結びつきます。
私は祇園信仰の土台は水神祭だと思うんです。どうもお潮井とか、勢い水、棒洗いなど水との関連が強い。

西島

だいたい“祇園”は、どういう意味があるとですか。

江頭

祇園精舎の守護神である牛頭天王これはインドの神さまですが、これに従来のスサノオノミコトが合体し、疫病退治の神さまが生まれます。日本神話のたくさんの神さまの中で、スサノオノミコトは牛を八つ裂きにしてアマテラスオオミカミに投げつけたり、たいへん元気のいい人でしょう。だからスサノオノミコトにイメージをすり合わせたんですね。

山笠にキュウリはご法度

西島

山笠にはいろいろのしきたりがありますね。

江頭

そうですね。その一つに山笠の期間中はキュウリを食べたらいけない、というタブーがあるんですが、これはどうして食べないかというと、キュウリを輪切りにしたときにその模様が祇園さまの御神紋と同じになるから、ということなんです。江戸なんかでは、キュウリの輪切りは徳川家の葵の御紋に似てるからと、旗本はキュウリを食べないんですね。

四島

ホウ。

江頭

それよりももっと突っ込んで、茶断ち、塩断ちと同じように、出ざかりで一番おいしいキュウリを食べないというタブーを作ることによって神さまに精進潔斎を示したという解釈もあるわけです。
これは私の新説ですが、水神祭との関係があると思うんです。水の精霊であるカッパの好物がキュウリなんですね。それで、期間中人間はキュウリを口にしない。現に今でもおすし屋さんではキュウリ巻きを“カッパ巻き”と言いますよね。

山笠行事の日程

7月1日
飾り山笠の公開
9日
午後5時頃から石堂橋を出発して筥崎浜までのお汐井とり
10日
流れがき
午後3時頃から町内を舁き廻る
11日
午前5時頃から朝山、午後は自分の町内以外を舁き廻る他
流れがき
12日
追山ならし
昼3時59分櫛田神社前に集合して出発、4キロのコースを走る。
13日
集団山見せ
観光用として呉服町から天神まで50米道路を走る。
14日
流れがき
いよいよ行事も終わりに近づき午後簡単に行う。
15日
追山笠
午前4時59分合図の太鼓で“櫛田入り”!
雄壮な山笠決勝点までオッショイオッショイと走りつづけて、午前6時頃までにはすべての行事が終了する。

威勢よく悪霊を撃退

四島

なるほど。いつからこんな勇壮な祭りになったんですか。

江頭

これは文献によるとかなり古いですね。

四島

江戸時代くらいからですか。

江頭

江戸時代の山笠びょうぶというのが櫛田神社に残ってますが、それを見ると、やはり上は裸で、しめこみじゃなく赤ふんどしをして、ずいぶん高い山をみんなでかいてますね。藩政時代は町奉行が追い山を見てくれたわけですね。だから今でも一番山が来たとき祝い歌を歌うんですが、あのときに神様の方を向いて歌うか、その向こうのさじき席、昔町奉行がいた方を向いて歌うかでもめた時期がありましたよね。

四島

そのころは飾ったのが全部走ってたんですか。

江頭

そうです。

四島

もっとも、あんなにきらびやかなものではなかったでしょうね。

江頭

そうですね。骨組みが半分出たようなものに飾りつけてある。しかし、そう粗末なもんでもなかったようですよ。ただ重量的には軽く作ってあったでしょうけどね。
話が前後しますが、ヤマを高くするとそのうえに神様が天から降りてくるんですね。神様を呼ぶわけですよ。だから全国各地のヤマはみんな高いわけです。それで神様が来て威勢をよくすることによって悪霊を撃退する。ですから山笠がすんだとき、博多では鎮めの能というのをするでしょう。これも見どころの一つだと思うんですが、激しい動きが終わったとたんに静かになる。

西島

追い山の六番山笠が清道を回って境外に走り出てすぐあとに“鎮めの能”がありますね。

江頭

鎮めの能で神様が帰っていくわけですね。それで、現在の飾り山でも15日の朝には解くんですね。よそから来た人は、300万円もするのにどうして解くのかと言われますけど、やはり信仰が正しく伝わってるわけで、神様が15日帰ると同時に解体するわけですね。

四島

古代の日本信仰そのままですね。

西島

それで京都の山車(だし)も天に届くように高いんでしょうね。

江頭

それともう一つの明治時代の事件なんですが、明治38年、日露戦争の頃、一番山が出たあと5分たって二番山の福神流れが出るわけですが、“あと3秒、あと2秒”なんて一番大事な瞬間に雷が落ちたんです。そのときスタート係が仕切りの竹ザオを上げてしまったので、ダーッと走って、もう行事がめちゃくちゃ。

西島

今でも、スタートでみんなが気負っているときバリバリッ雷が鳴ったら、竿があがろうとあがるまいと走り出しますね。絶対。

江頭

悪意でやったわけじゃないから、みんなから文句言われる筋合はないけれども、対立するわけですよ。それ以来、福神流れは参加しなくなる。そして、何年かたって和解ができたときに、行きがかり上ヤマはやめて、能当番を引受けるというので、それ以来、鎮めの能が現在でも伝わっている。これは当時の新聞にちゃんと載ってるんです。以前は7年に1回、7番目が能当番になったわけですね。

豊臣秀吉が名付けた“流れ”

西島

櫛田神社のまん中に赤地に白ヌキで清動と書いた旗が立っとりますが、あれは徳川初期の琉球貿易船のトモにひるがえっていたものと同じという話を聞きましたが……。

江頭

あれは「嘉永元戊申年(1848)東町下よりはじめて櫛田社内に建つ」という記録がのこっています。
戦国時代に20年ぐらい戦乱が続いたわけです。博多の町は地勢上から大友もここがほしい、薩摩もほしいと、入れかわりたちかわり戦場になって焼野が原になるわけです。そのときに、秀吉が現在の出水のところまで薩摩征伐をして、そこで講和条約結ぶんです。天正15年6月のことですが、博多も焼野が原ですから箱崎松原に陣をしきまして、筥崎宮を本陣に泊まるわけです。そのときに、神屋宗湛とか島井宗室が“博多を復興してください”と願い出て“よし、復興してやろう”と大決心する。そのときに秀吉が七流れというのを作ったんです。7つのブロックですね。
普通の町内が15から20ぐらいで流れになるわけですね。その流れの中の町内が順番に当番町になっていく。博多っ子にとっては、十何年に1度まわってくる当番で、しかも自分がその総代できりまわす。昔は一番山笠が、今の祇園山笠振興会の会長の役目をしている。だから、15、6年に1度、井上吉左衛門さんみたいな名誉と権限が回ってくるわけです。そのときに、自分の体力、ならびに名声をトップの状態にもっていくというのは1つの生きがいだったんじゃないでしょうか。
それから、この流れというのは、那珂川の流れにみたてて秀吉がつけたんだろうといわれてきました。最近知ったことなんですが、秀吉が生まれた名古屋市の庄内川のほとりに“流れ”という小字があるんです。権力者が新しい土地に自分の故郷を思い出して地名をつけたんじゃないかと思うんです。

“山笠はこうして走る”

山笠の台をかつぐ棒は6本で、前に2人、後に2人外側からかつぎあげ、真中はかつぎ手交替のため空けてあります。台の下をきゆうりがきと言い、両側に2人ずつ、それに方向を定める人、はなどりが前後4人で、台に上っている人を除いて32人が次々に交替しながら山笠を疾走させています。山笠の台は、前を持ち上げて後から押して走るわけで、ドッドッドッという台の足音が聞えるのです。

山笠は“オッショイ オッショイ”

西島

山笠の文章を書いたりすると、東京あたりに出すときに困るのが“流れ”ですね。“流れ”と書いたらわからんだろうし、山笠だけに使われる名称がいっぱりありますからね。たとえば、棒さばきとか一番棒、二番棒だとか、キュウリがきとか、表や見送り……。文章を書くときに1つ1つ説明せんといかんようで難しいですね。山笠の台を曳く手の持ち方や交替の仕方など、いろいろ決まってますからね。

江頭

山笠の期間中に新聞などにも山笠の絵が出ますけど、西島さん以外の人の絵はたいていどこかまちがってますね。

西島

毎年出てる私でさえ、山笠の絵を描くときに、必ず写真とか資料を集めますので、1回も出たことのない人はチョット難しいのがほんとでしょうね。
ヤマカキは“オッショイ、オッショイ”と肩を動かさず、腕を振り上げずに山笠の速度に合わせて走らんといかんので、絵になりにくいわけです。
それから、道の広い方がヤマをかつぎやすいっちゃないか、危なくなくてよかとじゃないか、と言われますがね。広いと、“オッショイ、オッショイ”という声がこだませんわけですたい。かつがん人も一緒に“オッショイ、オッショイ”というてもらいたいわけです。ヤマはかけ声のリズムを走るからです。それで、御供所町筋を行くときが一番動きやすいですね。加えて広い道では水もかけらんと、見物人も片側からしか見とらんので、山が左右にゆれてしまうとです。

武田信玄は山笠人形に不向き

西島

それから、ヤマの人形の見方といいますか。博多人形師の小島与一さんが言いござったとは、一番頂上におやしろがあってそこから、水がずーっと下まで続いて流れてきとかんとほんなもんじゃないと……。
飾り山の前を“表”というて、勇壮な戦記物、うしろを“見送り”といい、優美なものを作るわけです。ただ、それが今はテレビや漫画に出てくるものになってきましたね。

江頭

先ほどの明治38年の福神流れなんですが、表は“日本海海戦”なんですね。その年の5月にあったものを、もう作っているんですね。見送りが1年少し前にできたばかりの亀山上皇の銅像。非常に趣向をこらしてるんですね。

江頭

それから汽車が開通したときは汽車も出たということを聞いています。

四島

情報がすぐに出たんですね。

西島

武田信玄を作ったらいかんとは、どうしてですかいな。

江頭

これは、江戸時代に武田信玄を作ったときに、ヤマが倒れてケガしたとか、侍が刀を抜いて暴れ回ったとか…、たびたびそういうことが重なると、もうあれはいかんということに…。

西島

それから竜も飾ったらいかんといいますね。

江頭

この竜は八大竜王を刺激して大雨が降るっていうんですね。それと、黒田長政のおくり名に“竜”という字があるんですが、それをはばかったのかもしれませんね。

山笠は博多弁のリズムで

西島

箱崎の浜にお潮井とりに行くでしょう。あれで、“さあ、山笠”という気分になるんですね。同じ町内の人が1年に1回団結せないかん。箱崎の浜まで2里ありますから、行って戻ってきて足ならしをして、翌日からヤマを動かすようになるとです。
山かきに毎日出とうても、この頃は忙しうなって、15日の“追いヤマ”と13日の“集団ヤマミセ”ぐらいは出ろうという調子で仕事してますが、9日のお潮井とりは必ず行っとかな、ヒョッとして足がもつれたらいかんという気は今でもありますね。だから、ヤマに出る出らんは関係なく9日の夕方のお潮井とりは参加することにしとります。

江頭

ヤマをかつぎあげていくというのは博多だけじゃないでしょうか。ほかのところは9割方車がついてますね。

四島

勇壮ですね。商工会議所の100年祭でもすばらしかったですね。

代々、領事さんとか出てらっしゃいますが、外国の人たちも誘いこむ何かがあるのでしょうか。

江頭

やっぱりおもしろいでしょうね。

西島

そりゃ、出てうしろから押して行ってるのはつまらんように見えますけど、走幅を合わせて“オッショイ、オッショイ”と押して行くとき、背中が汗でズルズルになってその汗のにおいと、朝ヤマのときは白い湯気のようなのが30センチばかりたつのですが、そりゃあたまらんですね。涙の出ろうごとありますね。

江頭

ヤマが町内の団結と融和を育てたという特質を、パッとつかんだ古島一雄は偉いと思いますね。

西島

現在ではよその土地の人で山笠に出ている人が3割ぐらいはいると思いますが。
ヤマというのは博多弁のアクセントで動いているところがあって、「ねえ走りましょう」じゃ動かんわけで(笑)“ヨーイ”と言うただけでどうしなくてはならないかということがすぐわかります。あと押しの附近では、たとえば「ついちゃあれ、ついちゃあれ」「追いちゃあれ!追いちゃあれ!」というようなかけ声のようなもんが、よその人はわからんでしょうね。

四島

なるほど。

山笠たすきの色別

台上り …紅白のねじねじ

(山笠の台に上って勢いをつけ、かつぎ手を指示する人)

前さばき …黄と白のねじねじ

(戦前は憲兵ともいっていて、山笠進行の前の人払いをする人)

鼻どり …水色と白のねじねじ

(快走する山笠の方向を定める)

交通整理 …みどり一色

(山笠の走る道に先行し、車などの整理をする)

山笠はヤバン???

西島

承天寺の聖一国師が施餓鬼にのって、甘露水をふりまいたということですから、承天寺と東長寺の前にも清道があるわけです。

江頭

東長寺というのは、神仏混淆期は櫛田神社のお寺ですからね。

江頭

追い山は日曜日でもなければ、なかなかおっくうですが、是非見に行かれることをお勧めしますね。

四島

とにかく演出のないものばかりで感動がありますからね。

西島

風景としてもよくできてますね。櫛田神社のあのいちょうの木に、すずめがいっぱい寝てるんです。朝早い一番ヤマのときはまだ寝てますが、すぐ横で太鼓がドンドンと鳴ると、目をさましてパーッと一斉に飛びたっていくし、一番ヤマが清道をめぐって“祝いめでた”を歌っているときに、東から明けていく。そして最後の六番山が行くときには完全に明るくなっている。

江頭

昭和25年頃、アメリカ仕込みの民主主義第一波の頃に、うちの新聞に投書がのったんですが…。“ヤマガサはおしりを出して野蛮だからパンツをはきなさい”これで町中大騒ぎになったんですけど(笑)“あれは、ふんどしではなくしめこみだからおすもうさんと同じだ。おすもうさんは、天皇陛下の前でもおしりを出してるのだから天下御免だ”でめでたしめでたしになったんですが、昨年、商工会議所の百年祭で本当に天皇陛下の前でおしりを出したのですからね。

西島

新聞に書いてありましたよ。“おしりむき出しで陛下の前で”と(笑)。

本部
  • 会長
  • 顧問
  • 副会長
  • 会計
  • 監査
絞りの赤白青 伝統の保持。格調の護持。
各流れとの連絡。企画立案。
願届。渉外。宣伝などにあたる
各町
流れ代表
  • 総務
上同 各流れを代表し行事全般を統括。
  • 山笠委員
赤、茶
青、緑
のしま
総務を補佐し円滑な進展をはかる
  • 町代表
  • 顧問
  • 相談役
  • 年寄
  • 長老
赤白青
のしま
山笠の建設や行事の基礎的企画。
役員に協力し、児童や青少年などの出場をうながし育成する。
  • 取締
赤と白 町を代表し総務に協調援助。
町の行事を統御。活動の根源になる人。
  • 赤手拭
    (あかてのごい)
赤一色 山笠を実際にかつぐ強い若者で、取締を補佐し、庶務関係も司る。
  • 衛生
青と白
のしま
病気や危険防止に留意し、児童の保護などにあたる。

博多の夏は追い山から

四島

ところで、“集団山見せ”はいつからでしたか。

江頭

昭和34年から始まった一種の観光対策ですね。ヤマは那珂川こすことならん、と土居流れは今でも出ませんね。

江頭

東京は都市が大きく発展するにつれて江戸という色彩が埋もれてきたわけですが、逆に博多というのは、都市が合併して、終戦後こんなにふくれあがり、今大都市圏になってるんですが、“博多”はいい意味のニックネームになってますね。たとえば、東京やアメリカに旅行して“あなたどこですか”と聞くと、“私は博多です”と言う。“ホウ、博多のどちらですか”“チョット宗像の方で”というような例がたくさんあるわけで、この二つの意識はおもしろいですね。
なにはともあれ、追い山で夏がきますからね。

山笠(やま)太鼓 響けば

夏の朝となり

四島

どうもありがとうございました。