No.4 博多の豪商

対談:昭和54年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡大学教授 武野 要子氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 元石 昭吾

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


豪商といえば〝博多三傑″

付録年表

島井宗室
神屋宗湛

元石

「博多の豪商」といいますが、ひと口で言うと、どういう人たちになるのでしょうか。

武野

博多三傑』という本が出まして、それ以来、博多の豪商というと、島井宗室(しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗伯(おおがそうはく)・この3人が言われるようになりました。
宗室と宗湛はほぼ同じ時代で、戦国時代の終り頃から江戸時代初期、宗伯は少しあとになります。前の2人は秀吉お抱えの商人、宗伯も宗九も黒田藩お抱えの商人で、宗伯より父の宗九と考えた方が時代的にはあっています。性格的にもちょっと違いますね。

元石

遣唐使の時代から博多は知られていましたのに、それまで大きな商人は出なかったのですか。

武野

そうでもないんですよ。宗金(そうきん)という人がいます。言葉から受ける響きは中国人のようですが、れっきとした日本人で博多商人といわれています。
その頃は、日宋貿易の時代で、領主やお寺、神社なども商業行為をやっていますね。宗像神社(むなかたじんじゃ)、香椎宮(かしいぐう)、崇福寺(そうふくじ)、聖福寺(しょうふくじ)、承天寺(じょうてんじ)、妙楽寺なども大々的に貿易をやっていましたからね。
その当時は、中国人も日本人も差別がなくて、国際結婚をしていた時代です。たとえば、宗像神社の宮司さんは、2代続けて中国人の奥さんをめとっていますね。

元石

その頃は宋銭ですね。

 

武野

ええ、日本にも貨幣はありましたが、宋銭が多量に入りこんできています。鋳銭技術がまだ進んでなかったのですね。
少し時代が下がりますと、日本でも貨幣が盛んに鋳造されています。そのもとをつくったのが、博多商人だという説もあります。
神屋宗湛の祖父の神屋寿貞(かみやじゅてい)が石見銀山(いわみぎんざん)を開発していますね。採掘した銀を海外へ持っていき、輸入品にかえてくるわけです。日本はマルコ・ポーロの時代から「銀島」と言われたくらい銀が豊富でした。「金」もありましたが、銀の方が豊富だったようです。その銀を、中国や朝鮮の高級織物とか、奢侈品(しゃしひん)(ぜいたく品)にかえていたんですね。
当時の博多を考えてみると、1種の産業都市だっただろうと思うんです。銀の精錬技術とか、博多織が発生するのもこの頃ですね。年代的にいうと、14、5世紀から16世紀ぐらいにあたります。

元石

信長とか謙信とか戦国時代のスターたちの出てくるちょっと前ですね。

武野

そうですね。貿易だけやってたのでは、中世の博多はそんなに栄えなかっただろうと思います。外国から高級品を持ってくるかわりに、こちらからも独特のものをつくり出して、持っていかねばならない。それを博多一円で生産してたんじゃないかと言われています。
博多の特産物としては、博多織や茶の湯に使う芦屋釜、それから博多練酒(ねりざけ)がありました。博多練貫(ねりぬき)ともいっていますね。まだ清酒ではなく白く濁っていましたが、度が強く、長持ちして秀吉も賞味したということです。その練酒の醸造元のひとつづが、博多三傑の1人の島井家です。
それから刀、左文字(さもんじ)は名刀として有名ですね。特に対明貿易では、刀は重要な商品だったようです。

元石

お寺や神社までが行っていた貿易が、次第に豪商たちの専門にかわっていった。それには、なにかきっかけがあったんでしょうか。

武野

やはり、商業資本の成長だろうと思いますね。その当時、お寺は土地を持っていて、1種の領主でした。だから、領主の貿易の時代があったんです。ところが、ある時期からピターッとしなくなって商人に代行させるようになるんですね。つまり、肩代わりできるように商人が資本やノウハウを蓄積してきたということでしょうね。

昔の商人は〝海賊まがい″

大賀宗伯

元石

なるほど。ところで、宗湛はどんな人だったんでしょうか。

武野

宗室もそうですけど、宗湛はどこの出身かはっきりしないんですね。京都の人じゃないか、いや宗像の人だ、とかあまりはっきりしていません。
宗湛は、子どもの頃は博多で過ごしたようですが、青年時代は唐津に疎開していました。

元石

戦乱のためですね。

武野

そうです。博多は貿易港で富裕な町ですから、大内氏ら戦国大名たちの垂涎(すいぜん)の的でした。貿易を1人占めしたいという欲望もあっただろうと思います。とにかく、入れかわり立ちかわりでしたから、天正15年の九州征伐で秀吉が博多に入る前は、戦乱ですっかり荒れ果てていました。それで、宗湛も唐津に疎開していたわけです。
その頃の唐津は、どうも海賊や密貿易の根拠地だったんです。ですから、資料があるわけではないんですが、そういった非合法的な貿易を、子どもの頃から見ていただろうということは考えられますね。
代々、神屋家は勘合貿易(かんごうぼうえき)をしており、神屋船という船を出しています。その勘合貿易も大内氏の滅亡と同時に終わるんですが、そういった合法的な貿易のあとは、中央政府が弱体となって必ず密貿易の時代が続きます。すると天下の統一者が出てきて、また合法的な貿易を始めるわけです。だから切れ目、切れ目に海賊の時代があるんです。合法的な港という点でも、非合法的な港という点でも、博多は、やはり歴史の舞台に登場してきます。だから、当時の貿易商人というのは、一皮むけば、だいたい「海賊まがい」と言えるんじゃないでしょうか。

元石

すると、商事会社と水軍と両方を持っておかなければなりませんね。彼らは武力をかなり持っていたんでしょうね。

武野

秀吉が入ってくる前の博多は、自治都市で商人が守っていましたからね。 大内義隆(おおうちよしたか)や大友宗麟(おおともそうりん)が、博多を領地にはするけれど、本拠地は山口や大分ですから、博多には自分の名代(みょうだい)として家来を置き、その家来が地元の商人と協力して、博多を経営していくという形をとってるんです。ですから、商人による博多の政治という面が非常に強いですね。山笠などは、その伝統をふまえてるんじゃないでしょうか。宣教師たちも、当時の博多は堺と同じような自治都市で、町人の合議制で治められていたと言っています。

元石

お話に出た勘合貿易は、その頃誰の御墨付きだったんですか。

武野

その当時の将軍足利義満(あしかがよしみつ)です。勘合貿易は、筑紫の商人の肥富(こいずみ)という商人の進言で、義満が始めたのです。

元石

将軍が許可料でピンハネしてたわけですね。

武野

そうですね。だから、ある人に言わせると、義満もやはり海賊の一味だったということを言ってます(笑)。

秀吉を利用して博多を復興

武野要子先生

元石

では、宗湛は秀吉が九州征伐にくるまで唐津に居たんですか。

武野

そうです。引っこんでおりました。そして、あるときに突然唐津を出て京都に行き、剃髪得度(ていはつとくど)といって、頭を剃って俗人から離れる。そうして、当時上流階級に流行したお茶の修行をする。天下の統一者である秀吉に近づくために、準備をするわけです。
秀吉は、茶の湯に凝っていて、千利休(せんのりきゅう)とか天王寺屋宗及(てんのうじやそうぎゅう)とか、そうそうたるお茶の先生から茶の湯を学んでます。そして、珍しいお茶の道具をすごいお金を投じて、外国から取り寄せてます。例のルソンの壷も、そうしたものの1つですね。

元石

戦乱のためですね。

西島

宗湛は唐津に引っこんでいても、ずいぶん資力は持っていたんでしょうね。

元石

そうですね。その一つに山笠の期間中はキュウリを食べたらいけない、というタブーがあるんですが、これはどうして食べないかというと、キュウリを輪切りにしたときにその模様が祇園さまの御神紋と同じになるから、ということなんです。江戸なんかでは、キュウリの輪切りは徳川家の葵の御紋に似てるからと、旗本はキュウリを食べないんですね。

武野

ええ、代々、大貿易商人ですから祖先伝来の資産というものを持ってたでしょうね。非合法的貿易でも相当ふくらんでたと思います。そういったものをもとに、雄飛のための準備を怠りなくやってたんじゃないでしょうか。

元石

そういうことで、宗湛は秀吉とコネができて、また一段と飛躍するのですね。

武野

秀吉は、朝鮮出兵をもくろんでいたでしょう。その朝鮮に一番近いのは博多ですからね。兵糧米を積み込むとか、軍需品を集めるとかいうことになると、戦場に近い博多でないと困るということがあったと思います。それで、博多の商人を役立てようという魂胆があったようですね。
だから、大坂城で、例の有名な、「筑紫の坊主はどれぞ、近うよれ」といって、非常に親しげに神屋宗湛を招じ入れて、並居る千利休や堺の商人を退けて歓待した。そのときは、石田三成(いしだみつなり)の給仕で料理を頂戴したという記事が残っています。結局は博多の富を自分のものにしたいという下心があったからでしょうね。

元石

宗湛、宗室が最も動いたのは、文禄、慶長のあの2回の戦いのときですね。

武野

朝鮮出兵で、地方の一介の商人が天下の豪商に上昇したということですね。
ただ、宗湛と宗室は性格がずいぶん違っていたようです。宗湛の方は、家柄の出という印象が強いですが、宗室の方は、1代で大きくなった立志伝中の面が強いようです。反骨精神も宗室の方が強かったようで、秀吉の朝鮮出兵に反対しています。博多は朝鮮貿易で栄えていたところですから、朝鮮と戦争されると困るわけで、「およしになった方がいいでしょう」と進言する。もちろん秀吉の気にいるはずはない。それで、あまり秀吉の覚えが良くなかったようです。宗湛の方は、最後まで秀吉にかわいがられ、博多の復興、太閤町割のときにも、宗湛の方が力を入れたようです。

元石

秀吉と豪商で、博多は復興したのですね。

武野

博多の復興は博多の町人の念願でしたから……。「ぜひ、ひとつ秀吉を利用して」ということもあったと思います。秀吉の力がなかったら、あんなに早く復興しなかったでしょうね。やはり、自分たちの博多を復興させて盛りあげていこう、という博多の町人の代表としての意識が、宗湛たちにそうとう強かったんじゃないでしょうか。でないと「博多の豪商」と、今日まで言われなかったと思うんです。

意外に質素だった宗室、宗湛

元石

その頃、宗湛の資力はどのくらいだったんでしょうか。

武野

宗湛の茶室に秀吉を招いたときに、家来500人を全部入れて、お膳を500人分用意したということなんですね。宗湛の家だけでは、もちろん入りきれずに、そのとなりの豪商の家も2、3軒借りたということです。このことで、どの程度の屋敷だったか、また資産の程度もわかっていただけるんじゃないかと思いますけれど……。
しかし、宗室、宗湛の家は広いことは広いんですが、調度品などは意外と質素だったようですね。それが、ちょっと時代が下がって伊藤小左衛門(いとうこざえもん)あたりになりますと、ぜいたくになって、長崎の出店などは非常に豪壮で、天井にギヤマン(ガラス)をはり金魚を泳がせていた、という話が残っています。

元石

ギヤマン天井、すごいものですね。

武野

秀吉が、「金はいくらでも貸すから大々的に商売してよろしい」と、宗湛に言ってます。秀吉は、その当時日本全国の金(きん)を1人占めしたぐらいの財産家です。その秀吉からふんだんに金(かね) を借りて商売をしたんですから、相当にもうけたとは思いますね……。

元石

この博多三傑は、日本全国でもナンバーファイブぐらいに入っていたんですか。

武野

はっきりとは、わからないのですが、大関ぐらいに入っていたとは思いますね。

元石

永続的にずっとやっていくわけではないですからね。なにかのチャンスをつかんで一挙に、というやり方だったんでしょうね。

武野

安定的な経営ということになると、もう少し時代が下がりますね。この当時の商人は、出てきてはつぶれ、という冒険商人の時代なんです。
江戸時代の中頃になると、三井(越後屋)や 住友(泉屋)など、今日の商人のルーツが出てきます。

出家、お茶で秀吉に近づく


元石昭吾

元石

宗湛と宗室の性格の違いというのが先ほど出てきましたが、どういう人物だったかもうすこし描写してください。

武野

宗室、宗湛ともに肖像画が残っています。おそらく晩年の像だと思うんですが、どちらも頭を丸めて枯淡の境地といいますか、特に宗室の肖像画は非常に穏やかで「好々爺(こうこうや)」という感じですね。若い時代は激しい性格だったろうと思いますが、晩年は落ち着いていたようです。どちらも禅宗を信仰しておりましたので……。

元石

出家、そしてお茶、当時のひとつの見識人のゆきつくルールのようですね。当時の貿易というのが、今のような物流じゃなく、切ったり殺したりという人間の戦いもある。それを見続けてそうなるのか、お茶が好きだからそうなるのか、どういうことなんでしょうか。

武野

その当時、たとえば千利休でも坊さんになってますね。結局、身分制の時代ですから、天下の統一者秀吉と対等に交際するには、僧籍に入るのが一番いいわけです。しかも、茶室がだんだん狭くなって、だいたい2、3人ぐらい入る広さでしたから、茶室に入って初めて密談ができるわけですね。頭を丸めて茶をたしなむのも商人として成功する秘訣だったわけです。
お茶といえば、面白い話があって、「関ヶ原の戦」の前夜、石田三成など豊臣派の武将たちと一緒に、宗湛がお茶の会をやってるんです。その頃、武将たちも徳川につこうか、豊臣につこうかと迷った時代ですね。ひとつ間違うとたいへんなことですからね。相当忙しい時代だったんですよね(笑)。商人もやはりそういう面では忙しかったと思うんですが、宗湛は石田三成と最後まで友情を保っています。それで、歴史家は、「豊臣派に賭けてたんじゃないか」ということをよく言いますが、賭けるというよりも、宗湛ぐらいの人間になると、厚誼に報いるというか、もう少し高次元での、非常に武士的な性格があったんじゃないかと思いますね。

黒田の時代は宗伯が活躍

元石

宗室は、どちらに向いてたんですか。

武野

宗室も宗湛に似た生き方をしたのだと思います。2人とも1代の傑物ですから、時代の流れの行方を十分読みとっていたでしょうね。
黒田家が関ヶ原の戦で手柄をたてて、52万余石をもらって筑前に入部してきます。殿様が入ってくるときに、「下に、下に」と土下座させるでしょう。そのときに、博多の一部の商人が土下座をしなかったというんですね。
「自分たちは天下の博多商人だ。一介の大名がなんだ」てなわけで、博多商人の気骨をそこで見せてるんです。
宗室、宗湛もそういう気持ちはあったでしょうが、博多の町人のリーダーですから、これでは黒田の時代は生きていけない、という認識は持っていたんじゃないかと思います。
黒田が入ってきてからは、大賀宗九や宗伯が、黒田のブレーンみたいになるわけです。それで、宗室と宗湛は反対に、凋落(ちょうらく)の一途をたどるんです。まあ、秀吉の手垢のついてない商人の方が、黒田家としても使いやすかったということがあるんでしょうけど。

元石

宗室、宗湛は、蓄積をとりあげられたわけじゃないんでしょう。

武野

ええ、とりあげたりはしてませんが、2代藩主忠之から宗湛が命の次に大事にしてた茶の名器文琳(ぶんりん)を献上させられています。その当時の博多商人たちは茶人ですから、命をとりあげられるのと同じくらいの気持ちだったでしょうね。もっともそれに対して、黒田家は代金を払ってるんですよ。
黒田家もけっこう気をつかって、丁重に扱ってはいるんですね。特に、宗湛と黒田如水は親しくおつきあいしてるんですね。

元石

しかし、凋落したのは、次第に、仕事をもらえなくなった、御用商人の指名をはずされたのですね。秀吉にはかわいがられたが、黒田藩には大賀家が重用された。そういうことで、徐々に凋落していったんですね。最後の方はどうなったんでしょうか。

武野

ずっと明治まで続きます。もちろん神屋家のご子孫も、島井家のご子孫も現在博多にいらっしゃいます。

元石

黒田藩の御用商人というのは、大賀家が幕末まで一番大きかったんですか。

武野

江戸時代の中ごろ博多では、大賀と伊藤小左衛門が並んでいました。どちらも黒田の筆頭御用商人です。ところが、伊藤小左衛門が密貿易であげられましたので、大賀の方が黒田家の御用を1人占めしたという格好ですね。
島井家には資料がたくさん残ってまして、その中に養子の徳左衛門にあてた「島井宗室の遺訓」というものが残ってるんです。日本の町人の家訓の中では一番古いと言われてます。その中で「人に贈りものをむやみやたらにしなくてよろしい。ただ、黒田家にはしなさい」とこんなことを言ってます。そこらへんに封建時代に入っての豪商たちの悲しさというものがよみとれるように思います。

反骨の気風

元石

この人たちは長命ですね。宗湛は84、5歳まで、宗室は75、6歳まで生きてるんですね。この人たちは、世の中の栄枯盛衰をまざまざと見てしまったんで、感慨無量だったでしょうね。

武野

信長、秀吉、家康とも交際がありましたからね。天下の統一者3代にわたって接しているわけですから、感慨が深かったでしょう。

元石

乱世を生きぬいて、やはり相当な知恵者なんでしょうね。

武野

それに、博多という地域性を大いに利用していますからね。そういう点、やはり相当な勉強家だったようです。
それから、チャンスを逃していないということですね。それと、博多三傑はともかくとして、博多商人の場合、密貿易をした商人が多いんです。伊藤小左衛門もそうですし、長崎に行って長崎代官までなった末次平蔵(すえつぐへいぞう)が、4代目になってやはり密貿易であげられて財産没収になっています。
「なぜか」とよく問題になりますが、元来、博多商人は反骨精神というか、反体制的な面が強かったからではないかと言われてます。

元石

密貿易品の買い手は、どういう層だったのですか。

武野

大名ですね。密貿易だと十分にわかっていて買っているんです。

元石

それじゃ、藩は、ある時には見逃して、都合が悪くなって摘発したということですか。

武野

徳川氏が鎖国令を出してから、貿易ができませんからね。だから、自分の息のかかった商人に密貿易をさせて、見て見ぬふりをしていた、ということじゃないかと思うんですが……。密貿易の資料というのは、性格上全く残っていませんのではっきりは言えませんね。

元石

生命をはって貿易した豪商もなかなかのものですが、それをうまく利用していた大名も、したたかなものですね。

武野

どちらも乱世を生きぬいてきた剛者(つわもの)同士ですから、今の常識でおしはかることはできませんね。
黒田藩開祖の黒田長政の有名な遺書があるんですが、その中に、「今は公方(くぼう)様(徳川将軍)が天下をおとりになってる。それは公方様のお力によるものだが、それを公方様にさせたのは、我父如水と自分長政である」という有名な言葉があるんです。「だから、なにか事があったら、このことを忘れないで幕府に申し出るように、そうしたらたいていのことは許してくださるだろう」というようなこともいっております。
長政は徳川にべッタリと言われてますが、そうでもないような気がします。一面では、「徳川何者ぞ」という面を相当持ってたような気がするんです。そういう精神が、「黒田節」の中に流れてるのじゃないか、という気がしてならないですね。

鎖国令で博多は地方都市に

元石

3人が亡くなったあとは、博多の豪商的存在はいなくなるのですか。

武野

ええ。博多が古代、中世、戦国時代を経まして、秀吉のあたりまでは、日本の貿易の中心としての博多でしたが、黒田氏の所領になってからは、地方都市にかわってしまいましたからね。それから、貿易が長崎に移ってしまって、それまできていた外国船が博多に入ってこなくなったことも原因でしょうね。

元石

博多の凋落にくらべて長崎は……。

武野

少しずつ浮上していますね。ポルトガル貿易でだんだん力をつけてきて、貿易港としての地位を博多から奪い取ってしまいました。
その起点が秀吉の時代です。秀吉が長崎を自分の領地にします。領地にするということは、貿易港として自分が貿易をそこでやりたい、という欲望のためです。天下さまの貿易港となるということは、貿易港としての地位が高まることですからね。
そして、博多のひとかどの商人は長崎に移住し、そこで一旗あげようというわけです。末次平蔵は代表的な1人ですね。

元石

それは、いつ頃なんですか。

武野

宗室、宗湛とだいたい同じ頃です。だから本当に先見の明があるのは、移住していった方の商人じゃないかと思うんです。
末次平蔵は長崎商人にはなりましたけど、れっきとした博多出身ですから、ほかの博多商人と一緒に長崎で共同経営をしたり、経営上博多と非常に密接な関係を持っています。だから、私は博多商人の筆頭の1人にあげていいんじゃないかと思います。博多の人には神屋、島井家あたりの方がうけているようですが……。わたくしは、末次平蔵の方が、今日の博多商人を象徴しているような気がするんです……。

文化の面でも博多商人が活躍

元石

ちょっと利口すぎたんでしょうね(笑)。先見の明がありすぎて、どうも博多の気分に合わないわけですね。

武野

そうかもしれませんね。
やはり博多商人は、密貿易をやった人たちが非常に多く出ているというのが特徴的だと思いますね。「反体制的」「海賊的」、そういう面が強いんじゃないでしょうか。

元石

次第に博多は凋落していく。そのとき、博多商人はどうしてたんですか。

武野

博多商人の経営は、金融業に傾いていくんです。国内の商人、大名、それから外国の商人に対して金を貸し付けています。その点で博多商人は大きな足跡を残してます。それを「投銀(なげがね)」(抛銀とも書く)と言って、島井宗室の子どもの徳左衛門なんかがやってます。今も島井家には、たくさん証文が残ってるんですよ。ポルトガル人に貸した貸借証文などもあるんです。

元石

現代につながるものということで博多豪商をふり返ってみると、どういうところがあるんでしょうか。

武野

このシリーズ第1回の「チンチン電車と渡辺与八郎氏」で、帯谷さんが、「博多商人は、伝統的にただ商売だけじゃなく、広い意味の文化にも目が届いていたんだ」と、おっしゃってましたが、確かに博多商人はそういう面が強いように思います。茶の湯では、博多商人の名前が今日でも生きてますし、技術の面でも博多商人が貢献している面があるんですよ。
長崎の「めがね橋」があるでしょう。当時の博多商人が、ああいう石橋の技術の保持者であったという説があります。そんなことや伝統的な博多織にしても、いずれも博多商人の財力というものがバックにあるわけですが、やはり博多商人というのは、スケールが大きいですね。単なる商売1本の商人(あきんど)じゃないということは、言えるだろうと思います。

元石

終戦後の混乱を経て、福岡の実業家の活躍は注目されていますね。時代にマッチした新しい博多豪商の出現を期待したいですね。どうも、ありがとうございました。

武野 要子氏

昭和28年、九州大学経済学部卒。
九州産業大学教授を経て、現在福岡大学商学部教授。専攻は商業史で、対外交渉史、博多商人史に造詣が深い。著書、『藩貿易史の研究』『博多の豪商』ほか。福岡県史編纂委員ほか。