No.5 筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政

対談:昭和54年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
筑前近世史研究会会長 山内 勝也氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


戦奉行(いくさぶぎょう)で、博多の復興に

イラスト 西島 伊三雄

小山

博多を語るには、初代の筑前藩主として、黒田長政は縁の深い人ですが、長政の父の如水は、傑出した人物だったのですね。

山内

長政は、名将というより勇将ですね。如水は、天下取りに数えられたほどの人ですから、格が違うんですよ。
それに、如水は中津の大名になる前から博多のことを知ってるんです。というのは、如水は、天正15年の秀吉の九州征伐のときの戦奉行(いくさぶぎょう)で、博多へ来ているんですね。

小山

戦奉行といいますと……。

山内

参謀総長のことです。如水は、中国征伐の頃から、秀吉の筆頭戦奉行ですから、占領地をまっ先に見ています。だから、博多にもまっ先に来て、博多の復興にも力を貸してるんです。
島井宗室(しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)が、博多の復興を嘆願したのですが、秀吉も博多の貿易の富をわがものにしたいので、復興に力を貸すわけです。まずどのくらいの戸数があったかの見当をつけるために、如水が箱崎の陣営から、のちに家老になる久野外記(ひさのげき)に命じて、博多の街を調べさせています。戦で橋や船が焼かれて何もなかったものだから、大だらいを集めて、それに乗って石堂川(いしどうがわ)を渡ったというんですね。そして、かまどや井戸で戸数の見当をつけている。だいたい2万戸ぐらいあったそうです。

小山

当時の都市としては、割合大きかったんでしょう。

 

山内

九州一の都市でしょうね。それに貿易港でもあったし……。だから、大内や大友、島津氏らの取り合いになったんですね。

天下をねらった……如水

黒田如水
黒田長政

西島

如水は、天下取りに数えられたということですが、人柄はどんなだったんでしょうか。

山内

非常に質素で倹約家、金をウンとためていたようです。
関ヶ原の戦のときに、加藤清正(かとうきよまさ)と組んで、西軍加担の九州の大名を攻めようとしたのですが、長政が6千5百人の精鋭をつれて、上杉征伐に行っていますから、残っているのは老骨ばかり……。それで如水は、大広間に金銀の山を5つばかり積んで、それを前に、浪人、百姓、町人の選抜試験をして、兵を集めたそうです。

小山

商人らしい武将ですな。

山内

その点が長政と違う点で、9千人ほど集め、それを軍勢1万人と言っています。手柄をたてた者を、のちに黒田の家臣にしています。

小山

近代的で、合理的な経営者ですね。

山内

あの時代に、身分にとらわれないで百姓でも、職人でも、町人でも、使いきったのは如水ぐらいのものでしょうかね。
そうした寄せ集めの兵をひきいて、西軍に加担した豊前、豊後の諸城を次々に落しています。相手も留守部隊ですが、とうとう残っているのは、薩摩の島津、柳川の立花、小倉の毛利ぐらいという戦果をあげているんですね。

小山

あわよくば天下を、とねらっていた……。

山内

そうです。東西両軍の雌雄が決まるのに、1ヶ月ぐらいはかかると考えていたようですが、関ヶ原の合戦が1日で終わってしまい、それも、息子の長政が小早川秀秋(こばやかわひであき)を内応させて終わっているのですから皮肉ですね。あとは東軍に従ってのいくさのように見せかけるため、立花を攻め、清正と手をくんで島津を討とうとまでしています。

小山

そのときですね。52万石をもらって、ほくほくの長政に皮肉をいったとか。

山内

長政が、抜群の働きと家康からほめられ、52万石をもらったと報告すると、如水がふんと、横を向いたというんですね。天下にくらべて、52万石ぐらいで何を喜んでるかということでしょう。如水と長政のスケールの大きさのちがいですね。

小山

結果は家康に味方したが、如水は何ももらわなかったのですね。

山内

井伊直政藤堂高虎が盛んに斡旋したらしいんですが、あれは何を考えて兵をおこしたのか判ったものではないと家康が言ったとか、また親子合わせての勲功で52万石といったとか、いろいろ説がありますね。
まあ、そうして、如水は天下の行方を見定めたのですね。そこで、今度は本当の隠居生活に入ってしまう。やはり達人ですね。

44歳で隠居して"如水"に

小山

如水は姫路の人でしょう。

山内

先祖には諸説あるようですが、父の職隆(もとたか)の代に、西播磨(はりま)の豪族小寺政職(まさもと)に仕えて重用され、小寺の姓も与えられています。
如水は、天文15年、父が守っていた姫路城で生まれ、幼名を万吉、16歳で小寺政職の近習となり、17歳で初陣、官兵衛と称し孝高(よしたか)と名のっています。
22歳で結婚し、父に替わって小寺氏の家老になっている。長政が、翌年生まれています。如水のえらいところは、織田、毛利、三好らの中で、いち早く信長が天下を取ることを見ぬいて、織田につくことをすすめているわけですね。
いよいよ毛利征伐となると、秀吉の参謀に配属されますが、このとき親交のあった摂津の荒木村重が、信長に叛旗をひるがえして毛利方につき、旧主の小寺政職も毛利方に変ってしまう。そこで如水が村重の説得に行くのですが、村重は如水を地下牢に入れてしまうんですね。如水はクリスチャンで、〝シメオン″というクリスチャン・ネームを持っていました。村重もクリスチャンだから殺さなかったのでしょう。とうとう城が落ちるまで約1年幽閉されていたのです。

西島

その牢が水牢かなにかで、そのときに如水の足が腐ったとか……。

山内

水牢じゃなく、城内の一番奥の地下牢に入れられたのです。横は池が掘ってあって、3方は大きなヤブがある。そういう湿地帯の牢に1年近くも入れられたら、栄養失調と運動不足、皮膚病で足が立たなくなりますよ。〝死ぬなら死んでいい″と入れられたんですからね。そのとき、家来の栗山備後(くりやまびんご)が商人に姿をかえて、牢番を手なずけて、情報を知らせたり、食物を差し入れたりしたんですね。だから生き延びたんだろうと思いますね。

西島

そのときに、如水をなぐさめようと、誰かが裏の窓に藤の花が下がるように藤を植えたとか。

山内

それはどうでしょうか。初めのうちは如水も牢の壁に日付の印をつけていたのですが、しまいにはそういう気力もなくなった。そのうちに春先になって、ある朝ポッと藤が牢の高窓から芽を出したんでしょうね。如水は藤と小鳥の鳴く声だけが楽しみになった。そして牢内に垂れ下がった藤の花が咲いたことで、自分の道が開けると思ったんでしょうね。

西島

それで黒田の紋所が、〝ふじどもえ″になったのですね。

山内

そうです。それまでは黒餅(こくもち)(石持)の紋といって、黒いまん丸な紋だったんですね。
信長の方は、村重を説得に行って帰ってこないから、如水が村重側についたと思ったんですね。そこで人質の松寿丸、後の長政を殺せと竹中半兵衛に命令するのです。しかし、半兵衛は殺したといって、長政をかくまうのですね。これで長政は助かったのですが、後年、半兵衛の子孫を長政は優遇して、恩返しをしていますね。

小山

如水はそれから……。

山内

本能寺の変を知って、秀吉に「開運のとき」と励ました話は有名ですね。このころから黒田姓にかえっています。あとは秀吉の天下統一の参謀として活躍し、天正15年に、中津で12万5千石をもらっています。天正17年44歳のとき、家督を21歳の長政に譲り、剃髪して、これから如水円清、いわゆる如水と名のるわけですね。

〝筑前討ち入り″で入国

山内勝也氏

西島

如水と長政の親子の関係はどうだったんですか。

山内

如水の息子は長政1人でしたし、長政も如水には一目も二目も置いていたので、父子の関係はうまくいってますね。如水は、女性関係も当時としては珍しいほどで、側室もおいていませんから、夫人と仲もよかったようです。如水は小さな人だったらしくて、播州以来の重臣が書きのこしたものを見ると、結婚式のときにお嫁さんと並んで坐らせるのに円坐を3枚もよけいに敷いて、やっと肩がそろったとあります。お嫁さんは、主君小寺氏の姪ともいわれ、司馬遼太郎さんはお悠の方と書いていますが、私が調べたところでは光姫(てるひめ)というのが本当のようで、長身の美人だったようです。長政は8歳のとき人質として岐阜城に行ったとき、信長に風采をほめられていますから、母親似だったのでしょうね。

西島

筑前入国は、いつ頃のことでしたか。

山内

正式には、関ヶ原の戦いがあった慶長5年の12月に、52万3千石の大名として入国しています。筑前入国ではなく、〝筑前御討入″といっていますが、当時の緊迫した状況がうかがえますね。入国がスムーズにいくかどうか、それで飯塚に1ヶ月ほど滞在して様子をみているのです。しかし博多は秀吉が復興して以来、人心も落ちついているので、おだやかに入部してくるのですね。

小山

御討入で入ってきたとき、博多の豪商の一部には、〝黒田なにするものぞ″という気持ちもありましたが、神屋宗湛などが、時勢だからとなだめたという話もありますね。当時は占領軍が来たという感じだったでしょうね。

舞鶴城のこと

西島

はじめ、如水や長政は、どこにいたのですか。

山内

如水、長政父子が名島城へ入ったということになっていますが、実際は長政が入っているようで、如水はしばらく宗湛の家に泊まったりしています。

小山

宗湛とは仲がよかったのですね。

山内

はい。親交が厚かったようです。名島城がせまくて、筑前52万3千石の軍事、政治、経済の中枢には適さないからと慶長6年に城をつくろうと決めるわけです。いまは福岡城と言っていますが、昔は舞鶴城で、だからあちらこちらの校歌に、〝舞鶴城下″という歌詞がでてきますね。
この舞鶴城をつくるとき、箱崎と春吉と荒戸山(西公園)、そして福崎(現在地)の4ヵ所を候補地として調査しています。
箱崎は、砂地のうえに石堂川と多々良川があるので水攻めにあう危険がある。春吉は那珂川に近く、広々としていいが、土地が低いので盛り土に経費がかかる。荒戸山が北に海をひかえ、前のほうに草ヶ江の入江があるので防備に最適なのですが地盤が弱い。福崎は、当時大休(おおすみ)山とか赤坂山とかいう小さい山があったので、それをけずって築城すればよい。地名も福崎で福の字がついてエンギがよい。黒田氏の先祖が備前の福岡に住みついていたので、祖先をとうとぶ意味もあってこの一帯を福岡と名づけて、ここに城をつくったのです。
長政は舞鶴城に住みますが、如水は1年ほど宰府いまの太宰府へいきますね。如水は天神様を信仰していました。戦火のためお宮が荒れて、御神体も裏山にまつってあったのを、如水と長政が神殿を復興しているんです。いまでも宝物殿のよこに、茶道に明るかった如水が、ここの良い水でお茶をたてていたという、通称〝如水井戸″がありますね。
焼失していた住吉宮も造営しています。

西島

お城のことで聞きたいのですが、石垣の石ですね。その頃、石があまりなかったので、高宮あたりの穴観音の石を持ってきたとか聞きましたが……。

山内

古墳の石を使っています。平尾、高宮あたりの丘陵地に、たくさん古墳があったんです。それを崩して城の石にしています。しかし大部分は名島城の石を持ってきていますね。その頃は、どの大名も築城に古墳の石を使っていますよ。

西島

それから潮見櫓の下のほうの石垣に卍の印がありますね。如水がキリスト信者だったので十字にしていたのを、あとで都合が悪くなって、ちょっといじって卍にしたと聞いたのですが……。

山内

私も聞いたことはありますが、石を運んだ連中が目印につけたのではないかと思っています。

西島

それから、抜け穴が城内から平尾まで通じていたとか……。

山内

私も浄水通りにある〝出口″を見たことがありますが、ガスがたまっていて、とても入れる状態ではなかったですね。しかし、万一のことを考えて、築城にはいろいろと工夫していたんでしょうね。長政は城だけでなく、町全体を城郭と考えて、西は金屑川、東は那珂川、のちに石堂川までを、防禦線と考えているんですよ。

西島

それで、石堂川ぞいにお寺がずらりとあるんですね。

山内

ええ、あのお寺も防禦用ですね。そして黒門と赤坂門を作って、そこから内を城内と考えていたようですよ。実際は大手門からがお城の中になるわけですね。

小山

大手門というのは、実際にあったんですか。

山内

大手門というのは、上(かみ)の橋(はし)にある門のことで、渦見門ともいいます。そして、搦手門(からめてもん)とも追手門(おってもん)とも呼ばれる裏門もありました。護国神社の前に小さい池があるでしょう。あそこの上にあったわけです。

質素節倹の生活

西島伊三雄氏

小山 泰

小山

黒田氏の治世は、どんなふうでしたか。

山内

藩の政治は、如水や長政の遺訓によって行われていますね。如水、長政と名君が続いたので、事績が混同し、往々、如水の言葉を長政の言としてある本も散見しますが、よく伝わっている如水の遺訓は、「総じて国を守護することは、必ず大事なりと思うべし。尋常の人と同じ心得にては成がたし。まず政道に私なく、そのうえ、我身の行儀作法を乱さずして、万民の手本となるべし」といっています。
また、長政は城内の釈迦の間という1室で、月に1回、身分を問わず、有能正直なものを集めて、「腹立てずの会」を催しています。何を言われても腹を立てない。遺恨を抱かない。他言はしないという約束の上でですね。辛辣(しんらつ)な批判で長政がむっとすると、お顔の色が変りましたがと言われて、いやいやと謝ったりしたそうです。
長政のエピソードとして伝わっているのに母里太兵衛との話があります。
黒田藩の謡曲は後年喜多流になりましたが、この頃の長政は、観世に凝(こ)っていました。あるとき家臣にうたってみせてどうだというと、みんながお上手とほめるんですね。いい気になっていると、あとで母里太兵衛(ぼりたへえ)が、「本当のことをいえば、殿の謡曲は下手で、聞けたものではない」と率直に言ったので、長政は一旦顔色を変えたものの、さすがに名君で、奥へ入って脇差をもち出し、汝の諫言、わがためによしと賞め与え、以後家臣の前で謡曲をうたうことはぷっつりとやめたそうです。
如水は「世には神罰、君罰、民罰の3つがある。神罰はよく神を畏れ、敬うことで、免れることができる。君罰は真心を持って主君につかえ、過ちがあっても、十分に反省するならば免れることができる。政治が悪くて民罰をこうむると、一国が駄目になる。民罰がいちばんこわい」と、政治の根本として話しています。
また、近世名将言行録に如水の教えとして、「大身も小身もともに分限をわきまえ、不相応な暮しはならぬ。衣食住とも身軽にしつらえ、貯蓄をおこたらぬようにせよ。そうすれば一朝有事の際、奉公にも事欠かず、義理にも違(たご)うまい。武士にとって武具は第1の道具であるが、分不相応のものは無用である。もちきれないほどの武具を持っていても、何の役にも立ちはしない。過分の武具をもつほどなら、下人をやといいれよ。これとても養える範囲でなければならぬ。馬も必要だが分を過ぎると……」と書いてあります。如水は徹底した節倹の人で、着物や足袋(たび)も、ちょっと使っては臣下に払いさげているのですが、やるのではなく、手入れや、使い方を話して、安く売っている。買ったものなら大切にするといっているのですが、酸(す)いも甘いもかみわけた人生の達人だったのですね。いまの小学校は国が無償で教科書などを与えていますが、子どもはタダのものは大切にせず落し物があっても取りにこないそうです。考えさせられますね。
このように如水は質素倹約の人だったので、長政も同じ方針をとったようです。筑前に入ってすぐ、如水は、屋敷と米は与えるから、庭に梅の木を植えよ。梅干をつくつておかずにすればよいとすすめています。筑前に梅、みかんの木が多かったのも、如水のすすめを守ったのでしょうね。
長政は臨終のとき、慈母に先だつこと、忠之の成長を見とどけず、黒田52万石の大軍を動かしての戦(いくさ)をしないままで亡くなること、この3つが残念だといっています。子として、父として、将としての感慨でしょうね。

領民に慕われた如水

小山

如水や長政は領民に慕われていましたか。

山内

如水は特に慕われたようです。かざらなくて、領民の子供たちと遊んでやるような人柄でしたから。政治は、家臣とくに重臣の意見を尊重すべしというのが、藩是のようでもありましたから、黒田藩は他藩にくらべると、割合に殿様の独断専行ではなかった、民主的な政治だったようですね。

小山

如水は、長政の政治に口を出していましたか。

山内

長政の若い頃は、盛んに口を出していますね。隠居はしていても如水がやはり藩の中心だったんでしょう。
如水の父も如水が結婚したらさっさと家老職を如水に譲って引退しています。如水は足が悪くて不自由でも、戦になると家来に陣輿(じんよ)をかつがせ、それに乗って、前戦へ出て指揮をとっているのです。いわゆる帷幄(いあく)に引っこんでいないのです。
長政もその血を受けて、いつも先頭に立ちたがるんですよ。既に鉄砲戦ですから、先頭へ出ると撃たれる危険が多い。如水はずいぶん長政を気づかって、先頭に立つのをいやがっていたようですね。しかし、そういう殿様だったから黒田軍団は強かったんですね。

博多を優遇した如水と長政

西島

筑前52万石、それで家臣はどのくらいの人数でしたか。

山内

全部でだいたい6千人、大軍団ですね。この人たちは政治と戦争が役目で、生産しない連中でしたから、これを支える当時の農民や町民はたいへんなことだったでしょうね。
藩主の権力ならどんなことでもできたでしょうが、如水や長政は武士の町福岡と、町人の町博多をわけ、町人の町として中世から栄えてきた博多の特性をみとめ、優遇したのですから、立派ですね。
播州には悪口祭というのがあって、その日はどんなに政治の悪口を言ってもとがめられなかった。長政は町人代表を、その見学にやっていますね。博多にわかにも、似通ったものがありますね。夏の盆にわかにはどんな批判も自由、重臣たちはほほかむりをして顔をかくしてにわかを聞いてきて、政治の参考にしろと言っていますね。始祖の如水は慶長9年59歳で、藩祖の長政は元和9年56歳でなくなりましたが、2人とも名君で、わりあいよい政治ぶりだったことは認めていいようですね。
それに、福岡という新興の町をつくり出し、博多に制約を加えていない。また領主の交替や減封、改易ということもなく、維新まで一貫した藩政を持続できたことも、明治以後、着実に福岡が発展してきた一因だといってもいいんじゃないでしょうか。

小山

どうも長時間、ありがとうございました。

山内 勝也氏 略歴

明治39年、福岡市西町に出生。修猷館から国学院大学を経て、東京都で教職につき、昭和19年福岡市に転じ、43年福岡市立博多工業高等学校の校長を最後に退任。ついで福岡市常勤監査委員(2期)。現在、福岡家裁調停委員、筑前近世史研究会会長、約6百年前祖先が筑前博多に居をかまえ黒田氏入国とともに、長政につかえ福岡城下に居住。