No.6 志賀島出土の金印 名槍日本号 水牛のかぶと(福岡市美術館に戻ってきた宝物)

対談:昭和54年11月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 筑紫 豊氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行常務取締役 元石 昭吾

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


2千年の眠りから目ざめた国宝の金印

付録年表

拓影
「漢委奴国王」金印

司会

国宝の金印が福岡にかえってきましたが、金印というのは……。

筑紫

博多湾にほそながくはり出た海の中道が堤防のように博多湾をかこんでいて、その先端に志賀島(しかのしま) がありますね。いまは陸つづきですが、昔は文字通り島で、万葉にもよくうたわれています。
この島は、周囲13キロの小さい島ですが、島の南、能古島(のこのしま)と相対したところに、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)金印発光之処」という大きな碑が建てられていて、いまは金印公園になっています。

元石

金印の発見されたのは2百年ぐらい前ですね。

筑紫

ええ。天明4年(1784)の2月といいます。この島の百姓甚兵衛さんの田んぼで発見されたのです。
タテヨコが漢尺1寸の2.3センチ強、つまみが蛇の彫物で、この印文に「漢委奴国王」と漢篆(かんてん)という漢代の官印や私印に用いられた古体の文字で彫ってあるんですが、わかりやすい書体ですね。

※金印の寸法。方形でタテヨコ2.347センチ。後漢初の1寸にあたる。紐は蛇紐(へびひも)で総高2.236センチ。印台の高さ、平均0.887センチ。108.729グラムである。

西島

金印が掘りだされたときは、どういう状態だったのですか。

筑紫

掘りだしたのは、志賀島の百姓の甚兵衛さんとなっていますが、それは、黒田藩の郡奉行に出した書類に、土地の所有者である甚兵衛さんのサインがあるからなんですね。実際は、仙厓(せんがい)和尚も書き残しているように、秀治喜平という小作人が掘りおこしたと思われます。
甚兵衛さん所有の田んぼの溝の流れ具合が悪いので、手入れをしていたら石にぶつかった。これが2人でやっと抱えられるぐらいの大石で、金てこを使って掘りおこした。その石が屋根の役目になっていて、その下が3方を石で囲んであって、真中に光るものがある。これが金印で、その当時の記録を見ますと、どうもはだかで掘りおこされたような感じですね。
今の考古学者だったら、木箱があったんじゃないか、絹の布で包んだ形跡はないか、というようなことを丹念に調べたんだろうと思いますが、なにぶんにも当時のことですから、なんかいなとジャブジャブ洗って、掌(てのひら)にのせてみて、「こりや案外重たかばい」てなことだったんでしょう。
甚兵衛さんの兄さんが、福岡の米屋で働いていたことがあって、「米屋の大将は学があるけんわかろうや」ということで見てもらった。大将が見て、「これは判このごとあるが、鍍金(めっき)じゃなかバイ」
幸いなことにその米屋が、医者であり、儒学でも評判の高かった亀井南冥(なんめい) 先生と懇意にしていたので、先生が評判を聞いて見にきて、「こりゃ、どえらいもんじゃ」と、ビックリするわけですよ。
当時、福岡藩には、甘棠館(かんとうかん) と修猷館(しゅうゆうかん) という2つの藩校がありました。甘棠館の館長の南冥先生は古文辞学派の学者で、丹念にその時代の原典を読むという学風でしたから、古典にくわしくて、後漢書にのっている金印だとピーンとくるわけですね。

後漢書の「倭人伝」

元石

後漢書の記述といいますと。

筑紫

ここが肝心(かんじん)なところで、後漢(西暦25-220)の歴史を述べた後漢書の倭人伝に、「建武中元2年(57)、倭の奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」とあり、同書の光武帝記にも同様の記述があります。また太宰府天満宮にのこっている唐時代に編纂(へんさん)した翰苑(かんえん)という物にも、「中元の際、紫綬の栄」とのっているのです。
いろいろ総合して、「金印紫綬」をもらったのは確実ですね。南冥先生は後漢書の記述を知っていたから、これはたいへんなものと気づかれたのですね。

西島

南冥先生がいないと、金印もどうなっていたか。

筑紫

金の地金としてつぶされていたかもしれませんね。
南冥先生は、「お前たちが持っているのはもったいない。譲ってくれ」と、100両まで競(せ)りあげた。ところが黒田藩に噂(うわさ)が聞こえて、甚兵衛さんに褒美をやって藩に収まったんですね。

元石

金印は、貢物をもってきた国に漢の天子が与えていたわけですね。

筑紫

漢は当時の世界国家で、朝貢のしるしとして、よく来たということで、 諸国の王に与えたのですね。
だから金印をもっているということは、大帝国の漢の天子から国王として認められたわけで、他国のものも侵したり侮ったりできないわけです。

西島

こちらの使者は、漢の天子にちゃんと会ったんでしょうかね。

筑紫

会ったことが資料に載っています。いろんな貢物を持っていってます。海産物やら、それに生口(せいこう)(奴隷)も。 中国の天子は各国の朝貢を誇りにして受けいれていたのです。

元石

航路はやはり韓国を通っていたんでしょう。

筑紫

そうです。そして、韓国の港、港にボスがいるのですね。こちらも奴国(なこく) のボスですから、そのボスとボスの間に連携がないと、貢物を奪われてしまう。平坦ではない当時の外国航路をどうやってたどっていったか、想像しただけでも面白いですね。

元石

そのころは日本はまだ統一王朝がなく、文字も、鉄器もまだという弥生中期でしょう。せっかく金印をもらっても、ありがたみがわからなかったのでは……。

筑紫

鉄器はもうあったんです。漢字を常用することはなかったけれど、やはり外交上、上の方のものは漢字を知っていたと思いますよ。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌(ピョンヤン)あたりに置いた楽浪郡を通って、今度は中国の黄河の中流の西安に行くでしょう。通訳もいるし、必要最小限の書類は持っていったと思いますよ。通訳は今の韓国の人たち、釜山か金海付近から平壌の人たちが通訳してくれたんだろうと思います。

西島

そういう面でいいますと、博多は、大陸文化に直結した文化圏だったわけですね。

筑紫

そうです。その当時、博多以外に美しい文明の色を塗って可能なところはない。西島さんの絵でいったら、いちばんに博多を明るい色で塗っていいと思います。ほかのところはさっばりわからない。

同型の金印が中国で発見

筑紫豊氏

元石

金印のよみかたも、いろいろあったときいていますが……。

筑紫

そうなんです。南冥先生は「カンノイトコクオウ」と読まれたのですが、明治20年代に、三宅米吉博士(東京帝室博物館長)が「カンノワノナノコクオウ」と読み、これが定説になっています。
南冥先生は姪浜の人で昔の伊都国(いとこく) が近いので、イトコクオウと読んだのでしょうが、イトコクの「イ」はア行のイ、倭と書いて「イ」と読むときはワ行の「ゐ」ですから、全然「音」が違うわけですね。
学習院大学の大野晋先生は、「奴」は前漢以前はNAGと発音したのが、後漢の時代にはGが抜けてNAと発音するようになっていた。ですから、「ワノナノコクオウ」と読むのが正しいといっておられますね。

西島

金印贋物説もあるそうですね。

筑紫

とにかく記録にのってから発見されるまで約2千年たっているわけで、その間のことは、さっぱりわからない。
南冥先生も金印の弁を書いてますが、だからといって本物だというわけにはいかない。いろいろの説が出てくるのも当然ですね。
海音寺潮五郎さんも、奴国の使節が2月に行って、3月には光武帝が死んでいる。天子が重病で大さわぎのとき金印をつくったりする余裕はないはずだと西日本新聞に書かれていました。
しかし、九州大学の岡崎敬教授は、「金印というと我々は大したもんだと思っているけれども、中国の天子ともなると、こういうものをいくつも作っている。彫らせるだけだったらいくらも時間がかからない。諸国の王が来たときに、これを彫らせて授けた。そういうことで、贋物、本物というのはおかしい」と言っておられます。
それに戦後になって、中国で金印をささえる有力な発見があったのです。
司馬遷の撰んだ『史記』に、雲南省の石寨(せきさい)山のところに「てん(てん) 」という国があって、そのてん王が西暦紀元前109年に漢の武帝から金印をもらった、と載(の)っています。
それがたまたま戦後の発掘調査で雲南省の1世紀頃の古墳からひょろっと出てきたんです。それとこちらの金印と比べてみると大きさも同じ。漢尺でちょうど1寸です。メートル法では2.3センチメートル強ですね。てん王印は「てん王之印」と彫られていますが、つまみのデザインも同じですね。

元石

やはり、蛇のつまみですか。

筑紫

そうです。違うのは彫られている文字だけです。

西島

「漢」というのがついてないんですね。

筑紫

「てん王之印」と彫るのは、中国域内の小国。漢委奴国王と長たらしく難しく彫るのは、海外から朝貢にやってきた国の王に対する別格の賞めの言葉なんですね。

発見されたのは志賀島で

西島先生

西島

志賀島とのむすびつきは、どうしてでしょうかね。

筑紫

いろいろ言われてますけれど、私は、そこが原始的な「わたつみ」(海を支配する神)を祀(まつ)った、奴の国王の祈願所ではなかったかと思うんです。
だから志賀島で金印がでてきた、というのは海神に捧げ、奉納したものではないかと思うんですよ。我々の祖先の意気ごみ、信仰が現代人とは違うということでしょうね。

西島

宗像の沖ノ島から多くの宝物が発掘されましたね。

筑紫

沖ノ島の宝物は5、6世紀から9世紀までに、朝鮮や中国からの第1級品を大和朝廷が手に入れて奉納したものです。沖ノ島は大和朝廷が朝鮮進出や中国往来のたびに、軍船の勝利や船舶の安全を祈った国家的な祭祀場だったのだろうと言われています。

元石

ところで、〝奴国″は、どこらへんなんでしょうか。

筑紫

那珂川流域のこの辺一帯、志賀島をシンボルとして博多湾を抱いた、福岡都市圏が奴国であると思ったら間違いないですよ。
奴国王がいたところは、考古学者の間でも歴史学者の間でも、福岡市のとなりの春日市の〝須玖″のあたりじゃなかったか、と言われています。〝須玖遺跡(すくいせき) ″というすばらしい遺跡がありますね。

金印は我国の最古の文字

元石昭吾

元石

黒田家に金印が収められて、どのように保管されていたのですか。

筑紫

東京の黒田家に金印を受け取りにいかれた学芸員の田坂大蔵さんのお話では、金印は黒檀の台座におかれて、上から黒檀のふたをかぶせ、白色の袋に入れて表に金印と書かれた桐箱におさめてあった。黒田家で非常に大切に保管されていたんですね。
今度、この美術館に金印を呼びもどそうというときに、国がなかなか承認をしない。成田に国際空港をつくったので、歴史民俗資料館みたいな博物館をつくって、その目玉に金印を考えていたんですね。
千葉県にもっていくなんてもってのほかだ、と思っていたところ、そこは亡くなられた最後の殿様である黒田長禮(くろだながみち) さんが「金印は福岡にあるべきもんだ」と遺言された。おかげで金印が戻ってきたんですから、ありがたいですね。

西島

おかげで、福岡市博物館の目玉になって、里帰りできたわけですね。

筑紫

そうです。金印の貴重さというか、値打ちはすごいものです。金印は中国の文字で書かれたものですが、我民族に関係のある文字の中では、1番古いんですね。書かれたもので金印よりも古い文字はないんです。
日本の歴史を語る人が、古事記や日本書紀にしばられていることがあります。古事記日本書紀から抜け出るのは、非常に難しいでしょうが、あれは8世紀の書物、金印は1個ですが一世紀(57)のものです。値打ちが違いますよ。おそらく、単独の国宝の中では、金印が1番小さいでしょうね。1番小さいけど、1番光を放つものですね。

日の本一の名槍「日本号」

筑紫

さて、槍の話なんですが、博多駅前に黒田武士の銅像がありますね。黒田家の重臣の母里太兵衛(ぼりたへえ) が槍を持っていますが、その槍が今度戻ってきた名槍「日本号」です。(福岡市博物館所蔵)

西島

さっそくその名槍を見てきたのですが、あんなに椅麗な美しいものだとは思いませんでした。ちょっとぐらい錆びているかなと思ったんですが、まるで、この頃作ったもののように椅麗ですね。それに、また長いですね。

筑紫

30センチ以上の穂先を持つ槍を「大身の槍」というんですが、日本には、この大身の槍は3本しかないといわれています。「日本号」は穂先の長さが79.2センチ、全長3メートル96.9センチという堂々たるもの、実にすばらしいものですよ。

元石

いつ頃、だれがつくったのですか。

筑紫

室町時代に作られた名槍ですが、作者がわかっていない。だからあれだけのものですが重要文化財の指定にもなっていないのは惜しいですね。
母里太兵衛に渡った経路が本当だとすると、大したものですよ。もともと正親町(おおぎまち)天皇[(在位弘治3年(1557)~天正14年(1586)]のものだったというんですからね。
それが、室町幕府15代将軍足利義昭に下賜され、織田信長豊臣秀吉、そして福島正則、それから母里太兵衛の手に入ったというんです。

西島

太兵衛が、正則から飲み取ったという伝説ですね、あれは本当ですか。

筑紫

面白い話ですね。殿様の黒田長政の使者として福島正則をたずねたところ、御苦労、1杯やれと酒を勧められた。母里太兵衛は豪傑で酒も強い。長政から、今日は酒をつつしめと言われているもので飲めませんと言う。飲め、飲め。飲めませんのやりとりのあと、正則が大杯に満々と酒をつがせ、これを飲んだら所望のものを何でもとらせるといった。
太兵衛は、それまで言われるならと見事に飲みほして、「太閤殿下(秀吉)拝領の、その名槍を」といったのですね。武士に二言はないので、正則は手離す。文禄年間伏見城でのことです。

西島

あの槍は、実戦的なものではなくて、装飾的な槍だったんでしょうね。柄(え)にあんなにきれいに竜が彫ってありますからね。

筑紫

あれは身辺において威儀を正すものですよ。柄は大粒の青貝の螺鈿(らでん)です。倶梨伽羅(くりから)竜王の彫物が素晴しいですね。

西島

倶梨伽羅竜王というのは……。

筑紫

隆魔の剣を持つ不動明王の化身です。剣に竜が巻きついた図が穂先の掻(か)かれた樋(ひ)の中に彫ってあります。穂先にかぶせる鞘(さや)の長さは87.6センチで、中央に母利家の釘抜(くぎぬき)の紋があります。なにかの絵で「升型(ますがた)」の紋が描いてあるのを見ましたが、あれは間違いで、本当は「釘抜」の紋です。
母里太兵衛の菩提寺である嘉穂町の小隈の麟翁寺(りんおうじ)の紋も釘抜です。

西島

そうすると、紋は槍をもらったあとでいれたんですね。

筑紫

そうです。あとで鞘を作ったんでしょうね。

元石

母里太兵衛は、「ボリ」と「モリ」。どちらが本当ですか。

筑紫

「ボリ」が正しい読み方ですね。それでおもしろい話があるんですよ。
幕府から江戸城天守の石垣修理を福岡藩が命じられ、母里太兵衛の采配で見事に竣工しました。そこでいい仕事をしたと、2代将軍秀忠からおほめの賞詞をもらうんです。その賞詞に間違って「毛利」と書いてあった。
それで、太兵衛が帰って、長政に「毛利と書かれましたが、どうしましょうか」と言ったところ、「将軍に披露されたのだから仕方がない。公のときには毛利、内輪では母里にしておけ」となった。 だから太兵衛を描いた絵や人形に、毛利の紋がついてみたり、釘抜がついてみたり、黒田の紋である藤巴(ふじどもえ)がついていたりしているのですね。

西島

釘抜の紋でないとおかしいわけですね。ところで、母里太兵衛の領地はどこだったので……。

筑紫

播州出身で、筑前入国後は上野(あがの)のすぐ近くの鷹取城の城主になっています。
ところが嘉穂郡小隈の益富城の城主だった後藤又兵衛が、長政とそりが合わなくなって筑前を退去しますね。それで又兵衛のあとの益富城主になるわけです。冷水峠(ひやみずとうげ)の開通にも、太兵衛の功績があるんですよ。

※名槍日本号は母里太兵衛から後藤又兵衛へ。そして又兵衛の女婿である野村祐直から 野村家に伝えられ、安川敬一郎、黒田家とわたって福岡市博物館に至ったようです。

豪傑だった母里太兵衛

博多駅前にある母里太兵衛の銅像

西島

母里太兵衛は名槍日本号の飲みとりで有名ですが、気っぷのいい男だったんでしょうね。

筑紫

そうですね。体格も良かったようですし、気分が大きな豪傑だったと思いますね。長政に、どしどし諫言もしている。率直で、いろいろ逸話も多い人です。
江戸城の石垣修理で江戸に上るとき、富士山をみて、一同がさすが日本一の山と感心するのですね。ところが太兵衛は、いや鷹取城の背後の福智山(標高900.8メートル)のほうが大きいと言いはる。そんな無理な話はないのですが、「太兵衛どんの富士」といって有名な話ですね。
主君長政の使者として、福島正則と飲みくらべをしましたが、大名への使者は藩を代表する豪傑を起用したのです。母里太兵衛は黒田25騎の1人、でまさに適任です。24騎という人もありますが、長政を入れて25騎です。

西島

母里太兵衛さんは、例の〝黒田節″のモデルになった豪傑ですね。“酒はのめのめのむならば 日の本一のこの槍を のみとるほどにのむならばこれぞ誠の黒田武士”。痛快ですね。

筑紫

酒は飲め飲め飲むならば……と、有名になった今様ですね。原歌は少し違うんです。原歌は天保(てんぽう)年間に高井知定がつくっています。
「のめのめ酒をのみこみて、日の本一のその鑓(やり)を、とりこすほどにのむなれば、これぞまことの黒田武士」、
これが原歌です。それが、現在歌われているような歌詞になり、昭和3年11月にNHK福岡放送局の井上精三さんが「黒田節」として全国的に流して有名になったんです。歌詞の黒田武士をもじって、黒田節にしたのですね。

長政お気に入りの水牛の兜(かぶと)

元石

名槍日本号も立派ですが、美術館にある水牛の兜(かぶと)も立派なもので国の重要文化財ですね。

筑紫

そうですね。あの兜を手に入れた人は、浦野半左衛門勝元という人です。どこで、どうやって手に入れたかというのは、あいまいで霊夢によって手に入れたとなっている。
その兜を、黒田長政に仕えるときに献上するわけです。長政は、この兜が非常に気に入っていたようです。だから、まったく同じものを作って浦野家に与えたんです。その浦野家というのは、明治維新直前、勤王の志士たちに慕われた野村望東尼(ぼうとうに) の実家なんですね。

西島

平尾山荘の望東尼さんの…。

筑紫

ええ、その望東尼が、娘時代に「林」という家老のところに行儀見習いに行っていたのですが、家が火事だというので、とんで帰る。そして、1番に聞いたことは、「水牛の兜(かぶと)は無事か」だったのですね。
これが、非常に評判になった。浦野の娘は火事だと聞いて、自分の衣裳などでなく、殿様拝領の浦野家代々の家宝の「水牛の兜」は無事かと聞いた、立派な武士の娘だと評判になったわけです。それで藩はまた同様の模造品の兜を作って与えるわけです。
望東尼は慈母のように優しい女性だと言われてますが、1代の風雲児高杉晋作を山荘にかくまうほどですから意志の強い面もあったようです。自分は、黒田家家宝の水牛の兜と縁のある家の娘である、という自尊心があるわけですね。

西島

水牛の兜は、子供の頃、お菓子のレッテルなどで見ていました。実物をじっと見てきましたが、あの角は水牛の角ではないでしょうね。水牛の角だと重くてとても戦えない。

元石

新聞には桐に漆(うるし)を塗ったものと書いてありましたよ。

筑紫

そうでしょうね。しかし戦国の英傑、黒田長政が愛用しただけに立派な兜です。重要文化財で、室町末か桃山時代にできたものでしょう。

西島

私も絵を描くのに兜をたくさん見ていますが、日本の兜の中であんな大きな水牛の角になっているのは、あれ1つでしょう。

筑紫

昔、『少年倶楽部』の付録で関ヶ原の合戦の絵巻物があったんです。それを今でも持ってますけど、その絵巻では黒田長政はこの兜で奮戦していますよ(笑)。

元石

鎧(よろい)着て、あの兜をかぶって出陣すると敵も味方もほ一っと思うでしょうね。

筑紫

そりゃ、大将は堂々として、やはり威儀を整えていなければならないですからね。

司会

今日は郷土のほこりのお話をいろいろとありがとうございました。

「金印」、「名槍日本号」、「水牛の兜」は福岡市早良区百道浜3-1-1 福岡市博物館所蔵

筑 紫豊 氏 略歴

明治37年(1904)福岡市箱崎に生まれる。福岡中学(旧制)・国学院大学卒。県の文化財・民俗資料の発掘保護、地域に即した記紀・万葉・古代史の研究、地域の歴史文化の啓発、普及に貢献した。著書『筑紫万葉抄』『元寇危言』など多数。昭和57年(1982)逝去。享年77歳。