No.7 博多の仙厓(せんがい)さん

対談:昭和54年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 三宅酒壷洞(しゅこどう)氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
九州総合信用株式会社 社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


仙厓さん 年譜

仙厓さんは学識と高徳で知られている博多聖福寺のお坊さんです。
武士にも庶民にも敬慕され、東の良寛さんと対比される方ですが、味わいのある絵や書とユーモラスな逸話の多いこと でも知られています。

仙厓さんの逸話

その1 困らせもんの岩根

どうもこうもならん人困らせもんの「岩根」という大酒のみがいました。誰も相手にしない嫌われものでしたが、とても親孝行だったので、仙厓さんは、だまされて酒代になることを承知で絵を描いてやり、「酒(しゃ)か如来(にょらい)頼みます。毎日毎日5斗を祈るがおれが願いだ、たこぼうずどうか」と賛をして書き与えておられます。葷(くん)酒山門に入るを許さずと言いますが、仙厓さんは酒が好きだったらしく、ある人から酒をもらい、「いま、チビリチビリやりよる」といった内容のお礼の手紙が残っています。

その2 百姓ばんざい

仙厓さんは、お百姓さんを非常にかわいがっています。「との育ち 大ものこくな 鼻の下は誰が養ふか」、上品な育ち方をしている連中が大きな口をきいてはいけない。誰が食べさせてくれるのかと、お百姓さんばんざいの絵を残しておられます。

その3 親死ね、子死ね、孫死ね

おめでたい言葉を、とたのまれて、仙厓さんは、「親死ね、子死ね、孫死ね」と書かれましたから、相手は、これがなんでめでたいかと腹をたてました。仙厓さんは、「親が死んで、子が死んで、孫が死ぬ、順番どおりにいくことが人間にとって1番めでたいことだ」と言われたので、相手もなるほどと喜びました。

その4 花嫁さんへ

娘さんの結婚祝いにと頼まれて、「死ね、死ねと、言うまで生きよ、花嫁ご」と書いておられます。相手が縁起でもないというと、「この婆さん、たいがい死んだらどうか、と言われるまで長生きしなさいということだ」と言って、仙厓さんは大笑いされました。

その5 わたしも商売着で

博多出身の日本画家として著名な富田渓仙(とみたけいせん)の祖父にあたる富田久右衛門は、「素久さん」と博多の人から親しまれていた素麺屋(そうめんや)ですが、できたてのボタ餅を仙厓さんに食べさせようと、粉がいっぱいついた仕事衣を着たまま隠居所の虚白院(きょはくいん)にとどけに行ったところ、仙厓さんは「ちょっと待っときなさい」と、法衣に着替えてきて、うやうやしく頂戴されました。びっくり顔の素久さんに、仙厓さんは、「あんたが商売着を着ていなさるから、わたしも商売着を着て、ありがたく受けないと失礼になる」と答えられたそうです。

その6 竹の子どろばう

蚊帳(かや)を泥棒に持っていかれて困っている仙厓さんを見かねて、近所のお婆さんたちが小銭を出しあって蚊帳を買ってあげることにしました。すると、仙厓さんは、白地の蚊帳にしてくれといわれたので、お婆さんたちが縫って持っていくと、その白蚊帳に幽霊の絵を描いて、これならもう誰も持っていかんだろうといわれました。
仙厓さんは近所の悪童たちとも仲良しでした。虚白院の竹藪に生える竹の子を悪童たちが盗(と)りに来る。そこで、仙厓さんは猿が股から竹の子をのぞいている絵を描いて、「またから竹の子取らさるな」と書いてあたえられました(「またから」というのは博多弁で、二度と、という意味)。

その7 夜遊び弟子

仙厓さんの弟子の湛元(たんげん)という人が、よく夜遊びに出かけていたんですね。仙厓さんは、そのことを知っておられたけれど何も言われない。そしてある晩、湛元が乗り越えて出入りしている塀のま下で、座禅をくんで待っておられました。夜おそく帰ってきた湛元はそんなこととは知らず、おまけにまっ暗闇。ちょうどよい踏み台があると、仙厓さんの頭を踏んで飛び降りました。
あくる朝、湛元は仙厓さんの頭に下駄の「二」の字のあとがくっきりついているのに驚きましたが、 知らぬ顔して「頭のきずはどうなさいましたか」とたずねました。仙厓さんは、「昨晩、わしが座禅している頭の上を、盗人(ぬすっと)と猫がウロチョロしよったわい」と言って、一言も叱られなかったので、湛元はそれから心を入れかえ、聖福寺(しょうふくじ)一山の風紀が改まったといわれています。

越後の良寛さん博多の仙厓さん

小山

とても面白い逸話ですね。2百年ぐらい前、聖福寺の住職をされていた、絵の上手な、洒脱(しゃだつ)なお坊さんということで知られていますが……。

西島

知られてるようで、案外知られてないんですよ。書や絵や俳句をたしなむ人や、仙厓さんの作品が好きな人は、「こんな偉い坊さんはいない」とぞっこん惚れですが、博多でも仙厓さんを知らない人も多いんじゃないでしょうか。

三宅

そうですね。仙厓さんは、寛延3年(1750)、美濃国(みののくに)(岐阜県)武儀(むぎ)郡南武芸村に生まれ、天保8年(1837)に88歳で亡くなられた方で、博多の名刹聖福寺(めいさつしょうふくじ)の住職を、第123世と第125世と、2度のおつとめをされた禅宗のお坊さんです。遷化(せんげ)(亡くなる)されるまで、1000点以上の絵や書を残しておられます。

西島

私は子どもの頃、聖福寺で遊んでいましたので、仙厓さんの絵をどこかで見ていたのでしょうか。とにかく大好きです。
仙厓さんの絵が、博多の気性にぴったりなので、博多生まれの人だと思ってたんですが、途中から聖福寺に来られたのだそうですね。

三宅

博多に来られたのは39歳のときで、88歳で亡くなられるまであしかけ50年間博多で過ごされていますので、美濃(岐阜県)生まれですが、「博多の仙厓」で知られています。

小山

だいたい良寛さん(1758-1831年)と同じ世代ですね。越後(えちご)の良寛さんも、書をよくし、子どもと遊んだり、逸話の多い人ですが、東と西で似たような存在ですね。良寛さんはよく知られているのに、仙厓さんはそれほどでもない、残念ですね。

三宅

どちらも偉いお坊さんですが、仙厓さんは、禅僧として本格的な修行をつまれていますから、修行や学識の面では、仙厓さんの方が上だったでしょう。ただ、ゆきつくところは同じで、どちらも市井(しせい)の人たちに親しまれ、自分の絵や書、歌で、また、それ以上にご本人の生き方で周囲を教化された、立派なお坊さんですね。良寛さんは、相馬御風(そうまぎょふう)さんが昭和初期に紹介したりしてよく知られてきましたが、仙厓さんも、これから敬慕する人が増えてくると思いますよ。越後の良寛さん、博多の仙厓さん、いい対照ですね。

感心されたいたずらがき

三宅酒壷洞氏

小山

確か一刀彫の円空(えんくう)も美濃生まれでしたね。

三宅

そうです。明治の初め頃までは、百姓の子で、それも長男以外に生まれると、美濃の山国では禅宗の僧になる以外に、出世の道はなかったんですね。だから、仙厓さんも11歳のときに、美濃の清泰寺(せいたいじ)の空印(くういん)和尚のもとで出家し、19歳のときに今の横浜保土ヶ谷(ほどがや)にあった東輝庵(とうきあん)の、月船(げつせん)和尚について修行されていますが、この修行が、のちの仙厓さんの形成に大きな影響を与えているようです。

月船和尚は非常に厳しくて、仙厓さんは「毒月船」と書いているほどですが、たいへん立派な人で、名誉や世俗のことは一顧もせず、横浜保土ヶ谷の東輝庵にこもってひたすら修行の一生を終わっておられ、この方の教育を受けたことが、仙厓さんにたいへん影響しているようですね。
この頃すでに仙厓さんに絵心があったことを示すおもしろい逸話が残っています。ある日、仙厓さんは庭掃除を命じられ、ほうきではいていたんですが、そのうち砂の上に、月船和尚が大口をあけて雲水を叱りとばしている絵を描かれた。すると、月船和尚が「おまえ、ちょっと谷から水をくんでこい」と命ぜられたので、仙厓さんは落書きを消す間がなく谷に水をくみに行かれた。その落書きを月船和尚が見て、「臨済一喝(りんざいいっかつ)」(臨済禅師が叱りつける)の絵と勝手に解釈して、非常に感心するわけです(自分の特徴をとてもよくとらえているので感心したという説もあります)。そして、仙厓さんを部屋に呼んで「今度は紙に描け」と命じられ、仙厓さんも仕方なく描いたというんです(笑)。
東輝庵時代に「上東輝老師(トウキロウシニタテマツル)と題する仙厓さんの次のような偈(げ)(詩)があります。「釈迦入滅二千歳(しゃかにゅうめつにせんさい)、弥勒下生億万年(みろくげしょうおくまんねん)、今日(こんにち)端(はし)なく相見(しょうけん)しおわる、従来鼻孔唇辺(じゅうらいびこうしんぺん)に搭(か)かる」
お釈迦様が死んで2千年、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、お釈迦様が死んで56億7千万年ののちに、お釈迦様に生まれかわってこの世に出てくる。ところが、今日、自分は、はしなくもそれを見ることができた。昔から人間の鼻孔は口唇の上にあるじゃないか。
この偈で、仙厓さんは師の月船和尚から印可(いんか)(師が弟子の悟徹を認証すること)を得られたのです。

小山

その偈は何歳のときに作られたものなんですか。

三宅

30歳前後のものでしょう。仙厓さんの偉さは、この頃できたんじゃないかと思いますね。
仙厓さんが32歳のときに、月船和尚が亡くなられたので、東輝庵を出て全国を行脚(あんぎゃ)してまわられ、そしてはじめて出家されたお寺である美濃の清泰寺に帰られるわけです。ちょうどその時清泰寺は和尚が亡くなっていて、誰を後任の和尚にするかという問題が起こっており、それでは仙厓さんをという話がもちあがったのです。ところが、河村甚右衛門という飛騨代官の家来が、「仙厓は百姓の子ではないか。武士のわれ等が仙厓を和尚にして頭を下げるわけにはいかん」と猛反対したので、仙厓さんは再び東輝庵に戻られました。
これも話として残ってるんですが、仙厓さんが美濃に戻って大垣のある寺に住まわれた。ところが、大垣藩の財政が非常に乱れて、庶民が苦しんでおり、財政主任の家老がたびたび替わるので、「よかろうと思う家老が悪かろう、もとの家老がやはりよかろう」と、門前に貼紙をされた。藩では「生意気なやつだ。追放しろ」ということになった。禅宗坊主はからかさ1本で追い出されますからね。そこで、「からかさを広げてみれば天が下、たとえ降るともみのは頼まじ」という1首を残して大垣を離れられた、というんです。

日本最初の禅寺の住職がほこり

三宅

横浜で拙誠などの兄弟子たちについて更に修行を積み、それから京都に出て、京都から聖福寺に来られるわけです。一説では、「九州の景色がいいから来んか」と言われ、「そんなら行ってみようか」ということで、聖福寺に来られたようになっていますが、由緒あるお寺の住職になることは、そんなに簡単なものではないんです。私たちがお嫁さんをもらうように、仲立人を通じて成立するのです。本山妙心寺塔頭(たっちゅう)(祖師の墓があるところ)、雲祥院、大珠院の推薦で、当時の聖福寺の和尚であった盤谷(ばんこく)和尚が、自分の弟子に仙厓さんをほしいと、仙厓さんの受業の師空印和尚の許しを得、仙厓さんも承諾されて、39歳の春に博多に来られたのです。

小山

来られたときは、どんな位だったのですか。

三宅

雲水(うんすい)ですね。のち住職になる転位の式を、本山妙心寺であげておられます。

西島

盤谷の弟子として来られて、聖福寺の住職になられたのは、いつ頃ですか。

三宅

40歳の正月です。39歳の春に聖福寺に来られて、約半年ほど住職見習をされて、40歳の正月元旦に聖福寺住職として法堂(はっとう)(仏殿)に上がって説法をされています。

西島

禅師になられたのは、いつ頃ですか。

三宅

普門円通禅師と申しますが、これは亡くなられてからの追贈です。生前に3回、禅僧として最高の位に与えられる紫衣(しえ)(紫のころも)を受けるように勧められているのですが、「そんなものはいらん」と黒衣の座元(ぞけん)のまま亡くなられています。紫衣の禅師号などは問題にしていないわけですね。そんなものよりも、日本で初めてできた禅宗寺院の聖福寺の和尚であることが、本山である妙心寺の和尚であるよりも名誉だ、という誇りがあったようです。それで、仙厓さんの絵を見ると、「扶桑最初禅窟仙厓」と書いたものが沢山あります。扶桑というのは日本のことで、日本で最初の禅寺の住職、仙厓ということを誇りにしておられるのですね。

タダで書いてやった仙厓さんの絵

西島伊三雄先生
小山 泰

西島

仙厓さんの描かれた絵は、とてもわかりやすいですね。このお坊さんは、文盲の人たちや平民にわかりやすい絵を描いて、布教していかれたんでしょうね。

三宅

仙厓さんの頂相(ちんそう)(禅僧の肖像画)を見ますと、その賛(さん)に「衆と共に作息(さそく)す(生きている)」と書いてあります。また寡言(かげん)だったとも書いてありますから、お説教は下手だったんじゃないでしょうか。西島さんが言われるように、絵は大衆を教化するための手段として描かれたのではないかと思います。それで絵に賛があるのが仙厓さんの特徴です。
仙厓さんの絵は、今でこそ何百万円もしますが、みんなタダで描いてやってるんです。現在聖福寺は立派なお寺ですが、たびたびの戦火で焼けて当時は、豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前の名護屋に建てた古い陣屋をもらってきて、お寺としていたんですよ。だから、仙厓さんの時代には、雨が降ると雨もりがして葬式もできなかったという記録が残っています。仙厓さんの遺されたもののなかに、「聖福寺復興」ということが書かれています。どういう方法でするかというと、藩の許可を得て、自分が勧化(かんげ)(寄付を集めること)して建てたいというんですね。自分の絵を金に変えて、聖福寺再建をはかるなどは考えつきもされませんでした。

小山

仙厓さんの絵は、何派ということになりますか。

三宅

しいてルーツというと狩野派でしょうが、円山四条派(まるやましじょうは)の影響もある秋月藩のお抱え絵師斉藤秋圃(さいとうしゅうほ)とは、親交があり、絵を学んだと言われています。いわゆる仙厓らしい絵を描くようになったのは、62歳で虚白院に退休されてからで、これから以後を仙厓流と言えるでしょうね。私は、仙厓さんが65歳のときに描かれた「宮崎八幡宮玉せせり図」を持っていますが、これは仙厓流に少しくだけてきていますよ。

西島

私は、くだけた絵を見てきたせいか、ほんとに博多っ子の気性が出てるなあと思っていました。わかりやすく、体裁ぶらなくて、なんでもかんでも生で描いてありますからね。

三宅

博多の土地柄として、禅宗を大衆にわかりやすく教化するためには、絵描きらしくしてたんでは大衆教化はできませんからね。73歳のときに、公式に「自分の画法は無法だ」と書き残されています。私の画法は無法であるけれども、本来仏の道は無法をもって法とするのではないか、というのが仙厓さんの悟りだったんではないかと思います。それで、法のためには、金で売るようなことをしたらいかん、という気持ちがあったんでしょうね。

西島

仙厓さんの真似をして描いてみようとしても、とてもあの味は出ませんね。禅の心というのか、心が統一されないと描けないものでしょうね。だから、私も80過ぎて、ひょっとして生きていたら、こんな絵が描けないかな、といつも思っています(笑)。

三宅

西島さんのような考えじゃなくて、この頃は評判なものですから、紙に古色を出したりして、ずいぶんニセモノも出回っています。ところが、絵にそえてある賛語が書けないんです。読めないわけではないんでしょうが、嘘字が書いてある。仙厓さんのものは、絵もいいけれど、書がいいですからね。

西島

書は心を映すんですねえ。

三宅

そして、仙厓さんの書にしても、絵にしても、型で決められないまったく天衣無縫ですからね。

小山

書と絵とでは、書の方がいいんですか。

三宅

書の方がいいですね。

小山

私は絵はあまりわからないのですが、仙厓さんのものを拝見しますと、墨絵の筆勢が伸び伸びしてますね。

三宅

そうですね。仙厓さんが絵をかくことが好きだというのはまちがいないようで、よく墨の味を知っておられたようですね。

もう絵は描かんわい 83歳で絶筆宣言

小山

仙厓さんの魅力はどんなところにあるんでしょうか。

三宅

ひとくちに言って、やはり人間的魅力じゃないでしょうか。仙厓さんの徳や人柄にひかれて、各宗の坊さん、神官、学者、武士、町人、百姓などが、「仙厓さん、仙厓さん」と慕ってどんどん集まってきていますね。

小山

庶民とのふれあいは浮かんできますが、黒田家とはどうだったんでしょうか。

三宅

仙厓さんが黒田家と仲が悪かったという人もいますが、そんなことはなかったと思いますよ。黒田長政の2百年祭のときに、学者の亀井南冥(かめいなんめい)や二川相近(ふたかわすけちか)など偉い人たちをさしおいて、仙厓さんに長政2百年祭の祭文を書かせています。
それに、仙厓さんが亡くなられた1年後に、当時江戸在勤の殿様が仙厓の霊前に参りたいが、足の痛みで参られないので、家来2人に直筆の写経等を持たせて代参させているほどです。こういうことから考えると、黒田藩も仙厓さんの偉さを認め、優遇したのだと思いますよ。それに、聖福寺は黒田藩の菩提寺ではありませんが、寺領として2百石を贈っています。菩提寺である崇福寺の3百1石につぐ扱いですからね。
だいたい黒田藩は、聖福寺を菩提寺にしたかったらしい、という話もあります。ところが、当時の聖福寺の和尚がいばっていて、「なんばいいよるか。黒田は成り上がりの殿様じゃないか。聖福寺は御朱印地以上のお寺だ。なんで成り上がり者に頭を下げられるか」というわけです。聖福寺が衰微するのは、いろいろな原因がありますが、結局は、黒田藩に対する認識が足りなかった。つまり、時代の移りかわりについていけなかったからではないでしょうか。

西島

ところで、仙厓さんには誰もが気軽に絵を描いてもらったのでしょうね。

三宅

博多の者の悪い癖で、タダより安いものはない、と描いてもらってますからね。仙厓さんは、「うらめしや、わが隠れ家は雪隠(せっちん)(便所)か、来る人ごとに紙おいていく」と書いたものもあります。

西島

ほう。すると、みんな紙だけはもって行って描いてもらったのですね。

三宅

そうでしょうね。

西島

紙は上等紙ですか。

三宅

絹、紙といろいろありますが、仙厓さんのもので1番多いのは、土佐の白唐(はくとう)紙です。83歳のとき、「もう絵は描かんわい」と絶筆の碑を建てられたのが、現在、虚白院の前に残っています。

小山

どんな内容ですか。

三宅

「墨染の袖の湊(みなと)に筆捨てて書(かき)にし愧(はじ)をさらす白波」というものです。書画の揮毫をやめるつもりだったんでしょうが、でも、やはり好きな道はやめられず、結局死ぬまで描き続けておられます。断ってもつぎつぎに頼みこんでくるのでやめられなかったのでしょうね。そんなわけで、人情に落ちるとも書いておられますね。自分は好きで絵を描いている。物書きじゃないけれども人から頼まれるとしょうことなし……と、言いながら描き与えておられます。

西島

号がいろいろあるんですね。

三宅

ここがまた、仙厓さんの絵を鑑定するときの泣かせどころですが、落款が約70あるんですね。仙厓叟(そう)、厓公、百堂、狂厓陳人、無法者、莫妄想、風狂山人、退歩などと、これまた天衣無縫で、自在の境地ですね。

仙厓さんの作品

<ゆばり合戦>

龍門の滝、見ろ見ろ
厓まけた、まけた

龍門とは同時代の知識人松永子登のこと。 子どものようなおしっこ競争をして、勢いで仙厓さんは負けた負けたといっているが、しかし、 おとし場所は仙厓さんが決まっていて、本当は自分の勝ちといっている。

<大黒天>

大黒を祈るなら
博多ごまの糸わたり
手もとを下げれば
此方へまいる
手もとをあぐれば
にげていく
ちがわぬ ちがわぬ

無心に祈れば大黒はきてくれるが、そうでなく高うとまれば逃げていく。

仙厓の画は数多く頼むと
とてもそまつな

たくさん頼むと粗末に描くから頼まないほうがいいよ

<絶筆の碑>

墨染の袖の湊に筆捨てて
書にし愧をさらす白波

ハイカラな仙厓さん

小山

仙厓さんは、どんな風貌だったんでしょうか。

三宅

男ぶりは悪かったらしいですね。「四国猿の干(ひ)ぼし」と自分で言っておられたぐらいですから……。

西島

体型はどんなだったんでしょうか。

三宅

小さかったようですよ。5尺(150センチ)そこそこぐらいだったんじゃないでしょうか。
聖福寺に仙厓さんの袈裟(けさ)が残っていますが、黒の金襴で、もう、ボロボロですね。中を見ますと木綿糸でつぎがあててある。倹約をとおりこしていますね。でも仙厓さんは質素な方だった反面、なかなかハイカラなところがあって、48歳のとき、当時としては珍しい望遠鏡を買ってますよ。
いつまでも、考えの若い人だったらしく、79歳のとき曲馬、いまのサーカスを見て感心した話を残しておられ、85歳のときは、博多で興行された大相撲を見にいって、絵に描いておられます。 88歳で亡くなられたのですから、たいへんな長命ですが、元気な方だったらしく、年譜をくってみると、66歳、68歳、69歳と3回も宝満山に登っています。74歳のときは、故郷の美濃をたずね、76歳のときは京都へ行っています。今の便利さと違いますから、たいへん元気で、意志の強い人だったのでしょうね。
仙厓さんで見落としてならないことは、学問の人で、稀有(けう)の学僧だったことです。残されたものを見ても、それがよくわかります。洒脱(しゃだつ)さや、画僧としての評価が高くて、この面がよく知られていないのが残念ですね。

小山

だいたい仙厓さんの輪郭がわかってきましたが、先生が長年仙厓和尚を研究していらっしゃるのは、どういうところに魅かれておられるのでしょうか。

三宅

郷土史に興味を覚えてやっているうちに、一般に言われている仙厓と私の考えている仙厓と違うわけですね。画僧と言われているが違うんじゃないか。絵の専門家だけでは、これだけのものは描けませんからね。それに、私の仙厓観と、聖福寺の第130世住職であった戒応(かいおう)老師との仙厓観とが合って、世の中に画僧のように言われている仙厓さんのイメージを変えよう、禅宗の坊さんとして、教化のために絵を描かれたんだ、ということを世の中に知らせようというのが最初で、それで『仙厓語録』を出版するようになったのです。

小山

たとえば、「聖僧」などという呼び方もありますが、仙厓さんを一言で言い表わすとどうなりましょうか。

三宅

庶民と生きる禅僧ですね。そうなると、「博多の仙厓さん」が1番いいと思いますけれど……。

小山

どうもありがとうございました。

三宅酒壷洞(みやけしゅこどう)氏 略歴

本名三宅安太郎。明治35年5月福岡市博多に生まる。福岡市文化財保護審議会専門委員。『仙厓和尚年譜』『仙厓和尚語録贐睡餘稿』『博多と禅僧』『博多と仙厓』その他の著がある。昭和57年4月没。(79歳)。