No.8 博多どんたく

対談:昭和55年4月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地方史研究家 江頭 光氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 元石 昭吾

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


大にぎわいの博多どんたく

元石

博多の五月といえば、なんといっても「どんたく」ですね。

江頭

どんたくは、5月3日・4日の2日間、正式には「福岡市民のまつり 博多どんたく港まつり」という長たらしい名前がついていますが、「博多どんたく」で全国に知られていますね。
祭りが好きな土地柄で、商店街の舞台からパレードから何やかやいれると、だいたい10億円の規模になって、日本一のお祭りなんですよ。
どんたくのいちばんの見せ場は、3日の午後1時から行われる大パレードでしょうね。博多駅前の福岡相互銀行本店の横から天神の西日本新聞会館横まで約1.9キロを、パレード隊がそれぞれに工夫をこらして練り歩くんです。それから、天神のスポーツセンターがどんたくの中央本舞台になって、余興隊が全部出ますから、ここで見るのが一番いいかもしれませんね。

 

元石

大パレードには、どのくらいの人が参加しているのでしょうか。

江頭

約300団体、3万5,000人です。午後1時から次々と出ていくんですよ。だから、最後の組の出発は5時過ぎますね。
見物客もだいたい200万人ぐらいですね。どんたくのにぎわいは、18年前に市民の祭りになって「市民の祭り振興会」ができてから、年々盛んになってきましたね。県や市も力を入れて、相談役が知事さん、名誉会長が市長さん、会長は商工会議所の会頭さんです。ですから、おたくの四島頭取は振興会の副会長ですね。

西島

ずいぶんまえに、広島の商工会議所から福岡に「博多は、どうして市民の祭りがあんなに盛大にできるのか、その内容を知らせてくれ」とたずねられて、福岡の商工会議所の一行が広島に行ったことがあります。広島は原爆が落ちて、地元の人たちがいなくなったためか伝統的な祭りがないんですね。大きな祭りは、原爆記念祭のようなものしかないわけで、どうかして市民の祭りを作りたいらしいですね。
博多は、政治もなにもない。みんなの心をひとつにさせる拠り所となって、しかも観光としても成り立つ祭りになっていますよね。

江頭

このどんたくの市民エネルギーは全国から注目されているんですよ。一昨年金沢に福岡から直通便が飛んだときに金沢の市長さんが福岡の武田助役に「黒田は52万石で自分たちは加賀100万石だった。しかし、100年の間に都市の地位は完全に逆転した。この原因は、博多どんたく、博多山笠の持つ市民エネルギーだと自分は思う。たいへんうらやましい」といわれたそうです。この話は、西島さんが副団長になって、サンフランシスコにどんたく隊が行くとき、武田助役が壮行会で披露してくれ、私も感激した記憶があります。

年賀の“松ばやし”がはじまり

元石

ところで、どんたくは、いつ頃から始まったのですか。

江頭

どんたくの原型は松ばやしですが、これが始まったのは室町時代です。現在でも正月には門松をたてるという習慣がありますね。日本人の古い考え方では、正月にはその年の新しい神様が松に降りてくるのです。松ばやしというのは、その松のみどりのめでたさに託して、それぞれの領主に対する年賀の行事として始まったんですね。
永享(えいきょう)2年(1430年)、京都の公家の赤松家で松ばやしが行われたという記録が残っています。その後、天皇家や足利幕府でも行われるようになり、もっと時代が下がると、江戸城でも、徳川将軍家で1月3日に行う謡い初めの儀式を松ばやしといったという記録があります。
九州では、博多のほかに豊後の大友家と肥後の菊池家でも、松ばやしが行われていたようです。それぞれ形態は違いますが、室町の頃、博多に伝わったんだろうと思いますね。

元石

京都で始められて、あまり年数がたたないうちに博多に入ってきたんですか。

江頭

あまりたたなかったと思いますよ。ところが、これが伝わらない地方もあるわけです。当時の博多は明(みん)との貿易が盛んで、たいへん活気のある国際貿易都市で、日本の一流都市ですから、受け皿としての都市的文化、経済力を持っていた。だから博多に伝わったわけですね。それに、その頃の博多は山口の大内氏が領有していました。大内氏というのは、現在でも山口が小京都といわれるように、京都や異国の文化をしきりに自分のところに持ってくる、文化的な殿様だったんですね。だから、すぐれた経済文化圏がこの町にはあったわけですよ。
博多の豪商で有名な神屋宗湛(かみやそうたん)が、『宗湛日記』というのを丹念につけていますが、これが博多に残っている「松ばやし」の一番古い記録ですね。それによると、文禄4年(1595年)の9月、といいますから、まだ黒田氏のまえで、名島城に小早川隆景(こばやかわたかかげ)がいた頃「中納言様(隆景が養子に迎えた秀秋のこと)の希望で、正月のように松ばやしを仕立ててお目にかけた。たいへんご機嫌がよくて、銭50貫をいただいた」ということが書き残されています。年賀行事であるけれども、殿様のおぼしめしで、わざわざ9月にやったわけです。

西島

名島城に行くというのは、何年も続けられたんですか。

江頭

それ以前も、またその後も行われていたんでしょうね。

元石

すると松ばやしの起源は、年賀行事なんですね。

江頭

そうです。正月の年賀行事です。そのうちに風流(ふうりゅう)と結びつき芸能化するわけです。佐賀の「面浮立(めんぶりゅう)」などの浮立と同じ意味で、風流とは、人々がハッとするような、あるいは風情(ふぜい)があるというような意味で、当時の流行語のひとつです。祭りの日にきらびやかな衣装を着たり、鳴り物に合わせて踊りながら歩いたりする。そういう中世の芸能とこの松ばやしが結びついたわけですね。だから、博多の松ばやしは、町をねって歩く祭りの形式の“練り風流”です。

この日ばかりはタブーの解禁

元石

最初は庶民みんなが参加していたのですか。それとも、なにかそういうことを専門にする人たちがいたんですか。

江頭

最初はその家に属する家の子郎党とかいう人たちが始めたのでしょう。しかし、おもしろいというんでみんなだんだん参加するようになったのだと思います。こうして松ばやしは盛んに行われるようになったのですが慶長の頃、まだ名島城に松ばやしがくりこんでいた頃、殿様の使いで馬に乗ってきていた侍と松ばやしがぶつかって、町人が侍を殺してしまうというハプニングがあり、そのことで、この松ばやしが長く中断してしまうんですね。黒田の二代藩主忠之(ただゆき)のときに、この松ばやしを復活させようとするんですが、中断期間が長かったのでおいそれと再開できない。再開できたのは寛永19年(1642)ですね。
宗湛日記には、どういう格好をしていたなどは書かれてないんですが、江戸中期になると『石城志』(せきじょうし)という非常にいい文献が残されています。石城というのは博多のニックネームなんです。港にずっと石垣を築いていたので、海から見るとその石垣が見える。だから中国や朝鮮の人たちは、博多のことを「石城」といっていたんです。

西島

今も石城町がありますね。

江頭

そうです。この石城志によると「この日、津中(市内)の童(わらべ)、男女に綾錦(あやにしき)の衣服を着せ、あるいは、王侯士庶(ししょ)の姿を真似、あるいは遊君(ゆうくん)、白拍子(しらびょうし)の装いに仕立て…」と書いてある。つまり、庶民がたいへん華やかに殿様の姿をしたり、侍の姿をしたり、あるいは遊女の姿に化装したりしたんですね。特に「綾錦を着せた」という言葉は興味があります。
江戸時代では、日頃町人は絹物を着てはいけないんです。ただ、博多の公共事業に功績があった人だけは、絹を着ていいとお許しがあるんですが、それも本人だけで、家族のものは着てはいけない。もし絹を着ているのが見つかれば、表戸を釘づけにして外出を禁じたという厳罰なんですよ。それが、どんたくにかぎり綾錦を着ていいということは、たいへんなタブーの解禁です。町中がわきたった様子がしのばれますね。
また、数千人の人がひきもきらずに町にあふれて、諸国に例のない、藩内ではもちろんいちばんのお祭りで、たいへんにぎわったと書いてあります。

殿様にも遠慮なし 無礼講で大さわぎ

元石

江戸中期といいますと……

江頭

正確にいうと宝暦明和(1751~1771)の頃の文献です。
また別の文献には、お城に入って、いまの舞鶴中学のところに「三の丸」といって殿さまの住まいがあったわけですが、そこに行くと、ハンギリ(大きな桶)に酒がいっぱい入っていて、ひしゃくで飲み放題。それから大書院に行くと、殿様が一番奥に座っていて、その前に重臣たちがズラッと並び、縁側には町奉行と年行司(今で言えば市長のような役割)が座っていて、その前でなんでも言っていい、どんな戯言(ざれごと)(冗談)を言ってもいいということで、「抱腹に耐えざる猥雑(わいざつ)はなはだしきことをいう」と書いてあります。それから、博多の市中に帰って、真夜中まで酒を飲み、酔払って道端に寝てしまったのもいる。まことに泰平のしるしでめでたい、というようなことも書いてあります。年に一度のたいへんなにぎわいだったようですね。

元石

無礼講ですね。

江頭

まったく、そのとおりです。

元石

那珂川をはさんで、町民の博多と武士の福岡が区切られていて、どんたくは町民が武士の圧制をはね返すエネルギーのはけぐちとして始められたようにも聞いてますが……。

江頭

そうですね。逆に言えば、一面では封建制で抑圧された庶民のエネルギーを思いきり発散させるという目的もあったんじゃないでしょうか。
どんたくといえば、すぐ博多にわかを思い出すのですが、あれは、藩の意向で博多の町人衆が播州(兵庫県)伊和明神の「悪口まつり」を見物に行ってから始まったという説、また、どんたくが無礼講で何を言ってもいいお祭りだったので、それからにわかが発生したという説もありますね。いずれにしても、そういうユーモアとか反逆とかいうものが博多の町人気質にはあったんでしょう。

元石

お城の中に無礼講で入っていって、侍とトラブルはおこらなかったんでしょうか。

江頭

そういうことはなかったと思いますよ。「流れ」という町内の自治組織がありますから、そこの長老が流れの恥になるようなことはするな、というと、子ども組、若手組、中老組、年寄りと、このピラミッド関係で、これは、今の県警本部長さんがいうよりも威力があったんじゃないでしょうか。
松ばやしの格好をしていれば、自由にお城の中に入ることができるのですから、1月15日の明け六つ(午前6時)に、上ノ橋御門に全員が集合しているわけですね。殿様や女中の身支度に時間がかかるものだから“ご開門はまだですか”と博多っ子が騒ぎ立てて、門番から“ちょっと待て”と叱られたとか、酒を飲むときのかわらけ(素焼きの陶器)をもらって帰ってもよかったので、それをもらおうと我先に押し合いへし合いしてるうちにかわらけを割ってしまったとかいう、ほほえましい記録も残っています。

ゾンタークから“どんたく”に

元石

うまいこと運んでたんですね。その松ばやしがどんたくというようになったのは、まだまだあとでしょう。

江頭

そうです。明治5年に新政府が、こういう時代に金銭を浪費するのはいけないと、松ばやしも博多山笠も一切禁止するわけですよ。金銭浪費はけしからんというのが理由なんですが、昔からのものは古くさいから、明治御一新でこの際やめてしまえ、という意図があったんじゃないでしょうか。そういう御触れは出ましたが、お盆や、天長節のような国の定めた祝祭日はこの限りにあらずと、但し書きがついたんです。
博多の人たちは非常にがっかりして、毎年、毎年解禁を待つんですが、なかなかお許しがない。そこで博多っ子らしい策略をめぐらすわけです。その頃はまだ市政ではなく区政で、明治9年に博多区と福岡区が合併して福岡区になった。このお祝いを紀元節のめでたい日に町をあげてお祝いしたいと県庁にお願いを出すわけです。合併のお祝いを国の定めた祝祭日にするというので却下するわけにもいかず、さっそく許可されます。それで、明治12年の2月11日に「復活松ばやし」を行うんです。合併祝いという名目で許可をもらった手前、松ばやしだとはいわれないわけで、それで知恵をしぼって“どんたくだ”といって松ばやしをしたわけですよ。それ以来、松ばやしはどんたくになったんですね。

西島

しかし「どんたく」なんて名前をつけた人は偉いなぁ。オランダ語からきたんでしょう。当時は、多分いちばんハイカラな言葉だったでしょうね。

江頭

そうです。オランダ語の「ゾンターク」からで、西洋休日ですね。横浜や長崎を中心に使われたハイカラな流行語ですね。
このときに木版刷りの「紀元節博福祝評判」というタイトルのついた番付表が出ていますが、これによると、博多から引き台が80、福岡から20出ています。たいへんなにぎわいだったようですね。これは「通りもん」と言われるもので、台には飾りがしてあって、その台を引いて、着飾ったり、三味線をひいたり、太鼓を鳴らしたりして行くわけですね。

西島

その頃、一つのチームはどのくらいの人だったのですか。

江頭

多くて50人ぐらいでしょうね。
その紀元節博福祝評判というのは、引き台の中でどれがよかったという番付になっていて、それを見ると、三福神に敬意を表していちばん上に書いてあります。古老の話を聞いたのでは、中島町の仕立てた長崎の蛇踊りが、だんぜん評判が良かったようです。

招魂祭のときにもどんたくを

元石

初めは年賀の行事として1月、明治になると2月と寒いシーズンにあっていたんですね。

西島

私が子どもの頃は肌寒かった記憶があります。日露戦争以来練兵場が大切になってきますね。招魂祭のときにはこの練兵場がオープンになって、その中にどんたく隊が入ってましたよ。

江頭

明治8年から、お城に第24連隊が入るんです。この24連隊が日清戦争に行って鎮魂祭が始まり、そのあと招魂祭になって4月30日と5月1日になるんです。

西島

招魂祭が華々しくなってくるのは満州事変あたりからでしょうね。

江頭

昭和5、6年ごろの写真を見ると、大きな鳥居なんかがありますが、あれは……。

西島

お城の壁に大きな人形を作って、飾ってあるわけですよ。機関銃隊が作ったもの、歩兵中隊が作ったものとか、それぞれの隊が作った人形をあの城の壁に飾るんですね。そして、杉の葉で巨大な鳥居やアーチなど作って、そこを通って練兵場に入っていくんですよ。その頃練兵場に行くと、酒保のアンパン、饅頭などが普通の半額になっていて、それを食べるのが楽しみでしたね。

元石

練兵場はどこにあったのですか。

西島

現在の平和台競技場ですね。

江頭

戦後になって昭和22年、平和台の競技場ができたのを機会に5月に行われました。そして、その翌年に新憲法発布を記念して、5月3、4、5日になったこともあるんですが、その後、3日間ではダレるからと、5月3、4日の2日間になって現在にいたっているわけです。

御本家は三福神と稚児行列

元石

ところで、博多どんたくのパレードですが、先頭をいく神さまがありますね。

江頭

どんたくの御本家は大パレードの先頭をいく三福神と稚児行列なんですよ。三福神とは福神(福禄寿(ふくろくじゅ))、恵比寿、大黒天です。

西島

その恵比寿は、博多では夫婦恵比寿(めおとえびす)ですね。

江頭

そうです。だから正式に言えば四福神ですが、夫婦一対ですから三福神ですね。この三福神がそれぞれの服装をして、馬に乗ってまわります。そして、それぞれの馬のまわりには6、70人の男が肩衣(かたぎぬ)を着てたっつけをはき、白足袋(しろたび)にどんたく下駄(杉下駄で紅白のねじねじの花緒)といういでたちで行くわけです。そして、それぞれの行列の先頭には、子どもたちが締め太鼓を5人で叩きながら進んでいく。それが三福神です。それにめでたい字や絵をかいた6枚の布を長くたらした傘鉾(かさぼこ)が続き、その後を桟敷台(車のついた舞台)に緋のはかまをはき、天冠をかぶった少女が乗り、それを男たちがひいていく。そして、要所、要所にゴザをひいて、そこで少女が舞い、周囲の人が謡いを歌って、かね、太鼓、笛で囃す。これが稚児流れです。
この三福神と稚児流れで「松ばやし」といいます。これは昔からの伝統で、格式高い行列なので、必ずパレードの先頭を行きます。

元石

その三福神には誰がなるんですか。

江頭

松ばやしはそれぞれの流れがつとめるわけです。“流れ”というのは町内ブロックのことで、山笠の仕組みと同じですね。これが7つあるので、福神流れ、恵比寿流れ、大黒流れ、そして、残りの4つ(現在は2つ)が稚児流れをつとめてきたわけです。
その松ばやしはパレードのあと、3日は博多部、4日は福岡部を回って、昔から決められた場所を練って歩きます。県庁、市役所、新聞社など、そのほか昔から博多、福岡に功績のあった家を回ります。だから、黒田家が別邸に居られたときは、もちろん行ってたわけですね。

あんたも出とったとな すれちがいがたのしみ

元石

西島先生が子どもの頃のどんたくというのは、どういうものだったんですか。

西島

私は4つぐらいから親父に連れられてどんたくに出たんですが、ぼてかづらの面をかぶらされ、子ども用の衣装を着せられて、しゃもじを持って、親父の友だちの家をまわるんですね。家に行くと緋毛氈(ひもうせん)が敷いてあって、自慢の屏風と大皿が飾ってある。その大皿に一口で食べられるようなもの、たとえばギナン(ぎんなん)の甘煮やかまぼこや季節のものが置いてあるんですね。どんたく隊が来るところは「うちには、どんたくが来よるとバイ」という自慢があるわけですね。我々が入っていくと、近所の人たちも入ってきて、そこで歌ったり、踊ったり、また子どもにわかは一番愛らしかと、やらされてましたね。そして、帰りには「あづかり笹」をもらうんです。これは笹に札がつけてあって、これに「奥の堂の○○饅頭に行けば饅頭2個くれる」とか「仁○加煎餅に行けば煎餅10枚くれる」など書いてあるんですね。それを大人がえりにさして町に出ていくと、子どもたちがうしろからそっと近よって引き抜いてにげるのです。“こら”と怒られながらもためていって、どんたくが終わるとお菓子屋へ行って、換えてもらうのが楽しみでしたね。
またどんたく隊というのは、今のパレードのように一方通行ではなく、スレ違わないといけないんです。そして“オッ、あんたも出とったとな”と言いながらスレ違うのが楽しみでもあったわけです。お金持ちは芸者さんを引っ張り出すことができるわけで、スレ違うときに別嬪さんに“ちょっとこっちさい来やい”と言ってこちらにつけて、そうやって連れて歩くのが自慢だったらしいですね。
昔のどんたくは、三味線と鼓(つづみ)が主、あとはしゃもじぐらいです。ところが道がひろくなると和楽では響かなくなって洋楽にかわっていったわけですよ。初めて洋ものが出たのは、たしか昭和8年か9年ぐらいだったと思うんですが……。
今考えると博多の町家は作りが決まっていましたね。玄関入ると左側がズッと裏に続いている。前が土間になっていて、畳があって、茶の間、中庭、そして便所と、だいたい決まっていたようです。どんたくのときは、その土間で踊っていました。

江頭

博多大空襲でそういう家が全部焼けたので、踊ることができない。それで、昭和22年から演芸台というのができたんですね。

“ぼんち”と“ぽんち”どちらが本当?

元石

“ぼんちかわいやねんねしな…”という、どんたくのテーマソングですが、あれはいつ頃から歌われだしたのですか。

江頭

だいたい日露戦争のあとぐらいからでしょう。河原田平兵衛さんという人がその唄を東京から持ち帰ってるんですね。この人は博多の平助筆で有名な河原田家の三男坊で、東京の「栄太楼飴」で修業し、のちに呉服町で「栄松堂」というお菓子屋を開いています。この人が商用で何度も東京に行くうちに江戸以来の「しりとり歌」を聞くわけですね。「牡丹に唐獅子、獅子に虎、虎をふまえた和唐内(わとうだい)、内藤様なら下がり藤…(中略)…五郎、十郎、曽我兄弟、きょうだい、長持ち、たばこ盆、ぼんやはよい子じゃ、ねんねしな、品川女郎衆は十匁、十匁目の鉄砲玉、玉屋は花火の大先祖」という歌を平兵衛さんが聞いて、それをアレンジし、現在の「ぼんちかわいやねんねしな、品川女郎衆は十匁、十匁目の鉄砲玉、玉屋がかわい、スッポンポン」になったんですね。“玉屋がかわい”というのは“かわいい”と博多弁の“川い(へ)”をかけてるんです。
博多弁では「銀行へ行った」といわずに、「銀行い行った」と言いますもんね。
このどんたくの歌は、戦後たまたまどんたくのときに来福した木村荘八さん(舞台美術家)が、どこかで歌詞を見た記憶があると、東京に帰ってご自分の莫大な資料の中から絵草紙を見つけ出して、わざわざ知らせてくださったことからもと歌がわかったんですね。

元石

“ぽんちかわいや”と歌う人もいるでしょう。

江頭

実は新聞社でも“ぼんちかわいや”と“ぽんちかわいや”と、バラバラだったんですが、私がさっきのいきさつを20年ほど前に書いて以来、“ぼんちかわいや”に統一されました。ところが、この頃ちょっと疑問に思ってるんですが、“玉屋がかわい、スッポンポン”でしょう。それがぐるっと最初に戻って“ぽんちかわいや”じゃないかと思うんですね。
そうなると、しりとりがつながりますからね。

元石

でも、ぽんちになると漫画のポンチ絵になってしまいますね。ところで、どんたくには河原田平兵衛さんのように、それを盛り立てた時代時代の演出家といいますか、主役の人がいるわけですか。

江頭

特別の人というよりも、どんたくの主役を果たしてきたのは、博多に古くからいる流れの人たちでしょうね。今でも、取材で今年の流れの委員になってる人たちの家へ電話すると、奥さんが電話に出てきて「さっきまでおりましたが、チョロッとおりません。どんたくが近づくとチョロチョロ出歩いて困ります」などと言われる。それほど、打ち合わせ、打ち合わせで忙しく、何もかもほったらかして身をいれるんですね。

照れくさいけど参加しよう

元石

どんたくも博多生まれの人と、よそから住みついた人とでは、見方、受けとめ方が違うでしょうね。

西島

それはあるでしょうけれども、どんたくの大きな違いは、見る側にいるか、参加しているかということじゃないでしょうか。
3日の昼に団体の大パレードがあってにぎわいますが、4日になると団体のどんたく隊はほとんど出ないんです。だから、ペシャーとなるわけですね。道路はあいてるのに、どんたく隊は通っていない。そこで、町人文化連盟のほうで呼びかけて、今後は多くて20人、少なければ3、4人の小グループでもいい。夕方から博多の町を流して行こうと勧めて回るつもりです。去年も江頭さんたちと5、6人で、昔のどんたく情緒を楽しもうと、4日の昼から夜おそくまで“ぼんちかわいや…”と唄いながら練って歩いたわけですね。そしたら、表戸は閉めてるのに大将がわざわざ出てきて「誰か来んやろうかと待っていた」と大喜びで招き入れて、いそいそと酒を勧めたり、かまぼこを出してくれたりするんですね。博多のもんは、どんたく隊が「うちに寄ってくれんかなぁ」と思いながら、なかなか寝つかれないでいるんです。だから、どんたくに行くと、とても喜んでもらえるわけですね。

元石

それこそ本当の博多どんたくですね。これからは、古いものと新しいものをうまい具合に配列していかないといけないですね。一般の人たちが、どんたくをどのように受けとめていけば、本当の市民の祭りになるでしょうか。

江頭

なんといっても、どんたくは見るものではなく、参加するものなんですね。出るのも半分逃げ腰で、背広の上にすぐはずせるようにハッピをつけて…というのではなく、はまって、徹底的に出たら楽しいですよ。
私も5年ほど前から西島さんと一緒に出てますが、初めは照れくさいですね。昼の日中から、しかも大勢の人が見ている。恥ずかしくて、ビルが降ってくるように感じました。でも、みんなについて歩いて行くと、やはり市民全部が仲間同士で、ここは自分の町だという感じがしてきます。
全市民が祭りに参加するには、まず最初は見物して笑顔で激励することでしょうね。そして次に、各団体が参加旗を持ってますから、それについている番号を見て、よかったと思うものに投票することですね。そういうことから参加して、なにかの関係でグループに入ったり、自分たちでグループを作って出てみようかなど、やはり出ることですね。しゃもじ精神で参加してみたらいいと思いますよ。