No.10 元寇

対談:昭和55年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州大学名誉教授 川添 昭二氏
聞き手:
福岡シティ銀行 副頭取 森田 孝雄

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


むかうところ敵なしモンゴル帝国

元冦 年譜

蒙古帝国(13世紀)

司会

文永の役から700年たったのですね。元寇は元が寇(あだ)した、つまり侵入して荒したという意味ですね。日本にも博多にも災難でしたが、アジア、ヨーロッパ両大陸にまたがる史上空前の大帝国の蒙古が、海の中のちっぽけな日本に、風波の危険をおかしてなぜ攻めてきたのでしょう。率直な疑問なのですが。

川添

鎌倉時代のお坊さんの書いたものに、日本の国は「粟散(ぞくさん)の国」だとよく出てきています。粟粒を散らしたような一小国ということですね。その小国に大帝国である蒙古がなぜ攻めてきたのか。まず蒙古の内部状況を知る必要がありますね。帝国で安定していた東アジアの世界が、北方民族が次々に蜂起(ほうき)してきて安定性を欠いてくる。ウィットホーゲルという社会学者は、中国を征服していった北方民族の王朝を征服王朝と呼んでいますが、その中で最大と言ってよい蒙古は、ジンギス・カン以来、まさに東から西へかけて、アジア大陸全体からヨーロッパに及ぶ一大版図(はんと)を築きあげるわけです。

森田

小人数のモンゴルが、どうして中国やアジア大陸を支配できたのか。これも問題です。

 

川添

当時、征服者のモンゴルの人口は僅かに50万程度だったと推定されています。わずか50万の人間で欧亜にまたがる大版図をどうして築けたかというと、いちばんに騎馬民族である彼らの機動性があげられます。敵の弱点に集団で速攻する。騎乗しての巧みな速射。強行軍に耐える耐乏力。土地に執着せず疾風(はやて)のようにすぐ次の土地へ移動。とにかく戦士集団として、数十倍の敵に拮抗(きょこう)する最優秀軍団でした。

森田

向かうところ敵なしで…。

川添

さらに被征服軍団を先鋒にしてモンゴル軍の温存を図りましたから、覇力は更に永続したのでしょうね。そうはいっても、中国だけでも数千万人の人間をひとにぎりの連中が征服し、支配していくわけですから無理があるし、ゆるみが出てくる。それが内部争いで、特に皇帝の位をめぐって争う“汗位”争いが特徴的です。第4代モンケ・カンが南宋攻略の陣中で没すると、汗位継承問題が起こり、弟のフビライも軍をまとめて起(た)ちあがるわけですね。フビライは、モンケ・カンの時代に中国の東北部をあたえられていたので、中国人官僚の能力がきわめて高いことをよく承知していて、蒙古人としては類のない親中派になっています。その最大のライバルが弟のアリクブカで、こちらは蒙古至上主義派で、モンゴル本土を中心に勢力を張っている。蒙古では末子相続で、順番からいくとフビライははずれるのですが、結局はアリクブカを屈服させて、1264年に汗位につくのです。

森田

南宋と博多は貿易と文化のつながりが深い。南宋の滅亡は残念でしたね。

川添

蒙古では中国問題というと南宋ですが、フビライは南宋を滅ぼそうという気はなくて、相互不可侵で仲良くやっていこうと考えていたようです。それで仲良くしようと外交使節を出すのですが、南宋は姑息で、モンゴルに隣接している反対勢力の異民族を挑発してモンゴルを抑えようとする。さらに、蒙古が和親の使いを送ると、抑留してしまうのです。それで蒙古が激怒して兵を発することになる。そんなわけで、蒙古が直面していたのは、南宋をどう攻略するかということだったんですね。

森田

そして、高麗もありますね。

川添

そうです。もうひとつは高麗の問題です。ジンギス・カンの次の皇帝から30年間、高麗を攻めて、徹底して蹂躙(じゅうりん)しています。それで高麗の宮廷は漢江(かんこう)河畔の江華島(こうかとう)に逃れる。騎馬戦に強い蒙古も、一衣帯水(いちいたいすい)ながら海を隔てるとなかなか落とせない。そういう状況でした。フビライが汗位を争っているときは、高麗と色よく応接していますが、汗になると態度を一変して、貢物をどしどし要求し、もたもたしていると叱責して、更にそれを言いがかりにして次を要求する。内政に干渉して高麗の実質支配を強くすることが、南宋攻略にプラスになるという状況だったんです。

南宋と親密だった「黄金の国」日本

森田

ところが日本は南宋と海を通じて仲がいい。蒙古側から見るとしゃくのタネで。

川添

そうなんです。日宋交渉は親密でしたからね。たとえば西園寺公経(さいおんじきんつね)という貴族は、南宋に貿易船を出して、銭を商品として買っています。日本は平安時代の末以来貨幣鋳造(ちゅうぞう)はしていませんから、輸入した宋銭が貨幣として国内で流通するわけです。西園寺公経は、1回に10万貫の宋銭を輸入しています。南宋で1年間に鋳造する額に相当しますから、いかに日宋の間が密であったかがうかがえますね。当時、南宋の人が書いた随筆には「倭(わ)の好むものは銭である」と書き残されています。

森田

日本から南宋には何を輸出したのでしょうか。

川添

最初の頃は砂金を、陸奥(むつ)の砂金ですね。でも「黄金をもたらす」というのは平安の末期ぐらいまでのことで、頼朝が義経や奥州の藤原氏を滅ぼす頃には、ほぼ取り尽くしてしまっているのですよ。マルコ・ポーロが伝えた黄金の(いらか)やアスファルトの話をみても、中国、特に南部の方で日本は黄金の国として知られていたのですね。そのほかに、木材、刀、扇、真珠なども持っていっています。

森田

それは博多から積み出されて。

川添

そうです。ですから、フビライを中心とする蒙古宮廷の黄金欲、これも日本に攻めてきた一つの要因でしょうね。戦前の研究では、征服民族の習性として、とにかく周りの連中を征服していくという征服欲のために、日本に攻めてきたとされていました。確かにその面もあるのですが、最初から征服しようという意識があったかどうかは疑問の余地がありますね。

日蓮の予言は法華経の教え

司会

逆に日本の場合、日蓮が『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』の中で、元が攻めてくる、国難になるだろうと言っています。これは、文永の役の14年前で、すごい予測ですね。当時、日本は元の内情をよく知っていたんでしょうか。

川添

私は日蓮が、蒙古についてそうはっきりした認識を持っていたとは思えないんです。日蓮は『立正安国論』で、日本は法華経を本気になって信仰していない。法華経を信仰している国であれば神様が守ってくださるが、今はそれがなされてないので、神様が引き払って空き屋になっている。だから、蒙古が攻めてきやすい。国難近し、法華経を信仰しなければたいへんなことになる……という説法なのですね。

森田

では、日蓮は情報から蒙古侵略を予測したのではなく、宗教的な意味で外敵が来ると考えたのですね。

川添

そうです。日蓮は宗教レベルで物を言ったんですね。非常に俗世間的なことを言っているようですが、すべて宗教的な世界を意味あらしめるための比喩なんです。それが文永5年に蒙古問題として現実化したのですね。元寇がなければ、日蓮さんも自分の教えを、あれほど社会化することはできなかったと思いますね。執権の北条氏は、禅宗ですが、日蓮は法華経を唱えて宗教的論理で禅宗を批判する。外交問題と信仰問題が一緒になって、幕府に対する批判勢力と見られてしまう。だから、幕府が防備のために命令書を下す前日に日蓮を捕えて、佐渡に流すことになるんですね。

森田

執権の北条氏は、モンゴル来襲の情報を持っていなかったのですか。

川添

当時の執権は北条時宗で、彼のブレーンは禅宗のお坊さんたちです。そういう人達のたまり場が父の時頼が建てた建長寺(けんちょうじ)で、ここが国際情報のセンターでした。北条氏の所領があった北鎌倉に降りると、すぐに円覚寺があり、それから建長寺がありますが、あそこらへん一帯に禅宗寺が建つわけですね。そこには、日本語を解せない中国の坊さんたちがひしめいていて、いわば中国租界ですね。ここが世界情報のセンターだったのですね。

森田

当然、アンチ・モンゴルの情報ですね。

川添

ええ。そこで得られる情報は当然南宋からのものでした。中華である南宋が北方*蕃族(ばんぞく)である元からいためつけられているわけです。南宋は、国学といってもいい朱子学で、皇帝を中心に階層、秩序をピチッとかためている。愛国的で、民族的で、異民族の圧迫をはね返すことを中心としたイデオロギー体系をつくっていて、国が一致団結しなければいけない、という考え方です。それに、時宗の師であった無学祖元(むがくそげん)、もっとも、この人が招かれてきたのは、文永の役のあとですが、中国にいたとき元の兵に殺されようとしたことがあって、元を憎んでいたでしょうね。中国の坊さんたちからの情報は、元が征服民族以外のなにものでもない。だから、元の使節が来たとき、これは侵略だと決めつけるのですが、情報のルートと質から当然の帰結だったのですね。

最初は下手に出た帝王「フビライ」

蒙古襲来図(文永の役)

川添

蒙古は日宋の親密さを断ちきりたい。そこで、高麗を使者にたてて日本と交渉させるんです。成功すればそれでいいし、成功しなければやり方が悪いと、高麗をぎゅうぎゅういわせればいいわけですからね。文永3年(1266)にフビライが国書をしたためて、高麗を使節にたてるのですが、高麗は、日本が要求を聞くはずがないとみている。だから風浪の荒さを口実に使節を出さない。それでフビライが激怒して、翌文永4年に再び強く督促する。それで、文永5年1月、最初の使者潘阜がフビライの国書を奉じて初めて大宰府に来るわけです。蒙古側は、当初、「徳化の名を得たい」つまり世界帝王のフビライが、日本に貢物を持ってきてもらいたい、と下手に出ています。言うことを聞かなければ、兵を用いるぞと脅しは見え見えですが、南宋問題を抱えているし、高麗も抑えこまねばならない。まあ、実際のところは、日本が朝貢して、宋と手が切れてくれればいい、というところなんです。だから辛抱強く前後6回にわたって使節を派遣してくる。ところが、日本は「蒙古は征服民族だ」という認識なので、断固受け付けない。

森田

文永の役までに6回も。ずいぶん丁重だったのですね。

川添

丁重と言いながらも、朝鮮半島を実質的に支配して、いつでも日本へ攻められるように、今の釜山付近に屯田兵を配置しているのです。5回目と6回目は趙良弼(ちょうりょうひつ)という人が、フビライに志願して交渉の使節としてやってきます。この人は50いくつかで、当時としては年寄りなのですが、元からきた使節の中では、もっとも和平交渉を念願にしていたようですね。フビライに、自分が一命をかけて日本の使節を連れてくる。そのときに南朝鮮一帯に屯田兵を置いていると刺激する。だからこれを引きあげてくれと言っています。一方、日本の外交権を形式的に握っていたのは、京都の宮廷ですが、実際の戦闘過程に入ると、やはり力ですから、幕府が実質的に外交権を握ってしまうんですね。文永の役が起こるまでは、幕府は一応朝廷をたてているんですが、朝廷はどうしていいかわからない。そういうことで、元との対応は幕府となるのですが、その幕府の性格が武士の政権ですね。つまり、武断政権が基本だということで、結果的に文永の役を引き起こしたと、言えると思いますね。中世の外交は、現在のように国際法に照らしてとか、ある程度まで譲歩してとかじゃなく、売られた喧嘩は買おうという力と力になってしまう。

メンツで攻めこんだ文永の役

森田

それで文永の役に。

川添

文永11年(1274)の10月に元軍が来襲するのです。蒙古軍は忻都(きんと)を日本征討(せいとう)の都元帥(総司令官)として、合浦(がっぽ)を出発して270キロの玄界灘を、900艘(そう)の船に分乗して渡ってきます。そのときの船を、高麗の人たちが突貫工事で造らされている。だから、相当粗雑な船だったでしょうね。

森田

来襲した人数は。

川添

高麗側が6,000人、蒙古軍が2万人。そのほか多くの船の修理をする梢工(しょうこう)や船を漕ぐ水手(かこ)などがいたようです。彼らは被征服民族の混成軍で戦意もないし、フビライも日本を徹底的に征服しようという気があったようにも見えない。メンツがたたないから叩いておけ、と一種のデモのように考えていたようです。だから、戦略も定かではない。どの程度まで戦って、どこでおさめるかという計画もはっきりしていなかったようです。

森田

でも、海をおおう大船団で、日本はびっくりしたでしょう。

川添

そうですね。元軍は、まず10月5日に対馬を侵し、14日には壱岐を攻めています。このとき、壱岐の住民は大部分が斬殺され、婦女子は手に穴をあけられ船に吊るされたという無惨な話が伝わっています。20日に今津や百道海岸に上陸。大宰府攻略を目指し、麁原(そはら)、赤坂、今の平和台競技場一帯で日本軍と戦闘が開始されます。中国、高麗側に若干の記録が残っていますが、日本は押され気味ですね。それまで一騎打ちの戦いしか知らない日本軍は、鉦(かね)や銅鑼(どら)や太鼓を打ちならして集団で進んでくる戦法の前に、馬が驚いて暴走するし、やあやあと打ってでる豪の者も集団の中に包みこまれて討(う)たれてしまう。矢は連射できる短弓で、鏃(やじり)には毒が塗ってある。散々にやられたのですね。そのうえ、元軍がつかったてっぽうに驚いてしまった。

森田

てっぽうですか。

川添

ええ。『八幡愚童訓』という記録に、「鉄丸に火を包みて激しく飛ばす。あたりて破るるときは四方に火炎ほとばしりて烟(けむり)を以てくらます。またその音高ければ心を迷わし胆を消し、目くらみ、耳ふさがりて東西を知らず……」と言っていますから、見たこともない新兵器にびっくり魂消(たまげ)てしまったのでしょうね。百道から麁原まで占領され、赤坂へんまで追撃される。さらに箱崎に上陸して筥崎八幡宮も焼かれる。日本軍は水城(みずき)まで引いて守ろうと悲壮な決意だったのです。だが、蒙古軍の方も即製の頼りにならない戦艦だし、兵はモンゴル人、漢人、高麗人の混成軍で士気も低く、戦略もばらばらです。海の遠征になれていないし、主だったものが負傷したりして、これ以上どこまで戦えるかおぼつかない。そこで軍議が開かれ、もうこれまでと撤退することになるんです。

防備を固めた建治年間

福岡市(博多)付近の元寇防塁跡

森田

そこへ、例の神風の台風が吹いたですね。

川添

吹いたことは確実だと思うんですが、そのスケールがわからないし、いつどこで吹いたのかもはっきりしていない。通説では、旧暦の20日に吹いたということになっています。その通説を否定する根拠も確実ではない。だから一応通説を認めるところまで譲歩しとこうということですね。

森田

それで、日本の防備体制は、どうだったのですか。

川添

ときの鎮西奉行は少弐経資(しょうにつねすけ)でしたが、元の侵略に本気で対処した防備体制をとっていなかったのです。しかし、水陸交通の要衝、九州でいうなら門司の関だとか、佐賀の関といったところは、すべて北条氏の本家一門の所領にして家来を配置してますから、時宗の号令で直ちに水軍を動かすことはできたのです。本格的な防備体制をとるのは、文永の役で痛い実地訓練を受けたあとですね。京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を強化し、指揮系統を整えるために、各地の守護に北条一門を送りこんでいます。

森田

でも、何といっても防塁(ぼうるい)で。

川添

やはり、なんといっても石築地の防塁を築いたことですね。高さ約2メートル、底辺の幅約3メートルの防塁を、香椎から今津まで約20キロメートルにわたって築いたのです。これは、香椎は豊後の国、箱崎は薩摩の国、姪浜は肥前の国、というように、各地域を守護たちに分担して築かせています。それも、所領一町につき防塁一尺(30センチメートル)という基準をもうけて、所領に応じて旗も楯も出させ守備責任とした。こうやって防備を固めていったのです。それと同時に、日本遠征の基地である高麗攻撃を考えていますから、元軍に対する日本軍の士気もなかなかのものだったんですね。もっともこれは沙汰止(さたや)みになっています。

果敢に善戦した弘安の役

蒙古襲来図(弘安の役)

川添

こうして文永と弘安の間になる建治年間に、時宗の権力が強化され、国ごとの守護に強力な権限を与えて、指揮系統も整えられました。この建治年間は元の再来にそなえて邀撃(ようげき)体制を確立した事で、歴史的に非常に重要な意義を持っているんですね。

森田

そうして、いよいよ弘安の役になるのですね。

川添

こうして待ち構えているところに、元軍の第二次来襲が弘安4年に起こるのです。その2年前に、蒙古は南宋を滅ぼしています。元に降(くだ)った南宋の膨大な職業軍人を抱えているわけで、下手すると流民になって、暴動を起こしかねない。蒙古にとっては、この戦後処理が大きな問題だったのです。それに、日本の富に対する欲求が、日本との交わりの深かった南宋を抑えたことで、きわめて鮮明になってくる。これが、弘安の役をおこした原因の大きなウエイトを占めています。日本侵攻にあたって、フビライは武将を集めて「土地と人民の略取」を堂々と訓辞しています。屯田を本格的にやろうと船に鍬(くわ)などを積んできたと言われており、かなり計画的で、南宋の職業軍人を、そのまま日本への遠征軍に振り向けたのです。彼等が海の藻屑(もくず)と消えても、モンゴル自体に痛みはないということでしょう。14万の元軍のうち6、7割やられたと書かれていますから、壊滅的打撃を受けたことになりますね。その段階では、たいした事でないと思っていたでしょうが、壊滅した南宋の軍人は、中国の要所、要所を守っていた海軍で、当時の海賊に応戦する主力でもあったわけです。これが壊滅したということは、その後の中国の沿岸で、海賊の跳梁(ちょうりょう)を許さざるを得なくなることで、これも元が滅びていく遠因にもなるんです。こうして、再び弘安4年(1281)の夏に元軍が来襲してくるわけです。忻都と洪茶丘(こうさきゅう)が率いる蒙古・漢人・高麗の軍団4万が東路軍として合浦を出発し、別に苑文虎(はんぶんこ)の率いる江南軍(南宋の降兵10万・3,500艘)が江南から出て、壱岐で合流し、一挙に日本を征服しようというわけです。まず、東路軍が先に来襲するのですが、沿岸一帯に防塁が築かれているので、簡単に上陸できない。そこで、志賀島を襲うのです。

森田

防塁が役に立ったのですね。

川添

役に立ったと思いますよ。前になかった防塁の出現で元軍は驚いたでしょう。高さ約2メートルの防塁が現在は部分的にしか残っていませんが、博多湾一帯に延々と築かれていて、大きな威圧を与えたでしょうね。それに、要所、要所で武将が指揮をとり、地域別に国別の軍隊がいて、防塁の上から下げ矢で射るわけですから、矢の威力も倍加するわけです。それで、元軍は防塁のない志賀島に上陸するのです。今度は日本軍も元の戦法を知っているから果敢に善戦する。夜襲(やしゅう)で敵船におどりこんで、火をつけたり、特に河野通有(こうのみちあり)や草野次郎など、四国、九州の御家人の奮闘が伝えられていますね。6月の6、7、8日にわたっておこなわれた志賀島の戦闘は、現在の暦になおせば真夏ですね。元軍は、船掛かりしたまま戦っていますから、船中で疫病がはやるし、夜襲も受ける。粗雑な急ごしらえの船で、そのままでは船底に貝がついて航行がそこなわれる。おまけに兵も疲れているしで、攻めきらないまま壱岐へ退散するのです。いっぽうの江南軍のほうは指揮官の阿刺罕(あらはん)が死んで、来襲が大幅に遅れ、やっと7月に入って、先発の東路軍と平戸から鷹島にかけて合流します。総勢14万の大軍で一気に博多に攻めこもうとする矢先に、7月30日夜から、いわゆる神風という暴風が吹き、翌日の閏(うるう)7月1日(太陽暦では8月23日)に蒙古軍はほぼ壊滅してしまうんですね。

自分の領地のために戦った日本軍

森田

国難で日本軍の士気は、盛んだったのでしょうね。

川添

それがどうも複雑なのです。異国から侵略を受けているという共通意識はありましたが、武士団は家相伝の戦法で個々に戦うわけですから、守護や幕府がこれを束ねるというのは相当な苦労なんですね。指揮される御家人(ごけにん)も、身分は守護と同じ御家人なので、守護の言うことをなかなか聞かないで勝手にふるまうわけです。柳川の立花家に残っている文書では、参戦をさぼったり、いざとなってもよく進まなかったり、とか書いてあって、どうも全体で一致協力をしなかったようです。と言っても、同一民族である日本軍の士気は異民族の混成軍である元軍と比較すれば比べものにならなかったでしょう。

森田

国難という統一した意識はあったんでしょうか。

川添

当時の命令書を見ますと、国の大事にもかかわらず、自分の小事にかかわって、所領争いで喧嘩をして、守護の命令を聞かない、というようなことが書かれている。だから、お手本のような国難意識があったとは言えないと思います。現実感覚としては、蒙古を打ち払って恩賞で所領を拡大して、領主制を維持、強化しようというのが精一杯のところだったでしょうね。異国合戦という認識はあるんですが、現実はかなりバラバラだったと思います。

鎌倉幕府にとって大打撃だった元寇

森田

功名をたてて、恩賞をもらおうと思ってたんですね。

川添

それはかなり強いですね。肥後の竹崎季長(たけざきすえなが)は文永の役の翌年、馬を売った金で、鎌倉まで恩賞の請求に出かけるでしょう。しぶとい奴、役に立つだろうと恩賞奉行安達泰盛(あだちやすもり)の心にかなって、恩賞にあずかるのですが、彼が神の加護に感謝して画師に描かせた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」は、元軍との戦いの状況をよく活描していますね。この戦いで元軍に奮戦したのは、彼等にとって自領を回復したり、拡大するには一番いい機会だと考えたからでしょうね。それに、当時の侍たちは惣領制で惣領が一族をまとめていますが、実際は領地を分割して子どもたちに与えていくので、末細りになっているんです。だから、彼らは惣領に対して独立していくわけで、戦いが起こると、功名をたてるいい機会と惣領のいうことを聞かずに独自に動くのです。鎌倉幕府は古典的な惣領制を基盤にした東国政権だったのですが、蒙古襲来で、基盤が変化していく。鎌倉幕府は、承久の乱(じょうきゅう)(1221)で西国(さいごく)を支配下に置き、蒙古襲来で九州を実質的に支配下に置きましたが、幕府の基盤になっている侍たちの構造-惣領制が、蒙古襲来で非常に変化したということ、これは鎌倉幕府の基盤を揺るがす大変な変化なのですね。だから、蒙古襲来は、幕府にとっては、重いお荷物を背負いこんだことになるんですね。その上、蒙古がいつ攻めてくるかわからないので、懸命に防備をさせなくてはならないし、褒美もやらなくてはならない。ところが対外戦なので与える所領はない。大変な問題をかかえたまま、弘安7年(1284)に執権、北条時宗が34歳で、蒙古との対決に生涯を捧げた一生を終わっています。元寇の影響を少なく見る立場の人もいますが、直接、間接、総和して考えると、政治面、外交面、文化面、すべてひっくるめて、日本に非常に大きな影響を与えている。私はやはり、鎌倉幕府が滅びていく遠因をつくっていると思うんです。

元寇で重要になった博多の役割

森田

井上靖さんの『風涛』を読みますと、日本よりも高麗がたいへんだったらしいですね。

川添

元寇という言葉は日本よりも、むしろ高麗に言うべき言葉ですね。日本は文永の役、弘安の役と国難でしたが局地戦ですみ、暴風で蒙古軍が壊滅した。対馬や壱岐、志賀島の人はたいへんでしたが、国全体からみればどうこういうことはなかった。しかし高麗は、その前に30年間も徹底的に蹂躙されてるのですから。

森田

歴史の上で見ると、博多にとって元寇は、どういう意味を持っているのでしょうか。

川添

文永・弘安の役で博多が戦場になって鎌倉幕府が滅びるまで、博多が対外防備の中心になったことですね。鎮西探題を博多に置いて、九州の武士たちがかわるがわる防備をするわけです。事実、フビライは第三次遠征を考えていて、彼の死(永仁2年、1294)まで、その懸念が消えないわけで、真剣な対策だったでしょうね。だから、九州各国の侍は、定住的に博多を生活の基盤にしています。たとえば、大友氏は香椎神社を宿にし、その付近を所領としてもらっている。島津家は、箱崎を本営にしています。そして、政治の中心が大宰府から博多に移ってきます。博多はそれまでも重要な対外貿易の中心で元寇から政治の中心となってさらに意義が深くなるわけですね。

森田

中国貿易の窓口のほうの博多の役割は、その後どうなったのですか。

川添

上の方で国どうしは戦闘をしているのですが、下の方の貿易次元ではしたたかに、実際には元と商取り引きをやってるんですよ。たとえば文永の役後、日本から黄金を持って行き銭にかえることを、フビライが許しています。貿易と戦争は離して考えているんです。日本と元の経済・文化の交流は、表面的な侵攻とは別に、民衆レベルでやってるわけです。その場合、もちろん博多が中心になっています。豊後の大友氏など、多々良のほうに顕孝寺(けんこうじ)を建てて、ここで元と文化交渉をやっている。仏典を開版(かいはん)して出したりしているんです。

司会

元寇の影響は一面的なものでなく、国際的に、政治的に、文化的に、大きな影響を与えているんですね。どうも、ありがとうございました。