No.11 日本のアリストテレスと言われた江戸時代の大学者「貝原益軒」

対談:昭和55年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡大学教授 井上 忠氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
九州総合信用株式会社 社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


はじめは"損軒"先生

Profile:貝原益軒 年譜

貝原益軒

司会

貝原益軒は、江戸時代の有名な大学者ですが、福岡で生まれ、育ち、黒田藩に仕えた人だというのは、案外知られてないですね。

西島

私たちは小学校で、益軒さんが福岡の人だということは習っていました。たしか修身の教科書でも……。

井上

下男が掃除するときに、益軒が丹精していた牡丹(ぼたん)の鉢を落として駄目にしてしまったが、益軒が怒らなかった、という話ですね。
それから益軒が瀬戸内海を船でのぼる途中、若い武士が学問のことをとうとうと話していた。降りぎわにめいめいの国と名前を言うことになって、益軒が名を告げると、青年武士はあたふたと消えてしまった、というエピソードがあります。江戸期の儒者が書いた随筆集に載っており、これをネタにした短篇を芥川龍之介が書いています。

小山

先生は、いつ頃から貝原益軒の研究をされているんですか。

井上

戦争中の、昭和18年頃でした。防塁前にあった貝原家の分家に九大の細菌学講師の方がいらっしゃった。本家から益軒の日記を借りてきたので見にこないか、というお誘いがあってうかがったのです。
私たちは、子供のころ益軒さんの命日に、お墓のある金竜寺(きんりゅうじ)に学校からお参りをしていました。そのときの先生のお話から、たいへん謹厳な近づきがたい人という印象を持っていたのです。
ところが、日記を読んでいると「殿様が狩りが好きな方で、獲物の雁を羹(あつもの)にしたものをもらった」とか、「新米が入ったのでニワトリ飯を炊いて、食べすぎて下痢をした」とか、書いてある。それでたいへん親近感を覚えました。戦時中の食糧難の時代ですから羨ましくもあって、関心をもつようになったのです。
そして、戦後の22、3年ごろから、夏に貝原本家に何十日かお邪魔しまして、日記などを写させてもらうようになったんです。

西島

益軒さんは、舞鶴城に毎日勤めていたのですか。

井上

いや、毎日ではなかったようです。 生いたちからお話ししますと、益軒の父は黒田藩の祐筆役(ゆうひつやく)(秘書役)だったので、益軒は城内で生まれたといわれます。
350年前、寛永7年のことで、当時の将軍は家光、黒田藩主は2代の忠之(ただゆき)のときですね。父、寛斎の5人の子の末男として生まれ、通称が初めは助三郎、のちに久兵衛、号は損軒で、益軒は晩年につけたものです。

西島

えっ。益軒先生ではなく、ずっと損軒先生だった……。

井上

ええ。数えの85歳で亡くなりますが、78歳のときにそれまでの号の損軒を益軒と変えています。だから生涯のほとんどは損軒先生ですね。
母親は6歳、継母とも13歳のときに死別して、母親の愛情には恵まれないんですが、ねえやがよく世話をしてくれたようで、晩年まで「地行ババ」といって大事にしています。

西島

損から益へ、味のある人ですね。初め「損軒」だったのが面白い……。

井上

益軒なりの損益の考え方ですね。若いとき、殿様に諫言して、役目を解(と)かれています。中国の兵書に、「柔よく剛を制す」とありますが、同じように、自分が損をして相手を助けていると、いつかそれが益になって返ってくると……。完全にリタイアした78歳で益軒と改めています。

横暴な殿様に諫言して免職される

井上

当時は藩の役制がまだはっきりしていなかったようで、益軒が生まれた翌年、父の寛斎は祐筆をやめさせられたのか博多部に入り、読み書きを教えたり、求めに応じて薬を調合したりして生計をたてています。
それから益軒が8歳のときに、再び藩につとめ、八木山の警備につき、さらに恰土郡井原村(現、前原市)へ移っています。
このことは益軒の視野を拡げて、庶民の立場を考える学風を培っています。益軒は子供のころ神童といわれていたそうで、面白い話が残っています。
兄さんが※『塵劫記(じんこうき)』という和算のテキストを捜したが見つからない。よくよく捜してみると益軒が読んでいた。「おまえ、わかるのか」とやらせてみたら、ちゃんとわかっていた。それで父親と「幼くて頭がいいのもいいが、この子は長生きしないだろう」と嘆いたというんですね (笑)。

※塵劫記
寛永4年(1627)、吉田光由が著したわが国最初の算術書。中国の数字を日本の事情に適合するように組みかえた平易な入門書で、明治初年まで算術書の異名となった。

益軒は19歳で藩主の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)(衣服調達の出納係)として、黒田藩2代目の忠之に仕えますが、忠之の叱責を受けて謹慎させられ、満2年でやめさせられています。
そのときに11、12月と2ヶ月間小呂島(おろのしま)に流された、という説もあって島で篤信(とくしん)様祭り[益軒の諱(いみな)が篤信(あつのぶ)、その音読]が行われていたそうです。

西島

どうして殿様の不興をかったので……。

井上

益軒の初期の読書日録をみると陽明学の本が多い。この学風から、自分で正しいと思ったことは遠慮せずにやるという態度だったようで、益軒の諫言が気の強い殿様だった忠之の怒りにふれたのでは、と言う人もあります。
この数年間のブランクの間に、長崎へ2度出向いて、多くの舶載新書を読み、また生活のために医学を修業しています。
26歳のとき、江戸詰(づめ)の父親が齢をとったので、身辺の世話をするという名目で江戸にのぼります。父、寛斎があちこちひき回したので、益軒が次第に藩内で知られてくるんですね。 忠之が隠居し、光之が3代藩主になって、益軒はあらためて藩に出仕します。27歳のときです。光之は忠之に比べると小心でしたが、学問に関心の強い殿様でした。藩主交代で、やっと益軒の活躍する舞台がまわってきたのですね。

小山

今度は学者としてですか。

井上

いいえ、普通の侍としてで、翌年藩の実力者の立花勘左衛門の配下につけられています。その甥が、当時の福岡藩が生んだ最大の文化人※立花実山(たちばなじつざん)で、益軒と交際があったのです。この立花氏が間にたって、次第に学問を藩務にいかせるようになり、藩主や世子の求めに応じて講義をしたりしていたようです。

※立花実山[明暦元年(1655)~宝永5(1708)]
名は五郎左衛門重根。福岡藩の家老、のちに出家。3代光之に45年間仕えた。詩歌文章に長じ、利休の高弟・南坊宗啓の秘書、南坊録を補足して『南方録』7巻を著し、茶道界に南坊流宗匠としての名を残す。

宮崎安貞の『農業全書』出版に協力

井上忠氏

井上

再就職してからはいい待遇だったようです。28歳のときには京都遊学の命を受け、下男を連れていっています。このとき、山崎闇斎(やまぎきあんさい)や木下順庵(きのしたじゅんあん)といった当時の官学だった朱子学派の大学者をたずねて、講義を聞き、また自分も講義をしています。
その間、有名な農学者宮崎安貞(みやぎきやすさだ)[元和9年(1623)~元禄10年(1697)]が農業を視察に上洛したとき、益軒は数日にわたって京都の周辺を案内しています。

西島

宮崎安貞は、世に知られた農学の大先生ですね。

井上

ええ。彼は親の代から広島藩につとめて、殖産興業を考えています。広島藩と福岡藩は江戸の藩邸が隣り合っていたので、宮崎家の家学を知った福岡藩が広島藩に頼んで譲り受けたのでしょう。安貞25歳のときです。しかし家学の大成を急いだのか、役を辞して、いまの糸島郡で農耕生活に入っています。
安貞は月に1回ほど糸島の農村を支配している役人とともに益軒を訪ねています。その際、益軒は中国の農書の講習会を開いています。
安貞は各地の農業視察で得た資料と、中国書の知識を参考にして、糸島郡周船寺村の女原(みょうばる)(現、福岡市西区周船寺)で実地に農業実験をしているんですね。

西島

福岡には益軒先生だけでなく、たいへんな学者がいたのですね。

井上

安貞は『農業全書』で知られていますが、この本の校正を益軒の末兄楽軒がしています。10巻におよぶ大作の出版を引き受けたのは、京都の「茨城屋(いばらぎや)」という新興の出版社ですが、益軒が紹介したのでしょう。
茨城屋はのちに益軒の教訓ものを独占販売するようになります。この本屋は出版する本の後に著者の著述一覧表を載せていますが、益軒の名が売れていたからでしょう、『農業全書』も貝原益軒著と書かれています。

小山

『農業全書』の内容は……。

井上

総論で、まず第1に肥料の重要性を述べ、技術の必要性を強調しています。実験に基づく詳細なもので、江戸時代で1番体系的ですぐれた農書と言われています。

西島

安貞も『農業全書』も、博多の人はあまり知らない。残念ですね。

井上

そうですね。益軒と安貞、当時の2人の大学者が、福岡にいてその交友もあたたかいものでした。2人のことをもっとよく知ってほしいですね。

39歳で東軒夫人と結婚

西島伊三雄氏

井上

さて益軒ですが、39歳のときに17歳の東軒夫人と結婚しています。東軒は秋月藩士・江崎広道の娘で、というかわいい名前でした。兄さんが医者で、江戸からの帰国のとき益軒と一緒だったようで、そのときに話がまとまったのでしょう。
年の差が22歳もあるので、益軒には結婚歴があるのではという人もいますが、調べてみてもそのようなことはない。やはり、初婚だったようです。
東軒夫人はたいへんな達筆でした。益軒は上京のときに東軒夫人の楷書の書を持っていき、どこの誰それにどの字を与えた、というメモも残しています。それに比べて益軒は字が上手とはいえなかったようで、益軒の軸ものは十中八九贋物といっていいですね。

小山

益軒さんのメモとなると、奥が深い(笑)。

井上

益軒は実に記録をよく残しています。たいへん実証的な人ですが、面白いことに、家族や下男の体重をよく計っています。
東軒は体がきゃしゃだったらしく、体重が34キロ、益軒や下男も50キロに足りません。当時は小柄だったのでしょうね。面白いことに〝重着(かさねぎ)ぬき″という註がついていて、正味の34キロですね。

西島

東軒夫人が益軒先生の話を記録され、それが稿本になったと聞きましたが。

井上

晩年のカナまじりの庶民教育書はそうだったかもしれませんね。

西島

東軒夫人は益軒先生についてどこにでもいかれたとか。

井上

奥さんの里の秋月へよく2人で行っています。それから元禄4年、益軒が62歳のときと、元禄11年、益軒が69歳のときの2回、2人で京都にのぼっています。特に2度目のときは、藩に辞職願いを出しましたが認められないまま、非常勤という形で上洛しています。
奥さんと3月に出発して、翌年の2月まで1年間、下男・下女数人のおとも付きの旧婚旅行をしています。 また東軒夫人だけが、下男をつれて奈良まで足を伸ばしたりしています。
広瀬淡窓(ひろせたんそう)の跡をつぐ広瀬旭荘(ひろせきょくそう)の随筆を見ると、「益軒はどうして奥さんを連れて旅行したのだろう」と筑前の塾生に聞くと、「東軒さんがきっと嫉妬深かったからだろう」と言ったと書いてあります(笑)。

小山

当時、奥さんと一緒に1年も旅行する人はいなかったでしょうね。

井上

はい、益軒はたいへんな旅好きで、学問のためもありますが、江戸に12回、京都に24回ものぼっている人ですからね。「行装記」と題する旅行携帯品のメモ帳が3冊のこっていますよ。益軒は新しい紀行文学を開いた人なのですね。
それまでの旅行記は、どこそこの社寺に参ると、どういう霊験があるとか、こういう言い伝えがある、とかいうものだったんですが、益軒の紀行文学は、途中の自然風土、あるいは産業技術を生き生きと書いていてユニークですね。
考古学の遺跡についても具体的で、横穴式古墳は中国の古典に従って、穴を掘って住んでいた太古の人の住み家だろうとして、豪族の墓とまでは見てないんですが、描写は客観的ですね。
それに、旅行の携帯品を煙草いくつ、眼鏡2個というように、手まめにメモしています。
研究家によれば、元禄以後天下泰平になって、庶民の間に旅行ブームが起こり、それに益軒の紀行文がマッチしてもてはやされたのだそうです。

西島

奥さんが弱かったので、益軒が『養生訓』を書いたとかいう話を聞きましたが……。

井上

それはあるでしょうね。東軒夫人が62歳で亡くなると、益軒もがっくりきて寝こんでしまい、あとを追うように1年を経ずして86歳で亡くなっています。

歩いて資料を集めた『筑前国続風土記』

小山泰

井上

いつか、女子短大の生徒さんから電話があって、『女大学』を卒論にしたい。益軒がどうしてあんなものを書いたのか、担当教官にたずねたら、「奥さんの尻に敷かれていたから、その仇討ちに書いたんだろう」と言われたがいかがでしょうかと(笑)。
それで、「益軒は39歳、東軒は17歳で結婚してますから、2人の間がらは益軒が先生で、奥さんが生徒と考えた方がいいようですが……」と答えておきました。
女大学』は、後の人が嫁の心得を書いているんですが、そのもとになっているのは益軒が81歳のときに著した教育論、『和俗童子訓』の第5巻「女子に教ふる法」です。
「女子に教ふる法」は娘を持つ親のために、娘を嫁がせてのちの婚家での生活規範を箇条書きにしたもので、こういう理由だからこうせよ、と書いています。ところが『女大学』になると、理由は書かずにこうせよ、ああせよと箇条書きになっています。ですから、『女大学』は当時のジャーナリズムが益軒の名声を利用してつくりあげたものといえましょう。

小山

益軒の主たる著作は……。

井上

藩の仕事としては『黒田家譜』と『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』です。
『黒田家譜』は延宝6年(1678)に光之の命で、まず13巻本を。そして宝永元年(1704)に15巻本を完成しています。これは幕府が諸大名に命令して藩主の事績をもとにした藩の歴史を書かせたもので、益軒の特徴があまり出ていません。
彼は幼少のときに転々と移りかわって、浪人時代には本草(薬草)の知識を得るために、大がかりなハイキングをやっていたようですから、むしろ地理の方に興味があったようです。
それで、以前から風土記を書きたいと願いを出していました。だから『筑前国続風土記』は、相当性根を入れて書いているようです。
甥の好古(よしふる)を連れて領内をくまなく巡歴し、山に登って地形を俯瞰(ふかん)することを繰返しています。夜は庄屋宅に泊まって、組頭からいろいろな情報を得たり、実地見聞にもとづいて筆をとっています。
好古がずいぶん力になったようですが、残念なことに、博多の分を完成せずして亡くなったので、博多・福岡の分は益軒が70代の体に鞭打って仕上げています。さらに好古の記述で合点がいかないところを、もう1度念のために見てまわったりしている。
70の身でいちいち回るのはたいへんだと弟子に嘆いていますが、元禄16年、74歳のときに完成し、藩主に献上しています。

小山

文字どおり畢生(ひっせい)の労作ですね。『筑前国続風土記』にはどういうことが。

井上

当時の福岡、博多などの概要がのっていますね。筑前国の民戸は51,639軒で、人数293,091人。
福岡部の民家数が1,525軒で、人口が15,009人、博多部の民家数が3,118軒、人口は19,468人とくわしい。

小山

福岡と博多で民家が4,643軒、人間が34,477人。当時ですから、なかなかの町だったのですね。

井上

町内別もたとえば、呉服町が家数57軒、「此(この)町を始められし始め、呉服を売る商人を置ける故に町の名とす……」とあります。
そのほかに山伏の人数から、神社、寺の数、船の数、はては牛馬の数、そして各町内の由来まで克明に述べてあって、いま読んでもたいへん興味ぶかいですね。

小山

筑前国続風土記の「続」というのは。

井上

奈良朝の官命でつくられた『風土記』の続編ということで、たいへんな気負いがうかがえます。 提要2巻、福博はじめ15郡8百余村に及ぶ郡記21巻、古城・古戦場記5巻、土産考2巻という膨大なもので、益軒70代の労作だから驚きます。

博物学者としての著『大和本草』

東軒夫人の書いた漢詩

西島

やはり『養生訓』の先生だけある。すごいエネルギーですね。そのほかにも……。

井上

現在、学会で博物学の文献として非常に重んじられているのは、16巻からなる『大和本草(やまとほんぞう)』です。これがもっとも益軒らしい著作と言えますね。
本草というのは応用博物学といいますか、1種の薬用を兼ねた園芸趣味と漢方薬の両方を兼ね備えた学問です。

西島

「本草学」とは、だいたい薬を見つけるための学問でしょう。

井上

薬用博物学ですね。植物ばかりではなく、動物、それから鉱物にまでわたっています。
国書刊行会が益軒全集を型を小さくして分冊販売をした際、この『大和本草』が1番売れたそうです。
この中で彼は猫についても書いています。動物学的説明のあとに、猫は同じ動物類のねずみを食べるので不仁の動物だから飼ってはいけないと。ところが、自分は飼っていて、「この猫は顔つきがいいからおまえにやろう」と弟子の竹田春庵(たけだしゅんあん)にやっています(笑)。

西島

大先生の言ってることと実際とは違ってて(笑)。

井上

それから、儒者としての著作としては『大疑録』。これは、朱子学に対する疑いを述べたもので、亡くなる85歳のときにまとめています。
彼は初め、朱子学と陽明学の両方を勉強するつもりでしたが、京都遊学のときに、朱子学一途に変わるんですね。山崎闇斎や木下順庵との往来が影響したのかもしれません。
彼は再出仕したので、幕府が奨励する朱子学に進んだのだと考えられないでもないのですが、陽明学は直情径行型のところがあって、それに比べると朱子学はものをひとつひとつ調べて、その結果から法則を引き出す、そういう朱子学のものの考え方が益軒には合っていたんでしょうね。
しかし、次第に疑念をもってくる。弟子の竹田春庵も朱子学に疑いを持っていました。益軒は「確かにそのとおりだが、それを言うと異学と思われるから口にするな」と言っています。
一応『大疑録』をまとめますが、すでに仕官をしていたせいか遠慮してるようですね。民間の材木問屋の伜の伊藤仁斎は、朱子学を徹底的に批判して古学派という新しい学派をたてますし、荻生徂徠(おぎゅうそらい)も徹底的に批判しています。益軒はそこまで言えなかったのか、考えが及ばなかったのか、朱子学の観念的な面だけを批難しています。
この『大疑録』は益軒の死後、徂徠学派の1人が朱子学を批難するために、出版しています。

小山

私が益軒先生の著書として知っているのは、先ほどお話のあった『女大学』と『養生訓』ですが……。

井上

『養生訓』は自らの健康状態を資料にしたようですが、天と地の恵みによって人間が生まれてくる。自分は、父と母のいろんな作用によって生まれてくる。すなわち、天地父母の恩で生まれてくるのだから、身勝手なことをしてはいけない、と述べてあります。
お医者さんで評論家の松田道雄さんが、出された『現代語訳養生訓』では、「今の人間は病気になったらすぐに薬で解決しようとするけれども、人間の体内には病気を治す力を蔵しているのだから、欲を抑え、治癒能力を発揮させて、病気に勝たないといけないと益軒が述べるのは、全く現代人に聞かせたいところだ」とあります。
益軒の死後数年のち、この人は100歳ぐらいまで長生きした人だと本屋が書きたてて、新聞1ページ大の厚い和紙で養生訓の広告を出しています。

敬天思想に基づく万民平等の意識

益軒の残したメモ

小山

なくなられる前の年に朱子学批判の本を書かれたり、養生訓、女大学、地誌と、ずいぶん幅の広い活動で、頭のやわらかな方だったのですね。

井上

そうですね。いわゆるコチコチの儒者とはかけはなれたスケールの大きい人でしたね。
幼いときに、親にしたがって、あちこちと移り住んだので、漢文の勉強が遅れてしまった。そのかわり、民間にいたので、『平家物語』や『太平記』など和文のものを気ままに多く読んでいます。あまり若いときから漢文をつめこむと頭がカチンカチンになりますが、益軒は和文のものを読んでますので、儒家としては柔軟な考え方ができたんでしょうね。
益軒は、サービス精神に富んだ人で、できるだけ多くのものを読んで、わかりやすく要約して、それを大勢の人に伝えたいと考えていたようです。そういう学風でしたから、従学者は少なかったが、出版物を通じて、あちらこちらにファンを持っていた、大きな影響力を与えたといえるでしょうね。
また益軒を1種の博愛主義者・民本思想家ということもできるようです。それは彼が天に対し宗教的な深い崇敬の念をいだいていたからです。天はすべての人の上に蔽(おお)いかぶさり、すべての人に同様に恵みを与えるものと考えたからです。
彼は、藩の重臣たちに「同様に天の生んだ子である民を虐(しいた)げると、必ず天の罰がめぐり来て凶歳・飢饉が襲来する」と繰り返し、諫言して、善政をしくことを説いています。

小山

益軒さんが、京都や江戸にまで聞こえた存在になられたのは、何歳ぐらいからですか。

井上

浪人時代に手に入れた朱子学に関する基本的なテキスト『近思録』を読んで、『近思録備考』を著した頃から、学会に知られだしたようです。また28歳で京都に遊学したときに多くの人と交際して、名を知られるようになったんじゃないでしょうか。

西島

あれだけの大儒学者がいると、黒田藩も格好が良かったですね。

井上

ええ。たとえば、水戸藩が『大日本史』を編纂するために佐々助三郎(さっさすけさぶろう)が資料を集めにくるわけです。藩は益軒に依頼しますが、資料集めにあちこち回るのは面倒だから、主だった資料を借りてきて太宰府神社の1室で見せています。佐々は非常に喜んで、宮崎安貞が農業全書を出すときには、益軒の求めに応じて序文を書いてよこしています。

小山

黒田藩がもう少しこの大学者を大事にすれば、益軒も塾をつくれたかもしれませんね。

井上

17世紀後半では、好学の士が福岡周辺にそれほど多くなかったんでしょうね。益軒のメモ帳によると、従学者の数が福岡藩内に40人あまり、他の国出身者に15人ほどいます。しかし、自分の家に塾をつくって教えるまでには至っていないですね。
益軒没後7、80年たって亀井南冥(かめいなんめい)の頃になると、好学の気風が一般に滲透して塾がうまれるのです。

思想家というより科学者だった益軒

小山

黒田藩からは大切にされたのですか。

井上

光之によって次々に加増されて、晩年に3百石になっていますから、優遇されたといえるでしょうね。
60歳すぎて致仕(ちし)(辞職)しようとしても、まあまあと引き止められています。最初は不遇でしたが、光之に仕えて腕前を発揮することができて、晩年は幸せだったと思いますね。

小山

益軒の後世への影響は……。

井上

ひとつは実証的博物学をやって、その結果を『大和(やまと)本草』でまとめあげたということですね。そういう博物学的研究を介して、当時の主流である朱子学のもつ観念的なものへの疑いを深め、それを、『大疑録』として後世に残さざるを得なかった。
幕末に来日した有名なシーボルトは、益軒のことを「日本のアリストテレス」と評しています。アリストテレスは博物学を学び、実証的な哲学を唱えた人ですね。益軒は浪人時代に実証的気風を育てた人で次第に朱子学のもつ観念性に疑いを持ったわけですね。

小山

益軒はどちらかというと思想家というより実学家だったんですね。

井上

本質的には実学者です。しかしそれから得たものを、たとえば、晩年の教訓書(いわゆる『益軒十訓』)の中に人生論として生かしていますね。

小山

益軒の思想の中核をなすもので、現代にも通じるものといえば……。

井上

問題が大きくて簡単には言い尽し得ませんが、晩年の『養生訓』 の中の一言をもって代用させていただきましょうか、その中に、「心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。凡そわが身を愛し過すべからず」といっています。
身体は適当に鍛錬しなければなまるが、心はできるだけ楽しくもって、くよくよせずにやってゆこうと、現代的に解釈したいですね。

西島

益軒先生は薬草の心得も深かったそうですが、博多のものが先生に診てもらったという記録は……。

井上

そういうことはないようですね。
ただ家族や、知り合いの人たちに、どういう薬を、どういう割合で調合して与えたということを、晩年の「用薬日記」に書きのこしています。

西島

益軒先生は、周囲の人たちとのつきあいはどうだったのでしょうか。

井上

益軒は知行地を与えられていましたので、その領分の農民が盆や正月には季節の野菜をみやげに、手伝いにくるんですね。益軒は彼等の生計に気をつかって、飢饉には米や麦を貸し与えたり、困っているときはお金を融通してやったりしています。

西島

人間味のある大学者だったんですね。

井上

そうですね。養生訓の中で、晩年に京都に行って南蛮酒の毒味をして、翌日は頭が上がらなかった、焼酎と南蛮酒は成分が同じだから飲みすぎてはいけないなんて書いている、面白いひとでもありますよ。

小山

大江戸の文化から離れた博多にいてあれだけ有名になったんですから、凄いですね。

井上

学問と出版文化の中心であった京都に、つながっていたから強かったんでしょうね。なにしろ24回も京都へのぼっていますから、京都とたえず連絡をとって、動向をキャッチしていたのではないでしょうか。

小山

ずいぶん情報マンだったんでしょうね。

井上

そうです。それに益軒の死後しばらくして享保(きょうほう)の時代が始まりますね。時の将軍は徳川吉宗で、この人は「民をして知らしむべし」という方針で、民が知らないから罪を犯し罰を受けるのだと、教化政策を推し進めました。
そういう波にのって教訓書がたくさん出ましたので、益軒の平易な和文で書かれた教訓書が、よく読まれたんですね。ですから、生きているときよりも、むしろ死後有名になったということでしょうね。

司会

大きくて身近な益軒さんのお話を、どうもありがとうございました。

井上 忠氏 略歴

大正4年4月生、昭和13年九州大学国史科卒、西南学院大学教授を経て、現在福岡大学人文学部教授。著書、益軒資料(全7冊)、近著に貝原益軒(吉川弘文館)がある。その他日本洋学史、日本科学史の研究、亀井南冥、昭陽全集の編集等。