No.13 広田 弘毅

対談:昭和55年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
北川 晃二氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


日本の飛躍を願い外交官を志す

広田弘毅 年譜

西島

私は博多生まれの博多育ちですから、広田弘毅先生が博多出身であることはよく知っていましたし、昭和11年に総理大臣になられたときは、たしか私が高等小学校に行ってた頃で、鍛冶町(現在、天神3丁目)の石屋のおうちに行って祝辞を読まされたのを覚えています。

北川

私も修猷館の3年生で、広田さんが修猷館卒業ということで旗行列をして、おうちの前まで行きましたね。

小山

今の若い人は知らない人が多いんじゃないですか。

西島

福岡県で総理大臣になった人は広田さんだけですが、意外とその内容までは知らない人が多いですね。

小山

広田さんの一生をかいつまんでお話しください。

北川

広田さんは明治11年2月14日、福岡市鍛冶町(現在は天神3丁目)で広田徳平の長男として生まれました。それから、大名小学校、修猷館と進み、一高に行ってます。当時、藩閥政治が終わりをむかえ、帝大を出た人がエリートコースにのるというように、情勢が移りかわり、勉強ができればどこの生まれの人でも偉くなれる時代になっていました。それで、広田さんは一高に進んだんです。

日清戦争で遼東半島の割譲を受けましたが、ロシア、フランス、ドイツから干渉(三国干渉)を受け、遼東半島を返還しなければならなかった。広田さんは、これは外交が弱いからで、将来日本を飛躍させるには外交を強くしなければならないと、修猷館を卒業するときに外交官になろうと決めています。

一高から、東京大学の法科に進み、明治38年、日露戦争が終わったあとに卒業して、外交官の試験を受けるんですが、残念ながら落ちています。そこで、福岡出身で当時外務省の政務局長だった山座円次郎(やまざえんじろう)さんの紹介で、朝鮮統監府の試験を受けて就職、翌年外交官試験に合格して念願の外務省に入っています。まず北京公使館に赴任、ついで山座円次郎が大使館参事官をしていたイギリスに転任、ロンドンに行き、帰ってきて通商局第一課長、その後アメリカ大使館一等書記官、情報部次長、欧米局長、オランダ公使、そしてソ連大使になり、昭和7年に待命。その年に成立した斉藤実内閣の外務大臣、ひきつづき昭和9年岡田内閣の外務大臣、昭和11年の二・二六事件のあと総理大臣に就任。総理大臣は10ヶ月ぐらいでやめて在野の人となり、終戦をむかえ、極東裁判の判決により、昭和23年12月23日に処刑されています。今年はその33回忌を迎えるわけです。

混沌とした昭和初期 推されて総理大臣に

ロンドン在勤時代(明治42年)の広田弘毅・静子夫妻

西島

二・二六事件のすぐあとに総理大臣になられたのですか。

北川

そうです。

小山

なぜ、広田さんに白羽の矢がたったんでしょうか。

北川

議会の第一党の党首が総理大臣になるというのは若槻内閣(大正15年から)から昭和7年ぐらいまで続きました。ところが、昭和6年に軍部によって起こされた柳条溝事件をきっかけに満州事変が勃発、政府は不拡大方針をとりましたが、軍部により昭和7年3月には満州国が設立され、国際連盟から派遣されたリットン調査団が事情調査を始める。

同年5月には五・一五事件がおこって政友会の犬養毅首相が暗殺されてしまう。もうこの状態では政党に政府はまかせられない。軍を押えるためには、軍出身の総理大臣がいいが過激な陸軍では困る。比較的穏やかな海軍の出身者がよかろうと、犬養さんの次に、海軍大将の経歴のある斉藤実さんが選ばれたわけです。挙国一致内閣でしたが、帝人事件で昭和9年に斉藤内閣が総辞職すると、同じ方針で退役海軍大将の岡田啓介が選ばれます。当時、海軍は対米戦争もやむをえないと想定していましたが、比較的に穏健でした。陸軍は満州国を根拠に、ソ連と中国との二正面作戦を考えていました。だから、陸軍にとっては、穏健派の出身者が総理大臣になると困るわけです。そして、昭和11年2月26日に二・二六事件がおこり岡田首相は難をのがれたが、斉藤実前首相、高橋是清蔵相ほか軍、政の要人が暗殺され、内閣総辞職となります。

軍出身でも押さえられないとなると、若くて、国民の誰もが信望を寄せられる人を、それと中国問題を解決できる人間をということで、広田さんが総理大臣に推されたのですね。

だいたい、当時の総理大臣は、最後の元老であった西園寺公望さんが天皇陛下の御下問を受けて推薦していたんです。このときも西園寺さんはまず近衛文麿さんを推しています。当時、近衛さんは47、8才の若さで、陸軍にも受けがよく、摂関家の出で家柄も非常にいいわけです。ところが、5尺8寸(181センチ)もある立派な体格の持主なのに気の弱いところがあって、どうしても総理大臣にはならないと辞退するわけですね。それで、いろいろと話をしているうちに出てきたのが広田さんなんです。

そのとき吉田茂さん(元首相)が一枚かむわけですが、吉田さんと広田さんは外交官の同期生でした。吉田さんはストレートで外務省に入っています。義父・牧野伸顕(大久保利通の三男)の関係もあり、つねにエリートコースを辿っていました。当時、吉田さんは近衛さんとは非常に近く、近衛さんの名まえが出ると当然吉田さんの名前も出てくるわけですね。それで、吉田さんが、近衛さんに広田さんを推すようにすすめ、近衛さんは西園寺公に強く広田さんを推薦したのです。当然、吉田さんは広田内閣の組閣参謀になり、外務大臣が予定されました。この閣僚名簿をみた陸軍が承知しませんでした。というのは、吉田さんは欧米と友好関係を結ぼうとしていたし、自由主義者ということで陸軍の拒否にあったわけです。それで広田さんもやむをえず吉田さんをあきらめて、外務大臣を兼任するんです。

広田内閣 昭和11(1936).3.9~昭和12(1937).1.23
総理:広田弘毅
外務:
広田(兼)
有田八郎
農林:
島田俊雄
内務:
潮恵之輔
商工:
川崎卓吉
小川郷太郎
大蔵:
馬場(鉄へんに英)一
逓信:
頼母木桂吉
陸軍:
寺内寿一
鉄道:
前田米蔵
海軍:
永野修身
拓務:
永田秀次郎
司法:
林頼三郎
書記官長:
藤沼庄平
文部:
潮(兼)
法制長官:
次田大三郎

博多っ子には珍しくねばり強い人だった

小山

広田さんが総理大臣になって片づけなければならなかったことはなんだったんですか。

北川

「粛軍」です。軍の横暴を押さえ、文官で政治を行っていくということです。その頃、陸軍は統制派と皇道派に分かれて派閥争いに終始し、とうとう皇道派の青年将校が二・二六事件を起こしました。統制派も皇道派を押さえるために、中国でなにかを起こさなければならない、という気分になっていたのですから、粛軍ということが、広田内閣の第一の課題だったわけです。

小山

そうした流れの中で推されて総理大臣になった広田さんもたいへんだったでしょうね。

北川

そうですね。昭和4年、浜口総理大臣が、昭和7年の五・一五事件で犬養さん、11年の二・二六で斉藤さんも暗殺されるというテロの時代でしたから、総理になれば殺されるという意識が当時の人にはありましたね。総理大臣になれば、まず第一に右翼からねらわれる。しかも、陸軍を押さえ、海軍をならしていかなければならない。国内は疲弊しきっており、おまけに中国問題でソ連、アメリカ、イギリスとうまくいかない。内外ともに非常に問題が多かったんですね。ですから、今みたいに、俺もなりたい、俺もなりたいという時代ではなかったんですね(笑)。

小山

広田さんのやり方は一刀両断バサッとやるんじゃなくて、大勢をみつめながら、結果をジワッと思っている方向に持っていこうというやり方だったんじゃないですか。

北川

広田さんはねばり強い人だったようですね。「むずかしい時勢で難問が多いが、ねばってねばってねばり通してやりとげなければならない」と言っています。一番いい例がソ連の大使のときで、今と同じように北洋漁業の問題が一番大きいわけです。当時は領海3海里が常識だったんですが、ソ連は領海12海里を主張してゆずらない。12海里というと、カムチャッカ、オホーツク海の沿岸には日本の船が入れないことになり、ずいぶん打撃を受けるわけですね。たいがいの人だったら、しょうがないと折れるか、そんなら協定ナシでいこうと決断するかで2~3ヶ月か半年で終わるはずの漁業協定を1年2ヶ月かかって、とうとうソ連に折れさせて、領海3海里をのませています。スラブ民族はねばり強い、ソ連のような国を相手にするには、それ以上にねばらなければ負ける、とねばりにねばったわけですね。

小山

博多の人はねばり強い人が少ないようですけどね。

北川

血気にはやるという面が多いですね。しかし、その点では広田さんはちがっていました。

西島

北川さんが書かれた『黙してゆかむ』や城山三郎さんの『落日燃ゆ』で、広田弘毅さんのことをくわしく知ることができるのですが、えらい人、郷土のほこりとは思っていても、何をされたかというと、よく知りませんでしたね。博多の人ですが、外交官を志望されたというだけに、ものごとをよく見通せた方だったんでしょうね。少年時代から秀才だったのですか。

北川

いや、広田さんは、とびきりの秀才というわけではなかったようです。修猷館では4番ぐらい、一高に入るときは10番ぐらいで、外務省の試験は一度落ちてますしね。しかし、人間としての洞察力はすぐれていたようです。博多の人は短気ですからね。短気では物事を判断できない。柔道に身をいれながら、精神面は論語を受読し、自制心を養っていたようです。

当時は毛並を重視、でも彼は自力で偉くなった

小山

広田さんは、時代の要望を背負って総理になられたのでしょうが、10ヶ月あまりで総辞職されていて、ちょっと残念ですね。

北川

広田さんはねばり強い人なんですが、やめるときはあっさりやめてますね。当時、浜田国松という政友会の代議士が、昭和12年1月の再開議会で「陸軍が強力な軍事内閣を作ろうと考えてるらしい」と非難しました。寺内寿一という陸相は坊ちゃん育ちでカーッとなる性質で、「君の発言のなかには軍を侮辱する言葉がある」ということで論争になり、あげくのはては、浜田代議士が「侮辱はしていない。侮辱していたら自分は腹を切る。私がしていなかったら、あんた腹を切りなさい」と今でも議会史上有名な「腹切り問答」が行われ、寺内陸相は議会を解散しろといい出しました。広田さんは軍があまりに横車を押すことにあきれはて、内閣の総辞職にもっていったんです。

小山

次は、近衛内閣の外務大臣になられましたね。

北川

第一次近衛内閣で、外相の人選が大切ということで、西園寺さんや木戸幸一さんの要望があり、近衛さんに是非にといわれて就任したのですね。それが昭和12年の6月のことでしたが、広田さんは不運でしたね。というのは、それから1ヶ月して7月7日、蘆溝橋事件がおき、これをきっかけに日中事変、そして太平洋戦争にまで拡大するのです。

中国に介入しないというのが広田さんの信念でしたが、陸軍はつぎつぎに派兵を続け事変は拡大してしまいます。広田さんは徹底して反対しましたが、とうとう「蒋介石を相手にせず」の政府声明となってしまうのです。

怒りを内にかくして激怒することのない人でしたが、南京残虐事件の報が入ったとき、広田さんは「皇軍」がかかることでと体をわななかせながら、杉山陸相に抗議しています。さすがに陸相も返す言葉がなく、松井司令官に厳重警告しました。

にもかかわらず極東軍事裁判で日中開戦と南京虐殺に戦犯として大きな責任を負わされたのですからあまりといえばあまり、悲劇といえばこれ以上の悲劇はありませんね。そして、広田さんが一言も弁解していないのですから、尚更ですね。広田さんは13年の5月に外務大臣を辞めています。近衛さんも気持ちを察してでしょう、あえて慰留していませんね。

小山

それからのちはずっと在野で過ごされましたね。たしか、当時の新聞には「重臣に御下問」というときには、必ず広田さんの名前も入っていたと思いますが、広田さんが重臣というのは、天皇陛下が資質を見込まれて、相談相手になると思われたからなんでしょうか。

北川

まあ、はっきり申し上げますと、必ずしもそうじゃないんです。元老である西園寺さんが昭和15年に亡くなられたので、そのあと過去に総理大臣の経験がある人を重臣としていろいろの相談をなさったのです。いわゆる重臣会議です。

広田さんが陛下にとくに信任が厚かったかということはちょっとわかりませんね。陛下は広田さんが総理になることについて、西園寺さんに「広田は名門の出じゃない。それで大丈夫か」ということを言われたそうです。広田さんは名門の出じゃないし、親類・縁者に偉い人がいませんからね。当時はまだ、本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれてたわけですね。陛下は言葉数が少なくポンと言われるので、広田に対する信任がないんだというような人もいて、広田さんはとても気にしていたようですが、広田さんは陛下の言葉を広田さんに対するいたわりにとろうとしています。

自己弁護を一切せず戦犯として死刑判決

西島

昭和21年に戦争犯罪人を処罰するために開かれた東京裁判のとき、広田さんはほとんどしゃべらなかったと聞いていますが。

北川

東京裁判で広田さんの一番大きな罪状とされたのは、さっきもいったように南京虐殺事件と日中戦争を始めたことです。南京虐殺事件は、昭和12年12月14日に日本軍が南京を占領して、南京の一般民間人を虐殺した事件です。当時南京には中国の敗残兵が大勢もぐりこんでいて、一般人と兵隊の区別がつかず、また、日本兵も殺伐となっていたときに起こった事件で、外務省関係は全く知らずに、2週間ほどたって初めて知ったという状況だったんですが、連合軍は外務省がこの事件を黙認したとしたんですね。

広田さんが東京裁判でほとんどしゃべらなかったのは、天皇陛下に累が及ぶことを一番心配されていたからだと思います。広田さんは御前会議にも重臣会議にも出席してますし、日中戦争が始まるときにも陛下をまじえた話し合いがもたれたわけですが、陛下はあまり御意見をおっしゃらず、こうしたいと思いますが、という軍の発言に、うなずかれることが多かったようです。

それに、なんにしても太平洋戦争の入口になった日中戦争のとき外務大臣という要職にあったことは間違いありませんからね。私は中国とは戦争したけれどもアメリカとはしなかったなどという弁解は、広田さんのもっとも嫌いだったことです。責任的地位にあったことを否定する気はまったくありませんでした。

戦争が終わってすぐ戦争犯罪人が連合軍司令部から指名され出したので、広田さんも自分のところにくると覚悟されていたようです。昭和21年1月に逮捕されたんですが、同年の5月18日に奥さんの静子さんが自殺されています。奥さんは、来島恒喜と盟友だった玄洋社員の月成功太郎さんの娘さんで、死所ということを、幼時から教えられていたのでしょう。常々、広田さんが「責任は免れない」と言っていたので、自分や家族のために夫にうしろ髪をひかれる思いをさせちゃいけない、と自殺されたんですね。子どもさんたちがすぐに面会に行って報告しても、広田さんは「そうか」といっただけで動揺の風は見せられなかったそうです。

西島

北川さんがもし裁判官だったら、広田さんの罪はかなり軽いんですか。

北川

無罪とまではいかなくても軽いでしょうね。東条内閣の外相だった重光葵(まもる)さんは禁錮7年ですが、それよりも軽くないといけないですよ。

西島

広田さんが自分を弁護しておられたら、もっと軽くなっていたんですか。

北川

当然、そうでしょう。最後は投票ですからね。広田さんの場合、6対5の1票差なんです。インド代表のパル判事は広田さんの死刑判決に憤慨して「裁く者の手も汚れている」と叫んだものです。オランダ代表のローリング判事も「広田は、彼に対する起訴事実のすべてについて無罪としなければならない」と主張しています。単に、広田さんがオランダ公使をやっていたということからだけではありません。

北川

私も戦争に行って帰ってきたわけですが、責任の所在をはっきりすべきだと思いましたね。広田さんは戦争にそれほどかかわっていなかったんじゃないか。むしろ止めようとしていた感が強い。ところが、戦争を起こした責任は政府にあるという気持ちで、死刑になっても黙してゆかんという姿勢に感動しますね。我々もひどい目にあったけど、たいしたことなかったんだと納得する気持ちがありますね。

北川

広田さんは論語が一番のよりどころで、東洋的思想の持ち主なんです。いろんなことをしゃべると、他の人をはじめ天皇陛下にまで迷惑がかかるという気持ちが強かったんですね。

広田さんには、外人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、ほんとうのことをいえば重い刑になることはないんですから」としきりにすすめたけど、占領軍の一方的な裁判だから言ってもどうにもならん、と受け入れなかったそうです。それで弁護士は、被告本人が自分の刑を軽くする努力がないから弁護士は引受けられない、と途中でかわっているんです。

戦犯収容所の巣鴨拘置所の日本語教誨師となった花山信勝さんが、広田さんの刑が決まってからいろいろと説教をするんですが、広田さんは「坊主が勝手なことをいうのを聞く耳はもたん。自分には自分の信念がある」とかなり怒られたようです。それで、花山さんは広田さんをどうもよく言われてないですね。

東京裁判そのものについての批判がいろいろありますが、戦争犯罪の最大のものは原爆じゃないかという気もします。それをおいても、広田弘毅を死刑にしたのは大きな過ちだと思いますね。

人脈が全然ないのが広田さんの魅力

西島

広田さんは頭山満さんの玄洋社員だったんですか。

北川

広田さんは玄洋社の社員になったことはないんです。玄洋社の多くの人たちや、もっとも右翼の団体である黒龍会を作った内田良平さんなどと知りあいだったために、極東裁判では右翼であると見られています。これは非常に不利だったようですね。

玄洋社の評価も右翼の固まりといったとおり一辺の見方ではいけないんですよ。頭山さんにいたるまで、彼等の頭にはいつも自分よりも国という、まあひとつの大義があり、それに基づいて行動しているんですね。

玄洋社は、明治14年に平岡浩大郎を社長として、頭山満、箱田六輔進藤喜平太(進藤福岡市長の実父)らが創立した旧福岡藩士中心の結社で、右翼団体と見られがちですが、ひとつの革新をめざすものでもあったのです。皇室中心でしたが、従来の藩閥政治から国民の手に政治を取り返すという民権運動をやってるんですよ。

小山

広田さんの人脈は…。

北川

玄洋社の社員ではありませんから、そちらの系譜はないですね。明治政府には、福岡藩から金子堅太郎栗野慎一郎などの高官が出てますが、財務、司法関係が多く、外務関係の人脈は山座円次郎くらいです。外務省内でいえば、小村寿太郎、のちには加藤高明幣原喜重郎の流れを汲んでいます。

西島

そうした中で総理大臣になられたのは、よっぽど人望があったのでしょうね。

北川

見る人がみれば、広田さんの大きさがわかっていたのでしょう。

家は石屋さん、幼いときは貧しかった

西島

広田さんのうちは、ずっと昔からの石屋さんですか。

北川

おとうさんの徳平さんは箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入っていたんです。真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になっています。黒田長政は入国して福岡城の守りを固めるために、御笠川、那珂川、樋井川沿いにお寺を建てたんですが、塀に石材を多く使ったので石屋が多かったのですね。

西島

そうですね。今でも京都についで多いらしいですね。

北川

ところが、広田徳平さんの時代は明治維新後でたいした建築もなく、福岡では亡くなる人も少なかったらしくて、商売あがったり、たいへん貧乏だったそうです。それで広田さんは小学校に入ると藺草や松葉を売り歩いたり、葬儀のさいに泣き屋のようなバイトをしてたそうです。一高に行くにしても金がいるんですが、平岡浩太郎さんの紹介で、明治専門学校(のちの九州工大)を作った松本健次郎さんがスポンサーになっています。

小山

学資を出してあげても、総理大臣にまでなるんですから、出しがいがありますね。

北川

東公園の亀山上皇の銅像には、あの銅像を彫った石工の名前が書いてありますが、おとうさんと石屋を継いだ弟の徳右衛門さんの名前もありますよ。

西島

水鏡天満宮の鳥居の掲額の字を広田さんが書いたと聞いてますが…。

北川

表の鳥居だとかいろいろ説があるんですが、私は旧電車道に面した鳥居の上の「天満宮」という字だと思うんです。徳平さんが氏子ですから鳥居を引受けて、誰か「天満宮」と書かないといけない。広田さんは小学校のとき書道の塾に通っていて非常にうまかったんですね。あの「天満宮」というのは非常にうまいですけど子どもの字ですね。

西島

広田さんは子どものときは「弘毅」ではなかったと聞いてますが。

北川

広田丈太郎(じょうたろう)といってました。中学卒業後東京に行って、外交官として偉くなろうと思ってましたので、どうも丈太郎という名前はよくないというんで、信仰している禅宗のお坊さんに相談に行ったわけですね。

西島

いくつぐらいのときですか。

北川

中学卒業直前ですから17、8ぐらいでしょう。お坊さんから「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて「弘毅」とつけたんです。これは、よりどころとしている論語からとったようです。当時は改名が難しくて、改名するんだったら1年間は僧籍に入らなければならなかったので、1年間寺に入ったということにして改名しています。

親孝行の広田さん

聖福寺にある墓石。左・弘毅夫妻 右・両親の墓

西島

広田さんはどんな人だったんでしょうか。

北川

私たちも子どもの頃お会いしたことがありますが、とてもざっくばらんな人でした。外務省に入る人はみんな身だしなみのよい人ですが、広田さんは小さいときからきれい好きじゃなかったらしいんです。東京に浩々居(福岡出身学生の寮)を作って仲間と一緒に生活していましたが、「広田が炊事当番すると困る。便所に行って手も洗わんから」ということだったらしいですね(笑)。

髪の毛もいつもボサボサだったらしいんですが、韓国統監府に就職する前に散髪に行ったりしてきれいにしだした。「なんごとそげんきれいにするとかいな」と人に聞かれると、「嫁さんもらうっちゃけん、少しはきれいにしとかないかんめえ」というんです。それでも、外務省の田舎っぺということで、少しずんだれとったようですよ。

それに、ユーモアに富んだ人で、郷里の人にとってはわりと話しやすい人だったようです。しかし、こんな話もあります。情報部次長のとき、新聞記者ともざっくばらんに話していたらしいんですが、新聞記者のなかにはいわゆる外務省発表だけじゃ満足せず、各局に行って話を聞いて記事にしていた人もいたんですね。そうすると、記事をとれなかったよその記者が来て、広田さんにどうしてそういう記事を発表しないのかと文句を言うわけです。広田さんは「俺はいちいち新聞記者の監督はしとらん」と大声でどなり、その記者をちぢみあがらせました。広田さんは柔道が強かったので、おこるとこわかったらしいですね。岡田内閣の外務大臣のときの話ですが、中国問題でいきり立って大臣室に乗り込んできた陸軍の青年将校2人を一喝してすごすごと立ち去らせたこともあります。

それに、おもしろいエピソードが残っています。広田さんはものすごく英語が苦手だったらしくて、外務省試験に落第したのも英語が悪かったからなんですね。それで松本健次郎さんが「外交官になる人間が英語ができんじゃ困る。アメリカ大使館に行って勉強してこい」といわれて、広田さんは大使館付武官の通訳をやってるんです。ところが、君は英語が下手だからやめてくれ、といわれたそうです(笑)。

西島

私は学校で広田さんが親孝行だったという話を聞きましたが。

北川

そうです。広田さんが欧米局長のときに、おかあさんに東京を見せたいとわざわざ迎えにきて汽車に乗せるわけですね。ところが、おかあさんは乗り物に全く弱くて、折尾まで行ったら「もう行ききらん」ということになった。それじゃ休憩してから行きましょうと、折尾の宿に2、3日泊まって「もういいでしょう」ということになったんですが、おかあさんが汽車はいかんといい出した。それじゃ人力車で東京に行こうかということになったんですが、人力車もこわいと言うんです。仕方がないので、折尾から博多までおかあさんをおんぶして帰ってるんですね。

小山

広田さんが福岡に尽くされたことはなにか。

北川

外交官から総理大臣という経歴ですから、地元に橋をかけたり、工場を誘致したといういまごろの大臣のような話はありません。ただ後輩の指導には熱心でした。浩々居をつくったのもその一つです。

小山

おしまいに、広田弘毅さんに先生が魅かれるものを、おさらいのようですが…。

北川

その人間的魅力ですね。実に平凡な家庭人でありながら、外交官・政治家としては無私の境地で仕事にあたる、心優しさと毅然たるものを持つ二面性。だれもが、自分もそうあってほしいと思っているんじゃないでしょうか。同時に、広田さんは卓越した洞察力を持っていました。「自分は50年早く生まれすぎた」ともいっています。そのとおりです。現在、広田さんがいたら日本の政治はほんとうに清潔で、庶民のための庶民の政治が行われているにちがいありません。なによりも駆け引きのない、責任ある政治を意図していたのですから…。

小山

どうもいいお話をありがとうございました。