No.14 福岡城

対談:昭和56年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
日本放送作家協会理事 帯谷瑛之介氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
九州総合信用株式会社社長 小山泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


天下を取りそこねた黒田如水

福岡城 年譜

福岡城

小山

舞鶴城と言われている福岡城のこと、あまり知られてなくて残念ですね。

西島

どうも、熊本城のように山の上にそびえたっていないせいか、福岡の人も関心が低く、平和台の城址にはじめてという人も多いですね。

帯谷

そういえば、観光バスの案内でさえ、以前は、天守閣もありません……と、なにやら粗末な城という感じを受けましたね。福岡観光について市の観光課が主催して半年以上もかけて話しあったことがあるのですが、観光のシンボルというと、どうしても福岡城が浮かびあがってくるんです。なんといっても知将、名将の黒田如水長政が心血を注いで築城した名城で福岡のシンボルですね。

小山

福岡城はいつ頃できたんですか。

帯谷

慶長6年(1601)、つまり関ヶ原の戦の翌年から築城にかかっています。徳川の世の中になって、7年後の夏の終わりまでに城をつくれということになるんです。弘前城は、特別の許可をもらって慶長8年から8年もかかって築いていますが、ほとんどの城はその7年間につくられています。

西島

それじゃ、関ヶ原までは福岡には城がないわけですね。

帯谷

今は東区になっていますが、名島に小早川隆景(こばやかわたかかげ)が造った名島城があっただけです。
関ヶ原は、司馬遼太郎さんの名作があるし、テレビのドラマになったりしてますから、御承知の方も多いでしょうが、端的にいうと黒田長政がどちらにつくかというのが勝敗の分かれ目みたいなものなんですよ。豊臣秀吉は、五大老、五奉行の制度を設けていましたが、五奉行が今の内閣ですね。浅野長政石田三成増田長盛(ましたながもり)、長束政家(なつかまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)の5人で行政官僚、経済官僚という人たちでしたが、石田三成は一般行政担当として1番の切れ者だったんですね。
黒田家は家伝の目薬が有名で、財をなしたといわれるぐらい理財にあかるい家柄でした。長政は勇将で豊臣恩顧の大名でもありましたから、石田三成は味方につけたかったでしょうね。だが実際は、長政が福島正則とともに家康側の主力となって働き、関ヶ原のきめてとなった金吾中納言秀秋の裏切りまでさせてしまう。関ヶ原の戦いは三成と長政の戦いであった……と言えますね。

黒田如水

長政だけでなく、父の孝高(よしたか)(如水)も天下に知られた知将で、秀吉や家康からも、本気になれば天下をうかがう器量があると、敬遠されていた人物でした。関ヶ原の戦の前には蔵の金を全部はたいて、九州の浪人をかきあつめ、西軍加担の大名の留守城を、加藤清正とともに次々に攻めおとしているんです。九州で残っているのは薩摩の島津と柳川の立花ぐらいという目を見はることをやっているんです。
こういう話がありますね。東西の合戦で少なくとも1ヶ月は雌雄が決しないだろう。どちらが勝っても戦い疲れのところに、九州軍をひきつれて攻めのぼり、天下を取ろうと考えていた。ところが、息子の長政が秀秋を裏切らせたために1日で終わってしまった。「この親不孝ものめ」と烈火のごとく怒ったというんです。このときは、本気で天下を取るつもりだったろうと思いますね。

長政の抜群の働きで筑前国を手中に

黒田長政

帯谷

関ヶ原に勝つと、家康は豊前、中津で12万石だった長政に筑前52万石をくれるんですね。なんといっても東軍勝利の最大の功労で、当然の論功行賞でしょう。元寇のあとを見ても、その他の戦争を見ても、戦後の論功行賞の不満で政権が揺(ゆ)らいでくるんですね。足利尊氏なんかその良い例でしょう。元寇のときは進入軍を撃退しただけですから、奪った土地も賠償金もなにもない。北条氏は論功行賞で困ったでしょうね。
関ヶ原では、いわば日本の半分を没収したようなものですから、思い切った論功行賞ができて、これで徳川幕府の基盤がかたまったといえるんです。如水や長政は中津にいて博多の地の利は十分知っていましたから、筑前国がほしかったでしょうね。
筑前の守というのは、守護の位の中では最高の位にはいるんですよ。秀吉も羽柴筑前守だったでしょう。

西島

筑前守が守の中でも高位だったというのは、筑前に大宰府があったからですか。

帯谷

おそらくそうだと思います。それに、天変地異もなく、当時は、外国に向かって開けている唯一の港ですから、富がある。大名にとっては、ぜひ領地にほしいところであり、垂涎(すいぜん)の地だったでしょうね。
徳川にとっては島津と毛利がこわいんです。特に島津の国力たるやたいしたもので、秀吉ですら手こずったほどなんです。関ヶ原では、最後まで動かなかったけれども、結局は敵方にまわってるわけですから、家康にとっては相当にこわいわけです。筑前の国をくれと言ったら必ずくれるという狙(ねら)いがあったのは、黒田が福岡に入れば、島津に対する押さえになるし、島津と毛利の間にくさびを打ち込む形になるわけです。そうなると、家康は安堵(あんど)するだろうと考えたわけです。金吾中納言のあの裏切りがなかったら、関ヶ原の勝敗はどうなるかわからなかったんですからね。だから、家康はすぐに筑前国を与えていますし、子子孫孫まで疎略にしないという感状まで与えているんです。

福岡城は場所探しがたいへん

帯谷瑛之介氏

帯谷

長政は慶長5年にまず、名島城に入るんですが、大大名になったときの格式があるわけです。52万石の体裁を整えるためには、名島城では手狭(てぜま)なものですから、さっそくどこに城を築くかということになるんです。まあ、今でいえば、県庁移転のようなものですよ。

小山

名島城というのは……。

帯谷

島津征伐の功で、小早川隆景が筑前国守となって築いた城です。3方を海に囲まれ、後ろには立花山がそびえている難攻不落の城ですが、城内も、まわりも狭くて、52万石の国守の城には不十分なんですね。

西島

天守閣はあったんですか。

帯谷

天守閣はないんですが、それに近い櫓(やぐら)はあったようです。秀吉の居間のようなものもありますし、秀吉が隆景や金吾中納言秀秋を置いて、九州全体を監視させた城ですから、そうお粗末な城ではなかったようです。けれども、なにぶん手狭ですから、そこで、いろいろと場所探しが始まるんです。
最初、箱崎を見ていますが、箱崎は砂地で城壁ができないし、平地ですから攻撃されやすいので駄目。その次に、今の住吉神社一帯を見ています。昔は、あの付近は大湿地帯で、特に春吉は、春だけ野菜ができて、夏になると水浸しになるようなところで、それで「春吉」という名前がついたというほどですからね。そういう湿地帯に城を築くのは、たいへん困難なわけです。
次に荒津山(いまの西公園)をねらっています。当時、西公園はまだ島で、海に囲まれているんです。3方海というのは構わないんですが、後ろが弱くて、博多の町のほうから攻めてこられると、攻め落とされる懸念がある。それに水がないということで断念。それで結局、福崎―現在のところ―に目をつけるわけです。当時、あそこは赤坂山や大休山がありましたが、山をけずって、あの城を築いているんです。

小山

それで現在の地名「赤坂門」が残っているんですか。

帯谷

そうです。赤坂門から簀子(すのこ)町にかけての地質は下が岩盤で、それも、あの地に決定した要因のようです。西の方は大きな入江で、裏(現在の「谷」あたり)がたいへん深い雑木林で、入ったら出てこられないといわれていたほどで、のちに、その雑木林に樵(きこり)に化けた精鋭を住ませて守らせています。そして、前は海と地の利がいいので、ここに城を築くことになったんです。

小山

盛り土でなく、山を削って築いたんですか。

帯谷

そうです。赤坂山の上には警固神社があったんですが、城を築くために現在のところに移しています。下から積み上げていくんじゃなくて、自然の山の形をうまく利用して築いていますね。山を削りとった土と、前の堀を掘った土を運んで、それまで島だった西公園をつないでいるんですよ。そこに一番町から五番町までつくって、一番町には精鋭の機動隊を100人ほど住ませていたそうです。
7年かけて約24万坪の城域に城をつくりあげたのですが、一説には朝鮮の役でみてきた、堅城晋州城を手本にしたと言われています。その城を見て加藤清正が、「俺の城は3日か4日で落ちるけれど、この城は30日、40日は落ちない」と言って驚いた、という話が残っています。それにしても、天守閣もないし、石垣もない城なのに、加藤清正にそう言わしめたんですからね。それで、私は、福岡城は逆転の発想でできた城だと言ってるんです。現在の城域は堀もいれると約14万6千坪というところです。

天守閣がなくてもよく見えます

西島

福岡城の天守台はけっこう高いんですね。ビルが立ち並んでいる現在も糸島の方から志賀島、立花山まで見渡せるんですからね。朝日国際マラソンが有名になったので、よそから来られた人は福岡城に連れていって、あの天守閣に登って、この下が出発点ですと説明しています。だから、高い櫓(やぐら)は必要なかったのかもしれませんね。

帯谷

それも天守閣を築かなかったひとつの理由ですね。
水野出羽守が、当時の赤針(せきしん)流や賛四(さんし)流という城を造る専門家2人に、城造りの要点を討論させています。それを見ると5ヵ条あって、当時、それが城造りの公式となっています。第1条は、地勢の件左のごとく問いただし候。その方位はいかに候や、その形状はいかに候や。第2条は塁石の件、左のごとく問いただし候。その基塁は何を用い候や。第3条は守楼の件と書いてあって、天守閣がすでに出てきてるんですね。そのご本主はいかに建て候や、つまり、天守閣をどういうふうに造るか、そして他のものがどういうふうに天守閣をとりまくか、をたずねています。第4条には食料や水をどういうふうにするか、天変地異のときにどういうふうに備えるか。最後が、特別曲塁の奇策左の如く問い正し候、と書いてあります。これは特別な仕掛けのことですね。万年水、つまり貯水池をどこにつくるか、抜け穴をどこにつくるか、いざというときの隠れ場所や、天守閣内に迷うような部屋をどういうふうに仕掛けるか、見えずの落とし穴をどういうふうにつくるかというようなことをたずねています。
これを見ると、天守閣というのは初めから城を造るときには頭に入ってるわけですね。天守閣はどういう役目があるかというと、「天守閣十徳」というのがあって、次のようになっています。

  1. 城内を見る
  2. 城外を見る
  3. 遠方を見る
  4. 城内武者配りの自由(戦闘指揮所という意味)
  5. 城内の気を見る
  6. 守護の檄の自由(いざとなって守るとき、すべての命令が行き渡る)
  7. 寄手の左右を見る
  8. 飛物が自由に使える高さ
  9. 非常時の変化
  10. 城の飾り(住民に対する威圧感)

ひっくるめて考えると天守閣は戦闘の指令所と展望所、威厳の象徴であるということですね。しかも、戦闘の最終拠点でなければならない。そのための食糧や武器の貯蔵庫でなければならないわけです。
天守台にあがってみると、高いビルが建っていても、糸島から志賀島、東は立花山まで見えるんですよ。そうするとあの上に更に天守閣を造る必要はないんです。ましてや、関ヶ原で長政は大軍をひき連れて戦ったし、国もとの如水はまた九州中の浪人を雇って西軍加担の城を攻めているので金がないんですよ。
黒田が福岡に入ってくるときは、博多商人に威丈高(いたけだか)な手紙を送っていますが、最初に威を示すことも必要だったのでしょうね。しかし如水は臨終のときに「博多商人を大事にしろ」と言い残しています。城の建築費もずいぶん博多商人がもってるんですよ。そうすると、商人に対する威圧感は必要ないわけですね。

長政のかげで舵取る如水

帯谷

もうひとつの理由は、なんといったって徳川への深謀遠慮ですよ。壮大な城を造ったとすれば、「こりゃ、あぶない」と目をつけられるけれども、黒田もさすがにくたびれて天守閣も造りきらなかったということになると、1番安心するのは家康だという見通しがありますね。あの高さまで石垣積んで、この上に天守閣を造りますよ、と言わんばかりに礎石まで置いていますが、造ってない。以後幕末までつくりませんでした。

西島

でも、江戸で殿様同士が集まって、天守閣がないのは格好が悪かったんじゃないでしょうか。

帯谷

いや、ニヤニヤ笑ってたんでしょう。華麗な城をつくったところは、ほとんど取り潰されていますからね。清正も次代の広忠のときに潰されてますし、福島正則もあれだけ関ヶ原で働いているのに、豪雨で石垣がくずれたのを無断で修理したということ(了解をとっていたということですが)を口実に、まったく因縁をつけるとしか言いようのないことで潰されてます。

小山

戦国を生きぬいただけに長政はなかなかのもので、先が読めたのですね。

西島伊三雄氏

帯谷

そうです。長政が築いたと言われている中津城は天守閣も立派で地の利も非常によくて、名城のひとつになっています。それが福岡でまったく造らなかった。非常におもしろいですね。
福岡城は長政が築いたと言われていますが、私はどうも如水の考えが大分はいっているのではないかと思います。あの地に決めて図面を引いているのは如水ですからね。博多の街まで加えたスケールの大きな「城づくり」は、どうも如水の器量からでた案じゃないでしょうか。

小山

如水は徳川の世になってから、家康の眼をさけ、さっぱりと世を捨てて隠居したと聞いていますが。

帯谷

あれだけの人物です。陰ではずいぶん働いているでしょう。実戦の部隊長は長政ですが、その後ろで舵を取ったのは如水だと思いますよ。

常識を打ち破った城づくり

帯谷

私は、福岡城の傑作はお堀だと思うんです。忍者が書いているのを見ると堀が深いほど忍びやすいというんですね。もぐっていけるから。今の秒数にしてたかだか40秒あればどんな広い堀でも渡れるそうです。あの堀は初めから浅くて当時の設計図らしいというものを見ると深いところと、浅いところが市松模様になってるんです。

西島

浅いと思って歩いていってたら、ズボッとうまるんですね。

小山常務

帯谷

今は埋まっているのでわかりませんが、もぐるには浅すぎる、といって立って歩くにはやっかいで忍びようのない堀だったようです。しかもまわりは土手でしょう。土手というのは登りにくいんですよ。戦時中、空襲のときに兵隊がだいぶんあそこに飛びこんでるんですが、みんな上がるのに往生したと言ってましたね。ちょうど手が掛かるぐらいの所に石垣があるんですが、現在は塀ぎわに小さい道のようなものができていますが、昔はなくて、堀からまっすぐで、なかなか上がれない。それでもやっと塀を越えても、城側の槍ぶすまでばっさりやられてしまう。金をかけずに、城の常識を打ち破った素晴らしい城だと思いますね。

それに、大濠のさらに西にある樋井川と、東は那珂川を外堀にしています。さらには、西は室見川、東は多々良川まで勘定に入れて城づくりをしています。つまり、町全体を城に見たてているんですね。当時のメーンストリートは、現在の50メートル道路で、関所があった石堂橋を渡り、西中島橋を渡ると今の電通と東急ホテルの間に桝形(ますがた)門があって、実はこれが城の大手門になるわけです。城から離れたところに大手門を持ってる城は、日本にひとつしかないですからね。これをまちがえて、城にくっついてる門が大手門だろうと考えたものだから、大手門一丁目なんてまちがった名前がついたんですね。
道もそして門から海までと国体道路まで川沿いに高さ10尺(約3メートル)の石垣を築いています。ですから福岡と博多は完全に別の町になっています。現在の50メートル道路だけが1本の幅の広い道で、あとは全部細い道で、おまけに橋もつくらせないんです。だから、住吉から警固に行くのに船で渡ってるんですよ。橋をつくらせなかったのは、攻められたときに橋があったらいかんということですね。大砲なんかを引っぱって通れる橋は1本しかないわけで、その西中島橋ですら、明治になって架け替えるときの理由書に山笠が走ったら落ちると書いてあるくらいの危なっかしい橋で、あとは板を並べたような橋があるだけなんです。いつでも引き落とせる、といった状態ですね。

東から攻めてきたとして東中島橋をめざして、博多五町筋をひた走りに走るとします。東中島橋の手前、麹屋町から掛町、橋口とほぼ直角に曲げています。その曲がり角にパッと出せる「隠し家」の塀のようなものがあるんですが、それを出すと道を塞(ふさ)いでしまうでしょう。すると、町筋は那珂川と並行に海に向かう。ですから、走ってきた者はドンドンそっちの方に行って海に落ちるという具合になるんです。またそれを突破して福岡に入ったとしても、今度は万町の角、今の西鉄グランドホテルの所に同じしかけがあって、攻めて来た連中は肥前堀(現国体道路)へまっしぐらというしかけになっている。大したもんです(図参照)。

ところがこの桝形門が、博多と福岡の仲が悪いという原因をつくったんですね。明治になって初代の山中立木市長が「博多から福岡の町が見えんし、福岡から博多の町が見えん。それが2つの町の人情を隔てている。あの門と塀をとっぱらってしまえ」と言ったので、取り払われたわけです。現在は下の台石だけがいくぶん残ってます。
しかし、この桝形門と東中洲(藩領)が、徳川300年、町人の町博多の自治を守らせたと言えるんじゃないですか。博多の人は関所もなにもないから東中洲へ簡単に遊びに行けるんですが、侍たちが行くには、まず黒門外の住人だと黒門で検問を受けて、また桝形門で検問を受けなければならない。帰りもそこを通るわけだから、そんなに酔っぱらえないわけですね。たいへん苦労したと思います。だから、西公園の下から船を出して中島にあがったという話がたくさん残っているんですよ。
また中洲は歓楽街もさることながら、常に新しいものをつくり出しているんですよ。11代目の、幕末のときの殿様だった黒田長溥(くろだながひろ)は蘭癖大名と言われ科学にたいへん目の利いた人で、中洲に研究所兼工場(製煉所)をつくって鉄砲の鋳造、ガラス、薬品、染料なんかをつくっています。島津家から婿入りしてきた人で、斉彬公と同じように開明的な殿様だったのですね。調べてみると明治になって最初の公会堂も中洲にできていますし、病院も、新聞も、活版印刷も、肉屋も、新しいものはたいてい東中洲が始まりです。
私は、あの桝形門があったおかげで、そして東中洲が1種の自由地帯として間にあったため、博多商人が300年間実質的に自治を保てたんじゃないかと思うんですがね。あの門で侍の町と商人の町にかちっと分かれている。しかもその間に藩の土地なのにむしろ町人の土地のような東中洲がある。なにしろ税金まで自治の形で納めていますからね。

お寺も要塞に早がわり

西島

川に沿ってお寺がたくさんありますね。

帯谷

黒田藩は奨励してお寺をたくさんつくらせています。川沿い、海沿いに2重にも3重にもつくらせて、お寺の数は京都についで多いそうです。これは、墓石を鉄砲の弾よけにするという狙いがあって、萩がそれを真似ています。

西島

それから、みんなの集会場所にもなりますね。

帯谷

そうです。いざ戦争になったときは本堂に庭がありますから、武士が集まってきても困らんでしょう。戦闘宿舎がアッという間にできるわけですよ。それを初めから考えて、無理して糸島の寺を持ってきたり、あちらこちらに頼んでつくってるわけです。

小山

その寺は博多の方にできてるんですか。

帯谷

博多の方にもありますし、福岡の方にもあります。

西島

今の「親不孝通り」にもけっこうありますね。ビルの中に寺だらけという感じです。

帯谷

幕府の隠密(おんみつ)が探りにきても、お寺はいっぱいあるし、まことに平和な町のように見える。けれども実際は、墓石を弾よけに考えている。加藤清正はあの城だけを見て感心したのではなく、町全体を見て「これはたいへんなもんだ」という感じを抱いたんじゃないでしょうか。そういう意味で、福岡城は戦国時代の逆転の発想の第1号のようなものですね。
天守閣はつくらなかったのですが櫓を47もつくっているんです。それは全部武器庫ですし、食料の貯蔵庫になっています。たとえば、多聞櫓(たもんやぐら)に入ってみてびっくりするのは、上に編んである竹はすべて弓の矢になる竹ですし、それを結んでいるのが全部干しワラビです。それはいざとなると、もどせば食料になるわけですね。こういうふうにすみずみまでちゃんと考えたものをつくっています。

抜け穴まであった不落の城

小山

今の城跡のどこになにがあったという配置はわかってるんですか。

帯谷

ええ、それは全部わかってます。
殿様がいろんな人を引見したりする政治の中心であったところが1番上です。それから、奥方が住んでいたところ。久野・野村など重臣8人は全部お城の中に住んでいました。いざというときに城内ですぐ会議が開けるような状態じゃないといけないですからね。今の裁判所のあたりに住んでいたようです。ところが「大名町」があるでしょう。バスガイドさんも「ここは大名が住んでおりました町でございます」なんて言われるんでおかしくてたまらないのです。たしかにある程度の身分の人が住んでいましたが、本当の大名は城内に住んでおります。あの町は名島の大名町をそのまま移した町です。禄高の順で言いますと、高い人ほど城に近く、遠くなるほど低くなります。

西島

朝日国際マラソンのときに選手が走り出てくるところが下の橋でしょう。平和台の入口は上の橋ですね。

帯谷

そうです。「上の橋」が城全体の玄関で、「下の橋」は通用門です。そして入口には大きな門があったわけです。ところが明治になって全国的に、片っ端からお城を壊したんですね。福岡城もそうで、二の丸から本丸にあがるところにあった門は、崇福寺に山門がないもんだから、おまえんとこは代々殿様の菩提寺じゃないか、引き取れといわれて櫓2つと山門をいやいや持って行ってるんですよ。ですから崇福寺の山門は純粋な山門ではありません。
汐見櫓も海の方にあったものを現在のところに移しています。

西島

お城の中に梅の木を植えているのは、どこの城でもですか。

帯谷

どこでもたいてい植えていますが、梅干し用の梅です。あの梅林のところに抜け穴があったんですよ。戦後、近所の公民館の館長さんが100メートルぐらい腰に縄をつけてもぐったんですが、途中でおそろしくなって引き返したことがあるそうです。その方向から行くと黒田別邸の友泉亭に抜けていたという話です。友泉亭の近くの人は戦前福岡市内への近道だというので、この抜け道をよく利用したそうです。あそこまで抜ければ川もあるし山深くも入っていけますからね。途中も安全ですし、この話は真実性があります。

見れば見るほどすばらしい城

西島

郷土史家の波多江五兵衛さんが、汐見櫓に卍字がついていると言われてましたが、あれは本当ですか。

帯谷

如水がキリシタンでしたから受けいれられやすいお話ですね。初めは十文字だったのを隠れキリシタンだと見られたらいかんから、卍字の形にしたんだという話が残ってますが、まあ、それくらいキリシタンに対して神経を使っていたという証拠にはなりますね。たしかに刻んであります。
如水という人はあの時代をあれだけ生きぬいてきた人で、しかも武将の中では珍しいインテリで、ヒューマニストなんです。実は彼は純粋なキリシタンで、葬式は橋口の教会でやれ、といい残しているぐらいなんです。キリシタン大名というのは珍しくないのですが、そのほとんどは宣教師が持ってくる科学技術や医術を手に入れるためにキリシタンになるだけで、如水のような本当のキリシタン大名はあまりいないんですよ。
如水は若い頃に足を悪くしてるうえに背も低く風采もあがらないので、秀吉の重臣たちからは冷ややかな目で見られている傾向はあるんです。秀吉が重臣たちを集めて言った話の中に「私が今日ここまでやってこれたのは、みんな如水のおかげだ」というと、みんな苦笑したというんですね。それで「おまえたちはそう思うかもしれないが、自分がなにかを考えて行き詰まったときに、相談したらすぐ答えるのは如水1人だ。しかも、自分が考えぬいて今度はここまで、という話をすると、如水はもっと先を考えていた。私が今日あるのは如水のおかげだ」と言ってるんです。しかも、如水が本気で天下を取ろうと思ったら、如水のものになるとまで言っています。それを聞いて、如水が表だたなくなるわけで、権力者の気分を知りぬいていて、如水はやはり乱世を生きぬいただけの人ですね。

西島

汐見櫓の門にいっぱい傷がついているでしょう。

帯谷

あれは、明治の竹槍騒動のときのものだと言われています。

小山

竹槍騒動というのは。

帯谷

農民一揆です。明治6年地祖改正で金納となって農民に重税がかかり、しかも旱魃(かんばつ)で生活は苦しくなるばかり、そこで同年6月一揆が起こったのですが、発端は嘉麻郡高倉村の雨乞いで、これがちょっとした行き違いから、筑豊、宗像、粕屋などの農民30万人の暴動に発展、博多に乱入して大暴れに暴れています。途中宇美の小林本店(萬代)もやられていますし、博多では石橋源一郎さんの造り酒屋鳥羽屋など滅茶苦茶です。当時酒屋は大金持ちですから、まっ先に狙われています。鳥羽屋では壊された桶から流れ出た酒が井戸に流れこんで何年も井戸水が酒臭かったと言われています。
その暴徒たちが、当時県庁のあった福岡城へ攻め入ったとき、竹槍で突いたのが、あの門の傷だと言うのです。竹槍騒動は明治以降今日まで、福岡市では規模から言って最大の暴動、最大の大事件です。

小山

それ以後、現在まで、お城の移り変わりといいますと。

帯谷

それ以後は明治9年(1876)県庁が城内から天神へ移り、それから10年後の明治19年(1886)24聯隊が入ってきて終戦まで兵営です。終戦後23年の第3回国体のとき平和台陸上競技場がつくられて開会式が行われ野球場も出来て、スポーツの平和台として全国的に知られているわけです。
いずれにしても福岡城は、天守閣のない名城です。堀と土手に見る逆転の発想の見事さ、作家の白石一郎さんがおっしゃるとおり、よく見れば見るほど、調べれば調べるほど、アイデアに満ちたすばらしい城だと思います。「福岡城は天守閣もなーんもない城じゃろうが」とおっしゃらずに、胸を張って自慢してもらいたいのです。

小山

興味深いお話、どうもありがとうございました。

帯谷 瑛之介 氏

元RKB毎日放送のプロデューサーで、現在、博多町人文化連盟事務局長。放送作家、作詩家、風俗史研究家で、『博多の味』ほか著書も多い。博多麹屋蕃「帯屋」の13代目。