No.15 川上 音次郎

対談:昭和56年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地方史研究家 柳 猛直氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


音二郎といえばオッペケペー

川上音次郎 年譜

小山

明治の演劇界で活躍した川上音二郎は、「オッペケペー」と「壮士芝居」で有名ですが、彼は博多出身なんですね。

川上音二郎は実名ですが、彼の生家は対馬小路にあった、かなり大きな藍問屋で、文久4年(1864)1月に生まれています。早くにお母さんが亡くなって、継母(ままかかさん)が来るんですが、音二郎はこのままかかさんとどうもおりあいが悪かったようで、14歳のときに家出をするんですね。ちょうど明治10年の西南戦争の最中で、政府の物資が続々船で送られるので、博多の船だまりが出船、入船でたいへん活況を呈していましたからいい按配と、14歳の音二郎は船にもぐりこんで、早く言えば密航みたいにして大阪まで行くのです。

大阪で見つかってつまみ出され、歩いて東京まで行ったということで、その後壮士になるまでの波乱万丈のいきさつは、本人が話してますが、多分に脚色されているようで、私はちょっと怪しいと思ってますが…。伝説の人物は、本人の言ったことが一番あてにならんということもありますからね(笑)。

当時は薩長の藩閥政治に対抗して、板垣退助を総理に、中島信行、後藤象二郎等が立憲政府の確立、自由の拡張などを主張し、自由党を組織して自由民権運動が盛んでしたが、音二郎は自由党の壮士になるんですね。壮士は官憲に対抗した政治青年と言うことができるでしょうが、中には政治的な色が多少ついているだけで、ゴロツキのような連中も多かったでしょうね。演説はもちろんですが、腕力提供もしばしばで、しょっちゅう官憲につかまって、ブタ箱に放りこまれていたようで、それを誇りにしていたところもありました。当時の血気さかんな青年は、正規の学校には行かずに、壮士になる人が多かったんですね。

明治20年頃になると、自由民権運動の取り締まりが非常に厳しくなって、壮士は東京から追い払われたりして、生計がたたなくなるんです。壮士仲間で岡山出身の角藤定憲(すどうさだのり)という人が、生活できないと、当時フランス流の進歩的な民権思想家だった中江兆民に相談に行くんですが、兆民が「君たち芝居をやったらどうか」と言うんですね。「演説はするけど、芝居はできません」と言うと、「君たちはケンカはできるだろう。舞台の上でケンカをやっているのを見せたら、みんなが喜ぶぞ」と言われて、「それじゃあ」とそういう芝居を仕組んで、とっくみ合いのケンカをやるわけです。歌舞伎にも立ち回りというのがありましたが、これは、おどりに毛が生えたようなもので、角藤定憲がやり出した壮士劇は、実際にふんだり、けったりするので、しだいに評判になっていくわけです。

音二郎は、角藤の壮士劇を見て芝居を始めるんですが、その前にも明治20年に歌舞伎俳優に加わって、京都で出演したり、大阪落語の桂文之助に弟子入りして、浮世亭○○(マルマル)と名のって高座に出たりしていますが、その頃の高座の芸のひとつに「オッペケペー」があったんです。これは世間の出来事を面白おかしく語っていたものですが、たいして評判にもならなかったのです。それを音二郎が、自由民権運動にからませはじめてから評判になり、川上といえば「オッペケペー」、壮士芝居といえば「オッペケペー」と言われるようになったんですね。たとえば「権利、幸福嫌いな人に、自由湯(党)をば飲ませたい、オッペケペー、オッペケペー、オッペケペッポ、ペッポッポ」という具合ですね。

小山

「オッペケペー」というのは、なにか意味があるのですか。

あれは調子がいいから言うだけで特別な意味はないんです。一節やって「オッペケペー」でしめるという調子ですね。音二郎がオッペケペーをうまく自由民権運動に織り込んでいった、いいアイディアだと思いますよ。

オッペケペー節の扮装は、陣羽織を着てハチマキを締め、日の丸の軍扇をもって、はかまをはいてやっています。これは、「八犬伝」の端役、御注進の役で、音二郎が京都の歌舞伎時代に演じたことがあるそうです。この扮装がたいへん気に入っていたので、オッペケペーをやるときに、その扮装をしているわけです。

彼の壮士劇も次第に人気が出てきて、角藤定憲よりも有名になりましてね。堺の卯の日(うのひ)座で旗上げをして非常に評判になって、いろいろいきさつがあって、東京に出てくるんですね。

川上音二郎のオッペケペの文句

権利幸福嫌いな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい

オッペケペ オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポー

堅い裃角取れて(かみしもかどとれて) マンテルズボンに人力車

いきな束髪(そくはつ)ボンネット 貴女(きじょ)や紳士の扮装(いでたち)で

表面(うわべ)の飾りは立派だが 政治の思想が欠乏だ

天地の真理がわからない 心に自由のたねをまけ

オッペケペ オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポー

壮士芝居で派手に乱闘

音二郎が「平野次郎」に扮した錦絵

川上は相当の短気で暴れん坊だったらしく、しょっちゅういざこざを起こしては警察のご厄介になっています。

壮士芝居を始める前に、旅まわりの一座で京都に来たとき、先ほど言いました「八犬伝」に御注進役で出たときに、誰かが「あんな下手な奴をどうして出すか」と言ったところ、川上は例のいでたちに小道具の槍を持って楽屋にどなりこんで「今、俺の悪口を言った奴は出てこい。片っ端からつき殺してやる」と大暴れしたそうです。

東京に出てきても芝居小屋で大ゲンカして警察につかまっています。たとえば、芝居ですから当然悪役をやるものもいるわけで「自由党なんかけしからん」と言うと、客席にいるのはほとんど自由民権運動の連中ですから「ノー、ノー」と弥次るわけですね。自分は芝居の中だからそういうのであって、自分も自由党員だと言うけれど、客も酔っぱらって黙らないわけです。するといきなり降りていって、その人をポカッとやるんですよ。そしたら、その子分がやってきて大乱闘になった、なんてエピソードもあります。

西島

「オッペケペー」で政府批判をして引っぱられてたと思ってましたが、それプラスの暴力もあったんですね。

そうです。壮士芝居もいい加減なもので、一応台本はあるんでしょうが、同じものをそう何回もやれない。新しいものとなるとたいへんなので「口立て(くちだて)」といって、自分がこういうことを言うから、おまえはこう言え、と打ち合わせをやるわけですが、それが最後まではないんですね。あとは俺にまかしとけといって、舞台に出てある程度まではやるわけです。当時は臨監席というのがあって、警察官が見にきてるんですが、打ち合わせが切れる頃に猛烈な政治攻撃演説をするわけですね。すると警察官が「やめろ」。そこで「警察官の横暴はみなさんがご覧になった通りだ。官憲に抵抗はできないから、芝居はここでやめます」と言うと、観客も「よか、よか」となる(笑)。そういうでたらめなこともやっていたようです。

小山

川上音二郎はいつ頃もっとも活躍したのですか。

最初に評判になったのは、「板垣君遭難実記」で大当たりになったのですが、一番成功したのは明治27、8年の日清戦争のときですね。当時は新聞か号外しかなく、新聞といっても、まだ錦絵が盛んに出てた頃ですからね。そこで、川上音二郎が壮士芝居の仕立てで「実録日清戦争」をやるわけです。彼は非常に行動力のある人で、実際戦地に見に行ってます。前線まで出かけたかどうかわかりませんが、朝鮮半島までは行ってるようです。実況報告というんで、舞台で敵兵をメチャメチャにやっつけるんですね。観客は非常に喜んで、そりゃもうたいへんな入りで、収入もたいへんなものだったらしいですよ。

歌舞伎座でも川上にくわれるばかりじゃしゃくにさわるというんで、団十郎菊五郎という当時の名優を使って戦争劇をするんですが、こちらはさっぱり入りがない。おどりのようなチャンバラと川上の実録チャンバラでは比べものにならないわけですね。

壮士芝居は、新国劇以前に格闘やチャンバラを取り入れて、舞台では本当に柔道で投げ飛ばしたりするものですから、楽屋には医者がいて、骨折した人や怪我人の手当てをしたそうです。当時の劇評に「これだけやっておもしろくないのなら、死ぬよりほかに手はなかるべし」なんてのがあります。相当派手なものだったらしいですよ。

小山

芝居には女性も出るんですか。

いいえ、出ません。川上のあとにできた新派でも、最初は女性を使ってませんね。

女性役は女形ですが、面白い話が伝わっていますよ。女形でケンカの強い人がいて、振袖を着ていながら裾をまくって毛脛(けずね)を出して、ブンなぐったり、怪我をさせたりするんですね。警官が来て、娘姿のままじゅずつなぎにして連れて行ったりしてます(笑)。

一流の葭町(よしちょう)の芸者「貞奴」と結婚

音二郎と貞奴

西島

音二郎の奥さんの貞奴がすごくきれいな人だったらしいですね。

ええ、神田葭町(かんだよしちょう)の芸者で、「奴(やっこ)」というたいへんな売れっ子だったんです。その売れっ子がなんで壮士芝居の川上音二郎と一緒になったのか、9つぐらい説があるんですよ。なかには、伊藤博文が奴をとてもひいきにしていて、伊藤が川上に会わせてたいへん気に入って一緒になった、という話や、奴のお母さんが壮士芝居を見て、たいへんおもしろいから行っておいで、ということになって見に行った、という話や、奴が当時の中村福助に惚れていて、デートの約束をスッポカされたところ、川上音二郎も同じ場所で約束をスッポカされて、スッポカされた同士が結びついたとか、奴は乗馬が好きで、馬に乗って行ってたら落馬し、たまたま通りかかった川上が気つけ薬を飲ませた、という話。これが一番怪しいですね(笑)。

そういう伝説がいろいろ出てくるというのは、音二郎みたいな書生気質(かたぎ)の役者が、一流の葭町の芸者と一緒になるということが不思議だからでしょうね。

小山

音二郎がいくつのときですか。

30歳前後でしょうね。奴は明治5年生まれですから8つ年下で非常に売れっ子のときだったので、みんなびっくりしたらしいですね。音二郎は、それほど男前じゃなかったようですが、博多っ子の典型のような人で、非常に気っ風(きっぷ)のいい人だったらしいですよ。

奴は川上と一緒になって「貞奴」と名乗り、のちには芝居にも出るようになり、欧米巡業をしたり、女優の養成所を作って帝劇女優をうみ出したり、とにかくわが国最初の女優といえる人ですね。

日清戦争が過ぎると、戦争ものはオコリが落ちたように人気がなくなってしまうんです。

明治31年の衆議院選挙に、音二郎は立候補するんですが落選。そこで、有名なボート旅行を始めるわけですね。意図がよくわからないのですが、相当大きなボートに川上と貞奴と姪のつると犬1匹が乗りこんで、下田の沖からこぎ出します。本人の話では、千島に行くとか、アメリカに行くとか言ってますが、そんなことできるはずがない。いくらも行かないうちに横須賀の軍港に入りこんでしまうんです。

海軍につかまり、司令官から「バカなことをしちゃいかん、やめろ」と叱られるわけですが、川上は「いや、やめません、がんばります」と言ってきかないわけです。司令官も根負けして「勝手にしろ、ただし、子どもは乗せていくな」と言われて、あとは2人で行ってますが、結局は惨憺たる状態になって下田に着くんです。そのときの新聞を見ますと、また例の川上が大ボラで、とんでもないことをやりおった、と出ています。それで評判になるんですね。

音二郎に実際に会ったことのない人はそういうふうに受け取るんですが、会った人はすぐに彼のファンになるんです。ろくなことはせんけど、顔見ると文句は言われんような人がいるでしょう。「すみません」と言われると、マァ、しょうがない、ということになる。

大胆不敵に欧米巡業

そのうちに日本の芝居をアメリカに持っていこう、というアメリカの呼び屋に誘われて、川上は一座を組んでアメリカに渡ります。明治33年のことです。アメリカの西海岸に上がって、在留邦人を相手に芝居をするんですが、度胸があるというかなんというか、歌舞伎の衣装を持って行って、歌舞伎をやってるんですね。

ところが、呼び屋があがりを持って逃げ出したものだから、一行十数名はどうしようもなく途方にくれてしまうんです。川上夫妻は子どもがいなかったので、姪のつるをたいへんかわいがっていますが、どうしてもやっていけないようになって、サンフランシスコにいた青木という画家につるを養女に渡していくんですね。つるは、青木つる子と名前をかえて、のちにハリウッドの女優になります。日本の女の子は髪が黒くて長いものですから、インディアンが出てくる映画にインディアンの娘役で出たりしているうちに、ハリウッドでたいへんなスターだった早川雪洲と知り合い、結婚し、戦後も長く生きておられましたね。だから、早川雪洲は博多に来ると、承天寺の音二郎のお墓に参ったりしてますよ。

一行は、アメリカを横断して、ニューヨークやワシントンで興行しますが、ちょうど、イギリスからシェークスピアの本職の役者が来ていて、オセロの舞台を見て、「こりゃ、いい」と日本風に翻案してすぐに舞台でやるわけです。このあたり、心臓が強いですね。それが当たって、だんだん評判になるんです。もっと心臓が強いのは、ヨーロッパに渡って、本場ロンドンでシェークスピア劇をやるんですからね。それでもけっこう日本人がよくやると評判になるんですよ。

ロンドンで児島高徳をやったところが、海軍の軍人が一人来ていて、さかんに拍手してくれる。芝居が終わるとその軍人が楽屋にやってきて川上の芝居をほめます。例のボート事件でお説教をした鎮守府長官から川上音二郎という役者が、アメリカからヨーロッパの方をまわっているが、こいつは非常にいいやつで、もし、メシが食えんようになったらかわいそうだから、いよいよになったら軍艦に乗せて連れ帰ってくれとたのまれていたので、舞台を見に来たというわけなんです。

この軍人は上村彦之丞(かみむらひこのじょう)と言って、のちの日露戦争の名将、上村提督ですね。ウラジオストックから出てきたロシアの艦隊が日本の輸送船を次々に撃沈するので、上村艦隊が追跡して釜山沖で捕捉し、一隻撃沈して逃げていく船を追跡しようとしたら弾薬がなくなる。そこで、すぐに引き返して撃沈した船の船員の救助にあたり、700人ほど乗ってたうちの600人ぐらい助けてるんですね。ロシア人が「上村は素晴らしい軍人だ」と書いてますが、この人が見にきていたのですね。

フランスでアカデミー賞

川上音二郎の児島高徳

当時は明治33年から34年の間頃で、パリで万国博が開かれてたんです。一行にスポンサーがついて、万国博で歌舞伎をやったらえらく人気が出るんですよ。

パリの万国博でも人気が出だしたら、チョット物足らんところがあるから、「腹切り」をやってくれといわれるんですね。ところが、出し物の児島高徳にしても遠藤盛遠(えんどうもりとお)、この人はのちの*文覚上人ですね。どちらも死ぬ場面はないわけです。ところが、スポンサーの方は遠藤盛遠に切腹させるという。川上が「それではあとで文覚(もんがく)上人になれん」と言っても、どうせ、フランス人はそんなことわからないんだから、ハラを切らせろと注文されるんですね。

フランス人がそんなに切腹を見たがるのならよかばいと、とうとう遠藤盛遠が切腹するという滅茶苦茶芝居になるのですが、音二郎は一工夫して、立ったまま腹を切る「立腹(たちばら)」をやっているんですね。血のりをたくさん使って、ダーッと腹を切って、ダーッと血が出て、ドーンとひっくり返る。観客はすっかり喜んでたいへん大入りだったということです。そのほかに、道成寺(どうじょうじ)や鞘(さや)当てなどもやって、ずいぶん長い間万国博で日本の歌舞伎を見せています。

そのときのフランス公使が栗野慎一郎です。この人は元福岡藩士で、殿様の黒田長溥から留学生としてハーバード大学に行かせてもらい、帰国後は外交官として活躍し、子爵にまでなった人ですが、川上が博多の出身だというんで、ずいぶんかわいがっています。

あるとき、栗野から電話で「おおごとのできとるけん、ちょっと公使館に来ちゃらんか」と呼び出され、音二郎と貞奴がいそいでかけつけると、栗野夫妻はニコニコしている。「おまえたちに勲章が出るよ」と言われて、ビックリするわけです。明治30年代ですから、今みたいに歌舞伎の役者が文化勲章をどんどんもらう時代ではないですからね。まだ日本では、芸人は河原乞食の時代でしょう。国から勲章をもらうなんて考えも及ばないことですから、びっくりするわけですよ。しばらくしてアカデミー勲章をもらい、非常に感激したらしいですね。

小山

ヨーロッパでは「日本ブーム」のようなものがあったんですか。

ルノアールやロダンがさかんに活躍していたときで、浮世絵が非常に高く評価された時代ですからね。日本の文化だけが切り離されて高く評価されていた時代で、一種のエキゾチシズムというか、日本が興味を持たれてたのは確かでしょうね。

明治34年に日本に帰ってきて、すぐに「川上音二郎・貞奴漫遊記」を出すんですが、おもしろい本で、今私がお話ししたようなことが書かれています。

すると、すぐスポンサーがついて、今度は東ヨーロッパからロシアの方に行く契約になって、35年の秋頃出かけています。ちょうど日露戦争の前にロシアに入るわけですが、当時のペテルブルグ(現在はサンクトペテルブルグ)に行くと、フランス公使から転任して栗野慎一郎がロシア公使になってるわけです。川上一行はニコライ二世の前で御前公演をして、ダイヤモンド入りの金時計をもらっています。

ニコライ二世は、できれば日本と戦争をせずに済ませたいという気持ちだったらしいんです。そういったときに、音二郎と貞奴が日露の文化交流をし、文化使節の役割を果たしてくれたので、金時計を与えたんだと思います。とにかく異例のことですからね。

そうやって、外国をまわって帰ってくると、「川上はたいしたもんだ」という称賛の声と、「歌舞伎をろくにできもしないのに、ヨーロッパで、これが歌舞伎でござい、というのは国辱もはなはだしい」という酷評もあるんです。ところが、川上は「誰も行かんから俺が行ったんであって、そんなこと言うなら、そういう人が行けばいいじゃないか」と開き直っているわけですよ。これも理屈ですね。

当時、日本に対する文化的評価が高かった時代ですから、川上の功績は大きかったと思いますね。それに、むこうでシェークスピア劇や児童劇、近代的舞台装置だとかをたくさん見てきて、どんどん取り入れて、演劇の改革をやってますから、その功績は大きいと思いますよ。

名優ではないが演劇界に貢献

西島

新劇ができていくときに、壮士劇というのは手助けになったんですか。

壮士劇の流れをひくのは新派で、伊井蓉峰河合武雄喜多村緑郎、といった人々が新派を形成していきますね。

西島

音二郎が、その新派を指導したりすることはあったんですか。

それがおもしろいんですが、新派の人たちは、歌舞伎を旧派と見、自分たちの新しい芝居を“新派”と言って、門閥もなにもなく、芸が好き、芸がうまいという人たちでやっているんだという考えが新しい人たちのはずなんですが、川上音二郎が新派の祖と言われたり、彼らが川上の後裔だと言われるのをあまり好まなかったようですね。

小山

直接に弟子と先生という感じのつながりはなかったんですか。

それはなかったですね。新演劇の先輩だということでたてられてはいたでしょうが、新派の連中は、どちらかというと馬鹿にしている面もありましたからね。演技者として名人とはいえなかったと思いますが、演劇の方式とか舞台装置などを改革して、演劇界には非常に貢献しています。

西島

歌舞伎のカラを破ったという意味はあったんでしょうね。

ちょっとおおげさに言えばリアリズム演技というんですか。明治になって西欧の近代的な現実主義的な考え方が入ってきて、演劇の中にもそれが取り入れられるようになってきた。その早いところをバッとつかんだんでしょうね。

小山

当時の歌舞伎の権威はどうだったんですか。音二郎さんとの開きといいますか。

演劇の世界に入れば天と地の差ですね。音二郎が日清戦争の芝居をやってえらく当たったものですから、歌舞伎座の小屋の方がどうしてもやらないといけないというんで、歌舞伎座に音二郎を出すんです。大入りになったんですが、団十郎が怒って「舞台を削り直せ」と言ったという話が残っています。書生が踏んだ舞台を踏めるかということでしょうね。歌舞伎座は平身低頭して、団十郎にやっと出てもらったらしいですね。

そういういきさつもあったんでしょうが、団十郎が茅ヶ崎で亡くなったとき、音二郎は弟子に駅から団十郎の家までの道をきれいに掃き清めたりさせたそうです。また川上が宣伝して、と人がうわさしたらしいですが、恩讐を越えて、名優の死を悼んだんだと思いますね。

博多っ子の典型、川上音二郎

西島

音二郎がこれだけ有名になったのはどうしてでしょうか。

一種の鉄砲玉型のパイオニアだからじゃないでしょうか。アメリカやヨーロッパを回っていろんなアイディアを持って帰り、いろんなものを開拓しています。新派の連中はみんなバカにしながら、結局は川上が開拓したものにのっかっていますからね。そういう点では非常に気の毒な人ですよ。

西島

お話をうかがっておもしろいのは、音二郎がいろんな人に可愛がられ、好かれたということですね。

博多っ子の典型で、人に好かれる人間的に愛らしいところがあったんでしょうね。

西島

博多で興行したことはないんですか。

ずいぶん博多に来てたらしくて、博多に来るのをとても楽しみにしてたらしいですね。

高村光雲の弟子で、明治の木彫界の第一人者といわれた山崎朝雲や、日本画で有名な富田渓仙は、博多に来るのをあまり好まなかったらしいですね。朝雲は「べっ甲屋の春さん」、渓仙は「素麺屋の鎮五郎(しずごろう)」などと言われるものだから、あまり帰りたがらなかったそうです。

音二郎は、博多に帰ってくると「音ちゃん」「音しゃん」と呼ばれて、それが楽しみだったらしいですね。舞台に出て「あたしゃ、博多に帰ってくるとオトチャンと呼ばれよりますばってん、東京では先生とか呼ばれて、チィーとはえろうござす」と言うもんだから、とても親近感があったそうですよ。

音二郎も貞奴も子どもが好きで、グリム童話やアンデルセンの童話などの児童劇をよくやりましたが、博多では、小学生にタダで見せていますね。

小山

音二郎をうむ土壌が博多にあったんでしょうね。

芝居小屋はたくさんあったようですよ。博多はお金持ちが多かったので、かなりいい役者が来てますね。たとえば、7代目の団十郎が博多に来て仙がい(がんだれに圭)と会ってこんなことを話したとか、いろいろエピソードは残っています。劇場はずいぶんあったらしいですよ。

西島

戦前に私たちが知ってるだけでも教楽座、南座、博多座、九州劇場があって、席が枡割になってましたね。劇場がいくつもあったということは、役者がいっぱい来ていた証拠でしょうね。残念なことに空襲でほとんど焼けてしまいましたが…。

役者冥利、舞台で息絶える

小山

いつ頃亡くなったのですか。

明治44年(1911)に腹膜炎かなにかで亡くなってますが、過労がたたって体をこわしたんだと当時のものには書いてあります。成功したのちに大阪に帝国座という自分の劇場を作るんですが、もうダメだという日に、劇場の舞台に連れていってくれと、担架で舞台に運ばせ、そこで息を引取っています。

貞奴も音二郎の死後舞台をひき、のちには明治の実業界の大立物、福沢桃介の二号さんになっています。昭和21年に74才で亡くなっています。

小山

音二郎は一代の風雲児にふさわしい最期だったのですね。

そうですね。音二郎が亡くなって70年になりますが、演劇史の中では大きく評価されていますね。ある批評家は、「川上というのは正面切りたがる役者ですなあ。演技というほどのものはないでしょう」と言われてましたが、音二郎が演劇界に残した功績は大きく、それだけで割り切ってしまうのはかわいそうな気がします。彼はプロデューサーの才能もありましたから、48歳という若さで亡くならなければ、興行屋としても大成したと思いますね。外国との交流も盛んになっていたかもしれませんよ。

小山

愛すべき博多っ子、川上音二郎ですね。今日はおもしろいお話、どうもありがとうございました。