No.16 城下町 福岡の町並み

対談:昭和56年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州大学教授 秀村 選三氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


江戸時代の古地図(文化年間)

古い町「博多」、新しい町「福岡」

小山

秀村先生は、御専攻が経済史で、旧藩時代からの福岡の町並みにおくわしいとうかがいました。

秀村

専門は農村史なんですが、生まれも育ちも福岡ですから、肌で知ってるだけです。

 

西島

江戸時代からというと、黒田さんになってからで、私たちが子供の頃の町名や町並みにつながってるんでしょう。

秀村

そうですね。博多部は、古い歴史がありますが、福岡部の町並みは、慶長5年(1600)に黒田長政が入部して江戸時代になってからの町並みですから、現代につながっている面が多いんですよ。

西島

那珂川から石堂川までが「博多部」というのは、だいぶん昔からですか。

秀村

今の博多の町の原型は豊臣秀吉の再興のときからですが、港が平安中期ぐらいから現在の博多部に移っていますから、おそらく古代末、中世からでしょうね。

小山

那珂川から石堂川までというと、本当の博多は案外狭いんですね。

秀村

そうですね。今考えると狭い範囲ですね。でも、世界的に見ても古い町(オールドシティ)というのは、だいたい足で歩ける範囲ですね。福岡にしても、現在の今川橋から那珂川のあたりまでですから、歩こうと思えば歩ける範囲ですね。

西島

博多の港は、古くから(そで)の湊(みなと)として知られていますね。

秀村

石堂川の下流から西へ博多の方へ大きく入った入江です。江戸時代には、もう陸地になっていましたが、大水道が残っていました。これは、袖の湊がズーッと縮められて、最後に残ったものです。

西島

今でも残ってますか。

秀村

数年前までは、玉屋のところの博多大橋のもう1つ川下の寿橋のところに、大水道の入口がありました。今でもあるでしょう。学生を連れて行ったところ、学生が「入ってみましょうか」と言うんですが、もし事故があったらいけないとやめさせたんですが……。もう1方の入口は、石堂川のふちの入定寺(にゅうじょうじ)のところにあります。その大水道の上に石を置いてつくったのが、かつての博多情緒豊かな新道、つまり「寿通り」ですね。

小山

その入口には、石碑が立っているんですか。

秀村

いいえ。ただ大水道にかぶせてあった石の1つが櫛田神社に移してあります。

小山

今は下水道かなにかに。

秀村

さあ、どうなってるんでしょうか。ずっと続いているのかどうかわかりませんが……。

西島

袖の湊は、博多部の方なんですね。私は博多部から福岡部にかけての全体の海岸線だと思ってました。

秀村

海岸線は博多部の方が中世の袖の湊、福岡部の方も相当に海に入り込んでいて、お城のあたりから荒津山、そして東にずっと福崎といわれた岬が出ていて、その先端が洲崎だったのでしょうね。
遣唐使の時代(7世紀-9世紀)は、福岡部の方に船が入ったらしいですね。博多の大津は相当広い地域と思われますが、今のお城跡の一角には、外国使節や遣唐使を迎え入れる鴻臚館(こうろかん)がありました。
今の福岡部の方で官貿易がおこなわれていたんですが、次第に衰えて、私貿易が博多部の方で盛んになる。宋船は袖の湊の方に来ていました。宋との貿易は博多部の方で行い、博多には、宋人が相当居留していたわけです。

小山

江戸時代の海岸線と現在の海岸線はずいぶん違うんですか。

秀村

博多の方は、築港なんかで明治以降大分かわりましたが、福岡の方は、私の少年の時代までは、江戸時代とほとんどかわっていませんでしたね。今は変わってしまいました。

西島

そうですね。私は須崎のあたりで泳いでましたよ。

秀村

私は赤坂門に住んでいましたから、家から裸になって海までダーッと走って泳ぎに行ってましたね。
しかし、私が中学生の頃、現在の長浜あたりは埋め立てられて広っぱになり、日中戦争の初期にはそこにトラックを集めて軍用車に仕立ててドンドン送り出していましたね。

メインストリートは「六町筋」

秀村選三氏

小山

今日の本題の福岡の町並みなんですが……。

秀村

関ヶ原の戦いが終わって、慶長5年に黒田家が筑前一国を与えられて、まず名島に入ります。ところが、名島の城が狭いので、現在の場所、当時の福崎に城を構え、黒田家がおこった備前の福岡の地名をとって、福岡という地名をつけたんです。
現在の東急ホテルの北側に福岡部に入る「桝形門(ますがたもん)」があって、博多部を過ぎて中島の橋を渡ると、この門のあたりが城の構えのようになっており、幕府の巡検使が来て、「これは城のかまえか」とたずねると、「いいえ、福岡のかまえでございます」と、わかったような、わからんような答弁をしたという記録が残っています。
その桝形門を入ると、そこから橋口町です。今の日銀の前の通りですね。少し前までは、旧電車通りがメインストリートでしたが50メートル道路ができてからは、こちらにかわりましたね。昔もこの50メートル道路の線がメインストリートだったんです。もちろん道路は狭かったのですが。
橋口町から、中名島町上名島町呉服町本町大工町箕子(すのこ)、これが「六町筋」といって、福岡のメインストリートです。名島町というのは、黒田家が名島から移ったときに、名島の商人を連れてきたので名島町。おもしろいのは、上名島町と中名島町があるのに下名島町がないんです。「シモ(下)」というのは商人にとっては景気が悪いらしいんですね。明治以降は上名島町、下名島町と言ってましたが、江戸時代には下名島町はないようです。中名島町は中ノ番とも言ってましたね。
この六町筋は商人の町で、大工町のところに、現在の岩田屋の前身の呉服商岩田屋がありました。

小山

それが、今の天神に移ったのですか。

秀村

岩田屋呉服店から分かれた博多麹屋番の岩田屋(呉服店)はじめ暖簾(のれん)わけした別家があったわけで、本家がこれらの別家を集めてつくつたのが、岩田屋デパートなんです。だいたい日本のデパートは呉服店が中核で、それから出た別家を集めてできていますね。

小山

旧電車通りの方は。

秀村

旧電車通りは、東から天神町大名町と続きます。そして、お城には「上の橋」と「下の橋」がかかっていました。また六町筋の北側には、材木町東職人町西職人町、天神町から下ったあたりが、鍛冶町など職人が住んでいた町がありました。

西島

地図を見ると、「天神」と言ってるところは「テンジンノチョウ」というのが本当のようですね。

秀村

そりゃ、そうですよ。天神様のある町で「天神町(てんじんのちょう)」でしょうね。古くからの福岡の者は「テンジノチョウ」と「ン」をぬかします。「テンジンチョウ」という人には、アリャ、よそもんバイ、と言ってましたね。 「ヤクイン(薬院)」も「ヤクイ」と言ってました。

西島

懐かしいですね。私たちも「ヤクイ」と言ってました。

秀村

京都で「烏丸」を「カラスマ」と呼ぶのと同じですね。
それに「室見」は現在は「ムロミ」と言われていますが、古くからの人は、必ず「モロミ」と言いますね。「藤崎」は「フミサキ」と言ってたんですよ。
紺屋町も、NHKのアナウンサーが放送で「コンヤマチ」と言ったりして……。本当は「コウヤマチ」だと言っても、『NHKの放送でコンヤマチと言いよったけん、ソリャ、先生の方が間違うとぉ」と言われたりします。念のため紺屋町に行ってお年寄りにたずねると、昔から「コウヤマチ」と言ってたというんですね。マスコミの力はおそろしいですね(笑)。

なんと城の南側にもお堀があった

小山

侍が住んでいたのは、どこらへんなんですか。

秀村

武家町は、旧県庁前あたり、天神町、大名町、因幡町土手町にあって、特に大名町には、高級家臣が住んでいました。それから筆頭家老の三奈木黒田家はじめ家老級の重臣が、城内に住んでいたわけですね。中級の馬廻りの家臣は荒戸一帯に、それより下の位の武士は唐人町界隈と薬院付近に住んでいたようです。地行春吉には足軽がいました。
この間の町名変更で、私が疑問に思うのは、大名町が北から南へ国体道路のあたりまで広がっていることですね。本来は大名町というのは東西の通りと思いますよ。この大名というのは、黒田の殿様に対しての大名で、大名町というのは上級の家臣団が住んでいたところで、鹿児島では千石馬場、金沢では殿町といったところですね。
城のまわりにはお堀があって、城の西に文字通り大きな大濠があります。この大濠は草ヶ江といわれた入江のあとで、中ノ島なんかなくて、水面も現在の2倍はあったでしょうね。

西島

私たちの青年期まで、城の南側にも堀がありましたね。

秀村

そう、柳原のところですね。それから城の東側の堀からさらに東に「中堀」または「紺屋町堀」と呼ばれる堀があり、さらに、「肥前堀」とか「佐賀堀」と呼ばれる堀が、那珂川まで続いていました。現在NTTの建物なんかが建っているところですね。今はすっかり町になってますから、「ここはお堀の上ですよ」と言っても、けげんな顔をされますね。この肥前堀は、関ヶ原のとき鍋島藩は西軍に味方したのですが、黒田のとりなしで、取り潰されずにすんだので、そのお礼に肥前堀を掘ったとされています。しかし、佐賀城にも筑前から来て掘ったとされている堀があり、どうもお互いに助けあって平和交渉をやってたんじゃないでしょうか。

小山

城の周りですから、いろいろと門のつく名前がありますね。

秀村

多いですね。肥前堀の東北、以前の知事公舎の南には「数馬門」があり、「中堀」と「肥前堀」の間には道があって、北に薬院門があり、「中堀」と現在の高裁の東側もずっと広くお堀で、その間の道の北に赤坂門があったんですよ。それから西に黒門がありました。桝形門とこの4つの門は、城下町の郭内と外部を画する門なんですね。
赤坂門と言っていたのに、地下鉄の駅を「赤坂」とするそうですが、昔の赤坂というのはお城の南の山の方で、古文書には「警固村の内」と見えています。その赤坂の方へ行く道にあった門だから「赤坂門」なんですね。
赤坂というのは古い地名で、元寇のときに竹崎季長(たけざきすえなが)が住吉から赤坂を経て進撃し、元軍は麁原(そはら)(祖原)と別府(べふ)の方へ退き、鳥飼の塩屋の松のあたりで激戦したと、「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」に書かれています。名前からして赤い坂だから山のところで、地下鉄の駅名が「赤坂」となると、若い人たちは駅の一帯を「赤坂」と思って、元寇の際の大事な歴史的地名がおかしくなるのではないかと、私は言ってるんですけどね。
城下町が博多の町と違うのは、道路が防衛のために鍵型かT字型になっているということですね。西鉄グランドホテルのところは、削りに削ってゆるやかなカーブになっていますが、私が少年の頃はまだ鍵型で、夜など電車がカーブするときレールのきしむキーッという音で、ひとしお夜を寂しく感じましたね。

西に新しくできたから「西新町」

西島伊三雄氏
小山 奉

西島

私たちが城外練兵場と言ってたところは、現在どこになるんですか。

秀村

今の護国神社から大濠高校にかけての一帯です。

西島

天神町に、伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)さんの「鋼御殿(あかがねごてん)」があったんでしょう。

秀村

長期信用銀行あたりじゃないでしょうか。残念ながら昭和2年の火事で焼けてしまいましたが。野村証券あたりが、母里太兵衛の屋敷があったところです。

西島

西公園の光雲(てるも)神社は、現在黒田様を祭ってありますが……。

秀村

明治になってから、藩祖の如水、初代の長政を奉祀したお宮ですね。藩政時代は将軍に気をつかって、東照宮、つまり家康を祭ってるんですね。その近くに源光院があって、ここは3代将軍家光等将軍の位牌を安置してたんですが、どちらも封建時代が終わるとすぐにやめています。権力は強いものですが、同時に脆(もろ)いものだと感じますね。
西公園の下の伊崎荒戸は、城下町の内のようですが、伊崎浦は浦方、荒戸村は郡方に入るんです。伊崎浦は藩の台所にお菜(魚)を献上する浦なんですね。漁村は一般的に浦方なのですが、伊崎浦は、チョット他の浦とちがう浦だったようです。
今の大手門三丁目あたりに永倉というのがあったんですが、これは藩の御蔵で、年貢米が集まってくる所です。糸島郡今宿の横浜と遠賀郡の若松にも、藩の御蔵があって、藩の積み出し港でした。それから西公園の下には、港があって藩の御船手の基地なんですね。

西島

私が小学生の頃までは、今の国体道路のところは川が流れていて、「ドブ川」と呼んでいましたが。

秀村

薬院ですね。昭和23年の国体のときに道路になったんですよ。

小山

じゃあ、国体道路の下には暗渠(あんきょ)かなにかあるんでしょうか。

秀村

あるんでしょうね。ドブ川にしろ、あれだけの川があったんですからね。

西島

先ほど福岡部は、今川橋までだとおっしゃいましたが、西新町はその頃はまだなかったんですか。

秀村

ありましたけど、早良郡西新町だったんですね。「西新町」というのは、西に新しくできた町ですから「西新町」ですね。
今の百道の海岸にはず1つと松原があって、「紅葉八幡」が現在の西新パレスのあたりにありました。百道松原は「紅葉松原」と呼ばれていました。
黒田家には、直方と秋月に支藩があって、本藩の5代宣政が亡くなったとき、直方から継高が本藩に入りあとをついだので、その家臣団もついて福岡に入り、今の修猷館からその西側にかけて住んでいたんです。
修猷館は、昔は藩校で、上の橋のところにあったんです。修猷館が東の学問所で、唐人町のところに西の学問所として、亀井南冥(かめいなんめい)の開いた甘棠館(かんとうかん)がありましたが、こちらは短期間で閉鎖されました。 修猷館は朱子学で、甘棠館は行動を重んじる陽明学だったのですが、結局、修猷館1本になったんですね。

発展を続ける福岡市(写真提供:西日本新聞社 手前は西日本新聞社ビル)

昭和2年に造られた大濠公園

秀村

今の樋井川は以前、大堀の方に入っていたのですが、城下町をつくるときに、今の流れのように「鳥飼・今川橋」の方へまわしたそうです。1種の防衛線でしょうね。新しくできた川だから「今川」と呼ばれ、今川にかかっている橋だから「今川橋」なんですね。
今の今川橋よりもう1つ上の橋です。今でも、川が溢れるときは城下町側は守られて、対岸の方に水が出ますね。

小山

昔はそれだけでもたいへんな工事ですね。

秀村

そうですよ。しかし、労賃はほとんどタダ同然ですからね。

小山

ところで、大掘を埋めたてたのはいつ頃ですか。

秀村

あれは、明治になって何回かに分けて埋めたててるんですよ。の陸軍墓地あたりの山を削って持ってきたり、鳥飼付近が小さな丘だったので、そこを削って持ってきたりしています。
現在の形になったのは、昭和2年の東亜勧業博覧会があったときに、のちに九大教授になられた永見健一先生が設計されたそうです。油山を遠くに望む広々とした景色がよかったんですが、今は周囲に高い建物が建ってしまって、大濠公園の持ち味が薄れましたね。
大濠の西公園側の土手は杉土手と言ってましたが、立派な松並木だったんです。惜しいことに進駐軍の兵舎のために伐り、残りも、排気ガスや松喰虫のため、1本、1本と枯れてしまいました。
西町金龍寺にも松があったんですが、なくなりましたね。福岡はあまり歴史を重んじない町で、進取の気性というか、大胆に前へ進むのはいいが、どうも古いものを大事にしませんね。

小山

黒田さんの庭園、友泉亭が市民の公園として開放されましたね。友泉亭といえば、城からちょっと遠いですね。

秀村

黒田の殿様が、城から休養に行ったところですから、当時の気分でははるかに離れた郊外の別荘だったのでしょうね。もっと初期の頃は、大濠を舟を漕いで、鳥飼の別荘にいっていたぐらいですからね。私たちの感覚でいってもはるか郊外ですよ。
友泉亭は、私が高校生(旧制)の頃は田圃ばかりでした。軍事教練の野外演習のときなんか、刈入れ後の田圃を走りまわって…、田舎でしたね(笑)。

豊臣秀吉の兵站基地だった「博多」

小山

ところで秀吉の町割というのは博多部のことなんですか。

秀村

そうです。呉服町を南北へ、海へ抜ける道を「市小路」(一小路)と言って、第1番に町割の竿を入れた基準の町なんですね。その東と西に東町、西町があったんです。博多部は、先ほども申しましたように那珂川と石堂川の間で、萬行寺のあたりが南限でした。
福岡部はお城を中心に東西の考え方ですが、博多部は市小路を中心に南北流の考え方なんですよ。

小山

地図を見ると、東中洲のところは何もないですね。

秀村

中洲とか中津とかいったところで、ここは春吉村住吉村などから畑を出作りにきている程度でした。ここなら新しいことがなんでもできたのですね。だから黒田藩がここで精煉所を造るなど、新事業を始めています。博多織の松居さんの前には精煉所あとの記念碑がありますね。

小山

中洲が今のような歓楽街に発展したのは……。

秀村

幕末には、いろいろ新しい技術をはじめたところで、現在のようになったのは明治以降、ことに大正から発展しているようですね。今は、東中洲から天神町あたりが「博多」のようになっていますが、本当は博多は玉屋のところの博多川から東ですからね。博多の町もかわりつつありますね。

西島

そうですね。ドンタクと言ったら博多の町をチンチャラしてたのが、今は中洲から天神の方に行くもんだから、私たちは昔の博多をまわってるんですよ。

小山

博多部・福岡部の長のような人はいたんですか。

秀村

年行司がいました。福岡では月行司といったこともあります。面白いのは、この年行司は数人いて年番、月番があったようです。江戸時代は巧妙だなと思うんですが、いろんな役職は複数の何人かが輪番でやっているんです。日本は昔から1種の合議制で、これは日本人の知恵だと思いますね。

小山

福岡の商人と博多の商人はどう違うんですか。

秀村

福岡の方の商人の記録は少ないんですが、博多の町人も江戸時代は中世や秀吉の頃ほど自由闊達ではありません。ただ、福岡の方は城下町の商人で、博多の方は商人町の商人で多少の差はありますが、全体として城下町的になっていますね。
商業の力としては博多が2/3、福岡が1/3という力関係で、藩に対する負担なんかもそうなっています。お互い縁組みや協力はしていたようです。

小山

当時の魚市場などはどこらへんにあったんですか。

秀村

ハッキリ書いたものはありませんね。福岡部の「魚町(うおのまち)」なんかは、多少そういったところかも知れませんね。しかし、江戸時代の博多にしろ福岡にしろ、それほどの商業都市じゃないんですよ。博多が繁栄したのは中世で、そのため荒廃していた博多を、秀吉が朝鮮出兵のための兵站(へいたん)基地として、町割をやり再興したわけですが、それ以後は鎖国時代で、博多の商人で大きなところはずいぶん長崎に移って町の力は激減したと思いますね。

いい地名がどんどん消えていく

旧福岡城上の橋

小山

消えた地名で惜しい地名というのは……。

秀村

上の橋、下の橋、赤坂門、養巴町雁林町などいかにも福岡らしいですね。よく調査して古い地名、個性ある町名を残しながら、新しいものを盛りこんでいくというんならいいんですが、惜しい町名を無神経に消してしまいましたね。

西島

新しくつけた地名では、「大手門がどうも……」と聞きましたが……。

秀村

そうですね。大手門は漠然とした言いかたで、たしかに江戸時代の測量家として有名な伊能忠敬(いのうただたか)が来たときに、ヨソの人として「大手門」と使ってはいますが、福岡の人が「大手門」という言葉を使ったという記録は見たことありませんね。大手門何丁目というよりは、よっぽど下の橋、上の橋の方がいいんじゃないでしょうか。

西島

博多にあって福岡にもあった地名は……。

秀村

呉服町西町魚町橋口町などでしょうか。

西島

先生、ついでに昔の福岡のがっしゃい言葉を覚えてあるなら、ちょっとお話ししていただけませんか。

秀村

私が少年の頃は、「どうしてがっしゃあな」とか、「貸してがっしゃい」「おいでない」なんて言ったり、聞いたりしてましたね。

小山

それは福岡語ですか。

秀村

そうですね。だいたい目上の人とか同輩にですね。戦後は自然と親に対してだけ言ってましたね。

小山

じゃあ、丁寧言葉なんですね。

秀村

そうなんですよ。このごろは「どうしてがっしゃあな」なんていうと妙な目で見られるので、「どげんしてござあですな」と言ったりしますね(笑)。

西島

私たち博多のものからすれば、やっぱり城下町の言葉だなあ、と思って聞いていましたね。

小山

私は福岡市に住むようになって10年ぐらいですからよくわからないんですが、昭和初期の町の大きさはどのくらいだったんですか。

秀村

私たちは、天神から大牟田までの西鉄電車を「急行電車」と呼んでましたが、その急行電車に乗って薬院まで出ると、もうレンゲ畑、菜の花畑でしたね。市内電車の城南線も田んぼや畑の中を走っている感じでした。

内部に力を貯えていた江戸時代

秀村

今は福岡が九州の首都にまで発展しましたが、私たちの子どもの頃は、熊本が行政の中心、長崎には控訴院がありました。 学校も高等学校は、たいがいブロックにひとつなんですが、熊本に第五高等学校、鹿児島に第七高等学校と、九州にはナンバースクールが2つもあるんです。 鹿児島は薩閥の力が強かったからなんですね。福岡に帝国大学ができたのは、地元の強力な運動が効を奏したのですね。中都市だった福岡が急に大きくなったのは昭和期に入ってで、ことに戦時中に大きくなり、特に戦後は中枢管理機能が集中して、大きく発展してきたわけですね。

小山

地下鉄も大工事でしょうが、現代の科学になってですから。400年前の城の造営、福岡の街づくりと比べると、どちらが大きい土木工事になるでしょうね。

秀村

面白い比較ですね。しかし昔の土木工事は凄いんですよ。水害のとき調べてみると、近代科学の粋を集めて造った最近の堤防がくずれて、江戸時代に造られたものは、ビクともしないというのがよくあって、自然の理(ことわり)をよく見きわめて造っていると思いますね。
江戸時代というのは、古い悪い時代と見られがちですが、16、7世紀、或いは幕末維新期にやってきた外国人の記録を見ると、日本人の礼節、教養、勤勉、清潔さをほめて書いていますよ。
私は、江戸時代というのは蓄積に蓄積を重ね、内部に非常にエネルギーを貯えた時代だと思うんです。だから、明治以後の発展があったんじゃないでしょうか。そういった意味で、もう1度江戸時代を見直す必要があると思いますね。

小山

興味深いお話、どうもありがとうございました。

秀村選3氏略歴

大正11年、福岡で生まれる。京都大学経済学部を経て九州大学法文学部卒業。現在、九州大学経済学部教授。 主な編著書に『薩摩藩の基礎構造』『博多津要録』『筑豊石炭礦業史年表』などがある。