No.17 博多にわか

対談:昭和56年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡地方史研究家 井上 精三氏
聞き手:
福岡シティ銀行 副頭取 森田 孝雄

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


最後に残ったのが、博多にわか

水鏡天満宮境内の盆にわか(明治時代)
祝部至善筆を模して

森田

「にわか」といいますと、小さい頃父に連れられて、佐賀にわかを見にいった記憶があるんですが、博多にわかと同じようなものなんですか。

井上

そうです。もともと、にわかというものは、各地にあったわけですから、にわかの文字も、俄(にわか)がいちばん古く、仁輪加、仁和歌、二和嘉、爾和加、二和加、爾波加などがあり興行では加とかいたり、いろいろです。私はラジオ番組には博多仁和加と発表していましたが、この頃は、かなで「博多にわか」としています。

森田

博多にわかが、残っている最後のにわかということですか。

井上

そうですね。ただ、よそのは、形を変えて残ってはいるんですよ。

森田

たとえば……

井上

今、藤山寛美さんがやっているあの大阪喜劇は、劇にわかのスタイルで、大阪にわかの流れをくんでいるんですね。今の博多の一口にわかとは、ちょっとちがいます……。

森田

博多にわかについて、歴史的に書いている文献はでていないのでしょうか。

井上

ありますが、黒田藩の為政者の立場から書いたものばかりで、どうも町民の側から書いてないのです。だから、にわかを利用してよい政治をしたことばかりを書いています。

森田

井上さんが、「博多にわか今昔談義」を出されたのは、24年前ですね。博多にわかのおこりから、お話しいただけますか。

井上

陽気ではしゃぎ好きの博多っ児は、年の始めの儀式の松囃子でさえ、単なる儀式とせずに底抜けさわぎしています。明和(1764-71)の頃の松囃子を「追懐松山遺事」は、「当日は国君の前といへども、諧謔戯言毫も憚らず、其の他実に抱腹に堪へざる猥雑甚しきことを云ふ」と書いているのを見ても、ことばのうえの遊びがさかんだったことは確かですね。そんな戯言は、黒田長政が自分の郷里の祭礼を、博多のものに見学させたから、はやったんだという学者がおりましてね。海妻甘蔵という幕末の黒田藩の学者なんですが、その著書「己百斉筆語」のなかで、「其源(博多仁和加)は播州一宮伊和大明神の祭典の踊を黒田如水姫路に在りし、諫鼓の情に感じ、黒田長政襲封福岡城を築かれし已後、博多人を姫路に派遣し其踊を学習せしもの也」と書いています。これをそのままとりあげて、にわかのはじまりとするならば、今から三百数十年前ということになります。

森田

お祭りといいますと……

井上

それが、何の祭りか書いていないのですが、悪口(あっこう)祭だということがわかりました。悪口祭というのは、西鶴の「世間胸算用」にも出ているほどで、あちこちで行われているようです。神社に集まりまして、かがり火をたくさん焚くんです。ある時間が来ると、パッと火を消して、誰が誰かわからないようにします。そして、悪口をいうわけですよ。あいつの娘がどうの、あそこの嫁はどうだ、こうだとか。そんなことを言って、うっ憤をはらす祭りです。

森田

それが政治に対する不平のときもあるわけですね。

井上

海妻甘蔵は、その不平を聞くために、藩がわざわざ見にやったのだというように書いています。その悪口祭をみた博多の人は、松囃子の中にとり入れたのでしょうね。それが次第に、にわかに転じていったのだと思います。黒田藩の家老の中には、たしかに政治の批判をした者に、ほうびをとらせるといった人もあったのですが、反対に、ひっくくって牢に入れた者もいるんです。江戸時代といえば、封建時代でしょう。侍が、いばっているときに悪口など、そうやすやすと言えるものではないと、私は思うんですがね。

にわかの半面、もとは黒子

森田

面をつけたにわかがでてくるのは、いつごろからでしょうか。

井上

江戸時代も末期になると、侍の力は落ちてきて、町人の方が強くなってきます。そうすると、川柳、狂歌など諷刺のきいたのが、はやってきます。その頃から、侍を諷刺するにわかが、さかんになったようです。「野口どんのそば畑」というにわかが、幕末に演じられ、喝采を博したようです。酒に酔った野口という侍が、一晩中、たんぼの中をさまよい、狐にだまされたのだろうといううわさをさっそく博多っ児がにわかに仕組んだのです。あまりに評判になったので、主人公の野口という藩士は、侍の体面をけがしたというので、けんせきを受けています。

森田

侍への諷刺をやって、博多っ児が溜飲をさげたのですね。

井上

幕末には、半面にかくれて、相当に政治批判をやったものです。

森田

半面を使ったのは、やはり諷刺のためでしょうか。

井上

いちばん古いにわかの資料といわれる明和・安永(18世紀中)ごろに出た「清神秘録」に書いてあるんですが、にわかというのは、素人がやるもので、玄人のやるものじゃないから、顔をかくせ、黒子(くろこ)をつけて自分ということをかくせ、というんです。料亭あたりで、にわかをやったときなどエチケットとして、決して面をはずしてはいかん、好きな女の前でも黒子をとるなと教えています。

森田

恥ずかしいから面をつけるってことはないんでしょうか。

井上

それはあったでしょうね。江戸時代の桜見の情景を描いた絵をみると、みんな面をかぶってます。おどけてみるけれど、恥ずかしいという気があったんでしょうね。

森田

恥ずかしいのも、町内の人や知っている人に見られるのが、特にそうじゃないでしょうか。

井上

「清神秘録」の中にも、自分の身内のものに見られるのが恥ずかしいから、わからんように面をかぶる、と書いてありますね。

森田

博多にわかの半面というのが、何ともとぼけた、ユーモラスな味になっていますでしょう。

井上

博多にわかのよさといったら、そのおどけたところですね。そして素朴なところ。半面をかぶりだしたのが、いつからかは、はっきりしませんが、半面のもとは黒子ですから、仮面とは本質的に違います。黒子は*覆面ですから、博多にわかの半面も覆面なんです。それにちょいと目をつけただけです。仮面劇というのは、よくありますが、覆面劇はにわかだけです。にわかというのは、博多だけじゃなく、東京の吉原にわか、大阪にわか、など各地に独特なものができましたが、博多だけが、黒子でにわかをやるという伝統を守ってきたわけです。その点は、大いに自慢していいと思いますね。

にわかは即興の素人芸能

半面のいろいろ

森田

はじめのにわかというのは、どんなものだったのでしょうか。

井上

はじめのは、御神幸の行列にまじって、おどけた格好で参拝者を笑わしたものをにわかといっています。おどけものというのは、どこにでもおりますので、のちには「にわかじゃ、にわかじゃ」といって人を笑わせ、自分も楽しんだものです。

森田

それでは、一般ににわかは、どんなものだといえるんでしょうか。

井上

思いつきの仮装にすぎないものも、甘木で行われた素人歌舞伎も、にわかと呼ばれています。即興の素人の芸能をすべて、にわかと呼んでいたのです。これが、江戸末期には、口立(くちだ)てが中心になってきました。博多では、特に大店(おおだな)の旦那連中が、出入りの職人たちを集めて、一座をつくりましてね。あっち、こっちで見せてまわるんです。まあ一種の道楽ですね。

森田

福岡部の侍が、面をかぶってを隠して、にわかをやったというようなことはないんでしょうか。

井上

見物はしても、侍自身にわかをやることはありませんでした。文化のころ、福岡の唐人町で盆にわかがはじまったときに、侍が女中を連れて見に来ました。幕末であり、そのときは、かなり侍の悪口を言ったと思われるのですが、侍は見て見ぬふりをするのが、当時の侍と町民との関係だったようです。そのときに、女装した男が、女中のお尻をなでていたずらするんです。すると、その侍が腹をたてて一刀両断にきり殺してしまったのです。だから、その年の盆はさびしいものだったそうです。

森田

にわかの面白さは、素人だということじゃないですか。

井上

そういえるでしょうね。明治は素人の黄金時代で、にわかは造り酒屋、旅館、劇場主といった大店の旦那たちの道楽でした。だから、にわかを見せて金をとるようなこともなく、教養ある人が演ずる芸だけに、上品ななかに、おかしみがありました。のちには、博多にわかが人集めにはもってこいだったところから、だんだん大売出しや、お祭りなんかに招かれるようになりました。それがだんだん頻繁になってくると、何も金もうけでやるわけでもなし、面倒くさくなって、博多の旦那連中が出演しなくなり、職人さんたちが、かわって演ずるようになりました。そこに職業にわか師が出てくるんです。ところが、職業にわかといいましても、にわかだけではとても食べていけないので、本来の仕事とにわかを半々にやっていくものが多かったんですね。

大正時代には、市政を総攻撃

森田

一座をくんでやっていたんでしょうか。

井上

明治のはじめごろから、組がつくられていますが、にわかが好きでたまらない素人のグループが、年に1回の盆にわかで大はりきりして、博多では土居町の綱敷天満宮、下鰯町の広場、大乗寺前町、矢倉門、大浜一丁目、福岡では水鏡天満宮、小烏神社境内、唐人町、西公園下、伊崎などにくまれた舞台で、盆の16日から5日間ぐらい大熱演をやったものです。明治12~13年ごろ、須崎の鬼若甚次郎という人が大将になって、博多にわか最初の組、鬼若組をつくっています。それから、造り酒屋の旦那衆の竹田組、下土居の吉井屋組、旅館の主人の万利組、博多織屋の麩屋組、豆腐屋の角正組、畳屋組、寄席と旅館の川丈組、福岡部の方でも石屋の石平組、そのほかいろいろできて、最後の組が看板屋平川梅吉のペン梅組。ペン梅は、知名士の援助を得て外地まででかけていきました。明治の中頃から末までが、素人にわかの全盛時代でしたね。

森田

プロのにわか師が出だしたのはいつ頃ですか。

井上

明治も末頃、40年頃からですね。仮設舞台のほかに、劇場進出が目だってきて、水儀組と泉組がはりあったんです。

森田

お盆は素人にわかグループのうでの見せどころだったのですね。

井上

そうです。4~5日間やるのですから、福博の人は次々と見てまわって、今年はどの組がいちばん面白かったと、ちょうど山笠のできばえをほめあうように、盆には、にわかを話題にしたものです。演ずるほうも見るほうも、盆になるとにわかに熱中して、明治時代は博多にわかの黄金時代でした。水儀組は寿座で大衆ファン、泉組は明治座で多少インテリの人が見物するというふうでした。泉組をはじめた泉清米は、川上音二郎の一座にいた人でその影響からよく社会事件をとりあつかったようですね。

森田

先号で、川上音二郎のことをとりあげたのですが、音二郎とにわかとの関係は……

井上

音二郎も、明治23年に、横浜と東京で書生にわかを興業して、政治の批判、政府攻撃をしましたが長つづきはしませんでした。

森田

にわかの中での政治諷刺、それが博多っ児にうけたんでしょうね。

井上

そうです。そりゃもう、いろいろ批判をやっておったようです。明治20年代になると、思想統制が厳しくなり、中止を命じられたことが、何べんもあります。劇場には警官席がありましてね。ちょっと政治攻撃をすると、たちまち「中止っ!」ときたもんです。

森田

民権運動なんかとは結びつかなかったのでしょうか。

井上

心の中では応援するものがあったのでしょうが、民権運動に直接結びつくまでは、いかなかったようです。

森田

イデオロギーにまでは、いかなかったのですね。

井上

そうですね。ただ、大正時代の福岡刷新事件では、かなり表だっています。福岡市の水道事業が滞(とどこお)っていて、当時、政権を握っていた政友会を攻撃する福岡市刷新会が、大衆運動をはじめたんです。そのとき、にわか師たちは刷新会の応援をしまして、六つのにわかの組が3回にわたり、劇場で、市政総攻撃刷新会応援にわか大会をひらいて、1,000円余を会に寄付しています。

森田

市政批判というのも、おどけたなかにまぜてやったわけでしょう。

井上

そうです。不正事件を芝居の中に仕込むんです。私の父なんか、攻撃をうける方の市会議員をしていたんですが、父を直接名指さずに皮肉るのです。うちは、はきものの卸問屋をやっておったんですが、そのころ大きな犬を飼っていました。その犬の鼻とシッポを下駄の花緒にかけて話題の人がだれかと聞くものに想像させて、「あの犬の飼い主が…」と攻撃をはじめるのです。

にわかのまくらが一口にわか

森田

露骨でなくて、なかなか礼儀ただしいですね(笑)。それをかけあいで…。

井上

そうです。イキの合ったかけあいで、興を盛りあげていくんですね……。だいたい、博多の昔のにわかというのは、舞台の両方から、ひとりずつ出てくるんですよ。出てきて、ちょっと行き過ぎて振りかえり、「おまえやァ徳兵衛じゃなかや」「お、おまえやァ伊三郎たい」と、ふたりで話をはじめるんです。「おまえやァ、このごろ何しよるや」「まァどうやら、こうやらたい」「それィしてもこのごろの政治のだらくさなたどうかいね」といったふうに、やり合うわけです。さんざん政治の批判をしたあげく、「あ、こげなのんきなことはでけんとじゃが、実は、云々……」とここに、はじめてこのにわかの本筋に入り、事件の発端を述べて二場、三場と事件は発展して最後に「オチ」をつけてにぎやかに幕が下りるのです。これを博多にわかの「段もの」といいます。

森田

今の一口にわかというのは、それじゃ、段もののはじめの部分のようですね。

井上

そうです。にわかのまくらの部分が一口にわかといっていいと思います。

森田

にわかは、だいたい男ばっかりのようですが……。

井上

そうです。女の人に扮しても、毛ズネが出とるところがおもしろいんですよ。そして、どんたくもそうですが、お化粧はぜったいにしなかった。面とかづらだけでやる。顔は髭づら、毛ズネ丸だしで衣装だけ女ものにして、そこにおどけた味があったんです。博多の大店連中が、歌舞伎のかづらを買えなかったはずはないですよ。決して、それは買わずに、ずーと安もののぼてかづらでやる。その素朴なところを伝統的に守り伝えたのが、博多にわかのすばらしいところです。

森田

ぼてかづらと半面というようなおどけたスタイルは博多だけなんですね。

井上

「清神秘録」が教えているように、ほかの土地のにわかも黒子か目かづら(半面)をかぶって演じていましたがいまは博多だけが半面をつけています。大阪にわかは明治34~35年ごろまでは、面ぬきにわかがさかんでしたが、演ずるものが、歌舞伎のパロディ一辺倒だっただけにあかれて大阪喜劇に転向したのです。

森田

博多淡海さんは、どういう系統になるんですか。

井上

この間亡くなりました博多淡海の父親木村平太郎が初代「博多淡海」です。これは、当時の大阪喜劇の人気者だった「淡海」から名をもらったものです。このように有名喜劇人の名をもらうのが一時にわか師のあいだに流行して大阪喜劇の人気者「五九郎」の名をもらって「博多五九郎」と名乗るものもでていましたが、「大阪の芸人の名前なんかつけるな。博多にわかの誇りを持て」と私はやめさせました。戦後も、淡海親子はいっしょに博多の舞台に出てました。三つ外題(げだい)を出すと、ひとつは半面をかぶってする純粋のにわかを、あとのふたつは面をつけない喜劇をやってました。初代淡海が亡くなって二代目は、東京の浅草で跳び上がり婆さんの役で一時人気者になりました。そののち、藤山寛美さんの松竹新喜劇に入り一緒にやりましたが、どうも大阪言葉と博多言葉がかみ合わず苦労したようです。なにぶん芸がうまいもんですから他のものからうとまれたようです。

森田

古典的なにわかというのはあるんですか。

井上

古典にわかとはっきり言えるものはありませんが、しいてあげれば明治にあった二人羽織(ににんばおり)などは古典的にわかと言えるかもしれませんね。

「ふてェがってェな」も三つある

森田

一口にわかのようなものは、よそにはないのでしょうか。

井上

それはあります。一口にわかは語呂合わせを結びとするコントですから、それに似たものは、雑誌などでご覧になるでしょう。しかし、単に語呂合わせだけでは興味はありません。あくまでもそのなかに、諷刺、かいぎゃく、笑いが織り込まれねばすぐれた一口にわかとはいえません。語呂合わせのひとつの、なぞなぞというのも、江戸時代末期から流行してきて、明治30年ごろに全国的にはやりました。博多にも、なぞなぞの会が幾組もできましたね。

森田

博多にわかは頭から「ふてェがってェな」ということばで、はじまるでしょう。

井上

え、舞台でも大仰(おおぎょう)に言いますね。

森田

どういう意味なんですか。

井上

ま、びっくりしたときの表現です。あれも、言い方が3とおりあるんです。いちばん驚いたときは、「あっふてェがってェな」と「あっ」をつけるんです。ふつう程度では「あっ」はつけない。「ふてェがってェな」です。それよりも、驚きの程度が低いときは「ふ」も抜かして「てェがってェな」といいます。この三つですね。このニュアンスは博多で育っていないと、ちょっとわかりませんね。舞台でやるときは、戦後まで活躍した生田徳兵衛さんがよくやってました。この人は博多にわか最後の名人といえましょう。父親もにわか師でした。孫も芸の道にはいっています。あの女優の生田悦子さんですよ。

森田

今、一口にわかでなくて、段ものにわかをやる人はいますか。

井上

今はもう5、6人ぐらいしかいませんね。昭和13年に、博多にわか芸術協会というのを、政府の命令でつくったんですが、当時130人くらいはにわかをやる人がいました。西島伊三雄さんのおとうさんも旅館をされていて、にわかの舞台に立っておられました。

森田

にわか師というと、平田汲月さんが有名ですね。あの方も一緒になさっていたんですか。

井上

だいたい同じ頃ですね。しかし、汲月さんは、にわか師じゃなくって、にわか作者です。

森田

作者業がなりたったぐらい、にわかがさかんだったのですね。

井上

もともと、にわかは即興劇ですから、台本はありませんでしたが、だんだんさかんになりだすと、出しものに困りだしてきました。それで汲月さんが各組のために、にわかを書いたのです。

主な現行博多ことば(九州及び関西の一部で使われているものもある)

-ア行-

あげな(副)あんな・あのような
あせるがる(動)せいて気をもむ
あぽ(名)大便
いさぎよう(形)大層
うてやう(動)かまう・相手になる
うんだごとしとる(動)すましかえっている・知らぬふりしている
おうけ(名)量・かさ「食いおうけがある」

-カ行-

かすくる(動)残りのないよう始末する
かたす(動)仲間にいれる「あたしもかたしてよう」
がと(助)程・だけ「100円がと買ってこい」
がめに(名)うま煮
ぎょうらしい(形)仰山な
きる(助動)(可能を表す)「こげなむつかしい本は読みきりまっせん」
くさ(助)ね「あのくさ」
ぐらぐらこいた(動)腹がたった
くらす(動)なぐる
けん(助)から「かぜひいたけん行かれん」
こく(動)言う「いらんことこくな」

-サ行-

さいたら(名)よけいなこと
さるく(動)歩く
しかともない(形)つまらない
しょうけ(名)ざる
しろしい(形)陰うつ・気持ちがわるい
しわごんちゃく(名)しわだらけ
すったり(名)やりきれない・駄目
すらごと(名)うそ
そうつく(動)歩きまわる
そざす(動)こわす・そこなう
ぞろびく(動)ひきずる

-タ行-

たい(助)よ「よかたい」
だらくさな(形)だらしない
だんだん(感)ありがとう「結構なもの頂きました、だんだん」
ちょうくらかす(動)愚弄する
つかあさい(動)ください
つんのうて(動)連れだって
てェがってェ(感)(驚きのことば)
てれっと(副)ぼんやりと
とう(名)かざぶた
どんばら(名)大きな腹

-ナ行-

なお(わ)す(動)片づける・しまう
なんかかる(動)もたれかかる
にくじゅう(名)いたずら
に(ね)じくる(動)なすりつける
ぬべる(のべる)(動)ぬるめる

-ハ行-

ばい(助)よ・ぞ「すぐ行きますばい」
ばちかぶる(動)罰があたる
ひちこいい(形)くどい
びったり(名)だらしないもの
ひょうぐる(動)おどける
ひょくっと(副)不意に・突然
(名)運
ふうたんぬるか(形)遅鈍な
へっぱく(名)文句・無駄口
ほがす(動)穴をあける

-マ行-

まいまい(名)髪の毛のつむじ
ももぐる(動)いじくる

-ヤ行-

やおういかん(句)並たいていではない
よがむ(動)ゆがむ

-ワ行-

わるそう(名)いたずら・いたずらっ子

どうにかしてにわかを残したい

にわかの楽屋

森田

今、にわかを聞くのは、結婚式のときなどにご祝儀のようにしてされるぐらいですね。

井上

そうですね。どんたくのときにも、ひと口にわかをやったりしますね。

森田

これからのこととして、若い人をひきつけるものがあるか…ということですが……。

井上

私がいつも不思議に思うのは、落研(おちけん)(落語研究会)などに若い人がたくさん入ってますが、なかなか博多にわかを取り入れようとしませんね。やはり方言コンプレックスがあるんでしょうかね。私が選者をしている朝日新聞の博多にわかは応募が多いんですよ。題によっては作りやすいのと作りにくいのがありますが、毎週50~60編ほどの投稿があります。ところが、博多の人の投稿がわりと少ないんですよ。博多の人はお喋りはうまいが、書くのは苦手なんだからと思います。

森田

市外の人が、博多弁で書くんですか。

井上

全然博多の人でないのに、なんとか博多にわかを作ってみたいというような人には、「あなたのことばで書いてみなさい」といっているんですよ。新聞に出すときには、私が博多のことばになおしております。

森田

お祝いの会などで、にわかがはじまると、どんなふうなオチが出てくるかと興味ぶかいものがありますね。

井上

そこが一口にわかのおもしろさでしょうね。言葉のおもしろさといいますか。宴会でやる場合は宴会に出席している人をつかまえて、その人のことを落とす。すると宴会もなごやかになる。亡くなられた岩田屋社長の中牟田喜兵衛さんなんかもお上手でしたね。戦後、食べることに一生懸命で、みんなが笑いを忘れていたときです。なんとかして、世の中を朗らかにし、あわせて忘れかけているにわかの名前を残したいと、私が昭和25年にNHKで始めたのが、「にわか倶楽部」というラジオ放送でした。これは、ひとつのクイズ番組で、司会者が題を出して、回答者が一口にわかで回答するものですが、回答者を専門のにわか師とせず、昔は博多の旦那連中がにわかをやってたから、というので、岩田屋の会長さん、人形師西頭哲三郎さんのお兄さんの西頭三太郎さん、新天町の森弥吉さん、河原田健次郎さん、川柳の安武久馬さんといった博多の通人、粋人を集めてやったんですが、これがうけましてね。

森田

当時はNHKにお勤め中ですね。

井上

そうです。福岡だけのローカル放送でしたが、一番最初の司会者が今の参議院議員の木島則夫君でした。

森田

あの方は福岡にいらしたのですか。

井上

NHKに就職して最初に福岡に来ています。ところが、木島君は標準語で問題を出すでしょう。一方は博多弁で答える。どうもピッタリこないんです。「精ちゃんどうもいかんバイ」というんで「そんなら私がやろう」ということになって、このダミ声でずっと続けましてね。これが評判になって一口にわかがはやり出し、新聞社がとりあげるようになったんです。

森田

今でもそんな番組があればいいですね。

井上

私が東北の方に転勤になったので取りやめになったのですが、2、3年のちにプロデューサーがそれをマネて「にわか教室」をやりましたが、これはあまり続かなかったらしいですね。

森田

なにかおもしろいにわかがあったら挙げてください。

井上

そうですね。こんなのは諷刺がきいておもしろいですね。

裏口入学

「テーガッテーナ、あのバカむすこがクサ、入学試験にパスして大学ィはいったゲナぞ」
「そらァあやしか、どうせ裏口入学じゃろう、どうも臭か」
「ポックリ、臭かはずタイ、はいったとが、正門からじゃのうして、裏の校門(肛門)」

デート

「ただいま……」
「若か娘が、今ごろ帰ってくるもんが、あるもんかい。どこバそうついとったとネ」
「母ちゃんも若いときは、父ちゃんとデートして、遅うなりよったろうもん」
「……そら、そうじゃバッテ……。変なところィやら行ったらいかんバイ」
「変なところて、車のまんまスーっとはっといくホテルのようなところネ」
「そうタイ」
「ぞうたんのごと。そげなところにゃ、いくら男にもてる(モーテル)でも行かん」

公共料金値上げ

「人件費やら原料代の高騰で、事業も欠損じゃケン公共料金も残念じゃが、値上げせにゃならん、て言いよるが、あらァどうも、スラごと(うそ)のごとあるバイ」
「へー損どころか。仕事も都合よう行きよるっちゃなかろうか。みんな好況(公共)事業て、いいよる」

森田

興味深いお話、どうもありがとうございました。