No.18 放生会

対談:昭和56年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
西日本新聞社編集委員 江頭 光氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 宮地 勇

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


放生会とは、生きものを放ち供養する儀式

宮地

秋になると筥崎宮の放生会(ほうじょうえ)ですね。9月12日から18日まで……。1週間でおよそ150万人もの人出だそうで、たいへんなにぎわいですね。よい季節にいいお祭りで、子供のころ、放生会が近くなると待ち遠しかったですね。どんたく、山笠と、博多のお祭りの締めくくりが放生会ですね。

西島

放生会といえば、「ナシもカキも放生会」のことわざが浮かびます。あれは子供のなぶりことばということですね。

江頭

ナシもカキも、実際に放生会の露店から出てくるわけですから、季節感豊かなことわざですね。お年よりに聞いたところによると、明治のころまで子供たちが言い争いになって「なしや、なしや」と問いつめられたときに「ナーシもカーキも放生会」と言ってスルリと逃げたんだそうです。ほかにも「やかましか」と叱られると「やかま(8釜)しかま(4釜)は12釜」で逃げたり、博多っ子は子供のときからユーモラスですね。

宮地

茶化すのですね。

江頭

こんな使い方もするそうです。家庭のごりょんさんが、朝から掃除やら洗濯やら、お客さんが来たりしてガタガタして、ようやく一息ついたときに「あーあ、きょうはナシもカキも放生会のごとあった」と。

西島

ごったがえすというような感じですね。

江頭

「盆と正月が一緒にくる」という言い方と同じような感じだと思います。

西島

私など子供のころからお参りはしていましたが、歴史については江頭さんがよくご存じですから……。

江頭

放生会というのは、仏教の殺生戒に基づき、文字どおり生きものを放ち供養する儀式です。魚や鳥、亀など、なかには蜷貝(にながい)を水に放つ儀式をするところもあります。

養老4年(720)、南九州の隼人征伐の犠牲者の霊を慰めるため、宇佐八幡で弔ったのがそもそもの始まりだといわれています。宇佐は、全国の八幡さまの総本社ですから、武の神さま、八幡大菩薩と結びついて、八幡さまにつきものの祭りとなり、各地に広がります。もともとは仏教に基づくものですから、神仏混淆時代のものだといえます。明治維新になり、新政府が神仏分離策をとると、仏教の名前ではいけないというので、仲秋祭に改めているのですが、長いあいだ親しまれてますから、変わらず今も放生会です。博多ではなまって、ほうじょうやです。

筥崎宮 露店の数は西日本随一

宮地

では、筥崎宮の放生会はいつごろから……。

江頭

筥崎宮は、その社伝によると、現在の場所に鎮座したのは延長元年(923)です。それまでは、今の嘉穂郡の大分(だいぶ)という山の中にあった。

山の中で、川も海もなく、放生会に便利が悪いということも一つの理由になって、今のところに移ったということです。それまでも延喜19年(919)いらいちゃんと行われています。

現在は、18日の午後3時に鳩を境内に放つ儀式が行われていますが、これがいちばん大事な神事です。戦前は境内の放生池に亀を放ちました。戦後ひところ、スズムシを放ったこともあります。

西島

今、江頭さんが話されたような縁起は、博多のもんは深く考えないものだから、あまり知らないまま、あの祭りのサーカスのジンタの音やたくさんの露店とかに対する郷愁みたいなもので、長く続いているような気がします。

江頭

そうですね。お宮の行事としては、鳩を放ち、1年おきにご神幸(みこし行列)が氏子の区域を回ります。ちょうど今年はそれがある年です。しかし、何といっても露店ですね。

今の放生会は、あらゆることの、家内安全も、豊作のお礼も、いろんなものを含めたお祭りとなっています。

宮地

露店は、どのくらい立ち並ぶのでしょうか。

江頭

だいたい1,500軒くらい。それに、浜の方の広場には古くからサーカスとか、オートバイの曲乗りとか、幽霊屋敷とか、ストリップショーとか時代ごとに……。去年はカニ釣りがおもしろかった。

西島

露店があんなにたくさん集まってくるのは、明治以降のことでしょうか。

江頭

そうだと思います。これは西日本随一の露店数です。筥崎の放生会をメドにして、全国から集まってくるのです。

西島

この祭りが終わると、熊本に行く組、宇佐に行く組、というふうに各地に回っていくという話を聞きましたが。

江頭

そうです。ここから各地に散って次々に秋祭りを彩るわけです。だから秋祭りのトップで最大のものだといえますね。

“幕出し”飲めや歌えの無礼講

宮地

昔、放生会には町家の人たちの幕出し(まくだし)というのがあって、博多らしい情緒だったそうですが、どんなものだったのですか。

西島

箱崎の松原に、自分の町内や、大きな商店などで幕を張り、そこでごちそうを食べたりしたんですよ。

江頭

町内、商店ごとに長持ち(ながもち)にごちそうや食器を詰めて、若い衆が肩にかついで、ずうっと博多の町々から箱崎松原まで繰り出していく。大正の半ばごろまでは、十里松とか千代の松原とかいって、みごとな松が並んでいました。石堂川(御笠川)にかかる石堂橋を渡ると、お宮まで一本道ですから、その長持ちをかついだ列が後になったり、先になったりしながら続きます。ところどころで一服して、町内ののど自慢が長持ち道中の唄を披露します。のどかないい風景だったでしょうね。

江戸時代の筑前名所図会というスケッチには、幕出しのにぎわいようが描かれています。古い、町人文化隆盛のころからの習慣だろうと思います。この時代には、小舟で海岸からも松林に繰りこんでいます。

宮地

長持ち道中の唄は、今でも保存されていますか。

江頭

博多の古い民謡の保存会・那ノ津会の人たちが唄い継いでいます。

宮地

ごちそうのメニューは何ですか。

西島

堺重という組み立て式のお重箱に糸ごんにゃく、がめ煮、このしろと大根のおなますなど……。ごちそうのために、鶏もひねっていたんでしょうね。

宮地

それでは放生になりませんね(笑い)。

江頭

そもそも祭りの起こりがそうだったということで、江戸時代にはすでにゆるんでいるようです。黒田藩が石堂川から多々良川にかけ海漁、川漁とも禁止したといわれていますが、さっきの筑前名所図会にも、沖で魚釣りしている姿が描かれていますから。

宮地

幕出しのとき、男衆は飲み食いして騒ぎ、女衆は着飾るわけでしょう……。

江頭

“放生会ぎもん”と呼ばれ、このときに着物をいっせいに新調する。ちょうど衣替えの季節でもありますし。私、戦前箱崎に住んでいたことがあるが、娘のいる家などは、通りからちょっと見えるように、廊下にずらーと着物を掛けて飾っていましたよ。年ごろの娘のいるところなど、嫁入り縁談の示威運動も兼ねていたんじゃないでしょうか(笑い)。

“放生会ぎもん”買ってやれないのは男の恥

藩政時代の幕出しのにぎわい
文政4年(1821)脱稿の筑前名所図会

西島

博多の男にとって、その放生会ぎもんを妻や子供たちに買ってやれないというのは、最大の恥とされていました。福岡市内の呉服のほとんどが売れてしまうほどだったらしいですね。

江頭

明治のころは1年の呉服の売り上げの半分ぐらいが、放生会ぎもんで占められたと聞いています。「人を見るなら宰府の祭り、衣装見るなら放生会」ということわざもあるほどです。

宮地

女の人にとっては、絶好のチャンスですね。

西島

その放生会の着物は、夏物は着たらいけないそうですね。暑くても、放生会からは単衣を着なければならないと聞きました。

江頭

夏物の浴衣や絽を着るのは、もう季節はずれなんですね。

宮地

男ばかりのお祭り騒ぎでなく、女性を喜ばせるチャンスがあるのがおもしろいですね。

江頭

博多の男たちはフェミニストだったようで……。

宮地

幕出しでの女性たちの楽しみは、もっぱら晴れ着を着ることですか。

江頭

そうですね。若い娘など、晴れ着を2回も3回も着替えて、浮かれて遊んだといいます。社会的にみて当時は主婦とか、嫁入り前の娘は、戸外に出るチャンスは少なかった時代ですから、楽しいレクリエーションです。

西島

そこで女性のマナーとか、料理とか教えられるのです。がめ煮の味をおばあちゃんたちが教えてくれるとか……。

男は、そこでふしだらなことをすると「あら、つまらんばい」といわれ、逆にきちんとしていると「あら、なかなかしっかりしとるばい、隣りの花子しゃんに世話したらどうな」という話がそこにでてきたりしたらしい。社交の場になったでしょうね。

江頭

そうですね。博多の町方のいろいろな生活ごよみ、文化はよくできていると思います。幕出しが町内の融和、連帯感を育てるのに非常に役立っていますね。

幕出しに繰り込むのは博多の町衆

江頭

明治の、幕出しの盛んなころには、検番も出て、芸者さんの彩りで、またいちだんと華やかなものだったようです。千代村の水茶屋検番でなく、博多の相生(あいおい)検番の芸妓さんたちですから、博多町人のお祭りだったともいえると思います。そのころの大店(おおだな)の大将などは、幕出しに風呂桶を持ち込んで、お湯を沸かして風呂にはいってみせたりしています。

宮地

粋(いき)がってるのですね。

江頭

ちょっとふざけて、ひょうきんなことをするんですよ。そういう気質が昔から博多の人にはある。

宮地

幕出しは期間中に何回も行ったのですか。

江頭

まあ1回でしょう。幕出しは、町内全部うち連れてのにぎわいで、現在の感覚でいくと、テレビ、映画など娯楽が多いから、何がおもしろかったのかということになるが、その当時はそれは非常に楽しかったでしょうね。

宮地

幕出しの日は決まっていたのですか。

江頭

期間中の1日です。朝早くから場所とりなどして……。

宮地

繰り込むのは博多の町衆だけですか。

江頭

地元の箱崎の人は幕出しは迎える側で、博多町人がわざわざ繰り出したのです。

宮地

ご主人、ごりょんさん、お嬢さん、そこに使われている小僧さんなど一緒に行くわけですか。

江頭

大きな呉服屋さんなど店員も総出で30~50人ぐらい連れていたでしょう。当時は大家族制ですから、家族だけでも10~20人いるところだってあったでしょうね。

町人文化の質の高さがうかがえる 幕のデザイン

西島

私どもは、もう幕出しを直接知らないのですから、大正の終わりにはすでにやらなくなっていたようですね。

江頭

もっと早いでしょう。大正9年の秋、箱崎にあった松が全滅していく。

それで県議会でも何とかしろと問題になって、安河内知事が声涙ともにくだるような答弁をしていますが、そのときに松が枯れることについては非常に論じられているのに、幕出しができなくなるという問答は出てこない。ということは、2、3組ぐらいはお好きな人が続けていたにしても、大勢は明治の末にやらなくなっていたと思います。

どうしてなくなったか、ずいぶん昔、お年よりに聞いたところ、こうです。小学校の運動会が、ちょうど明治の末ごろから始まり、その運動会というのがそれぞれの小学校でなく、決まって東公園まで出かけてやっていたようです。遠足も兼ねていたんでしょうか。昔の運動会は、父兄が酒、弁当をかかえてにぎわうものですから、幕出しよりもおもしろいということで幕出しが消えていったというのです。

西島

そのとおりでしょう。私たちのころも大運動会は、東公園の亀山上皇の下でやっていました。

私たち博多町人文化連盟で、ひとつ幕出しを復活してみようということで、7年ほど前、古い長持ちを探し出してきました。幸い小島与一先生がつくられた博多人形の幕出し風景があって参考になりました。そこで和服に黒たび姿でかついで長持ち唄をうたって、そのあと野宴を開くことになりました。それから毎年やってますが、海岸は露店ばかりでできないので、お宮さんに相談して、楼門の裏側に幕を張りました。そしたら、暑いの何のって、風は吹かない、蟻はくる、蚊はくるで大へんでした。昔の人は海岸の松林で、海に向かって片方は幕をあけて風を通していたんじゃないでしょうか。

江頭

旧暦ですから、さほど暑くなかったかもしれません。

西島

今は楼門の左側の境内をお借りして続けています。

宮地

幕はどんなものですか。

西島

昔は幕のデザインが、金魚や、あやめや、打ち出の小槌など、いいのがありました。その柄を見て「あっ、あの町が来とる」とか言っていたんでしょう。

江頭

幕は紺地で浜小路(いま古門戸)が波に千鳥、下呉服町が相撲とり、川端が猩々(しょうじょう)、奈良屋が金魚、鰯町(いま須崎)が鳥追い姿の踊りといった具合で、これらは現物や写真が残っていますが、デザインもすぐれ、まさに博多の日常的な町人文化の質の高さを示しています。こういう物を見ると、ああ博多はいい町だなあと思います。

10間道路が福岡市を九州第一の雄都に

宮地

幕出しが盛んだったころも、道幅は今と変わらないんですか。

江頭

そのころは2間(3.6メートル)ていどです。

明治43年に、福岡市が初めて完成させた都市計画で10間(18メートル)道路が走ります。当時の九州では、そんな広い道路は見たことも聞いたこともありません。それが東公園から今川橋までの旧貫線です。

これを機に福岡市は九州第一の雄都というキャッチフレーズを獲得するのです。明治20年代ぐらいまでは、長崎、熊本、鹿児島が九州の先進都市で、福岡は残念ながら2番手でした。広い貫線道路ができて、その上を九州で初めての市内電車が走る。

それまで郊外電車は別府、大分間を走っていたのですが、新築の博多駅や日本生命館(今の歴史資料館)、抱洋閣(消滅)などはハイカラな赤レンガづくり。レンガの1枚1枚が輸入品です。博多のことわざに「立ちしょんべんは赤レンガ」というのがありますが、そのころできたものと思います。立ち小便、どうせするなら木の塀にするより、赤レンガにした方が気持ちがいい、という意味でしょうか。それほど赤レンガは心のときめくものだったわけです。こんな博多の大躍進は、明治30年代から40年代にかけてのことです。

宮地

道幅が広くなって、また一段と放生会がにぎやかになったということはないですか。

江頭

それはありません。江戸時代の方が盛んだったと思います。筑前名所図会のおみこし行列の絵を見ると、それは格式高く、盛大な行列です。夜も、バックに花火をたくさん打ちあげている情景が描かれています。

箱崎、ナマコ餅、唐船塔

大正時代の幕出し

宮地

筥崎宮のことですが、神功皇后応神天皇が祭られていますね。神功皇后が応神天皇をお産みになったのは宇美八幡といわれていますが……。

江頭

それと玉依姫命です。伝説では、宇美で応神天皇を出産し(それで地名がウミ)、そのときお胞衣(えな)つまりへその緒を箱に納め海に流す。その箱が流れ着いたのでハコザキという地名がついたのだと伝えています。流れ着いたのがちょうど年の暮れで、その箱を埋めたりして忙しく、餅をつくことができない。

そこで、正月に餅のかわりにナマコを食べたということです。そういう伝説から、今でもナマコ餅という行事が大みそかにあります。昔は夜おそくにやっていたのですが、今は夜9時からです。箱崎の氏子が境内に集まって餅をつく。ついた餅をこねる場所まで運ぶのに、5人くらいで長い樫の棒の先に支えて持っていくのですが、途中で落としたら、その年は不漁といいます。うまく持っていき、ナマコのようにこねて、それを筥崎の神さまに供えて新年を迎えます。

宮地

筥崎宮の境内に唐船塔(とうせんとう)という塚石がありますね。唐の人が日本妻と別れる謡曲の題材になっている碑ですね。

江頭

ええ。祖慶という唐の官人が捕われ、箱崎で牛飼いに従事しながら日本の女と結婚して13年間過ごす。日本妻との間に2人の子供もできる。一方、唐にも残してきた男の子が2人いる。その子供が父親を捜しに日本に来、めぐり会って許されて帰っていく、という謡曲の筋ですね。謡曲では、子供たちは宝ものを唐から持ってきたとなっていますが、伝説では、お父さんが死んでいたらお墓にしようと石をもってきた。その石があの唐船塔の石だと伝えています。

それから、そばに夫婦石と書いた2つの石がありますが、戦前は、一の鳥居の参道にあり、少し頭を出していました。その間を通ると親子とか、夫婦の縁が切れると言ってました。というのも祖慶が船で唐に帰るとき、あの石にとも綱を巻いたというのです。日本妻と悲しい別れをしたので、あの石の間をとおると縁が切れるというので、みんな「あそこは、通り抜けなんな」と親たちは子供にやかましく言っていました。戦後米軍が進駐してきて、ジープで通るのに邪魔になるからということで、唐船塔の横に移されました。

宮地

一の鳥居は長政建立と書いてあります。黒田長政ですね。あれはりっぱなものですね。

江頭

あの形式は全国で一つだけですから、国の重要文化財になっています。楼門は小早川隆景、ご神殿、拝殿は大内義隆で、結局、三代の筑前の支配者が、並ぶ形になります。為政者の信心の深さとは別に、政治的にお宮にそういういいものを奉納することによって、お宮を通じて領地の民心をつかみたかったわけです。

チャンポンともピンポンとも呼ばれていた

宮地

放生会に話を戻しますが、名物にチャンポンがありますね。

江頭

そうですね。天保3年(1832)、福岡の上名島(いま中央区舞鶴)の醸造元・小川宇平がガラス製造を始めたのがそもそもの起こりです。この人、なかなかきっぷのいい人で、失業者を裏に居候させていた。

あるとき、ぶらぶらしている長崎から来た男に「何か芸はないのか」と聞くと「ガラスをつくります」と言う。そこで、水玉かんざしや糸繰り、グラスなどをつくり、放生会にはチャンポンを卸して人気を集め「びいどろ屋宇平」と呼ばれました。

チャンポンは、あまりたくさんはつくれないこともあって、放生会にだけ卸したので、たちまち名物として喜ばれたわけです。昔は、1メートル以上の大きなものもありました。

宮地

音がいいですね。

江頭

ラッパのように、吹いたり吸ったりすると、薄い底がペコペコと音を立てますが、あれをチャンポン、チャンポンと聞いたのですね。耳で聞いたのだから、戦前にはチャンポンという人とピンポンという人がありました。同じおもちゃが江戸にも伝わって、歌麿の描いた浮世絵に「ビードロを吹く女」というのがあります。「ポッピンを吹く女」と呼ばれた時期もあります。

戦後、小川勝男さんが復活されて、博多町人文化勲章をもらっていますね。復活したとき、マスコミがチャンポンと統一して呼んだから、ピンポン説は消えましたが、お年よりのなかには、ピンポンという人が、今もおられます。

宮地

ポッピンというのは……。

江頭

それは江戸の言い方です。博多は、チャンポンとピンポンです。

宮地

音のおもしろさがうけたのでしょうか。

江頭

ギヤマンあるいはビードロと呼ばれるガラス自体が大へん貴重なものでしたから……。

宮地

では、おとなのものだったわけですか。

江頭

そうです。高級なもので、幼児に買って与える、いわゆるおもちゃではなかったと思います。明治時代でも、芸者がお参りに来て、旦那から大きなのを買ってもらい、大切そうにかかえて人力車で帰っていく情景が華やかだった、と語り草に残っているくらいですから、10人お参りに行って10人とも買えるような値段ではなかったと思います。

珍しい品物が放生会を目がけてやってくる

宮地

新ショウガも名物ですね。

西島

そうですね。放生会に博多のものが、忙しくて参られないときは、近所の人が行ってきたおしるしにと、あの葉のついた新ショウガを買ってきて配ってくれたものです。海ホオズキなども出てましたね。

江頭

水をはった入れ物に小さな木が浮いていて、それをひっくり返すとずらーと海ホオズキ。楽しかったですね。あとからゴムのホオズキなどできてきました。

西島

キュー、キューと郷愁を誘うような音と、唇のビリビリする感じが何ともいえませんね。

宮地

ほかにおもしろいものといったら……。

江頭

サーカス。映画常設館というのは大正時代で、比較的新しいものなんです。それまでは、活動写真にしても、のぞきからくり、バナナのたたき売りにしても、全部放生会を目がけてくるわけです。

明治のころ活動写真といってもたわいないもので、ちょこちょこと何分か動く程度で、それが初めて博多にきたのも、この放生会だったそうです。

今では全国どこにいっても同じようなものを売ってますが、戦前までは放生会でないと珍しい品物が来ない。たとえば、私たちの小さいころでは拡大器。映画女優のブロマイドに当ててエンピツを動かすと似顔絵がスースーと描けるんです。原節子とか桑野通子とか、霧立のぼるとか……。本当に描けると思って20銭ぐらいで買って、やってみるけどうまくいかない。

西島

私はあれで描き始めたのが絵の勉強になった。

江頭

何の絵でも写せる薬というのもありました。新聞、雑誌の絵や写真に、くさい薬を筆で塗って強くこすると、何にでもベタベタ絵が写るんです。買った覚えがあります。

素晴らしいものが、放生会には次々にありました。そういう点では、戦前の感激と興奮は今説明してもわからないでしょうね。

戦後、軍隊から復員して初めてストリップショーを見たのも放生会。ああ、平和がきたと思いましたよ。

西島

私は暗いところで白い紙でできた幽霊がピューと上がっていくのが珍しくって、じーと見ていた記憶がある。糸が吊ってあり、幽霊の切り紙を置くとピューと上がっていくのがわからなくって、珍しくって……。

宮地

カーバイトの灯りはいつごろまで……。

江頭

戦後なくなりました。

宮地

独特のにおいですね。

江頭

白く光ってくさーくて、戦前の祭りのにおいですねえ。

社日まいりのおみやげはタコ坊主

宮地

放生会のあと社日祭が続きますね。

江頭

ええ、博多のものにとっては、社日祭も大切で、このときのお潮井(清浄な真砂)がいちばん効き目があるといいます。

社日というのは、春と秋のお彼岸にいちばん近いつちのえ(戊=土の兄)の日です。年に2回ありますが、放生会のあとが秋の社日です。

宮地

だいたい何日ぐらいですか。

江頭

放生会のあと1週間目ぐらい、遅くても20日目ぐらい。暦で決まるので、必ずしも一定していません。つちのえの日で土(つち)の神さまです。もともとは農耕の神さまだといわれていますが、商売繁盛、無病息災などとも結びついて、お潮井をとるわけです。テボ(竹かご)に入れて持ち帰り、門口に吊るします。家を新築するとき敷地にまいたり、病気が治ったとき部屋にまいたり、気分がふさぐとき座敷にまくような昔風のおじいさんもおりますよ。農村部では豊作を祈って田んぼにまいたりします。

おもしろいのは、中風にならないからと、社日ダコといってタコを食べますね。明治の末ごろ、博多奥の堂(御供所町)にいた小平(こへい)という人が放生会に、魚の煮つけなどを食べさせる煮出し屋を出した。ところが台風が吹いて、小屋は吹き飛ばされるし、お客は来ないし、大損して、ぼやっと箱崎の浜に立っていたら、台風で海岸にタコが打ち寄せられている。さっそく、これを社日に売り出そうと思いつくが、ただ売ってもつまらないので、「社日ダコを食べたら中気にならない」とキャッチフレーズをつけて売り、大当たりしたという話があります。

箱崎は電車通りを境に、近年まで海の岸側が浜部といって漁村で、岡部の方が農村。タコが浜部の、ショウガが岡部の名物だったのでしょうか。

宮地

放生会も社日も、博多の生活に深く結びついたお祭りなのですね。

興味深いお話、ありがとうございました。