No.19 維新の母と呼ばれた女流勤皇歌人 野村望東尼

対談:昭和56年11月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 楢崎 佳枝子 氏(現姓・谷川)
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
九州総合信用株式会社 社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


"隣は何をする人ぞ"がきっかけに

Profile:野村望東尼 年譜

晩年の望東尼

小山

野村望東尼(のむらぼうとうに)は、歌人で、幕末に筑前の勤皇家として登場しますが、あまり知られていませんね。楢崎さんは望東尼の研究家としてご活躍ですが、お若いのに、彼女に関心をもたれたのはどういうことからですか。

楢崎

3年半ほど前に、平尾山荘の隣に越して来ましたが、ちょうど大学の卒論にとりかかる時期でもあり、恰好のテーマなので、かつて隣に住んでいた人のことを無性に知りたくなって、望東尼に取り組んだのです。それまで望東尼についての知識はほとんどありませんでしたから、九州大学の田村圓澄先生と川添昭二先生のご紹介で、福岡県文化財専門委員の筑紫豊先生をお訪ねして教えていただきました。

小山

望東尼の研究は、ほかにどういう方がなさっていますか。

楢崎

現在は筑紫先生おひとりと言っていいと思います。在野で語り継いでおられる方は、何人かいらっしゃるようですが。

西島

望東尼は、ボートーニともモトニとも呼ばれますが、どちらが正しいのですか。

楢崎

ボートーニと呼んだほうがいいでしょう。正式には招月望東禅尼(しょうげつぼうとうぜんに)です。ただ、出家する前の名前はモトですから、モトニと言う方も多いようです。

小山

それでは、本名は野村モトさんですね。調べていくうちに、どんどん魅(ひ)かれていくような女性ですか。

楢崎

調べていくうちに、とても人間の幅が広く、教養があるうえに行動力もある、そして女らしさのある女性であることがわかってきました。
筑紫先生に指導していただいた研究の取り組み方が大変に良かったと思います。他の研究者による文献にあたる前に、望東尼自身の手紙や日記を読むことから始めたのです。そこで彼女の真の姿、人間性に直接触れることができたと思います。というのも、東京にお住まいの野村家のご子孫、野村肇一(としかず)さんが福岡市立歴史資料館に寄託されていた600点あまりの手紙や日記を、同館のご厚意でじかに手にすることができたのです。手紙や日記には、悲しいとき、嬉しいときの本当の気持ちがいちばん表れています。それを見ているうちに、自然にのめり込むように望東尼に魅かれていきました。

平尾山荘は勤皇家のアジトに

楢崎佳枝子氏

小山

感懐を素直に表現する人だったのですね。ところで、望東尼の理解のために、彼女の生涯を少しお話し願えますか。

楢崎

望東尼は文化3年(1806)9月6日、福岡藩400石取りの中級武士の3女として生まれます。父、浦野重右衛門勝幸は生け花などもたしなむ風流人で、母みちは百姓今泉氏の娘で、勝幸にとっては3人目の妻。最初の妻は離縁。2人目の妻は病みがちで、みちは当時、浦野家の下女でしたが、その妻は気立てのよい人で、みちに「私が死んだら、是非後に……」と言っていたそうで、その言葉どおりみちは後妻となり、望東尼を生みます。 望東尼は13歳で家老林五左衛門宅に行儀見習い奉公。

17歳で500石取りの福岡藩士石郡甚右衛門利貫(としつら)に嫁ぎますが、20歳も年長の利貫とうまくいかず、半年あまりで離婚しています。利貫は、70歳になっても若いお妾さんをもっていたというほどのプレイボーイで浦野家の話によれば、望東尼が連れていった女中に利貫が手をつけたのが離婚の原因らしいのです。望東尼も気が強かったのでしょう。24歳で、413石取りの福岡藩士野村新三郎貞貫(さだつら)36歳の後妻になります。先妻には、貞則(さだのり)、鉄太郎(てつたろう)、雄之助(ゆうのすけ)の3人の子があり、そのとき長男貞則はすでに18歳でした。望東尼自身も4人の子を生みますが、皆幼いうちに亡くなります。先妻の子も、貞則は家督相続後に自殺し、鉄太郎もあまり長生きしていません。3男雄之助は隅田九兵衛の養子になりますが、成長後脱藩して行方知れずになってしまいます。子どもにはあまり縁がなかったようです。
望東尼とともに、夫貞貫も歌が好きで、夫婦ともども歌人大隈言道(おおくまことみち)の門にはいります。生涯の師、言道との出会いは望東尼27歳のときでした。このころからの歌が後に、歌集『向陵集(こうりょうしゅう)』に収められることになります。
40歳になると、家督は長男貞則に譲り、夫婦ともに平尾向岡(むかいのおか)の山荘に隠居します。息子たちも成人したので、花鳥風月を友に、歌人として自適の生活をしようというわけです。54歳のとき、夫貞貫を亡くし、博多明光寺で得度剃髪(とくどていはつ)し、招月望東禅尼となります。2年ほどして突如上洛します。

西島

なかなか行動的なおばさんですね。

楢崎

そうですね。「生きているうちに帝(みかど)の御所を見ておきたい」「皇女和宮(かずのみや)の御降嫁を見たい」などと言っていたそうですが、そのころ大坂にいた師の言道に会いたいということもあったのでしょう。

小山

京都ではどういう方々と交友していたのですか。

楢崎

当時の一流の人たちと交友していますから、たいしたものですね。大坂では言道と再会し、京都では近衛家の老女で嵯峨の直指庵に隠棲中の津崎村岡や、女流歌人として、また手すさびの陶芸の蓮月焼で知られている太田垣蓮月尼などいろいろな人に会うなかで、京都で活躍していた諸藩の勤皇の志士とも知り合っています。これが文久元年(1861年)から2年にかけてで、維新を7年後にひかえ、京都の情勢が最も緊迫していたころです。そういう情勢を眼のあたりに半年あまり過ごすことが、望東尼の晩年の勤皇思想に影響を与えたのでしょう。

小山

そこから勤王歌人望東尼が出現するのですね。

楢崎

そうです。福岡に帰ってくると、京都の情勢を聞こうと、有名な平野国臣(ひらのくにおみ)や中村円太(なかむらえんた)といった筑前の志士たちが望東尼を訪ねてくる。彼らの上洛に際し、京の志士たちへ紹介してやったりする。そうこうして、平尾山荘が勤皇派のアジトになっていったわけです。山荘は、西鉄大牟田線平尾駅から歩いて7、8分のところですが、城下からもさほど離れていない。まして望東尼は尼(あま)ですから、そんな大それたことにかかわっているとも思われていない。そういうことで、山荘はいい隠れ蓑(みの)になってしまうのです。高杉晋作も元治元年(1864)に長州から逃れて平尾山荘に1週間ほど潜居しています。
慶応元年(1865)に福岡藩は、加藤司書(かとうししょ)以下の勤皇派を一網打尽に弾圧して処刑します。望東尼は女性だからということで、芥屋の近くの姫島に流されます。獄中、『ひめしまにき』を書いています。翌、慶応2年9月16日に高杉晋作は、かつての恩義に報いるため、福岡藩を脱藩し奇兵隊に入っていた藤四郎(ふじしろう)ら6人を姫島におくって望東尼を救い出し、船で下関まで連れていきます。しかし残念なことに、それから間もなく高杉晋作は翌年望東尼にみとられて亡くなっています。このとき、晋作が辞世に〝おもしろきこともなき世をおもしろく″と上の句をよみ、望東尼が〝すみなすものは心なりけり″と下の句を添え、晋作が、おもしろいのう……といって息をひきとったのは、よく知られている話です。その後、望東尼は山口から三田尻へと移り、薩長連合軍の東上を送るため、防府天満宮に7日間の断食祈願をし、やがて病にかかり三田尻で慶応3年11月、波乱に富んだ62年の生涯を閉じるのです。

望東尼にとって生活はすなわち歌

楢崎佳枝子氏校訂の『向陵集』

西島

勤皇家としての活動は、京都に行ってからということですが、それまでは、歌人だったのですね。

楢崎

彼女の生涯を通じてのものは歌を詠むことで、歌を詠まないときはありません。京にのぼる前、55、6歳ぐらいまでは勤皇家と呼べる活動は全くしていません。現在、彼女が勤皇家といわれるのは、晩年の6年間ぐらいをさしています。

小山

歌人としては、勤皇活動で世に知られる前から有名だったのですか。

楢崎

望東尼が師事した大隈言道は、今でこそ近世和歌史を代表する人と言われていますが、当時は、歌壇に認められない新派的存在でした。ですから、望東尼も全国的に有名であったというわけではありません。しかし、言道はたくさんの門下のなかからただ1人挙げるなら望東尼だと、たいへん彼女のことをかっていました。

小山

言道には勤皇思想の背景はないのですか。

楢崎

言道は望東尼が亡くなった翌年、明治元年に81歳で亡くなります。言道は生涯勤皇思想はもっていません。そこで、晩年望東尼とのあいだに感情の齟齬(そご)(くいちがい)を生じたと、よく言われます。しかし、私はそのようなことは決してなかったと考えます。望東尼にとって、やはり言道は生涯の師であったでしょう。

小山

望東尼は美人だったと聞きますが。

楢崎

若いときは、「じょうもんさんのしゃれもんさん」など、言われていたという逸話があります。山荘公園の銅像は、矢田一嘯(やたいっしょう)が描いた絵をもとにつくったものです。

小山

望東尼の歌はどんなものですか。

楢崎

日常生活そのものを歌に詠むのです。お茶碗があればそれを、かたつむりが這(は)っていればその様を。悲しいとき、つらいとき、嬉しいとき、いつでも歌を詠んでいます。師の言道は、現実主義、個性主義に徹した平淡軽妙な歌風で、清新さに溢れていますが、望東尼もその影響を受けて、嘱目(しょくもく)をそのまま詠みこむものが多いのです。夫、貞貫が亡くなったときも、一糸乱れない態度で歌を詠んでいます。この世の愛別離苦の一切を、歌を詠むことで超越できたのでしょうか。彼女の平常心は歌で養われていたのではないかと思います。

西島

ありのままを詠んで、あまり装飾しないのは、博多らしい……(笑)。

小山

すると今読んでもすんなり受けとれる歌でしょうね。

楢崎

言道の影響でしょうけど、わかりやすい歌が多いですね。

小山

どんな歌がありますか。

楢崎

自分の住んでいる山荘を詠んだものでは、
夫婦で風月と歌をともに暮らしている静かさが読みとれますね。それから、
「いのちにもかけたる梅の花を見て老(おい)ののぞみも月が瀬の里」
「もののふの大和心(やまとごころ)をよりあはせただ一すぢの大綱にせよ」
「もろともに住む人あれど有明の月まつ虫ぞ友となりける」

お人よしの夫と強い性格の師

西島伊三雄氏
小山秦常務

西島

はじめに、彼女の筆稿から読み始めたと言われましたが、昔の人の草書体をよく読みとれますね。大へん努力されたのでしょう。

楢崎

それまで変体仮名に触れるチャンスは全くありませんでしたし、こんなミミズが並んだようなくねくね文字にはお手あげで、最初のころは全然読めませんでした。決心したものの、どうなることかと心配でしたが、根気よく彼女の筆とつきあっているうち次第に読めるようになってきました。読めるようになると、望東尼の字がとてもきれいな書であることもわかってきました。

小山

読まれた手紙は何歳くらいのときからのものですか。

楢崎

20代後半くらいからのものです。

小山

恋文の類はありませんか。

楢崎

夫の貞貫とは夫婦仲がよく、恋文を書くような相手はどうもいなかったようです。大隈言道に入門したのが望東尼27歳、貞貫39歳のときで、言道は35歳です。貞貫は、3年やればバカだと言われる足軽頭を13年も勤めたようなお人よしという感じですが、言道は正反対で、自分の考えたことは人が何と言おうとやり通すという強い性格の人でした。性格の違う3人は大へん仲がよく、言道は平尾山荘によく遊びに行っています。月のきれいな夜、戸を叩く音がする。誰かと思って開けてみると、言道が酒を持って立っている。そこで3人で夜があけるまで酌みかわし、歌を詠みあった。そんなことが日記に書いてあり、3人がよく一緒だったことがうかがえます。
今度出版した『向陵集』は、望東尼が27歳で言道に入門してから、60歳で姫島に流される前までの、日記兼歌文集です。そのなかで言道の名と貞貫の名の出てくる頻度をみると、言道の方が多い。そういうことから、望東尼にとって、言道は非常に大きな存在だったと考えられます。

西島

手紙や日記をずっと読んでいかれるうちに、楢崎さん独自の望東尼像ができてくる。これまで誰も気づかなかった望東尼像も発見されるものですね。

楢崎

どうでしょうか。ただ他の研究者の方の望東尼伝などからはいっていくと、どうしても外から望東尼を眺める姿勢になるでしょうね。直接彼女自身の筆のものに触れていくと、例えば獄舎の生活が実感として、「つらかろう」「悲しかろう」、あるときは「嬉しかったろう」と感じ取れる。歌の生命も読みとれるのですね。生身の望東尼に触れることができるわけで、このゆき方で私は、望東尼の魅カの虜(とりこ)にされてしまったのでしょう。歴史の研究は、やはり原資料に直接あたるのがいちばん大切だと思います。

小山

言道は、博多の生んだ近世の大歌人ですね。でも、私たちはよく知らない……。

楢崎

寛政10年(1798)に博多に生まれ、明治元年(1868)まで、幕末激変の時代に生きた歌人です。商家の生まれで、二川相近(ふたがわすけちか)に和歌と書を、漢学を咸宜園(かんぎえん)で有名な日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)に学び、独自の歌風を確立したのは35歳ごろからです。40歳近くになって弟に家督を譲り、今泉村の池萍堂(ちへいどう)(ささのや)に隠棲し、作歌活動にいそしんでいます。
号を萍堂(へいどう)といっています。

西島

池萍堂は今も残されていますか。

楢崎

保存の声が多かったそうですが、とり壊されてしまって残念です。いまでは今泉公園に碑が残っているだけです。言道の歌は、はじめは異端視されていましたが、現実主義の平明な歌風が次第に注目されるようになり、安政4年(1857)に大坂にのぼったときには、師事する人がたくさんありました。緒方洪庵(おがたこうあん)なども言道に歌を習っていたそうです。

西島

平尾山荘で、望東尼と勤皇の志士たちとは、どんなつながりだったのでしょう。

楢崎

自分の子に次々早逝されていますから、20歳からせいぜい30歳前までの志士たちを子供のように思っていたのでしょうね。望東尼は50代後半、当時ではもうおばあさんですから、母性愛を志士たちに注いで、食事やお酒など、あれこれと世話をやいてやったのでしょう。そこで、「彼女は縁の下の力持ちであって、思想的には何もない」と言われることがありますが、私はそうは思いません。手紙を実際に見ていると、ただ志士を可愛がるだけでなく、志士たちの暴挙を戒めたり、非難したりしている。京都の情勢なども実に正確にとらえています。

小山

そのころ、例の三条実美(さんじょうさねとみ)らの五卿が流されて太宰府に来ていますね。彼らとは、何か往復はありましたか。

楢崎

文久3年(1863)8月に、尊攘派の公卿7名が京から長州へのがれた、いわゆる七卿落(しちきょうお)ちですね。そのうち、五卿が太宰府に移されていました。当時の五卿は、尊王攘夷のシンボルのような存在でしたから、望東尼はとても会いたがっていました。太宰府の信全法印が勤皇の志士を庇護していて、望東尼とも面識があったので、その伝手(つて)で会おうとしています。ある雨の日など五卿が幽閉されている延寿王院(えんじゅおういん)に、梯子(はしご)をかけてはいりこもうとしますが失敗。大へんな行動力ですね。別の機会に会うことができますが、そのときの喜びは大へんなもので、これまで勤皇活動をやってきた甲斐があったというような歌を詠んでいます。
「まどひつつ老のさかぢをのぼりきてただしき道となるぞうれしき」

姫島脱獄を高杉晋作が援助

現在の平尾山荘
(西鉄急行平尾下車、徒歩7~8分)

小山

福岡藩の勤王活動とその取り締まりによって、望東尼が姫島に流された事件までの概要を、お話しいただけませんか。

楢崎

尊王思想がまだ日の目をみていないころ、筑前では平野国臣が口火を切って活動をはじめるのです。国臣は、西郷隆盛や勤皇僧月照たちと親交があり、文久2年(1862)、寺田屋事件のとき、福岡藩主黒田長溥(ながひろ)に決起を促して、投獄されます。翌年許されて後脱藩し、京で攘夷親政運動に参加するのですが、たのみの長州が薩摩、会津のクーデターで京から追われて挫折。七卿のひとり沢宣嘉(のぶよし)をかついで、但馬に兵をあげます。失敗して捕えられ、元治元年(1864)京都六角の獄で処刑されます。37歳の若さでした。

文久2年(1862)5月に望東尼が京都から帰ってきたとき、国臣は藩主に忌避され、福岡桝木屋の獄につながれていたのですが、その国臣に激励の手紙を書いています。そこで国臣が出した返事が有名なこより文字です。国臣は文久3年に出獄を赦されると、平尾山荘を訪れています。その後脱藩して京にのぼるのですが、山荘で望東尼が贈った送別の歌が残っています。
「うれしさと別れ惜しさをいかなればひとつ心におもひわくらん 望東尼」
「忍ひつつ旅立ちそむる今宵とて山かげ深き宿りをそする 国臣」
当時の福岡藩主黒田長溥は、薩摩からの養子で蘭癖大名といわれる程開明的で英明な殿様だったのですが、代々幕府とのつながりも深く、徳川中心の考えが抜けず時代の流れが見通せなかったのでしょう。藩の勤皇派の声に耳を傾けたかと思えば、幕府側について志士を弾圧したりする。元治元年(1864)禁門の変で長州が敗れ、幕府が長州征伐を発令すると、幕府から疑いかけられるのを恐れて幕府側につく決意を固め、勤皇派を処罰してしまいます。それが慶応元年(1865)の事件です。家老の加藤司書は自刃。そのほか の志士も斬罪。望東尼は姫島へ流されるのです。

小山

それを、高杉晋作が助けるのですね。

楢崎

晋作が長州の俗論党に追われ、福岡にいたのは元治元年(1864)に山荘にかくまわれた2週間ほどにすぎません。そのときの恩義を忘れないで、望東尼を救援するのですが、まことに風雲児の面目があらわれていますね。
晋作は、救援に藤四郎ら6人の部下をさしむけます。藤四郎ら2人は定番役の所に行き、藩からの特別のご沙汰が出て牢を出ていいようになったという内容の書状を見せて押し問答する。別の2人は獄舎へ走り、途中で工事をしている家の掛矢(かけや)を持ち出して牢の錠をこわし、望東尼を救い出す。望東尼は長年坐ってばか りの生活で足腰が弱っているし、突然のことなので驚いて腰が立ちません。そこで望東尼を背負って船へ走ります。合図の鉄砲をうつと、定番役と押し問答をしていた2人は、「また出直して来よう」とさっさと退散する。そして下関まで船で連れて行くのです。定番役が抱え大筒をもっておっかけたときには、船は沖へ出てしまっている。定番役を欺くために、はじめはちょっと壱岐の方に向かい、途中で下関へ向きを変えます。

西島

よく逃げられたものですね。

楢崎

まさか、望東尼を助けるものがいるとは考えていなかったでしょうから。

板じきに風が吹きぬける粗末な獄舎

姫島の獄舎の絵-望東尼の絵を参考にして

西島

姫島の牢に行ってみましたが、あんなところで辛い生活だったでしょうね。

楢崎

望東尼がかいた獄舎の絵を見ると、今再現されている牢よりも粗末なものだったようです。板敷きにござを敷いているだけで、周囲も隙間だらけの格子で、着物で風を防いでいたといいます。望東尼はすでに60歳ですし、体も丈夫ではなかったので、たいへんだったでしょう。流された当初の日記『ひめしまにき』をみると、生きているにしのびない、くやしい、いっそのこと殺してほしいというような悲愴一色のものです。それがしばらくすると孫にもう1度会いたいというふうに明るさがみえてきます。

西島

食事はどうしていたのでしょう。

楢崎

島で3軒ほど藩が賄方(まかないかた)を決めて、食事を持って来させていました。そのほか差し入れもあったようです。

小山

牢から手紙を書くことはできたのですか。

楢崎

禁じられていますが、島の人が紙などを差し入れ、また書かれた手紙をこっそりと望東尼の実家に届けてくれていたようです。はじめ島の人々は、「こんなおばあさんがいったいどんな悪いことをしたのだろう」と、胡散(うさん)くさげな目で見ていました。子供が珍しげに寄って来る。望東尼も子供に差し入れのお菓子をやったりして、だんだんうちとけてくる。望東尼はそのために実家には、「島のだれそれにあげなければならないから」と、あれこれを送ってくれるように依頼の手紙を送っています。そうしているうちに、島の人たちも歌を詠む望東尼に短冊を書いてもらい、代りに差し入れをするといった交流もでてきます。また、昔望東尼の弟がこの島で定番役をしていたことがあり、それを知って何やかやと持って来てくれたりしたそうです。お正月など、腐るほどお餅を持って来てくれたそうで、「ネズミの取り分だけは取ったけれど、残りはどうしようもない」とおどけた文章もみられます。

ますらをのこに劣りやはする

小山

日記や手紙には、博多の町の様子などは書かれていませんか。

楢崎

勤皇関係の手紙は、晩年になってからですから、それまでの手紙には歌仲間との生活に関するものが多いですね。歌仲間と月に1回「円座(まどい)」をやっています。「月を惜しむ会」ということで、平尾山荘や大隈言道の隠居宅であるささのやや、誰それの家と、月ごとにあちこちに集っていました。だから残っている手紙の多くは、「今度の歌会は何某のところでやろう」といったものです。
当時の福岡の武士は、ほとんど藤田正兼(まさかね)という武家出身の歌人に入門していました。一方、言道に師事したものは、望東尼のような武家の者もいれば、医者の妻などいろいろな階層の人がいました。

小山

そうした平穏な生活をしていて、まして女人の身で、どうして藩主に反する勤皇思想をもつようになったのでしょう。

楢崎

背景には、やはり和歌がありますね。和歌を詠むことは国学思想につながり、ひいては勤皇思想に結びついてゆきます。
筑前の有名な勤皇家、平野国臣も一流の国学者です。望東尼の若いころ詠んだ歌のなかにも、国を憂える思想は見られます。それは歌人ならたいていの人がもつ程度の思想ですが、望東尼の場合、何といっても京行きの体験がその思想に大きな影響を与えたと思います。誰かひとりの影響を強く受けたというのではなく、沸騰している京の情勢と、馬場文英や太田垣蓮月尼など数人の勤皇家との出会いが彼女に影響を与えたのだと思います。

小山

楢崎さんが出された『向陵集』は望東尼自身が題したものですか。

楢崎

昔、平屋山荘のあたりを「向(むかい)の岡(おか)」や「向陵」と呼んでいて、望東尼が自分で名付けたものです。

小山

歌は何首くらいありますか。

楢崎

たいへんな数です。今度出した本だけで1850首ほどです。何を見てもすぐ歌に詠みますし、人に書いてあげた歌もかなりあります。

小山

そのなかで、いちばん望東尼らしいと思われる歌は……。

楢崎

私が好きな歌は、
「ひとすじの道も守らばたをやめもますらをのこに劣りやはする」
です。女も一筋の道を守りさえすれば男に劣るものでしょうか、といった歌です。

小山

晩年の作ですか。

楢崎

いいえ、勤皇活動をする前のものです。「若き女の戒めになる歌を」という詞書があります。

小山

昔からそういう歌を詠んでいたことで、後年の活動がわかるような気がしますね。

楢崎

望東尼のところに血気盛んな勤皇の志士が、それほど多く集まってきたというのは、彼女に何か大きな魅力があったのでしょう。私は、そこにいちばん興味があります。幕末に1個の独立した人間としての自覚をもち、登場した女性は意外に少ないのです。訪ねてきた若い志士たちも、ときには彼女を「先醒」と呼んだりしています。ただ単におかあさん的な役割だけではなかったと思います。望東尼の人間性や知性が、人を魅きつけて離さなかったのでしょう。

ひとりの"多感な女性"に魅かれて…

小山

たとえば、彼女が勤皇活動に登場せず、高杉晋作とのエピソードもなく、平野国臣とも知り合わなかったとしても、やはり生き生きとした魅力的な女性ですか。

楢崎

ええ、手紙を読んでいると、歴史上で果たした役割などよりも、彼女が妻として、母として、1人の女性として、こういうふうに生きてきたということに魅(ひ)かれます。
大変器用な人で、懐紙入れや財布などをはじめ、孫の具足なども作っています。字もきれいで、絵も得意ですね。福岡には、昔「おきあげ」というはめ込み細工があり、今でも羽子板などに使われていますが、それにもたくみでした。京では、その「おきあげ」作りで滞在費を捻出していたようです。これらの作品は福岡市立歴史資料館にあります。望東尼は歌文に書画に手芸に諸人との交際にと、いずれの面においてもその持てる天分を遺憾なく発揮することのできた才女であったと思います。そして、それは彼女がその裏面においてまさに〝多感な女性″だったからではないかと思います。

小山

お話を伺って、これまで歴史のなかのエピソードとしてしか知らなかった野村望東尼が、確かに「生きていた」1人の女性だという実感が湧きました。興味深いお話、ありがとうございました。

楢崎 佳枝子氏 略歴

昭和53年九州大学文学部卒。在学中より筑紫豊氏のもとで野村望東尾研究にとりかかる。福岡地方史研究会を研究の拠りどころとするかたわら、福岡女性史研究会を主宰。56年に、望東尼著『向陵集』を校訂、出版(文献出版)。現姓・谷川。