No.20 戦国武将と博多

対談:昭和56年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
吉永正春氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
福岡シティ銀行 中村治一

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


付録年表

イラスト 西島伊三雄

西島

戦国時代というとすぐに、謙信信玄信長秀吉家康といった中央制覇をねらったエースたちの話になってしまうのですが、博多の戦国時代はどうだったのでしょう。

吉永

博多は海外貿易港で、富の拠点でしたから、西国の武将たちは博多を手に入れようと争奪戦を演じていますが、博多の市中には武威を象徴する城がつくられていません。そこに博多の特殊性があると思います。博多の戦国時代というと、地元の人たちでも、秀吉が島津征伐に来て、博多再興をはかったことぐらいしか知らないでしょう。

中村

戦国時代はいつまでを言うのですか。

吉永

普通は応仁の乱が始まった応仁元年(1467)から、秀吉が島津征伐をする天正15年(1587)までの約120年を指します。この間の博多の支配者は大別すると、文明年間の前半が大友・少弐(しょうに)の分領時代、同後半から天文20年(1551)までは大内時代、それ以後は天正6年(1578)頃までは大友時代、その間大友・毛利、大友・龍造寺の抗争を経て島津の進攻、秀吉の島津征伐となります。

 

西島

目まぐるしく支配者が変わって、大変な時代ですね。

吉永

そうです。とにかく戦国時代は、生き残るために最善を尽して競い合う。その火花が400年たってみると、ロマンでもある。戦国武将たちの人間像が生き生きとする戦国末期に、博多周辺を舞台に活躍した武将たちをとりあげてみましょう。

博多を250年問支配した少弐氏

西島

まず少弐氏ですね。本拠は筑前大宰府ですか。

吉永

ええ。少弐氏は、藤原秀郷(ひでさと)の子孫の武藤資頼(むとうすけより)が鎮西奉行として下向し、大宰少弐に任ぜられてから、少弐を名のっています。大宰府を本拠に、筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬まで勢力をひろげていたのですが、次第に勢いが衰え、文明10年(1478)頃には大内氏に大宰府を追われ、肥前、対馬を転々と流浪し、〝流れ大名〟といわれます。

中村

対馬では氏を頼るわけですか。

吉永

宗氏は少弐の守護代として、対馬島を支配した豪族で、少弐氏のため涙ぐましいほど忠誠をつくします。対馬は所領が少ないので、博多、つまり少弐氏と結びつく必要がある。逆に、少弐は朝鮮貿易のためには、宗氏の仲介がいる。お互い不可分の関係にあったといえます。龍造寺氏も少弐の幕下で、宗氏が少弐にとって「足」であれば、龍造寺氏は「手」と言えます。龍造寺は肥前の土豪で、文治元年(1185)藤原季家(すえいえ)が佐嘉郡龍造寺村の地頭職に任ぜられてからこの姓を名のっています。
天文14年(1545)、少弐は、龍造寺が敵の大内と通じているというデマを信じて龍造寺の主だった者を惨殺したので、龍造寺は大内についてしまいます。
また宗氏にもうとまれて、少弐は文字どおり手足をもがれて動きがとれなくなる。これが少弐の衰亡を早めたと言えるでしょう。永禄2年(1559)15代少弐冬尚は龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に敗れ、滅亡します。

中村

少弐が博多を支配したのは何年間ぐらいですか。

吉永

初代資頼(すけより)から13代政資(まさすけ)まで約250年間。博多という都会が少弐の器には大きすぎたのでしょう。朝鮮との貿易にしても、鉄や綿などかなりの実績を誇りながら、権勢にあぐらをかいて民心をつかめなかった。政資の全盛期は10年程で、末路は哀れです。多久の専称寺でひっそりと果てています。その孫の冬尚(ふゆひさ)の代で滅亡します。少弐氏の墓も数個所しか所在がはっきりしていません。

“長篠の合戦”より6年早い鉄砲戦術

吉永正春氏

西島

そのころの九州の勢力は…

吉永

明應から天文年間(1492~1555)の九州は、豊後の大友と周防の大内が2大勢力で、薩摩の島津は立ちおくれ、少弐がわずかに大友や肥前方面の諸豪の支援で、反大内闘争を続けている状態でした。
大内氏は、本拠を山口に移してから強大となり、義弘の時代から明や朝鮮との貿易で富み、義隆に至って7ヵ国守護を兼領し、文化的にもキリスト教布教を認めるなど開明的な政治を行ないました。大内氏は少弐氏に続いて約150年間、博多を支配しましたが、天文20年(1551)大内義隆は家臣の陶晴賢(すえはるかた)の反逆にあい、長門大寧寺で自害し、滅びます。その陶氏を倒して大内の遺領を継ぐのが毛利氏です。毛利は安芸吉田荘の一地頭職でしたが、はじめ尼子氏に、次いで大内氏に属し、大内義隆を討った陶氏を倒して周防、長門の2国を握り、やがて尼子を滅ぼして中国(山陽・山陰道)7ヵ国の大大名に成長するのです。

西島

鉄砲も九州が早かったのでしょう。

吉永

そうです。天文12年(1543)ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が伝わります。天文年間最大のできごとだといえますね。それまで騎馬戦を主体とした、首とり合戦だった戦術が、鉄砲によって大きく改革されます。伝来から26年後の永禄12年(1569)に行なわれた多々良川の合戦で、毛利は鉄砲で大友を圧しています。信長、家康軍が、鉄砲隊で武田勝頼を破る、長篠の合戦が天正3年(1575)だから、それよりも6年も前のことです。いかに早く鉄砲を取り入れたかがわかりますね。

中村

毛利氏の九州進出はいつごろですか。

吉永

弘治3年(1557)、大内義長(おおうちよしなが)を討った後で、永禄初頭から進出開始ということになります。大友・毛利両軍は、門司城をはさんで激しい攻防戦を展開。世に門司合戦として知られています。

西島

どちらが勝ったのですか。

吉永

全体的にみると毛利。しかし大友は、実戦の不足を外交戦でカバー。幕府に献金をして仲介を頼み、優位な講和をとりつけます。その結果、永禄7年毛利は、せっかく奪った豊前の要衝松山城を大友に返すなど、不利な条件をのみます。

西島

これで毛利は九州から手を引くわけですか。

吉永

いいえ。永禄9年(1566)毛利元就(もうりもとなり)は山陰の尼子を降し、後方の憂いを断つと、再び九州をねらって各地の情勢を探っています。かねてから宗麟を快く思っていない筑前宝満城督、高橋鑑種(あきたね)を味方に引き入れる。父を討った大友を不倶戴天の敵と狙う秋月もこれに呼応、原田筑紫宗像麻生らの諸豪と結んで、反大友戦線を結成させます。永禄9、10、11年にかけて豊筑の各地で大友への叛旗がひるがえりました。

そむく鑑種(あきたね)支える紹運(じょううん)

地図

中村

宗麟への不満が大きかったのですね。

吉永

鑑種は大友一族で、はじめは宗麟に忠誠を誓っていたのですが、宗麟の私行の乱れや、家政の紊乱に厭気がさしたことや、毛利攻めを命じられ武門の誉れと周辺の諸豪をかたらい成果をあげていると、急に中止となって面目を失うなど、いろいろのことがあって、宗麟不信となったのですね。
糸島でも高租城の原田親種(ちかたね)、永禄11年(1568)の春には一族の立花鑑載(あきとし)が立花山上に叛旗を掲げ、筑前がまた争乱に巻き込まれます。このとき立花支援のため毛利軍は糟屋(粕屋)まで押し寄せ、原田勢も加わって、立花山の東西の城には一万もの兵が溢れたといいます。宗麟は「憎っくき鑑載め!」と、戸次鑑連(べつきあきつら)、臼杵鑑速(あきすみ)、吉弘鑑理(あきまさ)の大友三老に兵3万をあずけ討伐に差し向けます。立花城は敗れて鑑載は憤死し、秋月種実(あきづきたねざね)は降伏、高橋鑑種も2年近く籠城しましたが、毛利勢が急に撤退したので永禄12年に進退きわまって降伏します。宗麟は重臣一万田氏の請いで一命をたすけ小倉へ移しますが、のち一族吉弘鑑理の二男、弥七郎鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせています。これが高橋紹運(たかはしじょううん)となる人です。鑑種には秋月から迎えた養子元種がいましたから、別家をたてた形ですが、鑑種は後にまたそむき、叛乱のうちに病にかかり、天正7年、57才で亡くなります。養子の元種も、実家の秋月とともに徹底的に大友に反抗しますが、別家をたてた高橋紹運は、彼と前後して立花城に入った立花道雪(どうせつ)とともに衰退の大友家を支えて奮闘するのです。戦国の悲哀を感じますね。

中村

なぜ、毛利は撤退していったのですか。

吉永

それは大友の奇抜な作戦のためです。宗麟は、大内家再興に燃える大内輝弘を利用することを思いつくのです。
大内25代の義興(よしおき)(義隆の父)は家督争いから、弟の隆弘を殺す。そこで隆弘の子輝弘は豊後に亡命していました。
宗麟は足利将軍家から、大内相続の認可状を預かっていたので、輝弘にそれを与え、手兵600人をつけて周防に上陸させ山口へ進撃させます。毛利は、主力軍の小早川隆景(こばやかわたかかげ)や吉川元春(きっかわもとはる)を筑前に送り込んで本国は空っぽ。永禄12年10月「輝弘、高嶺(たかみね)城(山口)奪回す」の知らせに、毛利は筑前どころではなくなる。そこで、せっかく手に入れた立花城を放棄し、宝満城を見すてて関門を渡り撤退し、輝弘攻略にかかるのです。

進攻の直前に洗礼を受ける宗麟

西島伊三雄氏

西島

毛利の帰国後は、大友の全盛ですね。

吉永

ええ、天正6年(1578)耳川の合戦までの10年間くらいが、大友全盛期です。

中村

筑前各地のその後は……。

吉永

宗鱗は、筑前擾乱にこりて元亀元年(1570)5月、高橋鎮種(紹運)を筑前宝満、岩屋城督に、翌年正月、戸次鑑連を筑前立花城督に任じます。鑑連56歳のときで、これより立花道雪と名乗ります。九州全体を見ると、島津義久がようやく薩摩、大隅、日向の三州統一を果たし、豊後の大友と肥前の龍造寺、この3家が鼎立状態をつくっています。
島津義久には義弘歳久家久の弟がいてみんな知略にすぐれた勇将ですが4兄弟が一丸となって統一の偉業を果たし、九州制覇の道へとつき進むのです。

西島

九州分け目の決戦が始まるわけですね。

吉永

天正6年(1578)10月、ついに大友と島津は日向の高城、耳川でぶつかります。
島津が島津軍法で思想的に一枚岩で固まっていたのに対し、大友はちぐはぐです。宗麟は進攻の直前臼杵でキリシタンの洗礼を受け、ドン・フランシスコというクリスチャンネームをもらっています。宗麟49歳のときで、彼はこの戦いに宣教師を同行させ、道々在来の神仏を破壊してはばからない。軍中が動揺し士気が沮喪するありさまだったそうです。

西島

耳川での戦いは、大友の惨敗ですか。

吉永

高城での戦いが勝敗の分れ目で、初めは大友が勝っていたのに、撤退する薩摩軍を見て、攻めかかられると錯覚した大友の別軍が退却。それで全軍浮き足立って敗走してしまうのです。でも、いちばんの敗因は、宗麟の統率力のなさでしょう。キリシタン入信による家臣団の対立がくすぶったまま日向へ出兵したこと、島津の戦力を侮り、援軍を出さなかったことなど、敗れるべき要因が多すぎました。

筑前3名将 道雪、紹運、宗茂

中村治一

中村

耳川の敗戦後、筑前ではまた大友に対する反乱が各地でおこるのでしょう。

吉永

古処山の秋月種実、五ヶ山の筑紫広門らが、肥前の熊とおそれられていた龍造寺隆信と呼応して立ちあがります。これに対し、宗麟幕下の高橋紹運は立花道雪とともに御笠郡針摺(はりすり)峠(筑紫野市針摺)に打って出、柴田川をはさんで対陣。天正6年も終わろうとする頃です。寡兵でありながら、紹運、道雪は、逃げると見せかけて囲みこむ作戦で、種実を退けてしまいます。後にも種実や広門の来襲を紹運は奮戦して破っている。衰運の大友を見捨てなかったのは立花道雪と高橋紹運の2将だけです。節義を重んじない風潮のなかで、珍しいまで気まじめで、部下を愛し、しかも戦術に勝れている、立派な武将です。

中村

彼らのような名将が、筑前にいたことさえ知られていないのは残念なことですね。

吉永

高橋紹運とその息子立花宗茂とその養父となった立花道雪、この3者は実にさわやかな武将ですね。現在の企業のなかでも、自分の運命を企業とともにするという自覚を持った人は、どれだけいるでしょうか。

西島

そのころの筑前は戦乱ばかりでメチャメチャですね。大友家はまだ宗麟ですか。

吉永

天正7年(1579)1月、嫡子義統(よしむね)に家督を譲っています。耳川敗戦による家中の気分刷新を図ってのことでしょう。しかし宗麟は完全に政権を譲ったわけではなく、二頭政治が続いています。宗麟が58歳で亡くなるのは天正15年(1587)秀吉が島津征討で九州入りした年です。
天正12年龍造寺隆信の死後主戦場は筑後へと移ります。このころには、秋月種実、高橋元種(たかはしもとだね)、原田信種(はらだのぶたね)、筑紫広門らの筑前諸豪族や筑後の草野宗養、肥前の龍造寺政家さえ島津幕下に入っていました。大友義統は、立花道雪と高橋紹運に出陣を促します。筑前軍は、途中待ち伏せる敵を排除しながら、耳納山を越え、黒木領へと侵入。筑後での大友の失地は局地的に回復したものの、柳川の龍造寺勢を追い落とすまでには至りません。
道雪、紹運は柳川押さえの兵を残し、高良山を本陣としますが、道雪は陣中で発病、間もなく陣を御井郡の北野に移します。ここで道雪は、73年の生涯を閉じます。

部下を人前でなじらなかった道雪

立花道雪
(柳川市三柱神社所蔵)

中村

彼の死は大友衰亡の象徴のようですね。

吉永

そのとおりです。道雪は、14歳で初陣、以来60年にわたって戦場往来した驍将(ぎょうしょう)で、大友の魂といわれた人ですから。彼は、宗麟の非道に諫言することが多かったようです。宗麟は戦陣で先頭に立って指揮する武将ではなく、いつも後方で軍略を指示していました。本陣で舞楽にうつつをぬかす宗麟に、道雪は「前線の兵士のことを思って、お慎みください」と何度も諫めています。また、宗麟は一時酒色におぼれ政治を顧みず、老臣にも会おうとせずペットの猿にひっ搔かせておもしろがったりしたそうです。その頃、戸次鑑連といっていた道雪は、鉄扇でこの猿を一撃。「こんな戯れをされていては、大友家にも末路が見えます。どうか本心におたちかえりください」と何回も諫言しています。宗鱗がけむたがって会わなくなると、道雪は踊り子や白拍子を集めてドンチャン騒ぎ。宗麟が珍しそうに顔を出したところでまた諫めるわけです。そのときの踊り子たちの踊りが、今大分県の無形文化財として鶴崎に伝わる、鶴崎踊りだといいます。

西島

部下もよくかわいがったのでしょう。

吉永

そうです。部下が失策しても絶対に人前ではなじらない。むしろ人前では「この者は、こういう不調法で不慣れですが、戦場にあっては火花を散らすほどの者。特に槍が得意でござる」と言って、自ら槍をとってその様を人前でしてみせる。だから部下は、戦場で恩返ししないわけにはいかなくなるわけです。反面、軍律には大へん厳しい人でした。龍造寺との対陣で、暮れから正月にまたがり、戦闘も小止みになったので、部下のなかには里心のついた者もありました。そして、30数名が脱走してしまったのです。それを知った道雪は、早速同数の追っ手をかける。全員が首をはねられたのはもちろん、戦陣を抜け出してくる息子におめおめと会う親も同罪と親も斬首してしまいます。

北野から1年ぶりに

高橋紹運
(柳川市天叟寺所蔵)

西島

道雪の後、立花家は宗茂ですか。

吉永

そうです。立花統虎(むねとら)(宗茂)は、高橋紹運の長子で、立花道雪の養子になっていたのです。宗茂は、豊後高田の筧(かけい)館で永禄10年(1567)に生まれ、幼名千熊丸。3歳のとき、父紹運に連れられ、太宰府の宝満城に移り、15歳の春元服して名も統虎(むねとら)と改めます。父紹運に似て背丈も高く、肩幅もがっちりとした立派な若武者でした。道雪はひとり娘で13歳の誾千代(ぎんちよ)の婿に是非と、紹運に請い、15歳の統虎とめあわせるのです。

中村

高橋紹運、立花道雪と2人の優れた武将を実父と養父に恵まれ、名将が育つべくして登場したと言えますね。

吉永

道雪亡き後、筑前における大友家の重責は紹運の肩にのしかかってきます。紹運は北野の陣を払い、1年ぶりに太宰府へと帰ります。
この間、道雪の死をきいた秋月種実と筑紫広門は手薄の宝満城を奪いとるのですが、間もなく広門が紹運の二男統増(むねます)に娘を嫁がすという和議を申し出ています。16才の娘が一家のためと身を捨ててのおしかけ嫁入りで、勇将紹運がその心根にうたれて、宿年の怨みを流し、和議を結んだといいます。
島津の勢力が盛んになって、いよいよ秀吉が九州征伐に出かけて来ます。

中村

秀吉援軍は宗麟が請うたのがきっかけですか。

吉永

そうです。天正14年(1586)3月、宗麟は隠居の身でしたが、臼杵より海路東上して大坂城に登城し、秀吉に九州征伐を願うのです。翌年島津征伐が行われて九州の戦国争乱に終止符を打ったのですから、秀吉の天下統一は大へんな事業ですね。

"岩屋"死にもの狂いの抵抗

中村

いよいよ紹運の死闘となるわけですね。

吉永

北上した島津軍は天正14年7月10日、筑紫広門の勝尾城を落城させ、いよいよ大友の拠点、宝満、岩屋、立花攻略にかかります。宗茂は父の紹運の身を案じ、老臣十時摂津を岩屋に遣わし、「宝満または、立花に移られて、秀吉の援軍の来るまでともに戦いましょう」と勧めますが、紹運は「たとえ大軍が釆ても、自分が命を限りに戦えば、14、5日は支えて寄手3千を討ち取ることができるだろう」と受けつけません。

西島

どうして、不利な岩屋で戦い抜こうとしたのでしょうか。

吉永

紹運の士魂が城をあけ渡すことを許さなかったのでしょうね。
薩軍は岩屋を落とせば宝満は戦わないでおちるものと考え、島津を主力に龍造寺、秋月、高橋、星野問註所(もんちゅうしょ)、草野長野、原田、城井らが山麓を十重二十重(とえはたえ)に取り囲み、蟻の這い出す隙間も与えません。島津は荘厳寺快心という禅僧を使者として送り、「城兵のためによくお考えください」と開城をすすめますが、紹運は「少しも対戦の労は厭わない。秋月、龍造寺らは義を忘れて島津についた恥しらずだ。自分は命の限り戦うので遠慮なく攻められよ」と答えたといいます。
一方、秀吉の軍監として九州出兵の指揮をとっていた黒田孝高(くろだよしたか)は、家臣を岩屋に遣わし「一旦、立花を退き、統虎と父子ともに、関白の援軍を待て」と伝えますが、紹運は厚意には謝するものの、良策ではないと断ります。
このような開城勧告は敵方から、味方側から合わせて5回もなされていますが、紹運はあくまで武門の名誉を尊び、死闘となるわけです。
岩屋の城兵の死にもの狂いの抵抗に、寄せ手は手ひどい打撃をうけるが、天正14年7月14日、島津の精鋭を主に全軍の総攻撃。27日まで14日間も、わずか700名の寡兵で津波のように押し寄せる数万の薩軍を相手に、一歩も引かず死守。しかし、圧倒的な敵の大軍に討たれ、生き残りの者わずか50人となり、「このうえは…」と紹運は潔く腹搔っ切って果て、城兵もあとを追って自刃するのです。時に紹運39歳でした。
紹運は城の楼扉に「かばねをば岩屋の苔に埋めてぞ、雲居の空に名をとどむべき」と辞世をしたためています。薩将、島津忠長はその敢闘に「月白風高岩屋の秋」と追悼の偈(げ)を捧げています。

道雪の一粒種 誾千代(ぎんちよ)

立花宗茂
(高野山大円院所蔵)

西島

島津がすぐに立花城を攻撃しなかったのはなぜですか。

吉永

岩屋で島津軍は4500人もの犠牲者を出しています。さすがに続けては無理だったのですね。
ようやく8月18日、立花城総攻撃が決まります。そこへ立花の重臣内田鎮家(うちだしげいえ)が謀略のため自ら敵陣に乗り込み、島津忠長に会い、こう言うのです。「主君統虎は降伏を決意した。城中の者たちの身のふり方など整理がつくまで猶予をいただきたい。その間は自分が人質となり留まる」そこで敵陣で日数を稼ぐ。やがて、「小早川、吉川、黒田の軍勢が8月16日豊前到着」の報が伝わると、「今まで私の言ったことは、すべて謀略のためだ。私は主君に忠節を尽くしたまででござる」と死を待ちます。島津忠長は、「身を捨てての覚悟は見事」と鎮家に乗馬を与え、護衛の兵までつけて送らせたといいます。秀吉の来攻を見て、島津は情勢不利を察し立花城より撤退を始めます。いったん博多に退き、民家を焼き払って府大道(ふおおどう)(国道3号線ぞい)を退いていったそうです。

中村

これから宗茂(統虎)が活躍するのですね。

吉永

宗茂は退陣する島津を追撃し、その余勢をかって島津方の星野吉実(ほしのよしざね)、吉兼兄弟の守る高鳥居の攻略にかかります。続いて秋月が守備する岩屋、宝満へ押し寄せます。

西島

岩屋は宗茂にとって父紹運の痛恨の地ですね。

中村

そのころ宗茂は何歳ですか。

吉永

数えで21歳です。宗茂の生き方も、武将のさわやかさに終始した一生ですね。秀吉に柳川城主に任ぜられますが、関ヶ原で西軍について改易されます。しかしその宗茂を家康が拾いあげ、再び柳川城主にしたのは、文禄・慶長の役での彼の武勲だけでなく、彼の人柄に惚れ込んだのです。

中村

加藤清正もずいぶん支援したのでしょう。

吉永

ええ、文禄・慶長の役で清正の苦境を宗茂が救って以来、ふたりの間に友情が芽ばえています。清正は肥後52万石の領主になると、宗茂の家臣をかなり引きとって面倒をみていますし、宗茂にも充分な援助をしています。

中村

宗茂夫人、誾千代(ぎんちよ)は有名ですね。

吉永

道雪の一粒種で、そうとう気性の激しい美人だったそうです。道雪はこの誾千代に天正3年(1575)立花城督を譲って、女城督にしています。宗茂との縁組にしても、養子ですから、誾千代が何かにつけて気位が高いので、夫婦仲は悪かったようです。宗茂は慶長3年から、別居生活に入っています。誾千代は柳川郊外の宮永村に数人の家臣と女中に守られて暮らします。宗茂は一度もここを訪れていませんし、誾千代も城に顔を出しません。その後玉名郡の腹赤村(今の長洲)の庄屋にひきとられ病のため慶長7年なくなります。34歳の若さでした。

中村

何だか気の毒な女性ですね。

西島

秀吉の戦後処理はどうなりますか。

吉永

薩摩、大隅の本領を島津に許し、島井宗室からとりあげた「楢柴」の茶器を献じて降伏した秋月氏は日向高鍋に転封、立花宗茂は紹運の功もふくめ柳川城主に、筑紫広門は筑後(上妻郡)に封じています。そして帰途博多により、島井宗室(しまいそうしつ)や神屋宗湛(かみやそうたん)を召して箱崎で茶会、博多復興の町割を行っています。

"ネリヌキ"と島井宗室

中村

戦国時代の博多を去来する武将たちのお話をうかがったのですが、折々の博多の支配者たちと、島井宗室や神谷宗湛たち、博多の豪商とのかかわりあいはどうだったのですか。

西島

権力の行方を見さだめないとたいへんなことになる。海外との取引から、中央をにらみ、支配者と接する。高度な情報と政治力をもっていて、彼らが傑商といわれるのも、わかりますね。

吉永

宗湛は外船をしたてて、貿易で富を築いていきますが、争乱をさけて唐津へ行ったり博多に戻ったりしています。宗室は、大友家の御用商人的役割をはたし、軍需物資の調達や、軍資金を融通し、宗麟のため大いに働いています。『島井家文書』にはこの間の事情を物語る吉弘宗仞の書状があります。
もっとも宗室を堺の豪商、天王寺屋(てんのうじや)一家に紹介したのは宗麟で、この縁から、津田宗及(つたそうきゅう)や千利休(せんのりきゅう)、信長や秀吉麾下(きか)の武将たちとつながりができたわけで彼も宗室をそだてたわけです。宗室は質屋と酒蔵で財を築きましたが、ネリヌキという銘柄が諸国に知られていました。当時の酒は濁酒ですが、ネリヌキは夏場も日持ちがよく、豊潤で、濁っていないということで評判になったのですね。神谷は石見銀山の開発や貿易で財をきずいています。
本能寺の変の前夜、宗室が信長の茶の相手をし世間話をしていたというのが伝えられていますが、それだけの実力をもっていたということですね。

中村

秀吉にも優遇されたのでしょう。

吉永

秀吉は関白になった頃から、海外出兵を考えていましたから、兵站(へいたん)面、情報面で、宗室や宗湛に期すところがあったのでしょう。

中村

秀吉の博多復興は有名ですが、博多はだいたい何回ぐらい戦火にあっているのですか。

吉永

古くは藤原純友(ふじわらのすみとも)や、刀伊(とい)の来寇、元寇などがありますが、南北朝時代には菊池北条探題との戦い、文明、明応の大内、少弐の戦い、天文から天正にかけて、大友対毛利、龍造寺、島津の戦い、10回ぐらい焼かれています。

中村

秀吉がそれに終止符を打ったわけで、博多っ子が、博多再興の恩人としているのもうなずけますね。今日は興味深いお話をありがとうございました。

吉永正春氏略歴

大正14年東京市本所に生まれる。門司市豊国商業学校卒。先祖は宗像氏貞に仕えた吉永隼人佐あり。
家紋は釘抜。著書に『九州戦国史』『筑前戦国史』『筑後戦国史』『乱世の遺訓』『九州の古戦場を歩く』がある。