No.21 最後の殿さま「黒田長溥」

対談:昭和57年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地方史研究家 柳 猛直 氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
九州総合信用株式会社 社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


ハイカラで学問好きの「蘭癖大名」

Profile:黒田長溥 年譜

黒田長溥

司会

黒田藩の最後の殿さまが黒田長溥(ながひろ)公ですね。

長溥公は福岡藩主11代目で、戊辰(ぼしん)戦争の終わった明治2年(1869)には藩主を長知(ながとも)に譲っていますが、実質は最後の殿様ですね。

西島

藩主を長知に譲るのは版籍奉還後ですから、もう殿様と呼ばなかったんじゃないですか。

いえ、必ずしもそうではありません。明治2年6月の版籍奉還のあと、殿様がそのまま藩知事となっていました。藩はまだのこっていたのです。
旧体制に終止符が打たれたのは明治4年7月の廃藩置県によってです。ただ黒田藩は、例の贋札事件が明治3年に発覚して長知が廃藩置県の1年前に罷免されます。
長溥は、佐幕派の殿様だったということで、不当に誤解されている面がありますね。「司書会」編の『加藤司書伝』には、「殿様が愚昧であったから云々」とあります。しかし、一藩の殿様としての長溥には、それなりの苦衷(くちゅう)があったんだと思います。

小山

長溥の生い立ちからどうぞ……。

黒田の殿様は、6代からずーっと養子です。長溥も薩摩の人で、父親は島津重豪(しげひで)。島津の名君斉彬(なりあきら)の曽祖父にあたる人です。重豪は、豪放な人だったらしく、江戸人の間で、「島津の隠居は朝鮮人参の風呂に入っている」と噂されていました。
長溥は重豪66歳のとき、男児9人目の子として文化8年(1811)3月に江戸で生まれています。幼名は桃次郎、文政5年(1822)12歳のとき、黒田斉清(なりきよ)の養嗣子となり、斉清が目を患ったので天保5年(1834)24歳で筑前52万石の11代藩主になります。
長溥の姉の茂子が11代将軍徳川家斉(いえなり)の正室で、将軍家とは強いつながりがありました。こうした縁もあって、長溥は強い公武合体派で、彼の言う「天幕一和」に終始したので、結局佐幕派ということにされています。

西島

先代斉清の影響は。

斉清は学問好きで、シーボルトとも親交がありいろんな書物も著しています。シーボルトはドイツ人ですが、幕末にオランダ商館付きの医員として来日しました。長崎で高野長英(たかのちょうえい)らに洋学を教えましたが、国禁の地図持ち出しの件で追放されます。
長溥も斉清に長崎へ連れて行かれてシーボルトに会っています。斉清は大へんな勉強家でね。

西島

ひらけた殿様だった(笑)。

長溥は、重豪の血を引き、斉清の影響で、蘭癖大名と言われたほど学問好きの開明君主でした。特に西欧の学問が好きで、弘化3年(1846)、今の東中洲のバス停のところ、博多織の松居本店のところに鉄の精錬所を設け、硝子製造もしています。
藩士を長崎へ出向かせて、西洋砲術や航海術を習得させ、文久2年(1862)にはオランダ医学をとり入れて医学校「賛成館」までつくっています。

西島

随分すすんでいますね。

明治になってからも、養嗣子の長知(ながとも)や、旧藩の俊才をアメリカやヨーロッパへ留学させています。新時代に乗り遅れた分を人材で……と考えたのでしょうか。殿様のお金で留学した人のなかから、栗野慎一郎(くりのしんいちろう)や金子堅太郎、団琢磨(だんたくま)などの大物が出ています。

※本シリーズNo.35「栗野慎一郎」・No.43「金子堅太郎」参照

太平洋にアメリカ船が星のごとく

柳猛直 氏

小山

そのころの黒田藩の状況は。

ひどいときに殿さまを継いでいるんですよ。幕末の財政破綻(はたん)は、どの藩にも共通したことですが、福岡藩も破綻寸前。世直しというわけで、新政策にとりあげたのがインフレ政策です。藩札を乱発し、中島町に歓楽街をつくって料理屋や芝居小屋などを奨励する。そこで金が落ちるようにするわけです。7代目の市川団十郎を招(よ)んだりしていますから、随分派手にやったのですね。
しかし、物価は騰貴する一方で、この世直し政策は完全な失敗に終わるのです。その時期に殿様になり、早々に挫折感を味わいます。そこで長溥は藩主親政の決意を固めたと言います。
次のエポックは、日本開国の節目になる嘉永6年(1853)のペリーの来航です。幕府はすでに弱体で、どうしていいか対策が立てられない。そこで各藩の殿様の意見を聞いています。
水戸の烈公徳川斉昭(とくがわなりあき)などはコチコチの攘夷論で、「ペリーの船に切り込んで、全員を虜(とりこ)にしてしまえ。軍艦も奪えるし、一挙両得だ」と言っています。そういうなかで長溥の建白は冴えていて、随一だと言われていました。
長溥は、開国以外に良策はないこと。開国がなぜ必要かを諄々(じゅんじゅん)と説きます。打ち払えば一時的勝利にはなるかもしれないが、アメリカ船が太平洋を星のごとく航行しているので、日本の船は片っぱしから報復されてしまう。前年ロシアが開国を求めて来たときに、幕府は非常に冷たいあしらいをしているが、国際信義上よくない。アメリカに開国を許すなら、ロシアにも同時に開国を許すべきだ、と言っています。
しかし面白いことに、イギリスやフランスには開国を許さないほうがいいと言っている。アジアをさかんに侵略している国だから、というわけです。ここのところは攘夷論者たちに自分の意見をちょっと、のみやすくしたのだろうと思います。
親しい、宇和島藩主の伊達宗城(だてむねなり)への手紙には、全部の国に一様に開国を許さなければ、と言っています。また、ナポレオンがウォーターローで敗けなければ日本にも攻めて来たに違いない。敗けたのが幸いだったという話や、ロシアのピョートル大帝の話などを引用しています。

小山

そこまでの見識があったとは驚きますね。どこからそういう知識を得ていたのですか。

長崎からでしょうね。黒田藩は鎖国以来、佐賀藩と交替で長崎警備を受け持ち、1年ごとに900人もの人を出しています。そのかわり、参勤交替も江戸滞在が100日でよかったので、「100日大名」と呼ばれていました。だから世界の最新情報も長崎のオランダ人からキャッチしたのでしょう。

国臣(くにおみ)を、下関まで武士待遇

長溥の建白が取り入れられたというわけではないが、大勢は開国の方に流れていきます。その後、だんだん尊皇攘夷へ流れが変わるのですが、初期の尊皇攘夷論は必ずしも倒幕を考えていたわけではありません。勤皇佐幕というのがあり得たわけです。
朝廷を尊重し、幕府も同時に大切にする。長溥をはじめ当時の諸侯のほとんどがその立場だったでしょう。
ペリー来航の混乱の後、勅許を待たずに開国した大老井伊直弼(いいなおすけ)は安政5年(1858)に反対派の尊皇攘夷派に大弾圧を加えます。世に言う安政の大獄ですが、福岡藩は佐幕派ですから、あまり影響がありませんでした。
しかし万延元年(1860)に井伊直弼が桜田門外で暗殺され、文久になると勤皇か佐幕かで物情騒然となってきます。そのころ尊攘の志士たちの間では、薩摩の島津久光に期待が集まります。久光が兵1000人を率いて上洛することになると、彼を担いで伏見で兵を挙げ、大坂城を奪って幕府を倒そうという動きがありました。これは肝心の久光がのらず、かえって志士たちが久光の上意討ちにあってしまう、あの寺田屋事件となります。
ちょうどその頃(文久2年)長溥が参勤東上しようとして、今の明石市の大蔵谷(おおくらだに)まで行ったところ、脱藩して倒幕運動をしていた平野国臣が京都の緊迫した情勢を伝え、「いまこそ黒田藩も決起のとき」と長溥を促すのです。藩主一行は驚いて、そういう時勢の滾(たぎ)りに巻き込まれては大へんと、病気を口実にあわてて引き返してしまいます。この事件は筑前では有名で、「大蔵谷回駕(かいが)」といいます。
面白いのは、平野国臣を巧く言いくるめ、武士として行列の中に入れてしまう。国臣は足軽の身分ですから、その待遇に満足して帰って来るわけですが、下関に着くと脱藩の罪を問われて拘束され、帰国するや牢に入れられてしまいます。
ずるいやり方ですが、京都や大坂近くには尊攘の志士がいっぱいいて、そこで国臣を捕らえると面倒な事になるからでしょう。
というわけで、文久2年はひとつのエポックでした。そのうちに、長州藩をリーダーに尊攘派がものすごい勢いで台頭してくると、これに反感を持った公武合体派の諸侯は、会津と薩摩が密かに手を組むのを契機に、朝廷内部のクーデターを謀ります。文久3年(1863)8月18日の有名な政変で、長州勢は、京都から追い出されてしまうのです。

五卿を太宰府に

小山

それで尊攘派の七卿落ちとなるのですね。

三条実美(さんじょうさねとみ)ら尊攘派の公卿7名が、京都から長州へ脱走するのです。
そこで起こったのが元治元年(1864)の池田屋事件で、隠れて京に残っていた長州藩を中心にした志士たち20余名が、新撰組に襲われるのです。
それに憤激した長州藩、福原越後ら三家老が同年7月に兵を率い、過激派のかたまりとなって勢力回復のため京都へ押し寄せる。そこで「蛤御門(はまぐりごもん)の戦い」となるのですが、これに敗退して、幕府の第一次長州征伐が始まります。
この収拾に長溥は加藤司書(ししょ)を広島へつかわし、征討軍の解兵を建議するのです。司書は薩摩藩代表の西郷吉之助(隆盛)と謀り、長州藩を死地に追いこむ事を避けて征長総督徳川慶勝に解兵の決定をさせます。その結果、長州は三家老を切腹させて謝罪。そうして七卿を筑前が引き受けることになる。実際は五卿ですね。錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)は亡くなり、沢宣嘉(さわのぶよし)は平野国臣に誘われて生野(いくの)の乱[文久3年(1863)]の討幕挙兵に担ぎ出されて、長州にいない。そこで、太宰府に五卿を迎えることになる。

※本シリーズNo.51 「加藤司書」参照

西島

五卿とは……。

筆頭が三条実美で、後に太政大臣になります。そのほか、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、四条隆謌(しじょうたかうた)といった公家たちです。司書は五卿の保護に心を注ぐのですが、次第に藩内で佐幕派が優勢となり、司書も切腹させられ、五卿も冷遇されるわけです。

小山

それが、後でひどいしっぺ返しをくうことになるわけですね。

幕府の記録や文書は、「5人の者ども」と罪人扱いをしています。しかし、五卿は全国の勤王派の拠(よ)りどころで、各地から志士が集まってきたり、また長州藩の奪回も懸念される。
そこで、幕府は大目付の小林甚六郎を太宰府へ差し向け、五卿を江戸へ送ろうとしますが、西郷隆盛の命を受けた薩摩の大山格之助(綱良)が空砲を小林の旅館の前でぶっ放して威し、五卿を守ったという話もあります。

西島

黒田藩は、維新で新政府ができると、大あわてだったでしょうね。

ええ、掌を返すようにお祝いに行ったり、いよいよ上京というときは、三条実美に金3千両と博多織の帯地10反を献じたりしています。

加藤司書の切腹

西島伊三雄 氏

小山

私は殿様の長溥さんの心境がわかるような気がします。そのころは三条実美も過激派ですよね。若者どもが騒いで何かやっている。それを国の治安をあずかるものが抑えようとする。まじめな人だったら当然でしょう。

流れが激変して高杉晋作が慶応元年(1865)に、長州で挙兵、討幕へと時代の変換期を迎えます。
この頃黒田藩でも月形洗蔵ら尊攘派の過激派が佐幕派を斬ったりする。保守派と尊攘派との対立はエスカレートするばかりです。
尊攘派が長溥の意向を無視することも多くなってくる。もともと天幕一和をスローガンとし、藩主親政を目指していた長溥と、尊攘派とは相容れないものがありました。長州の二の舞を踏んではという不安が、長溥にとうとう弾圧を決意させたのです。
尊攘派は一網打尽となり、家老の加藤司書は切腹、月形洗蔵は斬首と14人が死罪。野村望東尼(のむらぼうとうに)も姫島へ流されます。この慶応元年が乙丑(いっちゅう)の年にあたっているので、乙丑の獄(いっちゅうのごく)と言われています。

西島

加藤司書が切腹したのは、もと奥の堂電停そばの天福寺でしょう。

ええ。司書の家は、(前の)平和台球場にはいる道の向かい側の、若竹酒蔵の道を隔てた西側の角にありました。しばらくは閉門させられ、いよいよ切腹となって、赤坂門の角にあった隅田(すだ)という家に移されます。そこに座敷牢を組み立てて、2、3日過ごすと切腹の命が出されます。切腹、斬首、遠島、その他を合わせると百数十名に及ぶ大獄でした。
明治維新まであと2年、惜しいときにすぐれた人材を抹殺してしまったものです。
加藤司書の切腹には、もう1つ説があって、藩老の黒田播磨(くろだはりま)らと組んで、このままでは時代を乗りきれないから、長溥を犬鳴山に建築中の別館に幽閉して、藩を一新しようとしたからだといわれます。先組が黒田藩士の人たちの集まりの藤香会(とうこうかい)はこの説を採っておられるようです。
また俗説によれば、犬鳴(いぬなき)へ連れて行かれた大工が、密かに柳町の好きな女に会いに行き、寝物語りに「実は、犬鳴で云々」と話してしまう。女には福岡の目明かしの情夫がいて、「これはえらいことだ」と手がまわったと言います。まあ、確かかどうかは疑問ですが。

小山泰

西島

乙丑の獄で惜しい人たちを殺してしまったので、明治になって新政府に通用する人材がいなくなったわけでしょう。

先の見える人たちを抹殺したのだから惜しいですね。とくに加藤司書は、新政府の参議になれる人物でした。福岡藩は殿様が英明で、藩主親政を意図したために、かえってマイナス面が出たのでしょう。
毛利の殿様は「そうせい公」と呼ばれるほど、何か言えば、「フム、フムそうせい」と言ったといいます。薩摩も実際に動かしていたのは、西郷隆盛や大久保利通といった人たちで、島津久光が大久保に、「俺はいつ将軍になれるのか」と聞くと、「いま、しばらく……」とかわしていたそうです(笑)。あまりあてになる話ではありませんが。

最初に電話で話された外国語は〝博多弁″

栗野慎一郎
金子堅太郎
ボストン時代の団琢磨

小山

維新になると今度は佐幕派の人たちが責任を。

ええ。野村東馬、浦上数馬、久野将監(しょうげん)等三家老が切腹です。立派な最期だったそうです。

西島

殿様も辛かったでしょうね。

小山

右も左も人材を失って維新にはのりおくれたものの、明治中期になって、新時代を支える人物が次々でてきますね。

そうですよ。旧福岡藩の人材が、明治の中期からたいへん活躍しています。栗野慎一郎(くりのしんいちろう)[嘉永4年(1851)~昭和12年(1937)]は、長溥がアメリカのハーバード大学に留学させた藩士で、同級生には旧飫肥(おび)藩の小村寿太郎がいます。日露戦争当時のロシアとの交渉では、栗野が大へん苦心しますが、小村が外務大臣で、栗野は駐露公使でした。栗野は不平等条約の改正交渉にも尽力して後に功により子爵を授けられています。
ポーツマスの会議に小村全権に随行した外務省政務局長が、福岡藩出身の山座円次郎(やまざえんじろう)[慶応2年(1866)~大正3年(1914)]で、講和の成立に大きく貢献しています。人物が大きく優秀で、小村がたいへん期待していましたが、公使として北京に在任中、49歳で客死したのが惜しまれます。
また、明石元二郎(あかしもとじろう)陸軍大将[元治元年(1864)~大正8年(1919)]も福岡藩出身です。日露戦争のときは、ヨーロッパで諜報活動に従い、レーニンらの革命分子と連絡をとり、ロシア帝国を内部から揺さぶることで殊勲をたてました。彼がいなければ、日露戦争の勝利はなかっただろうと言われていますね。後に台湾総督をつとめ男爵となっています。
金子堅太郎[嘉永6年(1853)~昭和17年(1942)]は、やはり長溥公の留学生で明治4年、16歳のとき、岩倉大使一行と同行する長知に従ってアメリカに留学するのです。このときの人選もはじめは長知周辺の連中が選ばれたのですが、長溥が、それではこれまでと同じだ、英才を探せといったので、金子が選ばれたのですね。金子は生涯、自分の今日があるのは長溥公のお陰と言い通して感謝していたそうです。
ハーバード大学に留学し、帰国後、伊藤博文のもとで憲法の起草に参画。農商務相、法相などを歴任して、伯爵を授けられています。
ハーバード大学の同級にアメリカ大統領になり日露講和を斡旋したセオドア・ルーズベルトがいました。後年日露戦争のとき、金子はアメリカに特派され、日本支持の世論をつくるために力を尽くしたことはよく知られています。ルーズベルトの日本びいきの一翼も金子が担っているわけです。
面白いのは金子が、グラハム・ベルと関係がある事です。

西島

電話の発明者のベルですか。

そうです。明治9年に、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明しますが、ボストンにいた金子が、後年初代の東京音楽学校校長になる伊沢修二とベルをたずねて電話実験をしています。ということは、最初に電話で話された外国語は日本語だった。しかも金子が話したのだから、それは博多弁だったはずです(笑)。
ベルの発明に黒田長溥はずいぶん資金援助をしたと言われています。後に金子が外債の募集でアメリカを訪れたとき、ベルが資金援助のことをよく覚えていて、日本の外債を買ってやろうとPRしてくれたそうです。
団琢磨(だんたくま)[安政5年(1858)~昭和7年(1932)]は、福岡藩士神屋宅之丞の第4子ですが、団家の養子となります。明治4年、14歳のとき、長知にしたがって金子とともにアメリカへ渡るのですが、団にも面白い話があるのです。
蘭癖大名の長溥が種痘を思いたち、近臣神屋宅之丞の二男に種痘を接種するのですが、これが原因かどうか、亡くなってしまいます。長溥はながく心の重荷だったらしく、長知留学の話が出ると、「神屋の子供はどうしている」「秀才で英話を勉強しています」「よし、それをつけてやれ」となって、団琢磨の留学が実現するのです。
団は、ボストンの工科大学に留学します。帰国後三井財閥の総帥として活躍し男爵を授けられますが、惜しいことに、昭和7年(1932)の血盟団事件菱沼五郎に射殺されます。
団は幼くしてアメリカに渡っているので、会議のときなどはじめは日本語でも、だんだん興奮してくると英語が混(ま)じり、最後には全部英語になってしまったそうです。日本語も博多弁で個人の会話では、「あたきゃ……」なんて言っていたそうです(笑)。
それから、玄洋社の頭山満(とうやまみつる)[安政2年(1855)~昭和19年(1944)]。野にあって、浪人ながら日本の政治を動かし、中国の辛亥革命(しんがいかくめい)では孫文に力をかしている。いろいろ評価のわかれる人ですが、国士として常に政治の流れを凝視していましたね。長溥を敬慕していて、葬儀のときは貧窮のまっただなかでしたが、在京していた頭山や、平岡浩太郎杉山茂丸といった玄洋社の連中それぞれに礼服を都合し、珍妙なスタイルで参列したということです。

「洋服を着るが、お祓いがいるか」

西島

長溥公は立派な殿さまなのにぶが悪かった……。

小山

贋札事件もそうですね。

そう。どうも長溥は、明治政府が長く続くとは考えていなかったようです。太政官札51万両を大阪の鴻池家にたのんで半値で幕府時代の通貨と交換してもらったりしています。
財政が行きづまってきて、山本一心という藩士の発案で、城内の二の櫓と、切腹して空き家となっている前家老の野村邸を使って、太政官札の贋札づくりをはじめるのです。他の藩も財政に困ってやっていたらしいが、佐幕藩だったこともあって、厳しく追及されてしまう。責任者の小河(おごう)愛四郎、矢野安雄(やのやすお)ら5人が斬首、藩知事の長知は罷免、閉門となる。後任の藩知事は、東征軍大総督で、〝宮さん、宮さん、お馬の前に……″の唄で知られる有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王です。
この間、三条実美や西郷隆盛らに減刑のとりなしを依頼するのですが、成功しません。五卿を冷遇したことや、ぎりぎりまで佐幕派だったことが、ここで裏目に出るのです。

小山

私は前に仙台にいましたが、伊達さんと仙台との結びつきは、今も強い。博多と黒田さんとのつながりは、ちょっと稀薄な気がするのですが。

それは博多が日本でおそらくいちばん古い都市で、黒田氏入国(慶長5年(1600)のはるか以前から栄えていて、博多商人からみると黒田氏は新参者だったからでしょうね。
長い間商人の町でやってきた。那珂川から西の福岡の町はもちろん殿様がつくったわけですが、400年前ぐらいに始まった新しい町です。それに対し、博多の歴史は問題にならないくらい古いでしょう。だから、どうも殿様のほうが分(ぶ)がわるい(笑)。

小山

ところで長溥はどういう人だったのでしょう。維新後のエピソードなど何かありますか。

ラグーザが長溥の立派な風貌に
惚れ込んで制作したという胸像

非常に剛毅果断な人で、写真を見ても立派な風貌です。明治になって工部美術学校に彫刻の教授としてラグーザというイタリア人が来ますが、この人が長溥に会って非常に感動して彫刻を造っています。非常に豪快な薩摩的風貌だったのですね。
酒が大好きで、よく呑んで帰っては、玄関でひっくり返って寝込んだり……。芝居が好きで、忠臣蔵を見て帰ってくると傘を持って来させ、定九郎の真似をして、何本も破ったりしたそうです。
シーボルトが再来日したときも、長崎に訪ねて語り合い、解剖学に大へんな興味を示して、アルコール漬けの死体をも見たりしています。家来が「汚れのあることをして来られたから、お祓いしなければ」と言うと、「そうか、じゃあ、これから洋服を着ようと思うが、これもお祓いがいるか、神主に聞いてこい」と、からかったという話があります。大へんなリアリストでもあったのです。
明治になってから、公式の場で活躍というと、明治10年に西郷が兵をあげて熊本城を攻めているとき、柳原前光(やなぎわらさきみつ)が勅使、長溥が副使となって、もぬけのカラになっている鹿児島へ上陸、島津久光を慰撫して西郷軍とかかわるなと説いています。久光は西郷がきらいで、挙兵も無視していたのですが、久光の力は隠然たるものですから、さらに念をおしたのですね。
このとき、「久光公を騙(だま)して東京へ連れ去ろうとするのだ」という噂で、不測の事態も懸念されたのだそうです。長老連が、「あの方は重豪公の御子息だ、無礼なことをするな」と言ってしずめたそうです。島津の血をひいていることも任命の背景だったのでしょう。長溥は、このとき60いくつになって、はじめて桜島を見たのだそうです。
このとき西郷軍に同調した県令の大山綱良を連行し、捕らえられていた警視庁の連中も救出していますから、薩軍の士気をそぐ効果は大きかったでしょうね。

小山

地元とのかかわりは……。

黒田奨学会がありますね。まあ、殿さまはみんなやってますが、黒田さんのは方法がユニークです。浜の町の法務局のところは黒田の別邸でしたが、庁舎を建てるとき、どうしても譲らない。貸しましょうということで、その借地料をすっかり奨学会の資金に充てたのです。
法務省の出先機関で借地なのは福岡だけですね。教育で人づくりということが、明治になってから長溥がいちばん留意したことでしょうね。藩の人材を時代の変革の中で活かせなかった。最後の殿様はその鬱懐を、旧藩子弟の育成にむけたのでしょう。明治20年、77歳で亡くなっています。

司会
最後の殿様のお話、どうもありがとうございました。

柳猛直 氏 略歴

大正6年、福岡市大名町に生まれる。大名小学校から修猷館を卒業。西日本新聞社に入社。昭和21年、フクニチ新聞社の創立とともに入社。文化部長、編集局長、顧問。平成4年、福岡市文化賞受賞。地方史研究に専念。
著書『悲運の藩主黒田長溥』『はかた巷談』『福岡歴史探訪(各区)』ほか。 平成9年4月逝去。享年80歳。