No.22 博多の幽霊ばなし

対談:昭和57年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 波多江 五兵衛氏
聞き手:
博多歴史研究家 帯谷 瑛之介氏
福岡シティ銀行 常務取締役 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


陽気な博多の幽霊

小山

どこの町にも怪談はあるわけですが、博多の怪談にはどんな特徴がありますか。

波多江

一口で言えば幽霊失格の幽霊ばかりです。第一は、こともあろうに、足があるのです。カランコロンと下駄の音高く響かせたり、ドスンドスンと歩いてみたりする。第二に、幽霊がどれもこれも博多方言を使う。「あなた、どこ行きござるとですな」これじゃ、まるでにわかでちっとも怖くない。第三に、博多の幽霊は短気者が多い。舞台装置よろしく灯りが細く震えたり、消えたり、裏の笹がサラサラと鳴ったり、鐘の音がボーン、そんな背景が全くない。いきなり出てくる。だから怖がられるどころか、ほとんどの人が幽霊と話をしている。話しやすいと言うのです。こうなると博多の怪談はどうにも、こうにも始末がつかない。こんな独得の博多風土の幽霊話がワンサとあります。

帯谷

では、その何やらおかしげな幽霊のお話をお伺いしましょう。

足があって、博多弁喋る、短気者

波多江

江戸時代の末期の頃のお話です。博多でいちばん古いと言われる聖福寺(しょうふくじ)の隣に円覚寺という寺があります。この寺の住職になった猶山和尚(ゆうざん)が、まだ聖福寺の典座(てんざ)として修行の身だったころのことです。猶山和尚が外から帰ってくると、門のところに提燈さげて立っている人がいる。その人が「そこに行きよんなざるとは猶山さんじゃござっせんな(ありませんか)」と例によってこれが博多方言で話しかける。「うん、あたきゃ(私は)猶山たい」「あの、あたしゃ蔵本町の山岸から来ましたが、あさって山岸の法事ですけんどうぞ忘れんごと来てつかーざっせい(ください)」「うん行くばい」と返事して「あんた誰な」と聞くと「あたしゃァ蔵本町の山岸の惣右衛門ですたい」という。「ぞうたん(冗談)言いなんな」と言い、ハッと気づいて振り向いたときには、もう提燈下げた男は消えて見えない。よく考えて見ると、山岸惣右衛門は7年前に死んでいる。自分で7年目の法事の催促に来るなんて、あつかましい幽霊たい、ということになるのです(笑)。次は明治時代も末のこと、私の父が実際に体験した綱場町の話です。当時店は夜11時ごろまで開けていましたが、12時頃になるとどこも締めてしまいます。すると蔵本町の方から下駄をカランコロンと大きな音を鳴らして通る人がいる。最初の何回かは、どこかの若い者が夜遊びに行って帰って来るのに違いない、と言っていたが、これが毎夜続く。よく考えてみると、はて内緒で酒呑んだり、女遊びをしている人が、あんなに足音高々に帰ってくるものだろうか、と疑問に思える。いったいどこのどいつだ、一ぺんつかまえてみれ、というわけで、足音が鳴るとガラッと戸を開けてみた。ところがたった今まで町の真中まで響き渡った足音も消え、人の影ひとつ見えない。さては幽霊の仕業やなと、それからの夜はみんな待機して足音が聞こえると「飛び出せー」と幽霊捕り物帳の始まりです。足音がする、戸をガラッと開ける、パッと消える、見えない、これの繰り返し。こうなると意地でも幽霊を捕えてみせると策を講じる。初め幽霊が足音高くやって来ても、みんな戸の後ろに潜んでおく。町の真中までくると、両側からワーと出て来て挟み撃ち作戦です。今度こそはと一勢にそれーと飛び出すが、影も形もない。これが毎晩続いて1ヶ月も経つと、町内の若い衆たちもばからしくなって「やーめた」となる。幽霊の方もそろそろ疲れてきたらしく、両方ともそれなりけり、というわけです(笑)。

小山

何だか少しも怖くないですね。

波多江

うちの父親も、それーと飛び出した口だから、それは実際にあったことなのだと話してくれました。だから荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなかったはずです。これも足のある幽霊の見本です。

「文句のあるなら、生き返って来てみろ」

帯谷

短気者の幽霊というのにもお目にかかりたいものですね。

波多江

これは幕末の話ですが、今、市役所のつきあたりにアメリカン文化センターというのがありますが、その辺りに刀研ぎ屋がありました。腕がよく大へん繁盛していたが、ある日店の主人が病気で亡くなった。これでは店もやっていけない。幸い嫁がまだ若いということで、養子を迎えました。これがまたできた人で、腕もなくなった主人に勝るとも劣らない。店も繁盛する、夫婦仲も大へんいい。

両親は、いい養子を迎えて本当によかったと、胸をなでおろしていた。それから1年ほどたったある夜、突然幽霊が現れた。死んだ前の主人です。背景なし、音響効果なしに現れる短気者の幽霊の例ですね。お嫁さんと養子さんの寝所にドカドカとはいって来て、いきなり「やい起きろ」とやったらしい。それじゃ雲助かやくざのようなもの。「俺が死んだからと言って、あんまりいちゃつくな。たいていにしとけ!」とやきもちをやいて出てきたわけです。養子の方も何しろ突然のことだから、怖いというよりも「なにを!」という気持ちではね起きる。「正式に夫婦になっとうとい(なっているのに)仲ようしょうと、べたつこうと余計なお世話たい。文句のあるなら、生き返って来てみろ、できるか」(笑)

小山

それで幽霊はどうしたのでしょう。

波多江

それがいたって素直な幽霊で、「あいすみません」とスゴスゴと引き下がったそうです。ところが話はそれだけじゃありません。幽霊が出てこんなことがあったと評判が立つと、この評判をこのまま放っておく手はないと、これを店のPRに使うのです。それが何と刀研ぎ屋の屋号を「御研ぎ師幽霊屋」と改めたのです。これが評判になって、ますますの繁盛。そうなってくると博多のあちこちの連中が「幽霊屋というのがいいそうな。どこかに幽霊が出ないか」と言っていたころ、案の定第2弾が出る。現在の奈良屋小学校の裏側にコンニャク屋があったのですが、ここにも幽霊が出たということで、すかさず幽霊コンニャクというものを作ったそうです。これがまた売れるから、博多というところはおかしな町です。

帯谷

幽霊かまぼこというのも聞いたことがある(笑)。

博多っ子は幽霊なんか怖くない

小山

幽霊が気味悪いものだという感覚が、博多の町の人々にはあまりないのでしょうね。私は幽霊と言えば、すぐ怨念という言葉を思い出すのですが……。

波多江

あまり怨みをこめたのはいませんね。ぐっと新しく、昭和にはいってからの話です。福岡市内のある総合病院の大部屋の患者たちから、病院にこんな訴えがなされた。「私たちの部屋には、ひとり亡くなって空いているベッドがあるが、夜になったら音がするし、へんなことが起こる」ところが「この新設備の病院で幽霊話などあるものか。ここは科学のメッカだぞ」と事務長も医院長も相手にしない。そのうちに、医局の医師たちがその評判を聞きつける。そのひとりの柔道5段という豪傑が「そんなに言うなら、今日俺がそのベッドに寝てみせよう」ということになったらしい。明くる朝その豪傑が真っ青になって「あらいかん、出るばい」と医局に飛び込んで来た。ベッドからはこき落ちるし、患者の騒ぐのも無理はないという。それで医院長は、珍しいベッド供養なるものをしました。そうして、この一件はおさまったといいます。

小山

何か出たわけですか。

波多江

形が見えたとか、こんな音がしたということははっきりしませんが、何か尋常でないことが起こったことは確からしい。

小山

思ったより怖くないですね。

波多江

そうなのです。だから博多の子供は幽霊をちっとも怖がらない。唐人町におられた速水さんもおっしゃってましたが、大濠公園に火の玉が出るという噂がたつと、怖がるどころか若い娘たちが集まって、夜中に火の玉見物に行ったそうです。そのくらいですから、祟(たた)るとか言ってみせても一向に怖がりません。

帯谷

陽気でへんに間が抜けているようなところがあったのでしょうかね。怪談的怖さはないですね。

「お綱門」にこめられた女の執念

お網門

小山

怖い怖い幽霊のスターはいませんか。

帯谷

スターと言えば、お綱さん空誉上人(こうよ)じゃないですか。

波多江

お綱さんの話は「お綱門」ということでご存じの方がいらっしゃるかもしれません。昔の本丸から扇坂にくだってくるところ、今でいう東門の奥のあたりに、誰言うとなく呼ばれたお綱門がありました。お綱門は今はもうありませんが、朽ち果てた柱にさわると熱病にかかり、夜中にうなされると言われていました。寛永7年(1630)のこと、福岡藩士の明石四郎左衛門の妻お綱が、夫に嫉妬をもやして逆上し、薙刀(なぎなた)を手にして馬出(まいだし)の下屋敷から、大名町の明石家本宅までの道を急ぎ、城内の夫を斬ろうとして、この門まできて殺されたという話です。事の始まりは黒田の2代目の殿さま忠之公が、江戸参勤交代の帰り道、大阪新町の遊郭で釆女(うぬめ)という遊女が大そう気に入ったことです。さっそく身受けして船に乗せて博多まで連れ帰って来て城中に住まわせた。ところが城中にはお秀の方という正式の第2夫人がいる。江戸時代殿さまの奥方は江戸屋敷と決まっていましたから、第2夫人が公認です。忠之は釆女にのぼせて、お秀の方に寄りつかなくなる。筆頭家老栗山大膳(くりやまだいぜん)が「こういうことでは政務にさしつかえる。釆女を手離しなさい」と諫(いさ)めるので、しぶしぶ明石四郎左衛門に「その方、手厚く第2夫人にせよ」と釆女を下げ渡すことになります。明石はお下げ渡しの釆女を今の家庭裁判所のところに住ませ、本妻は箱崎の馬出に住ませる。初めのうちは、殿さまに言われたからと1週間本妻のお綱のところにいて、1日だけ釆女の方に通っていく生活を送っていた。しかしお綱は武家育ちで礼儀正しい。三つ指ついて畏まり(かしこ)奉(たてまつ)ります言葉で迎えるので、お城での緊張もほぐれない。一方釆女は遊女あがりだから、夏は冷たい手拭いで体を拭いてくれるし、裸になって酒呑んでいると後ろから扇いでくれる。だんだん釆女の方にのめり込んでしまって、お綱はなおざりにされてしまいました。いくら何でもひどすぎると、お綱は薙刀振りかざしてお城にのり込んで来るわけです。

帯谷

伝説によれば、明石は生活費をお綱に渡さなかったそうです。雛の節句が迫ってきた。本来なら長女のお妻のために雛壇を飾り、桃の花に灯をともして白酒をくみかわす一家団らんの家庭であったはずなのに、今年は一転して寂しい日々。奉公人の善作は見かねて「私がご主人さまに会って参りましょう。せめてお節句なりともお子さまたちのために盛大にして差しあげたいものです」そう言って大名町の本宅に向かった。善作は明石に色々と懇願したが、明石はもう聞く耳をもたない。善作は帰っても奥方に伝えようがないと、遺言を残して松林で首を吊って死んでしまうのです。そのことがお綱にも知れ、カーッとなって薙刀をかかえて斬り込んだところ、居候の浪人浅野彦五郎が斬りつけた。お綱は傷ついた体を薙刀を杖にして必死で本丸に向かって石段を上ったが、吹き出る血潮は止まず、扇坂まで行って門に手をかけたところで息絶えたというのです。それ以後、その門に触れると高熱にうなされる。お綱さんの執念が祟るということで恐れられていました。そこでお綱の供養塔が建てられたのだそうです。このお綱さんの話は単なる伝説なのでしょうか。

波多江

それがものが残っているから困るのです。門を解体するときも、お綱門だけは祟るから壊しようがないと、今の家庭裁判所のところに長宮院(ちょうぐういん)というお堂がありますが、その境内にそのまま壊さず移したのです。お綱のところの奉公人は二人いたのですが、別説ではお綱の悲運の死を追って自分も死んだとなっています。九州大学の前の崇福寺の中の日切地蔵がその奉公人を祀ったものだと言われています。またお綱を斬った浅野彦五郎の墓も堅町の正定寺の中にある。そういうものがきちんと残っていると、ああそれは伝説と片づけるわけにはいかなくなるのです。

髪ふりみだしてたどり着いたお綱門

帯谷

3月2日に惨劇が起こったということに後の人が脚色して話を筋道だてた部分はあるでしょうね。

波多江

そういうことを書いた『筥崎釜破古(はこざきふばこ)』という本がありますが、これが7とおりもの話がある。後のものになるほど物語がかってきます。

帯谷

歴史の事実と考えたら、門には警護の侍もいるわけだからそれをするりとくぐり抜けて入ったとは、少し変ですよね。

波多江

そうなのです。上の橋御門をはいったとしても扇坂までは重臣の屋敷が並んでいる。また東の御門もある。そこをどうやってくぐり抜けたかは疑問ですね。

帯谷

バッキンガム宮殿にも泥棒がはいれたのだから、あり得たかもしれない(笑)。

小山

長宮院にお綱さんを供養するわけですが、その後が男女のいざこざを調停する家庭裁判所になっているのはおもしろいですね(笑)。

帯谷

だから私は、お綱さんは今なお生きているとよく言っています。

300年間祟った空誉上人

波多江

空誉上人も300年間祟っている博多の幽霊のスターです。御笠川の洲は江戸時代処刑場でした。ここで処刑された人が哀れだと、空誉上人は供養してあげるのです。ところが黒田の2代目忠之は、自分が罪人として処刑したものを供養するとは何ごとだと、空誉上人を釜ゆでの刑にします。

帯谷

こういう話は2代目の忠之のときに集中していますね。父親の長政は後継ぎにはできないと思っていたのでしょう。もし商人になるなら5,000両やるし、坊主になるなら寺を建ててやると言っていたそうです。

波多江

空誉上人を、石川五右衛門と同じ釜ゆでの刑に処すると言い出したが、人をゆでるような大きな釜はない。どこかに作らせようと捜したのが、遠賀郡の芦屋釜。ところが釜師たちは、ここは茶の湯の釜を作るところでそんな釜は作れない、とにげてしまう。あちこちをあたって釜を作ることはできましたが、ケチな話で石川五右衛門のように菜種油を満たしてゆでるのは油がもったいないと言い、空焚きにしたそうです。その場所が前の県知事官舎の中です。これは約300年間祟り、県知事が官舎にはいると、夜中にうなされてしようがない。昭和の初め、大塚惟精(いっせい)という県知事の時代に県庁官舎の中の庭に供養塔が造られ、祀られることになりました。それ以後県知事はうなされなくなったそうです。怖い、子々孫々まで祟る幽霊というのは、これくらいですね。博多では珍しい例です。

米一丸(よねいちまる)の悲劇と踏切事故

奥村玉蘭画筑前名所図会より

帯谷

米一丸というのも有名ですが、怪談としては何もないのでしょう。あそこに鉄道が敷かれて踏み切り死亡事故が多発したのが、米一丸の悲劇の話と結びつけられたのでしょう。

小山

大へん古い話なのでしょう。いつごろの話なのですか。

帯谷

この話は史実としては妙な点が多いのです。新しい時代の名前や古い時代の名前が交錯して出てくる。米一丸は駿河国の木島長者の息子として生まれ、大へんな美少年だったそうです。この長者という名前はいかにも伝説的ですね。

波多江

その美少年米一丸は20歳で若狭国の湯川の長者の娘八千代姫を嫁に迎えます。木島長者は京都の一条家の領地を管領していたので、嫁を迎えた挨拶のため、新夫婦を連れて上洛し一条殿に参上しました。大殿にあたる一条殿は、美しい八千代姫を見てどうしても側室として欲しくなった。そこで一計をめぐらすわけです。一条はかつて博多を訪れたとき、路銀に困り名刀三池典太(みいけてんた)を土居町の奥伊右衛門に質入れした。その名刀を米一丸に受け取って来てほしいと言いつけるわけです。要するに米一丸と八千代姫を引き離して姫を奪おうという策です。

帯谷

奥伊右衛門なんて名前は江戸時代風の名前ですね。

波多江

米一丸事件は、鎌倉時代だという書き方をしているのや、室町時代だというのがあります。しかしその頃には三池典太なんて銘の刀があろうはずがないのです。

帯谷

米一丸は主君の命令に逆らうわけにもいかず博多に向かいます。箱崎の館に逗留し、お金を払って名刀を返してもらい帰ろうとするところ、一条殿の意を受けた博多の守護職に殺されてしまいます。代官じゃなく、守護職が突然出てくるのも妙です。八千代姫は侍女を連れ、米一丸を訪ねて博多にやって来ますが、事の次第を聞いて姫も自害し果てました。それで米一丸が祟って出たという話かと言えばそうじゃない。箱崎の鉄道踏切事故が頻繁なのに、米一丸事件が関連づけられて、碑が建てられたと聞いています。ただ米一丸は地名として残っているわけですから、大へんな事件だったのでしょうね。

波多江

博多の怪談めいた伝説は、一見歴史的事実のように見えるが、どこまでが史実でどこからが創話かわからない。濡れ衣(ぬれぎぬ)の話も時代背景ははっきりしませんからね。

「濡れ衣」の語源は博多にあった

濡れ衣塚

小山

濡れ衣の話というのは…

波多江

佐野近世という侍には一人娘の姫がいる。そこに継母(ままはは)がくるわけですが、例によって娘をいじめる。ある夜継母は夫に寝物語としてこう告げ口をする。「毎晩姫は、浜に行き男と逢い引きをしてふしだらなことをしている。その証拠に朝姫の部屋に行ってみたらわかる。濡れた衣が掛けてあるはず」と、翌朝父親は継母の言葉につられて、姫の部屋を調べてみると、濡れた衣が掛かっているではありませんか。父は怒り狂って、とうとう姫を斬り殺してしまったのです。それから毎夜、歌を唱って女の幽霊が現れる。姫は無実の罪を着せられて殺されたと訴えるわけです。あの濡れた衣は、継母が漁師をそそのかしてわざと娘の部屋に掛けさせていたことがわかってしまいます。

帯谷

無実の罪のことを濡れ衣というでしょう。

小山

あれは博多の伝説からきた言葉なのですか。

波多江

ええ、江戸時代に読本などで、全国的に使われるようになった言葉です。だいたいそういう*類の言葉は芝居や浄瑠璃から始まる言葉が多いのです。近松門左衛門は唐津の人で、博多の聖福寺に小僧さんとして長い間いましたから。

帯谷

この濡れ衣の話にしても、今の石堂川のほとりにはちゃんと塚があって、その前のお寺は濡れ衣松源(しょうげん)寺と言って、名前がちゃんと残っているのです。これも史実なのかどうか…。

波多江

最初の文献は寛永18年の『雑和集』3巻のうちの中の巻に出ています。

帯谷

いかにもまことしやかですが、いつの時代の話なのか確かめる方法は全くありません。史実なのか伝説なのか、境目がない点で、博多の話はユニークです。

波多江

だいたい博多では、こういう類の怪談はあまりしません。話すほうもたよりなく、根拠があるような、ないような…。

帯谷

全くの伝説であるとか、お岩さんのように小さな事件から脚色されてふくらませた話とか、いずれかふつうははっきりしているのです。しかし博多のは境目がぼんやりしている。荒唐無稽かと言えば、そうでもない。何かあったということは事実なんだけれども…というわけです。その辺非常に個性的だと思います。

小山

ふつうの怪談だと、非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げたのでその怨みを込めて、その結果悪い者が狂い死にしたとかで、我々は納得というような話が多いのですが、博多のは意外にそういうのがなくて、スーと流れていくようですね。

帯谷

勧善懲悪(かんぜんちょうあく)というふうになっていない。米一丸の八千代姫の最期も悲劇なのに、それを供養しているわけでもない。

小山

空誉上人も、300年も祟るのなら、殿さまのほうに祟ればいいのに…(笑)。

波多江

濡れ衣は祟っていませんねェ。だいたい博多の人間は幽霊をばかにしているようなところがある。よーし出るなら見てやろうといった調子ですから。でも、お綱さんの祟りはある程度信じられていました。福岡にまだ兵隊がいたころ、お綱門のある近くが火薬庫だったのです。兵隊が当番で火薬庫の警備に夜行かなきゃならない。「またあそこか、気味悪いので行きたくないなあ」とぼやいていたそうです。実際に祟りがあったとは聞いていませんが。

お琴・新兵衛事件がおことせんべいに

小山

幽霊話のもとになる心中だとか、姦通(かんつう)だとか、そういう話自体が博多には少ないということですか。

帯谷

それは違います。やはりありますよ。

波多江

明治の中ごろ、お琴新兵衛事件という博多では有名な大惨劇がありました。大へん強欲なお琴の母親が、夫婦仲を無理矢理裂くわけです。同じ結婚させるなら、新兵衛よりも金持ちの男をつけなくちゃと、母親が企んでいた。それを知った新兵衛が出刃包丁で斬りつけ、大惨劇となったという事件です。『福岡市史』の明治編にも出ているくらい有名な事件です。しかし、博多の人はこれを惨劇として把えるよりも、これだけ有名になったのだから何かに使わないともったいないと考えるのです。すぐに芝居につくられ、お琴新兵衛の名前は売れに売れたわけです。さっそくお菓子を作れとか…。

帯谷

お琴せんべいですね。(笑)。

波多江

大正の末ごろまで売っていましたよ。

小山

博多は京都に次いでお寺の多い町ですが、お寺には幽霊の話はないのですか。

波多江

材木町(現在天神3丁目親不孝通り)の安国寺の飴買い幽霊だけですね、他にはありません。

帯谷

飴買いの話というのは、ある美しい女の人が毎日決まった時刻に飴を買いにくるのです。飴屋の主人がある日後をつけてみると、寺のところでスーと姿が消えた。その消えた墓の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。墓を掘ってみると、亡くなった母親の遺体から赤ちゃんが生まれていたという話で、母が子を思う一念から、飴を買いに行き、嬰児を育ててきたというわけです。しかしこの飴買いの話は全国いたるところにあります。そのほかには、寺と結びついた幽霊の話は聞きませんね。

波多江

怖い幽霊話というのは、旧博多の町からは離れている。空誉上人にしても、お綱さんにしても福岡城下の話だし、濡れ衣塚も米一丸も旧博多の町中ではありません。博多の幽霊というのは非常にユーモラスなものしかないですね。

帯谷

博多の町の気質というものの反映でしょう。

小山

幽霊もやはり博多っ子なわけですね。大変おもしろい幽霊話、ありがとうございました。