No.23 博多人形師 小島与一

対談:昭和57年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
国・卓越技能保持者博多人形師 西頭 哲三郎氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
九州総合信用株式会社社長 小山 泰氏

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


江戸時代の素焼人形が起こり

小島与一

司会

博多人形と言えば、小島与一さんがすぐに浮かびます。先生の御師匠さんだったのですね。おいくつでなくなられたのですか。

西頭

昭和45年に84歳で亡くなられたのですが、86歳だったと言われる方もあるし……。弟子の私たちにもわからない……(笑)。

西島

年をはっきり言っておられませんでしたからねえ(笑)。
賑やかなお葬式でしたよね。みんな、山笠の当番法被(はっぴ)など着て。

西頭

与一先生が賑わい好きでしたし、ちょうど山笠の季節でしたから。

西島

可愛がっておられたカナリアや、犬のチンまで、お寺でおみおくりしましたね。

小山

まず、お話のはじめに、博多人形についてお聞かせいただけますか。

西頭

もともと博多人形の起こりは、祗園町の住人で素焼物製造の陶工、中ノ子安兵衛の次男、吉兵衛が、文政年間(1818~30)に1種の土俗素焼の玩具人形をつくったというのが定説のようです。黒田長政が慶長6年(1601)に福岡城を築いた折、瓦師、正木宗七が、瓦土で人形を作って献上したのが博多人形の初めという説もあります。
「博多人形」という名称が生まれたのは、明治23年(1890)4月のことでした。それまでは「博多素焼人形」と言っていましたが、この年に大阪で第3回国内勧業博覧会が開かれ、それに、讃井清兵衛後藤治吉井上清助さんたちが、新作の人形を出品して褒賞をえました。その褒状に、「博多素焼人形」の「素焼」が抹消されていたので、それ以来、「博多人形」が公称となったわけです。

小山

博多人形の特徴と言いますと……。

西頭

博多人形を主な種類に分けると、美人もの、歌舞伎もの、能もの、風俗もの、童ものと、道釈(どうしゃく)ものといって道教と仏教の有名な人物を描いたものに大別することができます。大きな特徴は、素焼きに着色することです。そして、きめ細かな彫り込みをするのも独特ですね。

小島与一[明治19年(1886)8・18~昭和45年(1970)6・6]
福岡市、中市小路生まれ。市小路小学校(現・奈良屋小)卒後、日本画家・上田鉄耕に師事し、博多人形師白水六三郎に入門。名人与一として知られ、名作を発表しながら、多くの弟子を育成した。火野葦平の小説「馬賊芸者」のモデル、歌人吉井勇の歌に「人形師与一の髪のいや白し 艶話の主のいまや老いさぶ」がある。

気が向くと買って、「与一払い」

3人舞妓(大正13年作)

小山

与一さんのところに、弟子入りされたのはいつ頃ですか。

西頭

私が弟子入りしたのは、昭和11年ですが、振り返って思うと、仕事を教えてもらったということより、人間を教えてもらったということが強く心に残っています。「仕事は、俺が教えるんじゃない、盗め」といつも言われていました。「知りません」と言うと、「忘れましたと正直に言え、一度何かで教えているはず」とどなられます。

西島

小島さんと言えば、「与一払い」は有名ですね。

西頭

先生は物を買うときはパッと買われるが、支払いの方はすっかり忘れてしまわれる。それで「与一払い」と言われていたのです(笑)。
金に無頓着というわけじゃないのですが、気が向くと何秒と待てないような人ですから「あれよかねー」の後は、すぐに「あれ買おう」です。旅行にお伴したときでも、骨董屋で「よか壷ばい」でパッ。いつも帰りの汽車賃が流れてしまう(笑)。

小山

お弟子さんはたいへんですね。

西頭

それから、先生はお客さんに人形を渡すときいくらだと言ってあるのですが、すぐ忘れてしまわれる。後で私が「いくらもらってくればいいですか」と聞くと、いくらと言われる。
お客さんにその値段を言うと、話が違うと言って腹たてられる。「もう一ぺん先生に聞いてみんしゃい」で、帰って先生に聞くと「そげなこと言うとらん」、私は間にはさまってオロオロするばかり。「そんなら人形取りあげて来い」と、そういうことが何回もありました。最後には「せからしか(面倒だ)、ただでやってこい」(笑)。
歌舞伎を観に行っても帰りになると、問屋に行って金借りて来いと言われる。持っているだけ使われるので、帰りのお金がなくなってしまう。行きはよいよい、帰りは恐いということは、よくありました(笑)。

小山

しかし幸せな人ですね。
天衣無縫で全然アクがないというか。

西頭

税務署には、代わりに私が行っていました。
「経費がわからん。あんた弟子なら、きちんとつけなさい」と言われるが、どういうことをつけたらいいかわからない。経費の領収書がまずないでしょう。「小島さんぐらいになりゃ、芸者遊びもあろうから、それも経費とみるが、商売の勉強のための必要経費か、個人の遊興か、はっきりさせないかんばい」と言われても、訳がわかりません(笑)。
しかし、先生が亡くなったときビクビクして税務署に行くと、驚きましたよ。いつの間にかきれいに精算してあって何もないと言うのです。

小山

まさに達人ですね。

人間与一さんに惚れた人たち

西頭哲三郎氏

西島

前の奥さんのひろ子さんとのロマンスは有名ですね。

西頭

私が弟子入りした昭和11年には、前の奥さんがまだおられました。ひろ子さんは水茶屋の舞妓さんでした。大阪の博覧会に舞妓の人形を出品するために、当時まだ13歳のひろ子さんをモデルに人形をつくられたのが、そもそものきっかけだったそうです。 先生は夢中になって、せっせと茶屋通いなんですが、身請けのお金がたまるはずがない。とうとう、東京への駆け落ちとなるわけですが、宮島でつかまって、連れもどされるのです。
それからは、会おうにも会わせてもらえない。ひろ子さんの座敷に、外からドンドン石を投げたりしたそうです。小島先生のお母さんが、「与一ちゃんの嫁ごは、こげんふう(こんなふう)にして来とうとばい」と話してくれていました。ひろ子さんは私が弟子入りしてまもなく亡くなられました。

西島

京都に小島先生とご一緒したことがありますが、朝目が醒めると、先生がおられない。「えらく早くござれんなあ」と思っていると、知恩院のひろ子さんのお墓に参ってあったのです。

西頭

ひろ子さんも立派な人で、木綿の餅(かすり)を着て、絹ものを着られません。もと芸妓とわからないような質素ななりをしてありました。粋(いき)ではあるが、本当の博多ごりょんさんというふうでした。
だけど先生は髪だけは、やかましくて、それでひろ子さんは毎日髪結いさんに通っておられました。よく女の髪の富士額(ふじびたい)の生えぎわの見本になってもらいました。私たちの前にすわって、「私の顔ば見んしゃい。こげんかかないかんと」と。

小山

お子さんはいらっしゃらなかったのですか。

西頭

養子の(さだむ)さんがビルマで戦死されました。私とは小学校からの同級生でした。人形は巧かったから、先生も残念だったでしょうね。

西島

今の千代子夫人も、ずいぶん若くしてお嫁に来られたんでしょう。

西頭

ええ、千代子さんはまだ数えの18歳。私は先生の手紙を持って、おつかいに行ったことがあります。「川のふちのぜんざい屋の2階に行けばわかる」と言われて行ったものの、「千代子さん」と呼んで出て来た人は、どうも若すぎて違うようだ。
「おらっしゃれんやった」じゃ叱られるから、もう一度大声で呼ぶと、またその人が出て来て「私が千代子です」と言われる。おかしいなあと思いながらも手紙を渡した覚えがあります。
先生とは孫ほどにも年が離れてありましたから、先生は大事に、大事に、娘を育てる気持ちで可愛がっておられました。弟子の私たちよりもお若いわけですから、千代子さんにも、人知れないご苦労もあったはずですが、先生の人間性に惚れ込んであったのでしょうね。

サインはオリジナルの「与一

小山

「3人舞妓」が、小島さんの代表ですか。

西頭

そうです。大正13年のパリの万国博覧会で銀牌を受けられた作品です。このとき、原田嘉平(はらだかへい)さん、置鮎与市(おきあゆよいち)さんも出品されていましたが、鋼牌でした。

小山

37、8歳のころですね。

西頭

いちばんあぶらがのりきったころですね。大正12年には、下呉服町の中村家具店で個展も開かれています。この店は、博多の百貨店のはしりみたいなもので、下足番には、亡くなった名優の丸山定夫がいたそうです。

西島

パリの万国博に出品できたということは、誰か促し役がいて……。

西頭

それは、先生が「この人がいなかったら、今の俺はない」といつも言っておられた、井上清助さんです。
井上さんも人形師でしたが、うちが人形の問屋さんで、商売の企画がたいへんすぐれた人でした。井上さんはいろんな資料を、小島先生に与え、いろんなところに連れて行き、勉強させた方で、博多人形の声価をたかめることをいつも考えておられました。

小山

小島さんの先生がまたすばらしい方だったのでしょう。

西頭

白水六三郎(しろうずろくさぶろう)さんです。小島先生はじめ、原田嘉平さん、置鮎与市さんがここから出ているわけです。日蓮さんの銅像のあるところに蒙古襲来の人形がありますが、それが六三郎さんの作品で、それはもうリアルで、すばらしいものです。

西島

素焼きで、ものすごく写実的、あれは博多人形というよりも、すぐれた彫刻ですね。

西頭

博多人形がここまでになったのは、山崎朝雲(やまざきちょううん)さんや上田鉄耕(うえだてつこう)さん、矢田一嘯(やだいっしょう)さんなど、いろんな方から教えを受けているおかげです。
朝雲さんは東公園の亀山上皇の銅像をつくられた方ですが、はじめて石膏で人形の型をとることを教えられ、人形量産ができるようになりました。矢倉門の上田鉄耕さんを中心に、人形師たちが人形を持ちよって勉強会を開いていました。そこに矢田さんが紹介され、色の使い方などいろいろと教わったそうです。

西頭

上田鉄耕さんは、渡辺華山のような筆法の南画家。矢田一嘯さんは洋画家で「蒙古軍襲来」の大油絵は名画として有名ですね。

西島

勉強してあったんですね。与一さんは九大で解剖学も習われたのでしょう。

西頭

矢田先生が九州帝大に頼まれて、解剖図を油絵でかいておられました。その関係で解剖学の桜井恒次郎博士の教室で、2年間習われたそうです。

西島

だから、やせた人間やカッパの名作などいろいろあるけど、あばら骨や筋肉の具合が、実にリアルでいいなーと思いますね。

小山

ずーっと左ききでしたか。

西頭

左手です。だから字も反対の左文字、サインは全部「与一」です。

見て来た感動をそのまま人形に

西島伊三雄氏

小山

修業中の西頭さんのみられた与一さんは、どんな先生でしたか。

西頭

とにかく、新しもの好きです。新しいものを見たい、見たらすぐにつくりたい。前の晩に歌舞伎や芝居を見ると、翌朝、私たちが起きるころには、もう原型ができていました。
大博劇場に喜劇の曽我廼家(そがのや)五郎が来てたときもそうでした。それは何とも言えないいいお婆さんの顔で……。写真があるわけじゃない。見て来た感覚を頭に入れてつくられるのです。

西島

散歩や風呂屋で見た情景も、すぐ人形にしておられました。私が持っている「町をきれいに」の人形も、お婆さんがごみを取ってあるのを見て、それがただ面白いからつくられたので、全然威張った芸術なんかじゃないんですね。

西島

朝は早かったのですね。

小山泰氏

西頭

ええ。朝4時ごろから起きて人形をつくっておられた。4時半から5時ごろ朝風呂に行かれて、私たちが起こされるのが6時ごろ。玄関の戸がガラッとして、もうちょっとよかろうと思っていると、「きさまたちゃ、まーだ寝とるかー」で、ガーンと箒(ほうき)で叩き起こされます。(笑)
そしてまた、仕事がものすごく早かった。原型の型を石膏でとることを、「型とる」と言いますが、先生はまだ柔らかい原型を持って来られて、「型とっとけ」と言われる。 パッと気に入ったら、1時間やそこらでつくられるものだから、柔らかいのです。型をとろうにも原型をくずしそうで……。原型を彫られながら「型とれ」と言われることもあります。「手と足がまーだできとらんですよ」と言っているまに「はい、手。はい、足」とできあがって、言った方が恥かく。「お前の型とりの方がひまのいる」でした (笑)。

「マルバシ」は丸橋忠弥の合羽の色

初袷(大正5年作)
モデルはひろ子さん

小山

与一さんは、歌舞伎好きで、よく見ておられたのでしょう。

西頭

ええ。大正3年に、先々代の松本幸四郎が初めて博多に来て、弁慶をやっています。先生は幸四郎の「勧進帳(かんじんちょう)」に魅せられて、スケッチブックかかえて、熊本から長崎まで追いかけて見られる。そのときつくられた「弁慶」は、たいへんな評判でした。
京都へもよく出かけられました。12月の顔見世、昼夜2回あるのですが、初日を必ず見てありました。本当の通でしたから、博多に歌舞伎がやってくると、番頭が必ずタオルなんか持って挨拶に来ていました。お返しにと、楽屋におみやげを持って行くのは、私たちの役目です。
それですぐに帰って来ると、「なぜ早う帰って来たか。お前、見せるためにやったもんば。楽屋のそででも、よう見て来い」と叱られる。そういう、見てこい、聞いてこいの教育でした。

小山

博多人形に、歌舞伎や能のモチーフをとりいれたのは先生が初めてですか。

西頭

先生以前になかったわけではないが、あれだけ有名にして、広めていったという点では画期的です。
先生は人形の色の説明も歌舞伎でされました。今はカラー番号や色見本がありますが、当時はそんなものありません。先生が「マルバシの色塗っとけ」と言われる。わからないので絵の具屋に問い合わせてみますが、そんな絵の具はないと言われる。
仕方なく先生に尋ねると、「バカタレ、マルバシの色やら売りよるか。お前は歌舞伎は何を見ようか。丸橋忠弥(まるばしちゅうや)の堀の場面たい」と言われて、やっとあの場面の合羽(かっぱ)の色とわかるのです。
丸橋忠弥が土手のところで、雨に濡れながら、江戸城の堀の深さをはかる場面があるでしょ。そのときの忠弥の合羽の色、それをマルバシの色と言われる(笑)。「歌舞伎色にせれ」と言われることもあります。ベンガラと緑と黒の歌舞伎の緞帳(どんちょう)の色なのです。

西島

ベンガラはベニガラのことでしょう。茶色っぽい赤の。

西頭

一口に赤と言われても、朱がどのくらいでかわからない。すると先代(せんだい)萩(はぎ)の政岡の打ち掛けの色でいい……と言われる。私たちはそれを想像しながら、色合わせをしていくのです。
昔は、そういう身近な色を手本にしなければ、説明のしようがなかったのです。シンバシという名も、新橋駅のホームの壁の色ですからね。

西島

ああ、今顔料で「しんばし」という色は、そういう起こりからついた名なのですか。今で言えばセロリアンブルーですね。

見て、聞いて、確かめて

西島

彩色のとき、筆をねぶっておられたでしょう。私もねぶるのですが、うちの若い人たちは笑うのです。

西頭

水瓶に筆を投げ込んどくと、竹の筒まで水を吸っていて、描こうとすると、ポテッと水玉が落ちるでしょう。それでスーと口ですすると、水の含みがわかるのです。
1度こんなことがありました。大丸デパートで人形の展覧会をした中に、樽の上に腰かけた爺さんが、かくうちしている姿の人形がありました。お客さんが、「あんた弟子な、小島さんは呑まっしゃーな(呑まれるのか)」と言われる。
「いや、酒は1滴も呑まれん」と答えると、「やろ(そうだろう)、こら(これは)間違うとるばい。枡の角は握ったらいかんばい。口当てるところば握っとる。小島さんに言うときない(なさい)」と言われた。
先生に伝えると、すぐさま「ちょっとお前ついて来い」と、町の角の居酒屋に行きます。じーっと見ていると、誰も枡の角を握っていません。その日のうちに、その人形はひっこめて、すぐにつくりかえでした。

西島

そう言えば、こういうこともありましたよ。戦後に柳川の「お花」にご一緒したとき、殿さまの能衣裳が虫干しされていました。それを全部着て、紐(ひも)を結んで、後ろ姿、結び方などを丹念にスケッチしておられました。

西頭

必ず現場で確かめられるのです。提燈の下にさがっている結びがありますね。あれがどう結んであるのかわからない。すると「提燈屋に行って、お前見て来い」です。嘘をしちゃいかんとよく言ってありました。
下駄ひとつにしてもそうです。私がつくっている人形をみて、「お前の下駄は誰がはいとうとや、芸妓が下駄はいておりてくる姿ば(を)見てきやい(なさい)」。見ると、芸妓さんの下駄は、ほんとつま先だけをちょっと、つっかけるかつっかけないかわからないようにして、はいて行きます。
中市小路(なかいちしょうじ)の前は、夕方になると、相生(あいおい)町の芸妓が、つぎつぎと券番からお座敷へ歩いて行きます。「お前、よか見本の行きようけん、早よ見て来い」です。髪の恰好を見ようと追いかけて、とうとう置屋までついて行って、水をかけられたこともありました(笑)。
そして、いよいよのときも、先生は人形にじかに手をかけるということは、絶対にされませんでした。ヘラで「こげんなると」と言ってサッサッとかかれる。それがまた、実に巧いのです。

粘土は“耳たぶ”の固さ

小山

名士劇に出演した人たちの人形もよくつくられて。あれはご本人に。

西頭

ええ。似顔人形は、よく譲られています。
私は、三浦環(たまき)のお蝶夫人の人形を、駅の近くの博多ホテルへ持って行ったことがあります。野球のべーブルースが来たときも作っています。人形の背中にべーブルース本人がサインしています。いい顔の人形でしたよ。
奈良屋小学校の相撲場開きのとき、子供がワーッと双葉山を押している人形をつられた。橋口町の旅館に届けると、双葉山が私をにらんで、「これは似とるか」と訊(き)いたが、恐くってね(笑)。お弟子さんと一緒にちゃんこ食べたときのことは忘れません。

小山

人形の粘土はどこの土ですか。

西頭

私たちが弟子入りしたころの粘土は、麦野(南区)の田んぼの土でしたが今は七隈(ななくま)の土です。昔、粘土をつくる人は馬車で持って来ていました。
先生はその粘土をなめて、「こら(これは)、今年はよう(よく)できた」とか、「できとらん」とか言ってありました。どうしてなめてわかるのか、今もって私たちにはわかりません。

西島

粘土を捏(こ)ねるのが、また難しいのでしょう。

西頭

耳たぶが人形の固さだと、やかましく言われていました。ちょっと固すぎると、投げつけられて、耳をひっぱられ、「俺の固さはこの固さたい。よーと覚えとけ」です。仕事面ではとても厳格な人でした。

年季があけると「西頭くん」

西島

お弟子さんは何人でしたか。

西頭

そのころ13人いましたが、今残っているのは3人だけです。

小山

修業はつらかったでしょうね。

西頭

修業中の5年間は、ものすごく厳しい。この5年を過ぎると、「年(ねん)があける」と言うのですが、この年があけると先生の言葉遣いがガラリと違います。きのうまで「哲ちゃん」や「哲!」だったのが、急に「西頭くん」など呼ばれるので気持ちが悪い(笑)。

小山

5年で年があけると、給料ももらえるわけですか。

西頭

だいたい15、6歳で弟子入りしますから、20歳の兵隊検査のころ年があけるのです。それからお礼奉公をふつう1年して、給料がもらえるようになります。料亭などの据膳にもすわらせてもらえます。修業中は髪も伸ばしてはいけません。バリカンで刈って、その後カミソリで剃るのですが、それが恥ずかしくて、恥ずかしくて。お金も持たされません。風呂屋も床屋も木札の切符で行くのです。

西島

私が年あけてもらった給料は50銭ぐらいでした。その頃、人は40円ぐらいで……。
私は商業美術の豊田先生に弟子入りしましたが、通りから、小島先生の仕事場を見て、こっちの弟子に行ったほうがいいかなあとじいっと見ていましたよ。あのとき私がはいっていたら、西頭さんは兄弟子だった。

西頭

私は西島さんより1年ばかり早いから、1ヶ月30銭で、ついたちに15銭、15日に15銭もらっていました。15銭じゃ映画も寿館には行かれなかったし、チャンポンが15銭でやっと。ブロマイドが10銭。大阪屋のスキヤキを一ぺん食べたくて、貯金して食べに行こうかと思ってましたよ(笑)。

小山

『キング』や『少年倶楽部』が50銭の時代ですね。
戦後、米軍が来ると、博多人形はものすごく売れたでしょうね。

西頭

アメリカ人がよく買ってくれたので、にわか人形屋がいっぱいできました。しかし、小島先生は「やめれ、腕がおちる。向こうの言うとおりにするけんいかん」と、いつも言ってありました。
先生が明治時代につくられた、網を引いているお爺(じい)さんの有名な人形があって、これの似せものが、貿易ものとしてもてはやされたのです。
「こういう、明治に俺たちがつくったものを、若いもんがつくって何になるか。百姓や芸者、富士山やちょんまげなど、外人の言葉につられて、明治に逆もどりするようなことをやっていたらつまらん」というわけです。

小山

西頭さんの、童人形は。

西頭

「叱られて」を作ったとき、先生にたいへん叱られました(笑)。
「泣くような人形は作るな。人形はお祝いに行くとぜ。縁起の悪いものを作ったって売れん。頭にリボンつけたり、模様変えたり、時代考証がなっとらん」と。そのころ、横山隆一さんの『フクちゃん』の漫画がはやっていて、それがリボンをつけていましてね。

小山

ああ、つけてた(笑)。

西頭

これはおもしろかろうとつけたんです。先輩のまねでもしようものなら吊しあげでした。
鏑木清方(かぶらぎきよかた)や伊東深水(いとうしんすい)といった日本画風の美人人形はみんながつくるでしょう。創作しなければいけない、それで作ったのが童人形で、玉屋の展覧会に出しました。先生にもおこられたものだし、「まあ、展覧会に出すのはよかろうばってん、あとは売れんぜ」と言われる。売れんでもいいと思って、私はその人形に500円の値をつけたのです。仲間に「子ども人形に500円もつけて」と言われましたが、これが1週間で20本も売れたのです。
それで人形屋で評判になって、似せものが京都に出たりした。組合が怒って、一騒動になりましたが、先生は「人が真似(まね)するようなもんば作っただけ喜んどけ。こまい(小さい)こと言いよったっちゃつまらん。こだわるな」、こう言われました。

博多人形のできるまで

面相を仕上げる西頭哲三郎氏
  • 原型づくり工程(彫塑(ちょうそ)
    構想を練り、デッサンをしてつくりあげる。
  • 型とり工程
    完成した原型は、複雑な型をしているため、最小限の型(石膏)で成型できるように墨で原型に線を引き(墨割り)、石膏型を作る。
  • 生地づくり工程
    石膏型によく捏ねて精製された粘土を手で押し込む作業で人形の生地をつくり、充分に乾燥させる。
  • 焼成工程
    充分に乾燥した生地を窯に詰めて焚き始める。 はじめの4時間ほどは最高400度ぐらいの低温で焼き、徐々に温度を上げて900度くらいで焼きあげる(8時間程度)。焼きあがった生地を素地と呼ぶ。
  • 彩色工程
    焼成時に起こる焼ききずに修正を加え、肌の部分の艶ひき(肌地)から始め、着物部分の着色、模様を描いて仕あげていく。
  • 面相工程
    人形に頬紅を摺(す)り込み、口紅を入れ、目を入れ、まゆ毛を描いて仕あげる。

「俺のまねせんやったけん、よかった」

小山

博多の夏祭り「山笠」でも小島さんは忘れられない人ですね。

西頭

私が山(飾(かざ)り山)をつくり始めて2回目でしたが、ちょうどNHKが「義経」を放映していたので、川端もそれがいいというわけで、それならと、私は五条の橋の弁慶と義経をつくっていました。先生が朝、見に来られたときには、もうほとんどできあがっていました。
先生は見るなり、「こらいかん、原田嘉平のと同じやないか。つまらん、やりかえれ」と、バリーッと破られてしまいました。「子供の背中に7つ道具をつけて、坊主にして、鉢巻きしとうと(しているもの)でいいけん、しやい(しなさい)」。もうあと2日しかない。たいへんでした。

西島

与一先生の山笠の飾り方は、他の人のと違いましたね。

西頭

立体的につくらなければ山じゃない。はね木に人形がのって、前に突き出している。前半分なら裏はべタッとすればいいが、先生のは全身をつくらなければいけない。だから材料も倍かかる。しかし立体感があって、迫力が違います。先生の特徴ですね。
山をつくるのも早い、早い。てこをしていて、「はい、こっち結んで、こっち結べ」と言われて、「俺はちょっと用のあるけん行くぜ」とパッと手を離されるから、ガチャーン。「きさま、結んどかんか」と、自分の気持ちの中だけでは結んであるわけです(笑)。

西島

気持ちの方が先に先にいかれるのでしょうね。

西頭

現代の博多人形がここまでになり、弟子を40人も育てられたのは、先生の非常な功績ですよ。現在山笠をつくっているのは全部小島先生の弟子や孫弟子です。

西島

先生は病院嫌いでしたね。どんなにお悪くなっても、五体に刃物を入れるべからずで。入れ歯もされなかったから、話がもごもごで聞きとれない。あれには困った(笑)。

西頭

箱崎に中富さんという有名な歯医者さんがおられましたが、「小島さんを長生きさせるには、歯を入れてやらないかん。だまして連れて来なさい」と言われるので、私がだまして連れて行きました。「ちょっとここで話ばしましょう」と中富さんは病院の椅子の小島先生をつかまえて離しません。小島先生は謀(はか)られたと腹をたてて、機械をパーツとひっくり返して逃げて行かれたのには驚きました(笑)。
体がいよいよ弱られたとき、手術さえ受けておられれば、もう少し長生きされたのではと、惜しい気もしますね。亡くなられる前に、「俺は褒(ほ)めるのは好かんけど、お前は俺の真似(まね)せんやったことだけは褒める。最後まで真似せんやったけんよかった」と言われたときは、いちばん嬉しかったですね。

小山

名人小島与一さんの姿がありありと浮かぶいいお話、ありがとうございました。

西頭哲 三郎氏 略歴

大正10年、福岡市古渓町に生まれる。昭和11年人形師小島与一の門下となり、22年に箱崎で独立。28年より通産大臣賞受賞2回、42年には第1回総理大臣賞を受賞。福岡県技能功労者として表彰され、51年には、国・卓越技能保持者に認定される。53年、黄綬褒章、平成5年福岡市文化賞を受賞。平成8年6月逝去。享年74歳。