No.24 「名槍日本号」を呑み取った母里太兵衛(ぼりたへえ)

対談:昭和58年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
筑前近世史研究会会長 藤香会副会長 山内勝也氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏
九州総合信用株式会社社長 小山泰氏

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


酒豪で渾名(あだな)は”フカ”

母里太兵衛像(福岡市美術館蔵)

司会

母里太兵衛(ぼりたへえ) [生年不詳-元和元年(1615)]と言えば、名槍日本号を呑みとったエピソードで知られてますね。黒田武士の代表者、理想の日本男性像で、ミスター福岡の資格充分ですね。

山内

あの話は、文禄年間豊臣秀吉が天下人で伏見にいた時代のことですから、黒田長政はまだ中津城主で、12万3千石のまだ中大名の時代です。

小山

如水孝高(じょすいよしたか) (長政の父)の名声に比して禄が少ないですね。

山内

如水は軍奉行(いくさぶぎょう)筆頭(参謀総長格)として、秀吉の天下取りに大きな貢献をしています。秀吉が天下平定のときは一国を与えると言っておったようですから、内心は不満だったでしょう。
如水は、家臣に中津の70石は他領の100石分だと言っています。中津へ入国して豊前六郡を検地してみると相当の石高になる。如水は知恵者ですから、差額分をせっせと蓄えていたのでしょう。
この結果は、関ヶ原合戦のときいきてますね。長政は徳川家康に従って上杉征伐に赴きましたが、父の如水は独力で西軍加担の九州勢を、ほとんど総なめにしてしまうのですから。
長政は家康について関ヶ原の戦[慶長5年(1600)]で大功をたてて、筑前52万石の大守になりますが如水は勝手働きでなんの恩賞もない。だが、父子2代の知謀と武勇で、黒田藩は他藩から一目も二目もおかれていたのですね。
その社員代表が栗山備後(くりやまびんご) や後藤又兵衛(ごとうまたべえ) と並んで母里太兵衛なんですね。当時の武勇の士は酒豪でもあって、太兵衛はフカという渾名(あだな)があるほど、その方でも剛の者だったそうです。

西島

そこで名槍日本号の話となるのですね。

山内

ええ。母里太兵衛が長政の名代として福島正則のところへ行って、呑み取り合戦となる訳です。

西島

正則と長政は、深いつきあいがあったのですね。

山内

長政も正則もいずれ劣らぬ勇将で、仲がよく、そしてお互いに酒癖がよくなかったと言われています。酒の上で大喧嘩をして、仲なおりのしるしに長政が水牛の兜(かぶと)を、正則は一の谷の兜を譲り合ったりしています。
水牛の兜は、正則没後長政に返されましたが、まあ、そういう仲で、お互いによく知っていますから、太兵衛が使者として正則のところに出かけるとき、長政は「お前は絶対に酒を呑んではならぬ」とクギをさしています。
太兵衛が行くと、正則は案の定酒を呑んでいて、「よし、よし、お前の用件はわかった。一献(いっこん)受けろ」ということになる。
太兵衛は、「不調法でいただけません」と断りますが、正則は、呑め呑めの一点張り。とうとう、「この大盃で見事に呑みほしたら、お前の望みのものをやる」と強要します。
これ以上断って、癇癪(かんしゃく)の強い正則と争いになっては……と太兵衛はハラを決め、大盃になみなみとつがれた酒を一気に呑みほすのです。
黒田藩の学者貝原益軒(かいばらえきけん) の『黒田家臣伝』によると、次のように記してあります。
「伏見にて左衛門大夫(福島正則)より……是の大盃にて酒をのまば何にても其方望みの物を引出物にせんと申しかば太兵衛内々かの大身の鑓(やリ)を望みに思ひければよき折節と思ひ其の座上にかかりて有けるを見やりて、あの鑓を賜はらば此の大盃にてのみ申さんといふ。左衛門大夫酒に酔ってかの鑓の秘蔵成し事を忘れ、しからば此の鑓を与ふべし。其の大盃にてのみ候へと云はれしかば太兵衛其の大盃にて酒を受けのんで彼の鑓を取って帰りける云々」(『益軒全集巻五』)。

小山

大盃はどれくらいのものですか。

山内

両腕にかかえるくらいの、大きな盃だったらしい。径30センチぐらい。酒5、6合はゆうにはいったでしょうよ。「見事なり、太兵衛いま一献」とすすめられるままに、3杯呑んだそうです。正則も驚いたでしょう。

西島

そのときの太兵衛が博多人形の「黒田節」になっていますね。中には太兵衛が持っている大盃の紋が黒田の紋になっているのがありますが……。

山内

厳密に言えばおかしいですね。正則の紋でないと……。

“呑み取り槍”として評判に

小山

正則も約束とは言え、よく日本号の槍を譲ったものですね。

山内

簡単にやろうと言ったわけではありません。あれは、正親町(おおぎまち)天皇から将軍足利義昭に下賜(かし)され、織田信長、豊臣秀吉を経て、福島正則が拝領したものだといわれています。
だから、正則にとっては、かけがえのない大切なものだったわけです。しかし、武士に二言はない。さすが戦国大名、思い切りはいいですね。家臣たちは、帰りに酔っぱらって手離すかもしれんと考えていたらしい。しかし太兵衛は、悠々と日本号を持って帰ります。それが藩内の評判になって、呑み取って来たのだから〝呑み取り槍″と言われるようになりました。〝名槍日本号″というのは、明治になって言われるようになったのです。

西島

今、市の博物館にありますが、立派なものですね。

山内

ええ、しかしよく見ると、突いた後が残っているそうです。槍の穂の長さ79.2センチで、平(ひら)に長く掻(か)かれた※樋の中に※倶利迦羅龍王が浮き彫りされています。柄は大粒の青貝の螺鈿(らでん)づくりで見事。全長が3メートル21.5センチの大きなものですよ。普通の人では、とてもかかえて突ききれないでしょう。

西島

よく市の博物館に……。

山内

志賀島出土の国宝金印や、長政愛用の水牛の兜とともに黒田家宝の代表格ですものね。学芸員の田坂さんによると、槍の穂先にはめている鞘(さや)だけは、少し新しいものだそうです。

小山

太兵衛は、その長い槍を馬上に持ちかかえて帰ったのですか。

山内

と、伝えられています……ね。まあ、絵になる情景ですね。とにかく相手が荒大名の正則で、名槍を呑み取って来たと言うので、天下に太兵衛の名がとどろいたのです。

樋(ひ)―刀や薙刀(なぎなた)や槍の側面につけた溝。重さをへらし調子をととのえるためのもの。血走りをよくするためともいう。

倶利迦羅龍王(くりからりゅうおう)-不動明王の変化身。龍が火炎中の宝剣にまきつき、先端をのみこもうとするさまで表現される。空と生佛不二(しょうぶつふに)を意味するともいう。

大身槍”日本号” (福岡市博物館蔵)

太兵衛、又兵衛、野村家、黒田家を経て、福岡市美術館へ

山内勝也氏

西島

その槍を長政に献上したのですか。

山内

いいえ、太兵衛が持っていて、文禄、慶長の役でも使っています。太兵衛と後藤又兵衛は、兄弟のようにしていますから、又兵衛はいつも「呑み取り槍を俺に譲れ」とせびっていたそうです。とうとう2度目の慶長の役のとき、太兵衛はこの槍を又兵衛に譲ってしまいます。

西島

虎退治のとき、大虎が出て槍に喰いついて、押しも引きもできない。そこへ又兵衛が通りかかる。おい力をかしてくれ。又兵衛はニヤニヤしてこの槍くれるなら加勢する。仕方がないのでやるから加勢しろ……、とこんなことで又兵衛の手に渡った、と何かで読んだことがあります。

山内

講談本の話でしょう(笑)。又兵衛は、太兵衛にとっては兄貴分だし、各藩に名の通った勇者ですから、太兵衛も頼まれ負けしたのでしょう。

西島

すると、槍は後藤家に伝わっていくんですか。

山内

いいえ。又兵衛が主君長政との確執で筑前退散となったとき、呑み取り槍と自分の紋を娘婿の野村祐直にやるのです。又兵衛の娘が、太兵衛の弟の野村祐勝(すけかつ) の息子祐直に嫁に行っていたのです。「この名槍は浪人する俺には不要。太兵衛からもらった大切な槍だから、お前にやろう」というわけで、野村家に代々伝わりました。のちに安川敬一郎さんに移り、黒田家に献上。昭和56年に14代当主の黒田長禮(くろだながみち) 氏が、国宝金印と共に福岡市に寄贈されたわけです。(現在、福岡市博物館所蔵)

黒田節→越天楽(えてんらく)→シルクロードへ

西島伊三雄氏

西島

名槍呑み取りは、黒田藩士には胸のすく話だったでしょうね。それを誇りにして、今様(いまよう)になったんですね。

山内

そうですね。今では今様と言えば、筑前の歌のように思われていますが、そもそもは、平安末期から平家の全盛時代にはやった歌で、大宰府の役人たちも歌っているんですよ。広島の宮島付近でも歌っています。

今様というのは、今の流行歌という意味で、平安朝時代の越天楽(えてんらく)という雅楽の旋律をとった七五調四節で、自分たちで文句をつくって歌ったものです。
しばらく衰えていたのを、徳川の半ば過ぎ頃から武士や歌人の間で、再びもてはやされだしたのです。150年位前の天保(てんぽう)年間がいちばんはやったんじゃないですか。その頃高井知定(ともさだ) が呑み取り槍の歌をつくって、藩士たちに歌われたのです。

西島

あの、酒はのめのめ……の歌ですね。

山内

知定の今様は、〝のめのめ酒をのみこみて 日(ひ)の本(もと)一のその鑓(やり)を とりこすほどにのむならば これぞまことの黒田武士″です。

西島

酒はのめのめ、のむならば、日の本一のこの槍を、のみとるほどにのむならば、これぞまことの黒田武士″の今の歌よりぎこちない感じがしますが、〝のみこみて…″がいかにも武士らしくていいですね。

小山

先日、聞いた話ですが、シルクロードをめぐると、いろんなオリジナルな楽器が出てくるわけですが、その楽器で黒田節を演奏してみると、非常にスムーズに弾けるそうです。黒田節は、越天楽からさらにさかのぼってみると、このシルクロードにつながっているんじゃないでしょうか。

山内

昔のは豪壮な感じで歌い出して、最後は哀愁が漂うような歌い方になっていたらしいですね。
ところが、NHKが昭和3年に、全国の民謡紹介をしたとき、筑前今様を、黒田節と名づけて、赤坂小梅さんが下の方を非常に派手に歌いましたから、今のような陽気な感じになって、宴会でも歌えるようになったんだと言います。
このとき「黒田節」と名付けたのが、当時NHK福岡におられた井上精三さんで、福岡県代表民謡として紹介されてから、全国で歌われるようになったときいております。ただ、昔の哀調がないのがちょっと残念ですね。

小山

皇御国(すめらみこく)の武士(もののふ)はいかなることをかつとむべき、只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を、君と親とに尽くすまで……″というのもありますね。

山内

幕末の勤皇家加藤司書(かとうししょ) が詠じた歌として有名ですね。筑前今様は、高井知定の後に国学者で書家でたいへんな文化人の二川相近(ふたがわすけちか) という人がいて、藩の料理人だったのですが、早く家督を息子に譲って、いい今様をつくっています。〝嶺の嵐か、春の弥生の曙(あけぼの)に、花より明るい三芳野(みよしの)の、古き都に来てみれば″もこの人のものですね。

黒田武士のシンボル 太兵衛と又兵衛

小山泰

小山

太兵衛は、後藤又兵衛と親しかったんですね。

山内

又兵衛と太兵衛は、黒田二十四騎の双璧ですね。長政を加えて二十五騎とも言っています。又兵衛と太兵衛は、世にきこえた豪勇の士ですが、2人の生涯は明暗が対照的で、又兵衛は大隈の益富城を預かっていますが、どうも主君の長政とはしっくりしない。

如水は、長政と又兵衛を兄弟のようにして育ててきましたから、如水の命は親の如く守った又兵衛も、如水亡き後は、「吉兵衛(長政の幼名)がちとおれに威張りすぎる」という気持ちがあるわけです。又兵衛は、天下に知られた剛の者で、戦場では自分の方が上だと自信を持っているし、長政を通さずに他の大名たちともつきあっている。長政はそれが気に入らない。
当時の主従の関係は、力による雇用関係ですから、又兵衛は藩を退散してしまう。
それで又兵衛ほどの剛の者ならと細川や加藤、福島、池田等の大大名が競って抱えに来たのですよ。しかし長政が「召し抱えるなら、こちらにも考えがある」と抗議するので不調になる。又兵衛は相当貧乏していたようです。
浪人生活8年目に大坂城の秀頼から迎えがくる。大坂冬の陣ですね。大坂方で大活躍するのは、木村重成真田幸村(さなだゆきむら) 、後藤又兵衛等ですが、又兵衛の方が幸村より戦術は巧かったんじゃないかという話もありますね。東軍でいちばん勇武の伊達政宗(だてまさむね) 軍と合戦になり、鉄砲にうたれて討死にしてしまいます。
又兵衛62歳で、覚悟の上の討死にだったでしょう。

「ボリ」か「モリ」か

西島

それにしても、戦国の世の主従関係というのは興味深いですね。

山内

又兵衛や太兵衛と長政との関係は、江戸時代以後の主従関係とは違います。あくまでも力による雇用関係です。力があるから大禄で私は召しかかえられているんだ、という関係です。
太兵衛の述懐の中に、「主君長政公とはいえ無理なことを言われれば、自分は承知しない」というくだりがあります。長政との主従関係は力による雇用関係と考えていたんだと思います。
又兵衛も一介の浪人になっても、52万石の殿様の長政を相手に堂々とやりあっていますね。

小山

太兵衛が、2人の確執を調停したというようなことは。

山内

記録にはないようです。その頃の人間の気持ちは、後の代の、型にはまった主従とは違いますから。お互いに武士の面目をかけての確執だし、力量があるんだから、堂々とやりあうがよい……というおおらかさが根底にあるのです。だから調停なんておせっかいは表には出ていないようです。

西島

母里太兵衛は、そもそもモリタヘエですか、ボリタヘエですか。

山内

どちらでもいいようですが、本来の姓はボリ(母里)ですね。それが、明治以前は〝毛利″(モウリ)と言っていました。それにはこんなエピソードがあったのです。
徳川二代将軍秀忠が、慶長11年(1606)に江戸城天守閣の石垣がゆるんでいるので、その修復を三大名に申しつけています。その筆頭が黒田長政です。黒田藩の総奉行が母里太兵衛で、藩士の石垣積みの名人野口左助一成(二十四騎の1人)や、石組みの巧い藩士や職人を連れて出かけています。当時の武将は、武芸だけでなく、戦略や築城にもすぐれていなければなりません。
藩の威信にもかかわることですから、長政はもっとも信頼できる母里太兵衛を、総指揮に選んだのでしょうね。太兵衛は、この特命工事の指揮をとって他藩よりも早く立派に仕上げています。

山内

そこで将軍お目どおりの上「よくやった」とおほめをいただき、太刀をもらいますが、そのときの感状書に、幕府の右筆(ゆうひつ)役が「毛利」と書きまちがえ、そのまま披露されるのです。
将軍直々のものだから、仕方なくそのまま引き下がって長政に報告すると、「仕方がない、これからはモウリでゆけ……」ということになって、毛利だか母里だかわからなくなってしまうんです。

西島

太兵衛も困ったでしょうね。

山内

この話には続きがありましてね。三代将軍家光のときに、大藩の家老たちが一緒にお目見えしたことがありました。そのとき黒田藩の家老は久野四兵衛 (ひさのしべえ)ですが、口上役にクノと呼ばれたのです。久野を関東ではクノと言いますからね。
久野は太兵衛の二の舞では困ると、大声で「クノではございません、ヒサノでございます」と訂正するのです。「黒田の家老は大声で名前の訂正をした。豪気な奴だ」と、江戸城中で大評判になり、黒田武士の名があがったそうです。太兵衛の場合は、文書ですから仕方がなかったのでしょう。
だから、旧藩時代はモウリをとおし、明治維新になってやっと戸籍を訂正しています。だから現在では、子孫は母里(ボリ)になっています。

城主として幸運な一生を

博多駅前の黒田武士像

小山

母里太兵衛の生まれはどこですか。

山内

正式には母里太兵衛友信。幼名は万助で、後に太兵衛、筑前に来て但馬(たじま)と改めます。弘治2年(1556)播州(今の兵庫県)の加古川に生まれています。太兵衛はもちろん黒田二十四騎の一騎ですが、その中に野村太郎兵衛祐勝(すけかつ) がいて2人は兄弟です。
今の甲子園の近くを流れる加古川の川上に野村という地名があります。本来の姓は曽我で、どういうわけか兄弟とも他家を継ぎ、兄が母里を、弟が野村を継ぐわけです。黒田如水が播州の人ですから、2人とも子飼いの臣として如水に仕えているわけです。

西島

如水、長政に従って博多入りしたのですね。

山内

ええ、弟の野村祐勝は中津で、40歳を迎える前に亡くなってしまいます。この祐勝も武勇の士で、長政が中津領主の頃、降服しない土地の豪族宇都宮鎮房(うつのみやしずふさ) と仮の和議を結び、城中に招いて誅殺するのですが、長政は仕止め役の1人に祐勝を命じていますね。

小山

大仏次郎の『乞食大将』は、鎮房を後藤又兵衛の好敵手として豪勇な武将に描いていますね。

山内

そのとおりでしょう。鎌倉以来代々の領主だった鎮房は、秀吉から四国今治へ移封を命ぜられるが、ききません。
それで、秀吉は如水、長政に鎮房を討てと命ずるわけです。長政は、挨拶に来た鎮房と酒宴をもうけます。祐勝が酒の肴を載せた三方(さんぽう)を投げつけるのを合図に、長政が斬りつけるという段取りでした。鎮房も剛のもので、咄嵯(とっさ)に佩刀(なぎなた)を振って抵抗し大玄関まで出て来たところを、後藤又兵衛が槍で仕留めるのです。ここで宇都宮氏は滅亡します。

西島

そのとき太兵衛は……。

山内

記録に載っていませんね。その頃、如水が肥後へ検地に出向いていますからその供をしていたのでしょう。如水が小寺政職(まさもと) に仕え、22歳で、父に代わって家老になったとき、姫路にいた父親の識隆(のりたか) が、後々頼りになる男をと、栗山備後(くりやまびんご) と母里太兵衛をつけてやるのです。如水は、後年秀吉にそむいて荒木村重についた政職の説得におもむき、とらえられて石牢に幽閉されますが、栗山備後が、救い出しています。2人とも如水子飼いの重臣だったわけです。太兵衛は如水よりも10歳年下、長政より11歳上ですね。

西島

母里とは由緒ある家柄ですか。

山内

曽我より母里や野村の方が少しよかったんじゃないかと思いますが、くわしいことはわかりかねます。

小山

太兵衛は武人ですか、行政家ですか。

山内

純然たる武人です。武勲で長政から、鷹取(たかとり)1万8千石をもらっています。陪臣でありながら、1万石以上の大名並みの禄高なんです。
鷹取城は鞍手郡直方ですが、近くの土地にいい土があったので、朝鮮から連れて来た陶工高取八山(たかとりはちざん) に、そこで焼きものを焼かせました。これが高取焼なのです。たぶん母里太兵衛も高取焼の誕生にかかわっていたでしょうね。
その後、後藤又兵衛が筑前を退散したため、又兵衛の居城だった大隈益富城主(嘉穂郡)となり、元和元年(1615)6月6日、病のため60歳でこの世を去ります。麟翁紹仁(りんのうじょうにん)と追号、大隈町麟翁寺(りんのうじ) に葬られています。
太兵衛は、おおらかで、領民には情深い城主だったと伝えられています。元和元年には、幕府から一国一城制の令がしかれ、筑前は、本城の福岡城のみをのこして、他の6つの支城はこわされてしまいます。太兵衛はその令を知らず城主のまま幸福に世を終わっています。

意外に派手な武勇伝がないのは……

太兵衛の墓 福岡県嘉穂郡嘉穂町 麟翁寺

小山

江戸にのぼる途中、一行が富士山を見て、日本一の山とほめそやしたとき、太兵衛は、福智山(領地の鷹取城の背後の山)の方が高いと言いはった話がありますね。太兵衛の傲骨ぶりがおもしろい。

西島

太兵衛の武勇伝のほうは……。

山内

あまりはっきりしたことは記録に残っていないのですが、賤(しず)ヵ岳(だけ)の合戦あたりからではないでしょうか。秀吉と柴田勝家との天下取り合戦で、長政は秀吉方で出陣していますからね。
どうも、太兵衛には戦場で敵将の首をいくつとったというような派手な話が伝わっていないんです。裡(うち)に秘めた豪胆が、「この男は……」という信頼感となって、大事のときに周囲を威服させていったのでしょう。

小山

単なる武者ではない。大きなスケールの武人だったのですね。

山内

ええ。そう思います。太兵衛は、一生涯に五十何回も出陣し、常に先陣を務めながら、槍きずも刀きずも受けていないと言われます。太兵衛の豪勇はなりひびいていましたから、敵の方が避けたんじゃないかと思うんです。
文禄慶長の再度の朝鮮の役のときでも、後藤又兵衛と母里太兵衛と黒田(加藤)美作(みまさか) の3人が、交替で先陣を務めています。先陣であれば、相当の激戦にも遭っているはずですが、太兵衛は手傷ひとつ負っていない。非常に幸運な星を持っていたんですね。
太兵衛の勇名が知られていたのは、秀吉が如水に、自分の臣下にくれと言っていることからも、うかがえますね。もちろん如水ははっきり断っています。また、豪勇な男であった証拠に、抜き身の槍を陣中で持っていいという許可を、秀吉からも長政からも受けています。槍の但馬(たじま)(太兵衛別称)と言われただけの男ですから。やはり、太兵衛の先陣にぶつかる連中は、威圧感で負けたのでしょうね。

西島

太兵衛の画像はあるのですか。

山内

菩提寺の麟翁寺に、寺宝として残されており、二十五騎像にも描かれています。面がまえもかなりごつい男で、文字どおりの武弁ですね。背丈も高かったようで、威圧感があったでしょうね。太兵衛の墓は小さな五輪の塔です。筑前52万石の重臣の墓ですが、昔の人は質素だったんですね。

小山

太兵衛は、関ヶ原の戦のとき、栗山備後とともに大阪方の人質になっていた如水・長政両夫人を、西軍監視の中から見事に救出していますね。

山内

秀吉以後、家康が勢力を伸ばし、石田三成との対決になる。有名な関ヶ原の戦で、慶長5年(1600)のことです。長政は武断派で、官僚派の三成とは不仲です。長政は家康について大活躍をします。
この戦は、上杉景勝が家康の命をきかないので、景勝を討つということから始まるのですが、この会津征伐に長政も参加しています。ただ、秀吉時代からのとり決めで、夫人や子息は大坂の屋敷においている。家康東上のすきをついて三成挙兵のときは、人質にとられてしまうので、その折の処置を、留守居役で老巧な栗山備後と、豪勇の母里太兵衛に頼んでおくのです。三成挙兵となって、東軍加担の大名家は大騒動になる。
太兵衛と備後は一計を案じ、如水と長政の奥方2人を、黒田藩出入りの納屋小左衛門という商人に頼み、小左衛門の家の床下に穴蔵を掘って隠します。その時、備後と太兵衛が、両夫人を長持ちに入れ、小左衛門が道具を運ぶようにして連れ出したという話です。
太兵衛は力持ちだから、もっこに夫人を入れて、天秤でかついでいったという話もあります。そうやって1日隠してから、二重床の船に、2人をかがませてかくします。
太兵衛がその上に槍を持ってつっ立って船を出すのです。たぶん日本号の槍でしょう。
石田側は、淀川のあちこちに関門を設けて船中改(あらため)をしています。太兵衛の顔が売れているので途中は無事通過しましたが、淀川のいちばん出口のところでひっかかるのです。太兵衛は、「もし何もなかったら、この槍で突き殺すがいいか」とおどしたらしい。検問の武士達は震えあがって、ただちょっと改めただけ……ということで通したそうです。こうして、無事に両夫人を国許の中津へつれ帰った。大きな功績ですね。
先年亡くなられた黒田長禮(くろだながみち)氏から直接お聞きした話ですが、長政はお謡(うたい)では、観世をやっていたらしいのです。

小山

その頃の武将のたしなみですね。

山内

ええ、後の黒田藩は喜多流ですが、長政は観世流で、宗家の指導を受けて、だいぶ手があがったと言われていたのでしょう。国許で家臣たちに聞かせてやろうと観世をうなったのだそうです。
調子はずれで聞けたものではないが、家来たちは、お上手、お上手と褒める。太兵衛は一瞬考えていたが、「殿の謡は、とても聞かれたものでない。今後人の前ではなさいますな」と、ズバリ言ったそうです。
長政もむっとして引きこんでしまう。どうなることかと皆が気をもんでいると、しばらくして出て来て、太兵衛に「お前の申すことがもっともかもしれぬ。以後は皆の前では謡うまい」と言って、大事にしている佩刀を太兵衛にくれたそうです。

小山

なかなかいい話ですね。

旧母里太兵衛邸長屋門(福岡城内)

山内

長政と太兵衛は主従というより、もっと深い連帯感があったのでしょうね。だからそんな思い切ったことも言えたんです。
太兵衛はまた、刀に縁があって、いろいろもらっています。家康の養女、榮姫が長政へ嫁入りのとき母里と栗山が、家康に目通りしています。家康は「お前たちははなかなかの器量だ」とほめて、腰のものを2人にやっています。江戸城の普請のときも秀忠から腰のものをもらっています。

小山

太兵衛は、大坂の陣に出ているのですか。

山内

出ていないようです。大坂冬・夏の陣のときは、黒田長政はじめ、浅野、加藤、福島らの豊臣恩顧の大名を家康が全部江戸に足止めしています。
だから黒田藩は、当時わずか13歳ぐらいの長男の忠之が、冬の陣、夏の陣の総大将になっている。栗山備後・大膳の父子は家老として忠之の補佐役で、大坂陣に出陣の記録があります。太兵衛は、長政について江戸に残ったのではないでしょうか。

西島

そのほか、太兵衛と福岡の結びついた話は……。

山内

万町(現天神2丁目)に屋敷跡がありましたね、野村証券の支店があるところ。その長屋門は、福岡城址に移築されています。

小山

名槍日本号を呑み取った太兵衛は、九州人の1つの典型として全国に知られています。太兵衛は呑み取り槍を博物館に残し、福岡の顔にして、400年近くも活躍してくれてるんですね。

山内

誰からも愛される人間像ですね。日本人好みのいい男だったのですね。

司会

興味深いお話、ありがとうございました。

山内 勝也氏 略歴

明治39年、福岡市西町に出生。
修猷館から国学院大学を経て、東京都で教職につき、昭和19年福岡市に転じ、43年福岡市立博多工業高等学校の校長を最後に退任。
福岡市常勤監査委員、筑前近世史研究会会長、藤香会副会長など歴任。