No.26 幕末の博多商人 釜屋惣右衛門

対談:昭和58年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡大学教授 武野 要子氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


9代目釜惣 瀬戸寛次
(瀬戸民也氏所蔵画像)

小山

博多商人と言えば、前に先生にお話を伺いました“博多三傑”の島井宗室(しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗九(おおがそうく)が、あまりにも有名ですが、それ以後博多には大商人は現れていないのでしょうか。今日は、幕末の博多商人について伺いたいのですが……。

武野

幕末にも大商人は出ています。中でも代表的な商人が、釜屋惣右衛門(かまやそううえもん)、通称“釜惣”です。

西島

何屋さんですか。

武野

釜屋という屋号が表すとおり、もともとは金物類の販売者です。6代目ごろから製蠟(せいろう)

業を始めますが、釜惣としては、この蠟の方が有名です。

博多でいちばん多い商売は、代呂物(しろもの)問屋

武野

釜惣のお話の前に、幕末の博多の商売全般について、ちょっとふれておきましょう。
櫛田神社に『博多店運上帳』という資料がありますが、これには幕末から明治初期の博多の商人の、名前、職業名、運上(営業税)などが記してあって、これを見ると、当時の博多の商業と博多商人の経営の一端がつかめます。
当時の博多は、10流れ、98町。お店は、大小とり混ぜると、2千2百80店あまり。運上銀の多いところは、洲崎流、西町流、土居流、石堂流、洲崎町中、鰯町上・下などです。特に鰯町は問屋街で、大手の問屋がひしめいていたようです。
2千軒あまりの店の中でいちばん多い業種は、代呂物(しろもの)問屋、いわゆる雑貨屋で160軒。2番目に多いのが柑橘(きつ)類販売で128軒。3番目が櫨蠟(はぜろう)126軒です。

小山

代呂物には、呉服なども含まれるのですか。

武野

いえ、別のようです、いわば荒物ですね。この時代の業種区分は、実におもしろい分け方をしています。4番目が志荷(しか)と言って、触れ売りのことです。

西島

ああ、「○○いらんかねー」って触れ回って、おきゅうとや、あぶってかもや、ねぎなんか売っていたんでしょう。

武野

5番目が綿弓(わたゆみ)、綿打ち直しのことです。弓というのは綿打ちの生産道具なんですね。麹屋(こうじや)(今のハニーファイバー)が当時から綿弓屋で、弓をいちばんたくさん持っていたそうです。
6番目が搗(つ)き米(ごめ)。7番が売薬、これは中世以来博多の伝統的なもので、亀屋などがそうですね。8番目が髪結(かみゆい)。

西島

なかなか博多織が出て来ませんねぇ。

武野

博多織は意外に少ないんですよ。20番以内にも出て来ません。9番目がからし油板場。板場とは、蠟や油を製造するところのことです。

西島

からし油とは、菜種油のことでしょう。菜の花のことをからし菜といいますから。

武野

10番目が鍛冶屋、11番目が生魚問屋、12番目が菓子屋。13番目が相物(あいもの)問屋、これは本来干(ひ)もの魚類を扱う店ですが、後には生魚も売っていたようです。14番目が麹屋、15番目が小間物(こまもの)、16番日が船問屋、17番目が質物(しちもつ)、18番目が在郷(ざいごう)問屋、19番目が豆腐屋、20番が酒造と続きます。

小山

在郷問屋というのは……。

武野

町の近辺の村々に商品を持っていく商人のことです。触れ売りの志荷商人の場合は、主に必需品ばかりを売りますが、在郷問屋の場合は、多少は奢侈(しゃし)的なものも売っていたようです。この20位までで、約1000軒になります。

西島

テレビドラマの時代劇なんか見ていると、よく材木問屋や米問屋が出て来ますが、ここには出て来ないですねえ。

武野

材木はむしろ領外から移入していたようです。米問屋も見あたりませんね、米搗きはあるんですが。

実力ナンバーワンは釜屋惣右衛門

小山

さきほど言われた釜屋惣右衛門は、博多の店の中で、3番目に多い126軒もの蠟屋のひとつだった、ということですか。

武野

ええ、釜屋という屋号で数軒を持っている、実力ナンバーワンの商人です。

西島

釜惣さんという蠟屋さんですか。あまり聞きませんが、資料は残っているのですか。

武野要子氏

武野

旧家の中ではよく知られておりますよ。瀬戸民也(せとたみや)さんという方が末裔で、現在福岡市南区にお住まいですが、お宅に伺いますと、由緒書きや藩からいただいた感謝状があります。藩に何千両寄付した云々という感謝状が、ものすごくいっぱいあるんですよ。
瀬戸家譜』によると、釜屋惣右衛門は苗字は瀬戸、相模(さがみ)国鎌倉の出身で、代々将軍家の扶助で瀬戸明神の神職をつとめていました。足利幕府の没落後、鎌倉が不穏になったため、どういうわけか筑前にくだってきて、当時近辺に勢力をもっていた豪族・高祖城主原田氏に仕えました。博多町人には、原田の家臣出身の者が多いんですよ。原田の出だというと、どうも由緒正しい町家ということになるらしいのです。
原田氏が滅びると、博多の土居町に居を定め、釜屋の名どおり鋳鉄を始めます。初代が新四郎義茂、2代目が甚四郎寛成、3代が甚右衛門寛好。3代目のとき元禄年間に鋳鉄をやめ、販売の方に転向します。
惣右衛門を名乗るのは、5代目好寛の代になってからです。好寛は、妻を〝御国中釜屋座鉄問屋拾人″の1人深見甚兵衛方から娶(めと)って、以後深見家との姻戚を利用して鉄問屋の経営を有利にすすめていきます。
釜惣のもう1つの経営である櫨蠟(はぜろう)板場の営業は、6代目惣右衛門寛続の代ごろから始まったようです。釜惣としては、鋳物販売よりもこちらの方が有名です。

西島

「釜惣」は襲名するわけですか。

武野

ええ、それで代々釜惣で通っているのです。

小山

ロウソクも販売の方ですか。

武野

販売もですが、つくってもいます。ロウソク生産の場をふつう板場(いたば)といって、釜惣は櫨蠟板場の経営者です。

西島

櫨を最初に植えつけたのは、神屋宗湛だという話がありますね。それは蠟になると知ってのことですか。

武野

そうだと思います。宗湛が中国から蠟の製法を伝習し、運上銀を納めるのを条件に、製品の販売独占権を得たという説があります。
しかし博多の人は、宗湛を博多の偉人として尊敬するあまり、何でもかんでも宗湛に結びつけたがるという面もありますから、その点は、もう少し調ベてみませんとね。

鋳鉄から営業拡大した櫨蠟(はぜろう)で成功

小山

釜惣は鋳鉄から、どうして蠟屋に転換していったのですか、何か全然関連性がないようですが……。

武野

私もはじめその辺が疑問でしたが、鋳物屋さんに尋ねてみると、鋳物をつくる工程で蠟を使っていたのだそうです。

西島

そういえば、彫刻のレリーフの型をつくるのに、確か蠟型を使いますね。それと同じでしょう。

武野

一見突飛な営業転換に見えたのですが、実は身近なところから転換して、営業拡大に成功していったわけです。

小山

釜惣はだいたい何年間ぐらい繁栄していたのですか。

武野

江戸時代中ごろから江戸末期までが最盛期ですね。明治になると少しずつ下り坂で、まあ100年間ぐらいでしょうか。
蠟は江戸時代中頃藩の専売品になっています。領内の蠟を藩が全部ひとり占めして販売し、藩の収入にしようというわけですから、当然藩の役人が管理することになります。しかし藩の役人は、武士ですから、町人の助けを借りないことには営業できません。そういう手助けの役目のことを年番(ねんばん)といいます。年番は12人、板場の経営者の中から選ばれます。そのひとりに釜惣は登用されました。
領内には、博多の町から郡部までたくさんの板場がありますが、年番は各板場をとりしきって、全部の蠟を藩のお蔵に集めます。そして値段をつけ、代金を払ってやります。集まった蠟を荷づくりして、そのほとんどを船で上方(かみがた)に送り出します。そこまでが年番の仕事です。

西島

しかし、博多のことが書いてある本の中でも、「釜惣」というのはあんまり見たことがありませんねえ。

武野

書かれてませんね。その理由のひとつは、資料のありかが一般に知られていなかったということもあります。
瀬戸本家の史料もわりと最近見つけられたものです。
釜惣の経営帳簿も瀬戸家にあったそうですが、大分むかし売却され、巡り巡って、昭和26年頃九大が購入したそうで、現在九大の経済学部の経済史の研究室にあります。私どもが大学にはいったとき、「これが幕末の豪商・釜惣の資料だ」と教わりましたが、私は何も知らなくて、「はあー」とポカンと見ていました。

西島

その資料はもう活字になって、私たちにも読めるようになっているのでしょうか。

武野

いえ、まだまだです(昭和62年発行の『福岡県史』「福岡藩町方(一)」に一部を活字化。続刊予定)。なにぶん膨大な資料で、整理だけは昨年学生たちと一緒にやりました。釜惣文書の中には、加賀の豪商で当時国禁の海外貿易に出て巨利を得ていた銭屋五兵衛と、鉄類の取り引きがあったことを示す書翰(しょかん)などがあり、釜惣の経営が広域にわたっていたことがわかります。
また、釜惣が博多織織元の糸屋善左衛門に、織機を担保に金百両を融通したりしています。釜惣文書の中には糸屋が織元として、どういう営業をしていたか詳しく説明したものなどもあります。釜惣は織元を経営する準備をしていたのかもしれませんね。

実質最高の町人「大賀並」に列せられる

西島伊三雄氏

武野

博多町人には、格式町人というのがあり、藩主からいろんなものを頂戴したり、感謝状をいただいたりしています。町人の旧家に行くと、そういう物や書状がたくさん残っています。
その格式のいちばん上が、「大賀」です。あの博多三傑の大賀ですね。全盛期をすぎても、大賀はやはり福岡藩の町人としては、最高の格式町人です。
お正月やお祝いごとなどがあると、町人も殿さまのところにお祝いに伺うわけですが、その場合武士と同じく、町人も格式に応じて並ぶ順番が決まっているのです。最高位が「両大賀」で、それとほぼ同列が「大賀並」、その下が「大賀次」というふうに、大賀を基準にした格式名があるのです。釜惣は大賀並で、当時の町人としては実質最高の商人です。

西島

島井や神屋の家系はどうなっているのですか。

武野

島井家も神屋家もご子孫がちゃんと続いています。島井家は印刷をなさっていらっしゃいますね。3家とも江戸時代の中ごろになると、「由緒ある商家」という扱い方で、まあ飾りみたいな感じですね。大賀が格式町人の名前の基準になったりしているように、藩もむしろその由緒のところを利用して、町人をおさえるのに役立てたようですね。

西島

釜惣の画像は残っているのですか。

小山常務

武野

あります。代々の画像は、ちょっとおもしろいものです。釜惣の当主である寛次が算盤(そろばん)をはじいているのです。
およそ江戸時代初期の町人で、たとえば神屋宗湛などは剃髪して、まるでお坊さんのようにしていますね。ところがこの画像の釜惣は、ふつうに羽織を着て、算盤片手にお店にデンと腰を落ちつけて、いかにも商売一途にやっているといった感じ。中期以降の本格的な商人の姿ですね。
初期の町人の宗湛が豊臣秀吉と結び武士の力を借りて生きのびていったのとは対照的に、中期以降の商人は、自力で算盤勘定、計数をたよりに商いを営んでいこうという企業家としての姿勢が、この画像から読み取れるような気がします。
しかし藩への献上はしょっちゅうしていたようで、その感謝状の数はものすごいものです。その結果「大賀並」の格を得ることになったわけです。まだその献上額を全部計算していませんが、かなりの額にのぼります。
江戸中期、全国的な財政逼迫(ひっぱく)の中で、福岡藩は財政改革に取り組みますが、改革を日田の広瀬久兵衛という大商人に委ねます。広瀬家は江戸後期に咸宜園(かんぎえん)という儒学塾を開いた広瀬淡窓(ひろせたんそう)で有名ですね。
だいたい日田は豪商が多いのですが、大名貸で財を築いたのですね。いわゆる日田銀です。大名貸は貸倒れが多いものですが、日田は天領で幕府の目がこわいから、期日に無理をしてもちゃんと利息をそえて返済したといいます。だから日田の豪商は大きくなったのですね。
その中でもこの広瀬家はいちばんの金持ちで、久兵衛は財政改革にあたって、黒田藩に2万5千両もの大金を用立てています。そして大坂の銀主が1万両、釜惣が4千両を貸しています。藩内からお金を出した者は釜惣だけです。

絞りカスが「おばいけ」に化ける高価な鯨油は移入品

西島

千両箱を4つ、ポーンと出せるというのは大したもんですね。

幕末の博多の絵地図

武野

それというのも、蠟は当時の福岡の代表的な生産物の筆頭ですから。蠟が市場性を持ってくるのがだいたい江戸中頃からで、幕末がいちばん売れ行きのよいときです。一時は大坂に集まる蠟の約8割を、北九州でまかなっていたといいます。大坂に集まるというのは、当時の日本の生産高の、という意味で、北九州がいかに蠟の生産では重きをなしていたか、はかり知れますね。
福岡藩士の上野勝従(まさゆき)がのこした『存寄書(ぞんじよりしょ)』は、藩の財政建て直しに関して諸士に意見を求めたものですが、その中に藩の移出入品名とその量、金額が記してあります。移出品の第1位が白蠟4百万丸(まる)、20万両。2位が鶏卵1万5千籠、8千8百23両。3位が焚石(たきいし)つまり石炭で1千万両。蠟が移出品の大部分を占めているでしょう。
逆に移入品の1位は木綿で、100万5千反、20万1千5百両。木綿は当時の庶民の代表的な衣類ですね。それから畳表140万枚、3万2千6百両。藍染料が3万両、鯨油が6千4百丁で8千両などとなっています。

小山

移入品の鯨油とは灯り用ですか……。

武野

いいえ、田んぼのいなご退治に使う、大切なものだったそうです。いなごが幼虫のときに田んぼに鯨油を流し込み、油膜をつくって呼吸ができないようにして、退治したようです。
鯨油は鯨の商品の中でも最も高価なもので、上等なお肉よりも値があるのだそうです。福岡藩が西海の捕鯨組主から鯨油を移入する際の問屋が、相物(鮮魚類)大問屋の石蔵屋だったそうです。

西島

鯨油の絞りカスが「おばいけ」ですね。あれを食べ始めたのが博多からだとか聞きましたが……。やっぱり高価なものだから、もうこれ以上絞りきれないほどまで絞っても、そのカスも惜しいから、どうにかして食べようと考えだしたのでしようかねえ。

武野

史料に「おばけ」って出てくるので、何かしらと頭をひねっていたら、「おばいけ」のことなのですね。不思議な名前ですよね。
今あげました移出品と移入品の額を比べてみると、移入額の方が多いんです。つまり、その入超が福岡藩の財政困窮の原因となっているわけで、それで釜惣など町人から常に借金をしては感謝状を出していたのです。

釜惣最後の残照が、博多最初の銀行 第十七国立銀行へ

小山

幕末の博多商人は釜惣をもって代表されるというわけですね。

武野

ええ、それが明治になっても営業はしますが、大正期にはいると、近代化がうまくできずに没落していきます。その後博多の経済界はドスーンといったん落ち込むんです。博多の産業は、櫨から石炭へがひとつの線をなしていますが、その間に断絶があるのです。幕末にも、先ほど出ましたが、焚石(たきいし)と言って石炭もあったのですが、まだまだたいしたことはありません。明治も中期にならないと、石炭の有力商人はのしあがって来ません。

小山

博多の経済は、櫨から石炭へ、しかし櫨資本がそのまま石炭へとつながらなかったわけですね。

武野

明治10年(1877)3月に、6名の連署によって国立銀行創立願が出され、同じ9月に資本金10万5千円で、第17国立銀行(現・福岡銀行)が橋口町に誕生します。この6名の連署人のひとりに、最後の残照と言っては何ですが、釜惣がいます。6人のうちもう1人が甘木の同じく櫨蠟の経営者の佐野弥平です。この佐野が初代頭取、瀬戸は取締役、筆頭株主はもちろん黒田の殿さまということになっています。
6人のうちの2人までが櫨蠟経営者ということで、櫨蠟資本が、幕末から明治はじめの福博経済界に占める地位がわかりますね。それが明治も末になり大正にかけて、パラフィンが登場すると、工業化に適さない蠟は没落してしまうのです。

西島

今日の博多のお話は、私どもがあまり知らない部分でしたね。しかしお話を聞きながら、「ああ、あれが……道理で……」と思いあたることが、いろいろありました。
そう言えば、博多の商家には○○惣と、惣の名のついたところが多いのですが、これも幕末の大商人・釜惣にあやかってのことでしょうか。

武野

結局、この辺りのことはあまりまだ考証されていないんですね。博多町人というと、すぐに博多三傑となって、その周辺や、そのあとをうけて実際に生きてきた博多の町人の生活そのものがかくれてしまっているんです。
もっともっと掘り起こされるべき分野ですね。幕末町人のことがわからないと、いまとのつながりもはっきりしないと思います。

小山

今日は、幕末の、世にあまり知られていない豪商・釜惣を中心にお話をうかがいましたが、商いの区分などに触れ、幕末の博多の庶民の生活が直(じか)に感じられ、大へん興味深いものでした。本当にありがとうございました。

武野要子氏 略歴

昭和28年、九州大学経済学部卒。九州産業大学教授を経て、現在福岡大学商学部教授。専攻は商業史で、対外交渉史、博多商人史に造詣が深い。著書、『藩貿易史の研究』『博多の豪商』ほか。福岡県史編纂委員ほか。

対談:昭和58年3月


お話:
瀬戸民也氏
聞き手:
土居善胤

刺(さ)し子の足袋(たび)はき、先頭に立って

瀬戸民也氏

―ご子孫の瀬戸民也さんに、ご先祖の釜惣さんのお話をお聞きしたいと思いまして。まずお話の中に出てきた画像のことから。羽織を着て、算盤をおいている、なまなましい画像というのも珍しいんでしょう。

瀬戸

そうでしょうね。母の教えてくれた言い伝えでは、店の主(あるじ)は、先頭に立って働かねばならない。だから、この画像では見えないが、足袋も刺し子だったんだよ、と言っていました。剣道着や柔道着に刺し子がしてあるでしょう、長持ちするためですね。

―ゴワゴワした足袋だったでしょうね。

瀬戸

ええ、じっとすわってなくて、従業員の先になって立ち働いていたんだと思いますよ。

―島井宗室家訓など有名ですが、釜惣さんのほうは・・・・・・。

瀬戸

ございました。私の子供の頃まで、ちゃんとあったのですが、紛失しましてね。1枚の紙に書いてありまして、私の記憶では、第一に火の用心、第二に大酒するな、第三が自分の下女(使用人)に手を出すな、第四に主人は使用人の先頭に立って働け、とかいてありましたね。

―それは釜惣さん初代の制定ですか。

瀬戸

そこのところはよくわかりません。何とも書いてありませんでしたから、代々のうちに、つくり出されたものだと思います。

―お宅は、旧藩時代の資料をたくさんお持ちだそうで……。

瀬戸

武野先生のお調べでは、2千点あるそうですが、内容はよくわかりません。先生にこれから調べていただくわけで……。家系図は、代々、惣領(長男)だけしか見せてもらえませんでした。他の者が見ると目がつぶれる、そういう言い伝えがあったそうです。

―それはどういうわけで。

瀬戸

よくある、本家争いとか、そういったことをふせごうとした知恵だったんじゃないでしょうか。それから、子供は惣領と女子だけは育てる。ほかの男子は生まれるとすぐに、養育料をそえて里子に出して、他家のものとする、こういうしきたりもあったそうです。

―きびしいですね。それも本家を守るため……。

瀬戸

そうらしいですね。

―大賀並というのは、大へんな格式だったらしいですね。

瀬戸

どうも献上金のかわりということで、苗字帯刀もそういうことでしょう。代々藩の御用をおおせつかっていて、明治政府になって通貨の切替をしたとき、切り替えそこなった札が、長持いっぱいあったと聞いています。

―例の贋札事件で発行された札もあって、切り替えられなかったのではありませんか。

瀬戸

そうかもしれません。でも贋札にかかわっていたら、きびしい処分を受けていますから、被害を受けたほうでしょうね。

―御先祖観は……。

瀬戸

まあ、藩まるがかえの総合商社みたいなものだったと思うんです。藩の許可を得て物資の買占め、お金を貸して物をつくり、一手販売、商社と同じですね。基本戦略は2百年後の今もたいして変わらないのではないかと思っています。家系図の中に、大坂でなくなって、遺髪だけもってきた記録がありますが、これは藩にたのまれ、大坂で米を売るため、いわゆる米相場で行っていたのだと思います。

―藩にとっては、ずいぶん頼りになる商社だったのでしょうね。物産の取扱いというと、海運のほうはどうだったのですか。壱岐や対馬の物産とか……。

瀬戸

船は持っていませんでした。北崎の津上家、大坂の鴻池と秋田の回船問屋、この3つが3大回船問屋だったそうで、これらを利用したのでしょうね。

―御墓所は……。

瀬戸

住吉の妙円寺、住吉神社のそばですが、代々が夫婦単位の墓地になっています。

―貴重な古文書の解読が終わったら、またお話をお聞かせください。どうもありがとうございました。