No.27 博多のごりょんさん

対談:昭和58年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
伊勢屋 ゑり孝 安武 ハマ氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 副頭取 中脩 治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


博多のごりょんさん

きょうは、博多の老舗のひとつの半襟屋「ゑり孝」さんのごりょんさんに、“博多のごりょんさん”のお話をうかがいます。ゑり孝さんは新天町(天神2丁目)の一郭に店を構えておられますが、ずいぶん古くから続いておられるお店なんですね。

安武

私のところは、過去帳を見ますと、元禄8年(1695)の創業です。戦時中に過去帳だけはお寺さんに預かってもらっていましたので、たすかりましたが、他の物は全部焼いてしまいました。先祖の伊勢屋孫兵衛(いせやまごべい)が始めたので、屋号は「伊勢屋」。今も正式には「伊勢屋 ゑり孝」といいます。明治3年(1870)になって、どういういきさつだったか知りませんが、今の姓の「安武」をもらって、それから代々安武(やすたけ)孫兵衛を継いでいたようです。初めは旧電車通りの土居町の、今ちょうど福岡銀行のある辺りにあったらしいのですが、電車が通るにあたってここをたち退き、新道(しんみち)(寿通り)に移ったとおじいちゃんが言ってありました。戦争で全部を焼かれてしまって、戦後まもなく広告を見て、新天町に移って参りました。

お嫁さんに来られたのは…。

安武

昭和7年、19歳の時でした。私は福岡市立第一女学校を卒業しましたが、その頃はすぐに行儀見習いに、きちんとしたお家にあずけられるのです。私も卒業すると、今のベスト電器のところにあった井上内科医院にあずけられました。内科の先生の故・井上侃二(かんじ)さんが、ちょうどその頃ご病気で養生してありましたので、先生についておりました。お嫁の話は、フカヤの大大将が3日にあけずみえて、いかんか、いかんかとすすめられるものですから、根(こん)負けして今の家に嫁いで来たようなものです(笑)。

西島

フカヤの今の船木社長のおじいちゃんにあたる方ですね。

安武

だいたいフカヤさんとうちは縁続きになるのです。やったり、もらったりで、私の従姉もフカヤの大大将の弟さんの嫁にゆき、川端でおもちゃ屋をしておりました。博多はこう、たぐり寄せていけばひとつになるんですね。

「ごりょんさん、元気いしちゃーですな」

“ごりょんさん”というのは、商家の奥さんのことですね。なにか町家の情景が浮かぶいい響きがありますが、今は日常会話ではほとんど使われないですね、いつごろまで…。

安武

もう今は博多にいらっしゃいませんが、RKBに松隈さんという女の方がおらっしゃって、その方がいっつも私に対して“ごりょんさん”と言ってありました。今でもたまに東京からお墓参りなんかに帰って来られましたら、「ごりょんさん、元気いしちゃーですな」と言って寄られます。もうその方ぐらいですね。戦後は、もう日常では聞かれませんでしたね。戦前まだ寿通りにおります頃はよくきいていたように思います。

「うちのかみさん」という言い方のときにも使いますか。

安武

ええ、「うちのごりょんが…」という言い方をします。おとなの言葉ですから、子供は使いませんし、商家の奥さんにしか使いませんね。

嫁入りなさって、若奥さんと大奥さんがおられると、どちらがごりょんさんなんですか。

安武

だいたいおばあちゃんの方がごりょんさんなのですが、うちの場合は、おばあちゃんの方が奥さんのようでした。お客さんと接するのは私の方が多かったですからね。お客さんは、中洲の芸妓さんたちが多いものですから、私の方がお客さんよりいくら若くても「ねえさん」て呼ばれるか「ごりょんさん」でしたねえ。

季節、季節に物語

「松茸狩りは縞の着物に決まっていました」

博多のお正月は忙しかったのでしょう。

安武

やっぱり一年中でいちばん忙しいですね。それこそ、1時間ぐらいしか寝よらんやったですね、大みそかは。お店は大忙しで、お風呂を沸かしてちょっと横になったと思ったら、もう朝から雑煮の用意でしょ、大へんでした。

西島

お雑煮は…。

安武

やっぱり焼きアゴでだしをとります。具は全部串に刺して出します。鍋を4つも5つも並べてたくさん用意します。店の者は昔は皆住み込みでしたから。おじいちゃんから順序正しく座敷に並んで、「おめでとうございます」と、店の者みんなにお雑煮を出し、給仕が終わったら女中さんとふたりで最後に雑煮をいただきます。店の者は雑煮を食べ、それぞれにお年玉をもらってから里帰りです。

西島

その後は年始のお客さんなどもたくさんみえられるのでしょう。

安武

昔は年始のお客さんにまでお雑煮をお出ししておりました。4日には京都から卸し屋さんが見えられ、そのときにもふるまっておりました。

博多は「しめなわ」は焼きますか。

安武

ええ、15日にはずして焼きます。お鏡びらきは、うちでは10日にします。お餅のカビをゴシゴシ落としてぜんざいをつくり、店の者みんなにも食べさせます。昔はお正月に限らず、何かにつけ、おごちそうを作ったりして、行事が多かったでしょう、町内でおこもりやら…。

西島

おこもりは櫛田神社ですか。

安武

ええ、うちはお櫛田さまです。おこもりは春と秋と何回かしていたようですね。ただござをひいて、ごちそう持って行って食べるだけのことですけどね、子供にとってはとっても楽しみです。

西島

おこもりのいちばん盛大なのが「放生会(ほうじょうや)の幕出し」と考えていいでしょうね。

安武

そうですね。娘の頃は放生会に行くときは必ず“放生会ぎもん”といって新しい着物を毎年つくってもらっていました。それも縮緬(ちりめん)に決まっています。あの頃はまだ紙与(かみよ)呉服店がありましたからねえ。着物や七輪や鍋具をかかえて車力ひいていきよりましたね。幕をはって、鍋具を炊いて、娘は新しい着物に着替えたり…。里の父はああいうことがものすごく好きでした。季節の行事や、折目折目はきちっとやかましくいう父でした。

幕出しは、町ごとですか。

安武

町内で行くところもあれば、お店などで勝手勝手にするところもあります。ごちそうは堺重という組み立て式のお重箱に糸ごんにゃくなどの鍋具やら、大根のおなますなんかをつめて…。松原には幽霊屋敷やなんかのだしものがたくさん並んでいて、参道にはこんなに大きなチャンポンをかかえて歩く人がいたり…。たのしかったですね。でもこのごろの放生会は全然知りません。あんまり子供の頃いろんなことをしてきとうけん、バチのあたっとうとでしょう(笑)。本当に今は、放生会に限らず、ちっとも外に出まっせん。会合やら、何やらにも全く。女の集まりなんかにもはいりきりません。

“放生会ぎもん”というのは、ごりょんさんになられてからもですか。

安武

いえいえ、娘の頃だけです。嫁いでからは放生会にも行きまっせん、全然。もっとも嫁いできたのが昭和7年で次第に戦争で、幕出しそのものがぼちぼちなくなるころです。だから考えようによっては、私たちはよい時代に育っとうと思いますよ。私から言わせれば、今の若い人はかわいそうですね。私たちはどんたくがあれば必ずみんな出るし、放生会では行きと帰りで着物を替えたり、秋には松茸狩りとか、いろんなそういう経験が今の人にはないでしょう。

西島

松茸はどの辺りに。

安武

多々良川の上流、今、土井団地があるでしょう。あの辺にはたくさん松茸がありました。松茸狩りがまた縞の着物に決まっていました。山の中に入っていくのですから、縮緬のようなジョテジョテしたものは着られません。

西島

銘仙(めいせん)でしょうかね。仕事着のすこうしシャレたようなものなんでしょうね。

松茸狩りも町内の年中行事のひとつですか。

安武

いえ、里の父が家族を連れて行きよりましたが、10月ごろになるとまあ、町内で季節柄一般に連れていってあったようです。

「堪えちゃおらんです」

嫁がれる前の里の風習が、嫁に行ったら全く違うというような経験はありませんでしたか。

安武

うちはちょっとよそ様と事情が違っていましたからねえ…。うちのおばあちゃんが後添えということもあって、嫁に家事を教えたりすることはあんまりなくて、いっつも身ぎれいにしているひとでしたからね。それは寿通りあたりでは有名でしたよ。お*内裏(だいり)さまのごときれーにしちゃーと。93歳でなくならっしゃあまできれいかったですね。それだけ我がままを通さっしゃったですよ。これもこの人の持った徳だと思います。お茶とかお花、お琴などそういうことにはあらゆることをたしなんじゃったです。でもうちは、博多の商家の中でも躾や礼儀作法は厳しい方じゃなかったでしょうか。主人が夜更けて帰ってきても必ず「ただいま戻りました」とおじいちゃんにあいさつしよりました。おじいちゃんが、また先に寝らっしゃれんとです。時々2階からおじいちゃんがトントンと降りて来て、「まーだ帰って来とらんとな」と言わっしゃーので「あ、もう帰れまっしょうや」と…。

西島

言い訳もしてやらないかんのですね。

安武

あんまり遅いと、主人とふたり並べられて、おじいちゃんから朝方の5時ぐらいまで説教されよったです(笑)。

遊ぶのもごりょんさんの責任になるわけですね。

安武

でも、それがいいとか悪いとかいうのじゃなくて、その時にはそれで一生懸命だったように思います。今振り返って考えたら、それでどうこう思っていたふうでもなく…暢気にあったとでしょうね。年の若かったというか、そんなもんです。うちは、下が店で2階におじいちゃんがおられるわけですが、天井が少しほがしてあるのです。ふたをカポッとできるようになっていて、時々ひょっと上をみると、上からおじいちゃんがフタをあけて、見ござるんです。そこからは店が一目瞭然です。

お話を聞いていると、じっと堪えて生活してあったようですけれども、でも、何か堪えるという感じとはまた違うようにも聞きとれますが…。

安武

ええ、堪えちゃおらんです(笑)。嫁にいったらもうこの家の者になったっちゃけん、もう帰られんのやから、文句を言われんというか、疑問にも思わんのでしょうね。

よき時代の博多の趣味人

ご商売は初めは半襟だけでやってこられたのですか。

安武

主人の実母が大へん器用であったらしく、はじめの頃は母が注文を受けて、自分でしよったらしいのです。それらが形見に少し残っていますが、それはもう見事です。

半襟というのは全部刺しゅうですか。

安武

染めもあります。ところどころ刺しゅうしたり、全部が刺しゅうというのも勿論あります。

西島

大正時代のあの竹久夢二の絵なんかの女の半襟は、ものすごくこったデザインですもんね。お客さんはやはり芸妓さんとか、粋すじの方が多いわけでしょうが、デザインはどなたが…。

安武

それは主人がします。

西島

ご主人の安武九馬(きゅうま)さんは、川柳でも有名でご存じの方も多いと思いますが、川柳はいつごろから…。

安武

ええ、もう若い頃から大好きでした。今『川柳番傘』という同人雑誌の九州総局長をしておりまして、読売新聞には時事川柳を毎日、朝日新聞では日曜日に、選に当たっておるようです。毎日各地からたくさんの川柳をお寄せいただいています。中には特に熱心な方もいらして、沖縄から毎日、時には1日に何回も、書き送ってくださいます。

ご主人の川柳で、ごりょんさんのことを描いたものなんかはありませんか。

安武

さあ、私は主人のやることには昔から全く関知しまっせんので……(笑)。

博多の文化人として、ご主人はいろんな方とのおつき合いがあったのでしょうね。

安武

芸談会という集まりがありまして、その方面じゃいちばんだった、故・西頭(にしとう)三太郎さんやあの『うわさ』を創刊なさった故・寺田弘さん、博多人形名人の故・小島与一(よいち)さん、東宝九州興業の社長さんの中村巌(がん)さんなんかが一緒でした。

西島

いい時代の博多の趣味の人たちですね。

安武

与一さんと三太郎さんと寺田さんとうちの主人とはうまがあって、羽織の裏に即興の絵や川柳をなぐり書きでかいたりしていましたからね。

西島

その芸談会の流れが、博多を語る会になって、今の博多町人文化連盟につながっているわけですたいね。

うてあわん

新天町伊勢屋ゑり孝

安武

うちの主人なんかはものすごく我がままですから、もう我がままを言いござりようときは知らん顔しときます。のれんに腕押しですたい。絶対けんかにならん、私はうてあわんですもん。

「うてあわん」相手にしないのですね。変に理屈を言い出すとけんかになるんですね。

安武

理屈言いよったら絶対負けますもんね。負けるとわかっているからもう黙っている方がいい。「すんまっせん」と黙っています。だから50年間一ぺんも口答えしたことないですね。年をとって今はもう友だちみたいに話しますが、昔は主人は言葉遣いにはとりわけやかましかったんです。長幼の序を大切にしていましたから、子供が私に対して友だちみたいな言葉を使うと、ピシャーとたたかれよりました。何でたたかれよるか子供も私もポカンとしていると、「親に向こうて何という言葉づかいか!」と、そういう人でした。子供は、おとうさんからたたかれたことしか覚えとらんと言うくらいです。

そういう時はお母さんはやはりお子さんをかばうわけですか。

安武

いいえしません、知らん顔です。そうまでせんでも、と思うときもありましたが、その時には知らん顔。そうしないとききませんからね。今の親はお母さんが一生懸命子供を叱るでしょう。お父さんがたまにしかおらっしゃれんけんでしょうが、やっぱり男親がしっかりおごらないかんですね。

西島

博多の男は、祇園山笠となると、いてもたってもおられないんですが、ご主人もやはり山のぼせでしたか。

安武

そうですね、嫁いだ頃は大黒流れにかたりよらっしゃったですね。山笠の14、5日間はお店はほったらかしでみんな遊ばっしゃーですから。

その間ごりょんさんがお店をきりもりして…。

安武

きりもりしたというと、非常にいいように聞こえますが、そうでもないですね、している当人にしてみれば。普通のことです。朝から晩まで主人がちっとも出もせず一緒におったら、かえって息のつまりますもん(笑)。お互いに放っておいてもらうのもいいものです。昔は店が10時や11時頃終わりよりましたが、博多の男はそれから橋をひとつ越えて中洲の街をうろついてこな、寝られんとですたい。そうやってうろついて、午前2時頃になると足音が聞こえてきます。今日の足音は、あー寺田さんやねーと思っていると、必ずうちに寄んなさる。くぐり戸を開けると、「まーだ起きとんなざるな。ならお茶一杯もろーうて行こう」と、毎晩です。その頃まだうちの主人は帰って来とらんわけです(笑)。

商品にうずもれて

「私がこれば持っちゃあけん…」

戦時中は繊維は統制されましたから、半襟のご商売はどうだったのですか。

安武

主人は海軍に行っておりましたが、病気して除隊になって帰って来とりました。その間もずーと、売れるものからいろいろ売って商売は続けました。もんぺはいてリュックサックかついで、神戸や大阪やら京都やら仕入れに行きましたよ。あの頃の汽車は、必ず門司で乗り換えなければなりませんでしたから、大へんでした。あるとき、帰りがけに彫刻家の富永朝堂(ちょうどう)さんとたまたま同じ列車に乗り合わせたことがありました。朝堂さんが「私がこれば持っちゃあけん、あなた先に乗りなさい」と言うてくださり、ご一緒して帰ってきました。

西島

富永先生は彫刻してござるから、腕がものすごくたくましかったですからねえ。あまり大柄な方じゃありませんが、立派ないいからだしてありました。

商品の仕入れの交渉などは、ご主人が…。

安武

以前はずっと主人が仕入れよりましたが、戦争になってから後、たいてい私が行くようになりました。

西島

昔の商店街は店の2階がお宅になっていて住んでおられましたよね。

安武

ええ、住んでおりました。新天町に移るときも、主人が「俺たちのような小商売人は品物の中にうずまって寝らなつまらん」と言うものですから、一応住まれるように奥をつくってもらいましたが、ああいうつくりになったら、もう住まれまっせん。結局新天町には住まずじまいです。

博多言葉

ごりょんさん…商家の奥さん

元気いしちゃーですな…元気にしてありますか

幕出し… -昔、放生会のとき町家の人々が、箱崎の松原に幕を張って、飲んだり唄ったり、ごちそう食べたりして楽しんだ催し

はいりきりまっせん…はいることができません

ぼちぼち…そろそろ、だんだん

ほがしてある…あけてある

うてあわん…相手にしない

おらっしゃれんけん…おられないから

かたる…仲間にはいる

おごる…叱る

転びない…転びなさい

言いんしゃあ…言われる

聞かれなくなった、がっしゃい言葉

西島

お盆やお彼岸に、子供におはぎやお中元なんかを持たせるという風習がありませんでしたか。

安武

ええ、お彼岸にはご近所や親戚の近しいところに子供に小遣い銭をやって、おはぎを配りよりました。「おはぎは、まっすぐ持っていかなよ」と言って。

子供の頃からよそに行ったときの礼儀作法などを覚えさせるための生活の知恵なんでしょうかねえ。

西島

そういう意味もあったでしょう。親同士持って行ったらテレくさいという、博多人独特のテレもあって、子供におつかいさせたんじゃないかなあとも思います。

安武

11月のおくんちには甘酒を配りよりました。

西島

甘酒をお重箱に入れよりませんでしたか。

安武

そうなんです。あれをこぼさないように持っていくのは難しくって…。子供たちは「転ぶときは重箱ば置いてから転びないや」と言われよりました(笑)。

西島

私たちが子供の頃「なになにしがっしゃい」という言葉をよく聞きましたが、あのがっしゃい言葉は福岡弁ですか。

安武

ええ、福岡の武士言葉ですね。博多のことばじゃありません。うちの姉と妹が春吉の方におりましたので、やっぱりそのがっしゃい言葉を使っていました。きのうもうちの子供が「おばちゃんのあのがっしゃい言葉は、最近もう聞かれんねえ。あれは何とかして置いとかないかん」なんて言いよりました。

どういうふうな使い方をするのですか。

安武

「何しがっしゃーとね」つまり、何してあるのですかという意味。「お食べないや」「お飲みないや」なんていう言い方もあります。お食べなさい、お飲みなさいの福岡弁です。武士の言葉で、町人は使いません。

西島

ごりょんさんの言葉は、はぎれのいいきれいな博多弁ですね。

安武

言葉はもう変えれて言われても変えられんとですよ。孫は、おばあちゃんの言いんしゃーとわからんと時々言いますね。最近はもうどこの言葉も混ざって、そのうえ子供たちはテレビで東京の言葉を覚えるでしょう。

人間、勝手勝手

この日だけはごりょんさんの解放日、休息日というような日はないのですか。

安武

そうですねえ、昔は盆の16日と言いよりましたが…。

西島

何かおたのしみというか、お芝居見にとか、旅行とかは…。

安武

も、無芸大食です(笑)。何も習っていません。まあ、博多の者は、踊りや三味線は子供の頃から自然に習ってはいますが。お芝居は、おばあちゃんがよう行きござっしゃったです。お芝居に行かれる朝、私はせっせとお弁当をつくってさしあげます(笑)。旅行は、新天町が改装になるので1ヵ月間店を閉めるとき、アメリカに行きました。それも息子がアメリカにいましたから、ちょうど店も開けられないというので行っただけです。このごろになってやっと、お店も私の公休日を週に1回いただくようになり、休みには主人とよく美術館に散歩がてらに参ります。いつもふたり一緒ですから、美術館のお姉さん方にすっかり顔を覚えられて、「私たちも、そういう夫婦になれたらなあ」なんて言われました(笑)。主人は仏像が大好きで、仏像見にはいろんなところについてまわりました。仏像は奈良がいいですね。古ければ古い程いいと主人は言います。やっぱり江戸時代ぐらいになると、仏さまの顔にも慾の色の出とうとでしょうね(笑)。私はいつも主人についてまわっているだけです。主人が右に行けば黙って右についていきます。ああ、ここは左やなかったろうかと思っても、やっぱり右に行きます。正しいことなら、言わなくても後からわかってくるものです。男の人は外に出たら、7人の敵がおるというでしょう。男は、勝った敗けたとすぐに考えたがるものですから、家の中でも敗けたという感じをもたせるのはかわいそうです。

やさしさの年輪という感じですね。

安武

ある面では冷たいんでしょうかね、何もせず、黙ってみているというのは。何も達観してそうしているわけじゃないのです。嫁の家に行っても、私は何もしまっせん。お湯呑み一つかたづけません。人にはそれぞれの流れややり方があって、それを混ぜっかえすといけないでしょう。ああ、こうした方がよかろうにと思っても、そう思うのは私の勝手ですから、何も言いません。ちょっとお尋ねしますが、例えば今ご夫婦でお茶やら飲んでいるとして、目の前の家内が何考えとーとやろーかとわかりますか。私は相手の気持ちを全然のみこみきらんです。今だに主人が何を考えとうとかわかりません。真実というのは自分だけでしょう。お茶の、もう一杯のみたかろーやぐらいはわかりますが、後のことは何もわかりません。人間、勝手勝手やないですか、最後は。

西島

そうかもしれませんね。

控え目

西島

博多のごりょんさんとして、どういうことが大切だと思われますか。

安武

博多のもんとして、これこれを身につけないといけないなんてことじゃなく、やっぱりいつも控え目ということを考えとったらいいんじゃないかなあ、と私は思います。それ以外には何もないんじゃないでしょうか。主人は、人の話は聞き上手になれ、そして出しゃばらんこと、と言っていました。今こうしておしゃべりしよりますが、年とりましたからしよりますけども(笑)。

西島

今お話を聞いていまして、やっぱり博多の人間やなあ、と何となく嬉しうなりました。博多の者は、理屈をつけて話をしたりせんのですね。こうするのが博多の云々、山笠波高(はこう)あるべきで、こういう仕組みになっていて・・・なんて言いまっせんもんね。博多のごりょんさんはどうあるべきかなんて愚問でした。

理屈は言われなくても、言葉のはしはしから、控え目で、それでいて商売はしっかりきりもりする博多のごりょんさんの姿がほうふつとしてきました。今日は大へん興味深いお話、ありがとうございました。