No.28 栗山大膳&黒田忠之 双方安泰の不思議なお家騒動黒田騒動

対談:昭和58年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
作家 白石一郎氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


不思議なお家騒動

司会

先生の小説はたのしみに拝見しています。お話しいただく黒田騒動は、筑前52万石の殿様と一番家老との確執ですね。
三大お家騒動と言われるわりに地元の人もよく知らない。不思議なお家騒動ですね。

白石

そのとおりで、いわば珍騒動ですね。お家騒動というのは、普通きまったパターンがありましてね。
例えば、幼君や主君の弟君をそれぞれ別に擁してしのぎをけずるとか、悪家老が主君の側室と仲よくなり、結託して実は殿様の子じゃない自分の子を主君に押したてようとか。
ところが黒田騒動は、主役が筑前52万石の2代藩主である忠之(ただゆき)と、一番家老の栗山大膳(くりやまだいぜん)の2人だけ。お家騒動につきものの、女も子供もでてこない。しかも主家を存続させる役目の一番家老が主君を、謀叛のたくらみがあるとして、幕府に訴え出たという、珍しいケースなんですね。
それからもう1つ、これだけの騒動をおこしながら、1人も死罪者が出ていない。張本人の栗山大膳も、奥州の南部盛岡に配流(はいる)されますが、終身150人扶持をもらって、面目を保ちながら一生を安泰に終えているのです。
一方の忠之は、いったん筑前52万石を幕府に召し上げられましたが、父の長政の功により、特別に相ゆるすということで、即日そっくり52万石を新たにもらっているので、これも無傷ですね。
もう1人、忠之の腹心で奸臣(かんしん)とされた倉八十太夫、この人も高野山に追放されましたが、黒田藩から生涯の食い扶持をもらっており、後の島原の乱には馳(は)せつけて参陣しています。
だから、誰も犠牲者はいない。大山鳴動して鼠一匹という、まあおめでたい結末の騒動なんです。
保守派と進歩派の争いという感じもしますが、登場者が限られていて、個人の確執なんです。きわめて稀有(けう)な例の1つでしょうね。

松本

大膳は戦前は忠臣、戦後はいろいろの見方がでている。まあ資料も乏しいのでしょうね。

白石

黒田藩にとっては触れられたくないことでしたから、資料が伏せられてしまう。200年栗山姓はご法度(はっと)でした。さらに明治維新のさいに貴重な藩の資料を殆んど焼いてしまった。
裁断した幕閣も、多分に政治的結着だったのでしょう、克明な資料が残されていません。
でも森鷗外が『黒田大膳』を書き、江戸末期に河竹黙阿弥が『筑紫巷談浪白縫(ちくしこうだんなみしらぬい)』を芝居にしていますから、ずっと庶民の関心事だったことがわかります。だが伊達騒動の「先代萩(せんだいはぎ)」ほどポピュラーではない。どうも女子供の出番が少ないからでしょうね。

切っても切れない栗山家との縁

栗山大膳像
栗山備後像
黒田長政像
  • 福岡県朝倉郡杷木町 円清寺蔵
  • 円清寺は大膳利章の父、備後利安の建立による

松本

黒田騒動の概略とは……。

白石

そうですね、黒田藩は初代が長政、2代目が忠之ですが、この忠之が一番家老の栗山大膳を煙たがって、ふたりの仲がうまくゆかなくなります。
栗山家は大膳の父備後(びんご)のときから、黒田家にとっては切っても切れない家柄なんです。長政の父黒田如水が、裏切りにあって土牢に入れられていたとき、救い出した忠臣が備後で、忠之も栗山の家で生まれています。
長政から忠之の後見を頼まれている大膳は、忠之がお気に入りの倉八十太夫を重用して政治に不熱心、我意を通し武将としての心構えが不足、あれもこれも気に入らず諫言をするが聞きいれられない。このままでは黒田藩はとりつぶされてしまうと危倶して、所領の筑前上座郡左右良(までら)城から天領の日田に向かい、幕府の代官竹中采女正(うねめのしょう)重次に、忠之に謀叛の疑いありと直訴する。
そこで幕府老中の評定(ひょうじょう)となって、忠之はまつりごと不充分のかどで藩領召しあげ、ただし父長政の功に免じて新知として旧領をそのまま与える。大膳は主を訴えた罪により、奥州へ配流、倉八十太夫は高野山へ追放ということになるのです。

西島

どういう罪状で訴えたので。

白石

数十ヵ条あったそうで、中でも黒田藩の存亡にかかわるのは、忠之の謀叛と、大船建造の件だったのでしょう。
それも、将軍家光の弟で、陰謀を企てたとして切腹させられた駿河大納言(するがだいなごん)忠長にひそかに加担していたとかで、忠之には覚えのないことでした。
もっとも、幕府禁令の大船建造や足軽隊をふやしたり、浪人を召しかかえたりしたことはあったようですね。

西島

じゃ、忠之はまいった……。

白石

そうでしょうね。寛永9年(1632)12月に、忠之が被告として江戸に呼び出され、藩中も大騒動です。 ちょうど5ヵ月前に肥後の加藤家が取り潰されているので、いざというときは城を枕にと、藩士一同悲愴な決心もしたようです。 対決の前には、国元では国境を防備で固めたりしています。幕府軍と一戦の心構えだったのでしょう。
翌年3月まで続いた対決は、結果として黒田藩安泰となった。
それで、大膳は福島・加藤など外様(とざま)大名の取り潰しを見ていて、転ばぬ先の杖にと、忠之の行状を訴え、忠之を懲(こ)らしめることで気ままな側近政治を打ち破ろうとした……、と以来300年ほどこう解釈されてきたのですね。

大忠臣か大逆臣か

白石一郎氏

松本

騒動の根は、もっと深いところにあったのではないですか。

白石

そうですね。どうも私は、いちばんの原因は、長政が我が子ながら忠之を嫌ったことにあると思うのです。
父の如水も傑物でしたから、長政もあれだけになったのでしょうが、戦国の雄(ゆう)の長政の目から忠之の挙動を見ると、心もとなくて仕方がない。
長政も夫人も、次男長興(ながおき)に譲った方が安心と考えていたようです。長興は、後に5万石をもらって分家し、秋月藩をひらいた人です。それで2回も3回も廃嫡(はいちゃく)しようとするんです。
大坂夏の陣の翌年の元和2年(1616)、長政は江戸から目付役を2人さし向けて、忠之に3つの条件を示すのです。
第1は2千石の田地を与えるから百姓になる。第2が1万貫の銀子を与えるから商人になる。第3が千石の寺領を与えるから僧侶になる。この3つのうち1つを選べというのです。

西島

ずい分厳しい親父ですね。

白石

おもしろいことに、その時忠之の傅(も)り役が大膳なんです。当時忠之が15歳、大膳は12歳年上で27歳、充分1人前の年齢ですね。 これは、武将として絶対に承諾できないと、忠之に切腹願いを出させるんです。
そのうえで、大組という600石以上の上士の嫡子たち90人を博多湾の小島に呼び集め、皆で長政に、「何とか若殿に反省の機を与えていただきたい。自分たちも若殿さまのためにつとめますが、この願いが許可されないなら、全員切腹して若殿にお供いたします」と嘆願するのです。
大組の嫡男が全員切腹してしまえば、黒田藩は成り立たない。長政は、「これは大膳の考えに違いない。仕方がない」と、廃嫡をとりやめるんですね。
その6年後にも同じようなことがあったのですが、このときも大膳たちが阻止しているんですね。

西島

お家の存続にかける真剣さでもあったんでしょうね。

白石

こういうことも伝えられています。忠之が幼少の頃、川泳ぎをしているとき、長政は大膳に、いい機会だから忠之の足を引っばって沈めろと言ったが、大膳は断ったという話です。まあ、よくよく信用していなかったんでしょうね。
父子相克は、戦国時代には、どこにも例がある話です。例えば武田信玄は、父の信虎と不仲になって、信虎を駿河に追放してしまうでしょう。家を保つためには、嫡子相続が鉄則ですから、大膳は防波堤になって、忠之のために真剣に頑張るんですよ。

西島

ところがその大膳と忠之が喧嘩を始める。きっかけは何からですか。

白石

忠之も長政存命の間はおとなしくしていたのですが、長政が死んでからおかしくなる。頭のつっかえがなくなって側近を重用しだすのです。

西島

それで栗山大膳がうっとうしくなるんですね。

白石

大膳は個性が強い人物だし、また忠之に懸念していた長政の気持ちも知っていましたから、説教ばかりするんです。
それがまた高飛車で、22歳の忠之に、侍は早起きしなければいけない、家来を打擲(ちょうちゃく)してはいけない、来客には楽しそうに最後までふるまえ、こういったことを次から次に言うのです。

松本

若殿がだんだんうっとうしくなるのもわかりますね。

白石

それから大膳は、非常に学問があって、衒学(げんがく)癖といいますか、漢籍を引用して説教するわけです。
例えば、「※大学によれば、こういうことを言うております。だから朝寝をしてはなりません」なんて、いつも上になんかがくっつくんです。忠之は学問がきらいでコンプレックスがありますから、たまらなかったでしょうね。

※大学(修身・斉家(せいか)・治国・平天下等を説いた儒教の経書)

松本

今もよくあるパターンですね。

白石

そうなんですよ。戦前は、大膳忠臣説ばかりでしたが、戦後は逆臣説も出てきましてね。いずれにもいまだに決まっていない。
あの外様(とざま)とりつぶし政策の時点で幕府に訴えて、黒田藩が取り潰されないという保証は何もない。たまたま結果として安泰だったから忠臣ということになっているが、潰されていたら大逆臣ではないだろうかと。
忠之は粗暴だったけれども、伝えられるほどに悪かったわけではないと思う。じゃあ、いったい何だったかというと、やはり個人的な確執がエスカレートしていったのではないか、私は、大膳という人は端的に言えば、乱世の梟雄(きょうゆう)だったと思うんですよ。

経済官僚 倉八十太夫

西島伊三雄氏
松本 攻

松本

大膳のプロフィールを少し……。

白石

大膳の一面を伝える話がありましてね。南部盛岡に配流されたとき、代官の井上某が大膳を訪ねています。
その時、大膳の態度が横柄(おうへい)だったので、「それがしは、徳川家の直参、貴殿は配流の身、なんで横柄な態度をとるのか」と大膳にただすのです。
すると大膳は、「貴殿はたかだかいって何千石だが、それがしは2万石で、数千人の武士を駆使する身分である。貴殿とは違う」と言うんですね。
井上某はすっかり感心して、大膳に「今この泰平の世に武士として心がけるべきことは何であろうか」と聞くわけです。 その問答が、まず唐土(もろこし)であれば帝王になることを考えるべきだが、日本では帝(みかど)がおられるので、関白になることを考えろ。この心がけが大事だというんです。やっぱり普通じゃない、梟雄の面影を持っていますね。

西島

倉八十太夫は。

白石

彼は、わずか200石の鉄砲頭の息子だったのですが、忠之に気に入られ、多少大膳への面(つら)あてもあって、みるみるうちに9千石の大身に重用されます。
大膳は誇りも人一倍の人ですから、忠之が自分を遠ざけて、軽輩を重用するのが我慢ならなかったでしょう。

西島

たしか家宝の兜をかかげて忠之を諫めた……とか。

白石

そういう講談話的になっていますが、実録としておもしろい話があります。大膳の父備後が如水から拝領した合子(ごうし)の兜と唐皮威(からかわおどし)の鎧(よろい)ですね。
忠之が、黒田家伝来の家宝だから返せという。それで、大膳が返上しますと、それを十太夫にやってしまう。大膳への面(つら)あてですね。そこで大膳は怒って、倉八の屋敷へ行きこの兜は汝等風情(ふぜい)の持つべきものではないと言って取りあげて、藩の蔵に納めるのです。
倉八は辟易(へきえき)して、自分の髷(まげ)を切ってしまう。陳謝の意を表したのです。倉八は大膳に逆らわないよう、せっせとつとめていたのですね。
十太夫も大膳に敵視される場におかれたことが不運でしたね。
大膳は十太夫を指弾して、お前は、大坂の米相場をしらべて商人と利益を争い、運上(うんじょう)(税金)をまして苛政(かせい)を専(もっぱ)らにし、城下を衰微させたと、十太夫を強く非難しているんです。
今風に考えると、倉八十太夫は藩財政を考えて、当時としては適切な経済政策を実行した、優秀な官僚ではなかったか。むしろ大膳の方がコチコチの守旧派で、藩の経済がわからなかったのではないかとも解釈できますね。

松本

戦国乱世から、泰平の時代へ、当然生じる対決だったのですね。

白石

それにもう1つ付け加えれば、2代目の主君が権力確立のためには大膳のような一門に近い力を持ちすぎる存在を排除していく時代だった。
平凡な家老ならスムーズにいったものが、大膳が硬骨の男だけにギクシャクして、とうとう行きつくところまでいってしまった。時代の流れでやむをえなかったのかもしれませんね。

松本

お家騒動では、経済官僚や新しい流れの方はすべて悪役ですよね。

白石

能力があるからのしあがる。たいがいの家臣が生涯同じ扶持、同じ身分で終わってしまう。身分制度が社会存続の条件であるところへ、それを壊す存在が出る。上にも横にも下にも、目の上のタンコブになる。特に門閥との闘いになる。パターンは同じで、きまって悪役になるんですね。

司会

しかし、一般大衆が守旧派を支持していたのは不思議ですね。

白石

やはり情報不足で、新進官僚が奸臣、保守派が忠臣と伝えられ、忠義にワーッと拍手したんでしょうね。対岸の火事のように無責任な拍手もあったんでしょうね。

長政と後藤又兵衛 忠之と大膳

松本

長政は大膳を非常に信用していたんでしょうね。

白石

いや、それがおもしろい。長政は大膳について、「かの者は、使用する主人のいかんによりて、善悪の変化(へんげ)を成すべきものなり」と、つまり使う主君によっては、善悪いずれにも変わると言っているんですね。
大膳の父、栗山備後が、黒田如水にぴったりついてた創業の功臣で、一番家老ですね。播州(ばんしゅう)時代から母里太兵衛等と一緒でした。しかも非常に温厚で、長者の風のあった人で、その点は大膳と違っていました。

松本

長政は、兄弟同様に育った後藤又兵衛を追放するでしょう。忠之も、大膳を結果として追放する。因果がめぐるような、黒田の家風でもあったのでしょうか。

白石

家風というより、当時の意地を通しあった気風によるのでしょう。
又兵衛に懲りた長政は、息子と大膳がそういう仲になるとは考えてもみなかったでしょう。忠之のことは大膳に任せておけば大丈夫と、そう思っていたと思います。
こういう記録もあります。長政の弔(とむら)いのとき、枢(ひつぎ)の前を大膳、後ろを忠之が抱えて運んだというのですね。大膳の行動は彼なりに、長政の負託に応えたことなのかもしれません。

西島

後藤又兵衛がでてきましたね。

白石

又兵衛は、豪傑で他藩にも勇名がきこえている名士です。又兵衛と長政の関係が、また屈折している。
如水が兄弟同然に育てたでしょう。だから又兵衛の方に家臣意識がないんですよ。しかも年長で、面倒をみてやってきた関係ですね。忠之と大膳の関係にちょっと似てますね。又兵衛には「なんだ、小わっぱ」という意識がいつもあるんですよ。
長政の方は、又兵衛が他藩に名を売りすぎる、他藩の大名と文通したりすると言って嫌うんです。戦国時代の武士には皆それがあるんですね。
関ヶ原の戦いの前哨戦で、又兵衛が川を渡って討ち入り、名乗りをあげるわけですが、「黒田長政の家来、後藤又兵衛なり」と言うべきところを、「我は後藤又兵衛なり」とやったんですね。それがけしからんとかで、だんだん喧嘩になったのです。
そういうことがエスカレートしてきて、あれだけの豪傑の又兵衛が、飯が食えんようになって、胃潰瘍になるんですね。いかに憂欝だったか、ということですね。
これは大膳も同じで、寛永9年の頃、自領の上座郡左右良(までら)城に50日程隠退したとき、ノイローゼ気味になって、忠之から毒殺されると思い込む。
このままでは一族滅亡だし、黒田藩も滅びてしまう、と悩み抜いて左右長城で家来を集め、汚名を一身に被って幕府に訴え、主家を救うと言うんです。50人の家来をつれて、日田の代官に訴状を出すわけですね。

大膳のカケ

大膳のカケ

松本

たいへんなカケですが、成算があったのでしょうかね。

白石

成算と言いますか、ひとつだけカギがあるんですね。それは関ヶ原の戦で家康が長政に与えた感状です。長政の功を謝して、子々孫々まで疎略にしないと書いてある。
長政は死ぬときに、この感状を大膳と家老の小河内蔵允(おごうくらのじょう)に見せる、「よくよくの場合に使え。忠之には教えるな、これを盾に驕(おご)りが生じてはこまる」と申し残しているんです。大膳が、主家を訴えても大丈夫だと考えていたのはこの感状があったからだろうと言われています。

西島

その切札は役立ったのですか。

白石

結局感状は使わずに済んだわけです。大膳忠臣説はここから出ています。感状があったからやったんだということですね。

西島

神君、家康公は絶対ですから、その感状を出されたら裁いている幕閣が困るという……。

白石

ええ、それもあったでしょうが、私はこの場合、ちょっと黒田藩を潰すことはできなかったと思うのですね。
家康が天下をとった関ヶ原の戦の最大の功労者は、長政ですよ。長政は、豊臣恩顧の大名、加藤清正福島正則たちを、全部根回しして東軍につけたのです。それで、家康は西軍の石田三成を破り天下をとれた。長政は本当に恩人なんです。
この騒動の半年ほど前に、寛永9年(1632)に肥後の加藤家が取り潰されています。こちらは清正の子広忠の代ですね。その取り潰しの理由が滅茶苦茶なんです。
広忠の息子の光正、ちょっと軽薄な人物で、前田五郎八という気の弱い小姓(こしょう)をおどろかせては楽しんでいた。ある時「駿河大納言忠直公から誘われて謀叛する、老中土井利勝も加担、旗上げの折には、五郎八を一方の大将にする、覚悟しておけ」と言うのです。
五郎八は、こわくなって訴え出る。冗談なんですが、それがもとで清正の名家が取り潰されてしまうんです。
こんなことで取り潰されるのですから、一番家老が主君の謀叛を訴えれば、すぐに潰されたでしょう。
大膳の成算まではわかりませんが、そこら辺の危うさを考えると、単純に忠臣だったと言ってしまうこともできない気がします。

謀叛の証拠がない

松本

黒田騒動の山場は評定所ですね。どんなふうだったのですか。

白石

まず大膳が訴えでた日田代官、つまり幕府の九州の総目付の竹中妥女正(うねめのしょう)は、有名な竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の甥のようですが、ここらにも大膳の遠謀があったかもしれません。
長政が少年時代、信長の人質になっていた。その頃、父の如水が裏切ったと誤解されて信長が長政を殺せと命じました。それを秀吉の謀臣だった竹中半兵衛がひそかに救けるのです。竹中氏は黒田藩を恩にきているから、主家を悪くは扱わないという配慮があったかもしれませんね。
忠之が家臣たちに大膳の屋敷へ討ち入らせるという風評もありましたが、代官に訴えたとなると天下の公事(くじ)となるので、もう忠之は大膳に手を出せなくなります。そうして、大膳は家来たちをひきつれて筑前を退散する。その前には夫人や次男を他家に預けたりとかなんとかゴタゴタしています。
いよいよ、幕府の評定所で、忠之、大膳の対決になるところですが、忠之が応じない。忠之は、老中の土井利勝や酒井忠勝に対して、君臣の対決というのは古今未だ聞かざるところ、それを強要されるなら切腹させてくれというんですね。
老中たちも、さすが長政の息子と感心してしまう。なるほどということで、結局、忠之の代理として黒田美作(くろだみまさか)、それから小河内蔵允と対決することになるのですが、大膳の雄弁、能弁に2人ともやりこめられてしまうんです。
しかし、謀叛の申し立てをしていながら、肝心の謀叛の証拠がぜんぜんない。禁令の大船建造は、幕府から咎(とが)めを受けて、大膳自身が弁明にあたっています。足軽を幕府に無断で200人採用したと、これぐらいでは謀叛になりません。そこで、これはおかしいと老中達も思うわけですね。大膳ひとりを呼び出して、真意を聞いたということになってるんですね。
大膳は「主人の性格では筑前一国がいずれ滅亡する。それなら、自分が悪者になって訴えて出れば、忠之所領のいくらかは安堵(あんど)してもらえるだろう。藩の取り潰しはわが本意ではない」と言って、落涙したというんです。
老中たちも「さすがは長政の家臣よ」と感心して、大膳は切腹にもならず、150人扶持を生涯与えられたというわけです。

司会

対決に出た両家老も、もとは大膳と昵懇(じっこん)だったのでしょう。山本周五郎さんの『樅(もみ)の木は残った』ではありませんが、両家老とも、大膳の真意は判っていた、同腹だったということはありませんか。

白石

それも、考えられないことはありませんが、後半の大膳の行動にはちょっとついていけなかったでしょう。
だから訴状の件では、第一家老ともあろうものがと立腹したでしょうね。それに、大膳は騒動になってから所領にこもりっきりで、あまり他の家老たちとの交流もなかったのではないでしょうか。
どうも、私はこの騒動で、大膳のヨミがいったいどこらへんにあったのか、というのがよく判らないんですよ。

松本

大膳がだんだんとらえにくくなってしまう。ところで、いわゆる大膳派というのはなかったんですか。

白石

なかったようです。徒党を組んでやろうという気をまるで見せていない。あくまでも自分と忠之の勝負だという感じですね。

松本

君主と家臣というのはもう厳然たるもので、それを訴えたということに対して制裁がなくて、それですんだというのは、たしかに不思議なことだったんでしょうね。

白石

そこで考えられるのは、大膳は各藩の家老に非常に信望があり、つきあいが深かったんですね。藩の一番家老で、天下の名士ですし、功業の名家としても知られている。
当時の上層社会のシンパをしっかり摑んでいたと思いますね。例えば、林羅山は当時の文部大臣と東大総長にあたる人ですが、大膳の先生で、常に文通しています。
ここらへんの世論支持も大きな力ではなかったでしょうか。そうでないと、これは暴挙で、いくら個性の強い大膳でもどうかと思いますね。

松本

だのに、藩の中の有力者の支持がなかったということは、客観性がなかったということでしょうか。

白石

大膳という人の、忠義心というか、黒田家のためにという気持ちは切々とわかるんですよね。ただ、その表れが多分に独断的だったんでしょうね。「お前もうええ加減にしとけ」というところがあったと思うんです。

西島
倉八十太夫は結局脇役ですね。評定のときの大膳は何歳ですか。

白石

評定の場に十太夫は出頭できない。そのときの大膳は49歳、忠之37歳ですか。

松本

対決に、将軍家光の意向というようなことは……。

白石

いや、まだ家光は3代将軍になったばかりの頃ですから、裁いたのは老中の土井利勝と酒井忠勝井伊直孝の3人ですね。忠勝がかなりの年齢ですが、利勝も直孝もまだ若い。

松本

老中たちが大膳の剛毅さに好意をもったということは。

白石

ちょっと前までは戦国時代ですから、武士らしい朴訥な人柄が尊重された。だから連中の心中に、大膳を初めから何とか救ってやろうという気持ちがあったでしょうね。
でも、土井利勝は非常に冷悧(れいり)な人ですから、政治的な判断の方がはるかに大きく、外様大名全体に対する配慮があったからだという気がしますね。

松本

外様取り潰しで、幕府の権威を示すのは福島、加藤で充分。幕府の評判も悪くなっているので、今度は大目にということもあったでしょう。

白石

大膳の人脈の強さと両方相まって……。おそらく老中たちの家老たちも大膳の知り合いだったと思いますし。

松本

忠之という若殿がもう少し賢明だったらよかったのでしょうね。

白石

まあそうですが、しかし、当時の2代目としては、まあ並クラスでしょうね。彼が登用した倉八十太夫にしても一応の能吏だというところで、大した切れ者ではない。だから、倉八十太夫も大膳から標的にされて気の毒な役割だと思うんです。
忠之に女を世話したとか、粗暴なふるまいをすすめたとか、奇行をすすめたとか、そんな証拠は何もないですからね。

定説なしの大膳

西島

まあ、めでたし、めでたしで終わって、関係者一同ほっとしたでしょうね。

松本

この騒動は、領民や博多町民にどんな影響を与えましたか。

白石

ほとんど影響ないですね。殿様と家老だけの喧嘩で、平穏な結末でしたから。

西島

で、黒田騒動余聞といいますか、このことについてのエピソードは……。

白石

そうですね。さっき言いました家康の感状。あれは出さなくてもよかったのですが、それが行方不明になっていて、ずっと後になって出て来るんですよ。
大膳脱藩のとき、黒田家にはなくてはならぬものだからと、確かな誰かに預けて出ている。そこらのケジメはちゃんとつけているのですね。
それから、黒田騒動が明治維新にまで尾を引いたという説がありますね。幕府一辺倒の姿勢となって、東照宮を荒戸につくったりしているでしょう。幕府に借りができて、討幕に踏み切れず、因循(いんじゅん)だったというんですね。

松本

おもしろい見方ですね。

白石

まあ大膳をみるのは、いろいろの角度があって、固定できない。傑出の人材に違いないが、五52万石の第一家老としては、もしかしたらミスキャストだったかもしれない。主君が年長の尊敬できる器量人だったら、大膳は名家老を全うしたでしょうね。
勉強家で、当時一流の教養人だし、気宇もひいでていて責任感も旺盛でしたから。コンビの悪さがお互いの不幸でしたね。あまり深読みしてはいけない。だから珍騒動で、まだ私には黒田騒動を小説にできないのですよ。
仙台藩の伊達(だて)騒動にしても、極(きわ)めつきの悪主人だった原田甲斐を、山本周五郎さんが『樅の木は残った』で、主家を守った大忠臣にしてしまったでしょう。あれぐらいの大作家に書かれると評価がゴロッと変わる。騒動の主人公にも運、不運がありますね(笑)。

西島

ますます判らなくなる(笑)。

白石

そうなんです。どうもこの年になりますとね、善悪の判断というものが、なかなかつけられなくなってくる。自分の知らないウラがあるんじゃないかと考えたりしましてね。
だから、善悪を若いときのようにすっぱりときめられると、気が楽でしょうね。公憤といったことも同じことで、奥が見えてくる年齢というのもお互いに辛いですね。

司会
じゃ、結局、深読みじゃありませんか。

白石

あっ、そういうことになりますね。(笑)。

白石一郎氏

昭和6年韓国釜山に生まれ早稲田政経卒。32年『雑兵』第10回講談倶楽部賞、45年「孤島の騎士』、49年『火炎城』、50年『一炊の夢』、51年『幻島記』、55年『サムライの海』、57年『島原大変』それぞれ直木賞候補。
主著『鷹の羽の島』『天翔ける女』『オランダの星』『銭の城』。58年秋第8回福岡市文化賞、昭和60年度直木賞受賞。