No.29 鎖国令に散った幻の博多商人 伊藤小左衛門

対談:昭和59年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡大学教授 武野 要子氏
郷土史研究家 白水 康三氏
聞き手:
福岡シティ銀行会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


謎につつまれたプロフィール

年譜

松本

先年、イスタンブールでバザールをのぞいてきましたが、17世紀中頃と思われる薩摩焼の立派なものが、多く見られたのには驚きました。島津藩が輸出していたんでしょうか。

武野

密輸かもしれませんね。島津藩は典型的な貿易立国です。博多も立地条件としては薩摩とよく似ているのですが、黒田氏以前は領主が次々に変わって、なかなか1人の領主に落ちつかなかったところが違う点ですね。

松本

九州で幕府の天領は、長崎と日田でしょう。博多をよく天領にしなかったものですね。

武野

一時、豊臣秀吉の時に天領になりかけましたが、長続きしませんでした。博多は日本で1番古い商業都市ですが、秀吉時代は、博多商人が地域の商人から天下の商人へと育った、1つの転換期と言えると思います。

松本

先生には、第1巻で、その秀吉時代の博多の※豪商三傑と、幕末の豪商※釜屋惣右衛門(かまやそううえもん)についてうかがいました。
今日は、その中間の〝悲劇の豪商″として知られる伊藤小左衛門(いとうこざえもん)を中心に、鎖国前後の博多、長崎に及ぶお話をうかがいたいと思います。

武野

伊藤小左衛門には小さなエピソードはいくつかあるんですが、実体をしめす資料が少ないんです。少ない資料をふくらませて、いろいろと語られているというのが実情でしょう。
主な資料というと、長崎奉行所の犯科帳や、外国人宣教師が日本のことについて書いた記録などです。
それらをつなぎあわせて、かいつまんでお話ししますと、小左衛門は博多の生まれではなかったようで、出生についても諸説があります。粕屋郡青柳村(古賀町)の出であるとか、鞍手郡木屋瀬(北九州市植木)や、遠くは尾張名古屋説まであります。
2代目小左衛門が、鎖国令に反して、朝鮮への武器密輸事件をおこし、一家断絶、結局2代しか続いていません。
本拠を博多浜口町に置き、長崎にも出店しています。一説によれば壱岐や木屋瀬にも出店していたんじゃないかと言われていますが、はっきりしません。
また経営内容も非常に漠然としています。当時の博多商人の営業は、海外貿易と貿易商人への貨幣の融通が主体でしたから、小左衛門も同様のことをやっていたでしょう。オランダ商館やポルトガル商人とも取り引きがあったと思うのですが、不思議なことに、それらの外国人は、小左衛門に関して、あまり多くを語っていません。
ただ、オランダ商館員が「小左衛門は毎年銀10貫を消費できる身分で、通詞や乙名(おとな)(長崎町役人のこと)の話では、銀7千貫以上の資産を持つ豪商である」(『オランダ商館の日記』)と言っています。そういう巷(ちまた)の噂にのぼるような大商人であったことは確実ですね。
当時、だいたい銀千貫ぐらいを金持ちといったようですから、7千貫となると、たいへんな豪商です。噂話はこのほかにもいろいろあったようで、長崎の五島町の支店の天井は総ガラス張りで金魚を泳がせていたとか、外出には駕籠を使っていたので、小左衛門の顔を見知っている者はいなかったとか…。

  • ※豪商三傑-島井宗室(しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗伯(おおがそうはく)の3人。本シリーズNo.4「博多の豪商」参照。
  • ※釜屋惣右衛門(かまやそううえもん)-本シリーズNo.26「釜屋惣右衛門」参照。)

生糸、抛銀(なげがね)、鉄で財を築いた

伊藤小左衛門の博多人形
(妙楽寺蔵)

松本

その全盛期というと……。

武野

小左衛門の株が福博商人の中で浮上したのは、寛永期(1624-1643)以降、少なくとも、正保4年(1647)の長崎黒船来航事件の後のことでしょう。
というのも、寛永の博多糸割符(はかたいとわっぷ)には小左衛門の名前は見あたりませんが、承応期(1652-1654)の糸割符では、最高の割付けを獲得しています。
博多糸割符は博多商人の勢力の分布を象徴しているといえるものです。糸割符というのは、生糸貿易の権利のことです。博多は伝統的に貿易港でしたから、糸を売買する商人は非常にたくさんいました。そこへ鎖国令がしかれて、寛永12年(1635)に海外渡航が禁じられる。明船来航も長崎に限定されましたが、そうなると生糸貿易量が限られ、活気ある商人は密貿易にはしりかねない。
それを先取り防止する形で、最初から糸の貿易の権利を分けて与えておこうというのが、博多糸割符なんです。だからその権利は、相当の力のある商人でないととれないわけです。

松本

当時の博多商人の中で、小左衛門はどのくらいのランクなのでしょう。

武野

トップクラスですが、長崎代官にもなっている末次平蔵(すえつぐへいぞう)の方が上です。3代目末次平蔵が小左衛門と、だいたい同時期に活躍していますが、末次がまず1番の博多商人、小左衛門がその次くらいと考えていいんじゃないでしょうか。
小左衛門が朝鮮への武器密輸で磔(はりつけ)に処せられた後、末次も、御禁制の外国商への金融で処罰されて没落してしまいます。

松本

小左衛門は、海外貿易が主だったのですか。

武野

ええ。しかし内国貿易に力をそそいでいました。
海外貿易は2つに分かれます。1つは物品取り引き、もう1つは貿易商人に対する融資、これは抛銀(なげがね)で、博多三傑の島井家などが有名で、小左衛門も抛銀をやっていました。抛銀は投銀とも書きますが、1種の成功報酬で、利率は最高13割にもなったといいます。
危険承知の投資で、豪胆な連中でないとできなかったでしょうね。貿易の内容については詳(つまび)らかにはわかりませんが、生糸を購入していたことは確かです。生糸は当時最大の輸入品ですから。

松本

生糸は中国からですね。みかえりに銀ですか。

武野

そうです。日本は当時銀産国として知られていました。神屋家が石見銀山(いわみぎんざん)を発見し、銀の採掘に成功したのですね。石見に限らず、当時の日本は豊富に銀を産出して外国へ放出していました。途中からそれが海産物や銅に替わり、住友の別子銅山などが出てくるわけです。

松本

住友、三井などが出てくるのは、その後ですか。

武野

小左衛門や末次平蔵らが17世紀の60-70年代に没落して、その後三井、住友、鴻之池など、いわゆる問屋商人が出てくるのです。小左衛門や平蔵は、ちょうど商人の新旧交替の時期に、華々しく散っていったという感じです。

松本

内国貿易は、主に何を扱っていたのですか。

武野

鉄の売買です。出雲や安芸などの諸国と鉄の一手販売の契約を結んでいました。
一手販売というのは、ヨーロッパでも見られ、商人が資本を急速に蓄積する契機になる商法です。黒田藩との間で鉄の流通を操作したのが小左衛門です。

松本

鉄はやはり武器でしょうか。

武野

ええ。小左衛門が※闕所(けっしょ)になる理由が武器の密輸ですから、その辺なんとなくクサイですね。でも武器の他に藩内で使用する鍋、釜、農具類、芦屋釜などの原料としての鉄ですね。近辺には鉄も銅も銀も鉱産物はほとんどありませんから、当時は小左衛門が一手に引き受けて購入し、藩に斡旋していたのではないでしょうか。

  • ※闕所(けっしょ)-江戸時代の刑罰。死罪・遠島・追放などの付加刑として、地所や財産を没収すること。

黒田藩の危機を救う

武野要子 氏

松本

初代小左衛門は、神屋家や島井家とは関係ないのですか。

武野

島井家、神屋家は、かなり性格が違いますが、何といっても最大の特徴は、秀吉との関係が強いという点です。大賀家や小左衛門は、秀吉との関係がありません。黒田藩の領内商人です。ですから黒田の時代になると、秀吉派の商人は、床の間の置き物みたいになって実力を失ってしまいます。特に神屋家はそうです。

松本

日田資本の広瀬家とは交流はなかったのですか。

武野

日田銀(がね)が勃興してくるのが、寛文・延宝期(1661-1680)頃。ちょうど2代目小左衛門が密輸発覚で磔になった頃ですから、交流があったと考えてもおかしくはありません。
当時の日田銀は、三井銀、長崎銀と並んで全国的な金融資本だったようですからね。

松本

小左衛門は領内商人として、黒田藩には近い関係を結んだのでしょうが、殿様は何代目ですか。

武野

伊藤家と黒田藩の関係は、2代目小左衛門と黒田3代藩主光之のとき、非常に親密になっています。
当時長崎警備を黒田と鍋島の2藩が、1年交替で命じられていましたが、ちょうど黒田の当番のとき、黒船騒動がおこります。これが藩と小左衛門を結びつけるきっかけなんですね。
正保4年(1647)にポルトガル船来航の際、長崎警備を命じられていた忠之を、大賀宗伯と小左衛門が助けるんです。その功に対し、藩から50人扶持という破格の待遇をもらいます。大賀はその50人扶持を最後まで持ち続けるわけです。

松本攻

松本

藩を助けたと申しますと……。

武野

ポルトガル船が長崎に貿易を求めて来るというので、幕府から鍋島藩と黒田藩が長崎警備を命じられるのです。異国船の追い返しができない場合は焼き打ちしなければならない。そのため大量の藁束(わらたば)が必要となりました。
鍋島藩は佐賀から簡単に集めましたが、黒田藩は長崎でなんとか調達しないといけない。そこで小左衛門は大賀家と相談して、古い農家を買い取って、藁を差し出したのです。
忠之は、藁が集まらなかったら自害しようと、陣羽織の中に火薬をしのばせていたそうで、殿様の命を救ったことになるのです。忠之が、長崎警備に何故懸命だったかというと、寛永9年(1632)に例の黒田騒動があったからですね。家老の栗山大膳が幕府に忠之を謀叛の疑いありと訴え出ますが、幕府の思わくもあって、忠之は紙一重のところでたすかりますね。
それだけに長崎警備を見事に果たして、幕府の点数を稼ぐ必要があったのですね。忠之以下、藩一同が命をはっての藁集めですから、小左衛門たちのサービスが身にしみて嬉しかったのでしょうね。

松本

藁で焼き打ちとは……。

武野

藁を船に投げこんで石火矢で焼いてしまおうということで、今考えるとおかしいような気がしますが、当時は本気で考えていたんですね。

松本

鎖国令が出るまでは、小左衛門もゆうゆうと貿易をやっていたわけですね。

武野

そうです。最後の鎖国令が寛永16年(1639)に出ますが、そうなると海外貿易をやるわけにはいかない。だから自然に密貿易ということになってしまったと思います。
鎖国後もわりと悠然と密貿易をやっていた感じですね。私の憶測ですが、藩も密貿易のことは、知っていたんではないかと思います。小左衛門は光之の信任が厚く、殿様の長崎奉行らの接待などに自分の屋敷を提供していたくらいですから、光之、長崎奉行、小左衛門の3人が同席する機会は、1度ならずあったに違いありません。
長崎警備の重責を担っていた光之は、職務上やむをえず、しぶしぶ小左衛門を取り調べたんではないかという気がします。後年光之は、小左衛門を処刑し、闕所にしたことを、わが治世のあやまちの1つであったと、くりかえし言っていたと伝えられています。

松本

闕所は、全財産の没収ですね。

武野

ええ、財産、所領全てです。長崎の大きな屋敷も長崎奉行所の命令で競売にかけられています。

松本

福岡藩の方では……。

武野

それははっきり資料に残りませんが、やはり競売に付され藩に没収されたんだろうと思います。小左衛門は長崎で磔、息子の甚十郎、市三郎、それから連累のめぼしい連中40名近くが死罪、50人が追放になっていますから、きびしいものです。

松本

その哀れさから、万四郎神社(浜口町)が、出てくるのですね。

武野

そうです。万四郎神社は、3男で5歳の小四郎と、4男で3歳の万之助までも斬首されたのが、かわいそうだと、幼子の霊を祀るために建てられたと言われています。
幼い2人の処刑には、諸説があって、よくわかりません。伊藤家処刑のときは通りの家々は表戸をおろし、ひっそりとして伊藤家の不運を悼んだということですから、博多町人の伊藤家への哀切の情が、このお宮を建てさせたのかもしれませんね。

松本

事件の発端は、小左衛門の密輸船が対馬沖で難破して、積荷が露呈して発覚したとか、そういうことですね。

武野

7回くらい密貿易が仕組まれて、小左衛門が関わったのは、犯科帳によるとそのうち2回だそうです。金元(かねもと)となって資金を出していたのでしょうね。
長崎奉行河野権右衛門の取りなしで、小左衛門は「自分はあずかり知らない。手代どもが勝手にやった」と申しひらきをしていますが、そんなことはないだろうと思いますよ。むしろ堂々とやっていたのではないでしょうか。
犯科帳に載っている2回というのは、実は氷山の一角で、本当は継続的に密貿易をやっていたのだろうと思います。というのも、オランダ商館等の記録には、小左衛門の名前が全然出てこないんですね。じゃあ何をして稼いでいたかというと、それはもう密貿易しかないんじゃないかと……。

動乱期最後の博多商人

切手にもなった末次船

松本

小左衛門は小判もつくっていたそうですね。伊藤小判とか……。

武野

そういう説がありますね。たしかに伊藤小判と称する写真を見たことがあります。しかし小左衛門が出したかどうかは、はっきりしません。
小左衛門の資産の大きさを表現する材料として、伊藤小判が用いられているような気もします。ひょっとしたら試作品だったのかもしれませんね。

松本

小左衛門が処刑されたのは、鎖国後どれくらいになるのでしょう……。

武野

最後の鎖国令が寛永16年(1639)で、小左衛門の闕所が寛文7年(1667)、その間28年が経過しています。先ほど出ました末次平蔵も、これより少し遅れての延宝4年(1676)に闕所になり、一門が流罪となっています。

松本

末次平蔵と小左衛門は、どういうかかわりを持っていたのでしょうか。

武野

財力は末次の方が上です。末次は初代が博多商人の末次興善、2代が次男の平蔵政直、3代が平蔵茂朝です。
平蔵政直が長崎で、いわゆる末次船(すえつぐふね)での朱印船貿易で財をつくり、長崎代官にまでなりましたが、貿易権益をめぐってのオランダとの抗争や、代官としてのキリシタン弾圧まで、行動のはばが広く、最後は幽閉されて、寛永7年(1630)に斬られたと言われています。
平蔵茂朝は、父の死後家督と代官職をひき継ぎ、オランダ商人との確執もとき、大名貸などで財をふやしています。彼は豪胆な初代とはうってかわって、目先の利く、世渡りのうまい商人だったようです。

松本

平蔵茂朝も密輸の疑いで……。

武野

延宝4年(1676)のお正月に、平蔵が鎖国に逆らい、秘かに2重底の船を仕立て中国泉州へ、刀剣や日本の地図を積んで商売に行ったと、訴人があったのです。
平蔵は捕らえられて入牢を命じられましたが、犯科帳にみる平蔵の罪状は、御禁制の抛銀(なげがね)をしたということになっています。平蔵の母長福院も抛銀の常習者だったらしく、女だてらに外国人に金を貸すなど不届き千万というきついおしかりを受けています。
平蔵は博多を出て、長崎を本拠に活躍しましたが、兄の末次宗得は博多で商いを続けていて、小左衛門と一緒に貿易をやったりしています。平蔵は郷里博多の商人の援助をおしまなかったですから、小左衛門も平蔵と経営上深い関係にあったのではないでしょうか。

松本

平蔵は、小左衛門がやられて、次は自分の番だとガードを固めていなかったのでしょうか。

武野

平蔵も密貿易をやっていますが、平蔵は長崎代官つまり幕臣ですから、闕所の理由は抛銀をやったことになっているんですね。その辺り小左衛門とは事情が違うような気がします。
小左衛門は、わりとゆうゆうと密貿易をやっているようなのに対し、平蔵はちょっと、幕府の目を気にしていたようですね。平蔵は、代官領の米の代金などを持って、江戸にもしょっちゅう往き来していますから、幕府の目を気にはしていたでしょう。でも、自分は幕臣だからまさか捕らえられるようなことはないだろうという油断があったかもしれませんね。

松本

末次船は、朱印船の代表的なもので、豪快な男たちだったのですね。

武野

平蔵政直は自分の末次船で、朱印船貿易家として貿易をしていた最大手の商人でした。しかも長崎代官。当時オランダなど外国の商館員、中国の商人らとこみいった貿易の交渉ができたのは、長崎代官だけなんですね。
外国商人も代官を頼りにし、外国人受けもたいへんよかったようです。輸出入の権利を末次が3代にわたって握っていたようです。九州の大名や江戸の高官も、末次に貿易の斡旋を頼んだりしていましたから、斡旋料だけでも相当の額になるのではないでしょうか。

松本

あまりに大きくなりすぎて、目をつけられてやられたというふうにも考えられますね。長崎の平蔵が闕所になると博多の兄の宗得の方もやはりやられているわけですか。

武野

それが不思議なことにやられていないのです。何となく遠慮して、経営を縮小したりしているんですが。

松本

小左衛門の方は、一族悲惨で対照的ですね。だから哀れを誘い、いろんな伝説を生んできたんでしょうかね。

武野

小左衛門の場合、本当の意味での実体がつかめないのが研究上痛いですね。
平蔵は商品流通の歴史の中や、九州の藩政史の中にちょこちょことよく出てきて、資料がわりと豊富なんです。ところが小左衛門のほうはボヤッとした面があって、それもまた非常に魅力的なんですが……。

松本

黒田藩が、全ての証拠書類を隠滅してしまったということは……。

武野

それは考えられますね。『博多津要録(はかたつようろく)』という博多のことを、非常によく説明している郷土資料がありますが、その中にも、「伊藤小左衛門」という項目はあるのに、中味が全くない。その部分だけ資料がなかったか、編纂するときに意識的になくしたか、あるいは破って捨てたとも考えられます。

松本

しかし、当時の経済犯に対する処罰はきついですね。商人の新旧交替の時期に散ったあだ花みたいで、鎖国の犠牲者だとも言えるでしょうね。

武野

そうですね。貿易都市博多の伝統を支える最後の商人、それがこの小左衛門だったと思います。ただ鎖国令という厳しい規制に出会ったばかりに、つぶされたわけで、それがまた歴史の厳しさですし、おもしろさでしょうか。

松本

鎖国が是か非かというと、先生はどうお考えになりますか。

武野

鎖国令が出されていなければ、商品流通はもう少し拡大して早く近代化できたかもしれませんが、その反面植民地化の危機にもさらされたでしょう。その点、複維ですね。

松本

お話を聞いていますと、小左衛門は商人としての大きさもさることながら、性格的に豪傑肌みたいなところが感じられますね。

武野

2代目小左衛門は、非常に抜け目のない商人であったとよく言われていますが、当時の商人として避けられない一面だったと思います。非常に豪放な、目を常に外に向けている、反体制的な、いかにも博多商人らしい商人だったと、私は考えています。
私は以前から、小左衛門を〝最後の博多商人″という言葉を使って表現してきましたが、今もその考えは変わりません。資料が少ないので〝幻の豪商″のひとりでしょうか。
近松門左衛門の『毛剃 博多小女郎枕』のモデルになっていると言われていますからね。当時大坂以西、とりわけ九州では密貿易が多かったので、その噂が上方まできこえていたのでしょう。

松本

小左衛門の、復権のために、彼に一言、言わせるとしたら彼は何を言うでしょうかね。

武野

自分に続く者が遂に出てこなかった。目をしっかり海に向けて開き、中央政権の圧力なんて気にしない、博多商人らしい商人は自分で終わってしまったなあ……と、墓場でつぶやいているんじゃないでしょうか。

司会

今日はたいへん興味深いお話、ありがとうございました。

武野要子 氏 略歴

昭和28年、九州大学経済学部卒、福岡大学商学部教授。専攻は商業史で、対外交渉史、博多商人史に造詣が深い。
著書、『藩貿易史の研究(1979)』『博多の豪商(1980)』ほか。福岡歴史資料館協議会委員。

博多町人のあわれ心が生んだ通説

お話:郷土史研究家

白水 康三 氏

風雲児伊藤小左衛門の最後は哀れですね。とくに5歳の3男、小四郎、3歳の4男、万之肋が斬られたといのが……。でも、先生によると、どうも、そうではない……と。

白水

2人が哀れで、博多の人たちが、下呉服町の万四郎神社にまつったとされているんですが、事実は2人とも他家の養子となってながらえているんですね。

事件の発端も諸説あるようで……。

白水

通説の第1は、博多の医師、津田六顧が明和2年(1765)にあらわした『石城志(せきじょうし)』によるものです。対馬の忠左衛門というものが、博多の小左衛門宅をたずねるのですが、あいにく不在、長男甚十郎も病気と言って会わず、銀子1貫目の借用も断るのです。そこで立腹して、密輸を長崎奉行に訴えでるという筋書きです。
2番めは、明治の郷土史家、江島茂逸という人があらわした「伊藤小左衛門」によるもので、船が対馬で難破し、船底から朝鮮への密輸の武器が発見されて、対馬藩が日田の幕府代官に通報した……。
第3は、大正時代に春山育次郎という人が新聞に連載した「博多物語」で、これは対馬難破を脚色したものですね。

子息甚十郎が捕縛されたのは、ちょうど結婚式の場だったというのは……。

白水

それで、博多では、婚礼を10月15日はさけるとされてきましたが、これも根拠のない話ですね。それぞれ俗説ですが、私の主張の根拠は「黒田家譜(くろだかふ)」と長崎奉行所の判決記録の「犯科帳(はんかちょう)」、この2つによっています。黒田家譜は、3代光之が貝原益軒に命じた藩史ですが、これは高弟の竹田定直にひきつがれて5代藩主宣政のとき延享2年(1745)に、黒田新続家譜として完成しています。

藩と奉行所の正式記録なんですね。

白水

そうです。長崎犯科帳は、近年、県立長崎図書館長の森永種夫氏の御尽力で出版され、私たちも読めるようになりました。この記録がいちばん信用できるでしょうね。家譜の方は、事件後60年ほどたっての記述なので、その点、ちょっと弱いんです。それに藩史ですから、藩に都合のわるいことは、書いてないということもあるでしょうね。

で、通説との違いを要約していただくと……。

白水

まず、事件の発覚についてですが、これは小左衛門の船が難破したからではなく、柳川立花藩の長崎蔵屋敷にいた、江口伊右衛門を、召使いの平左衛門が、長崎奉行に密輸の件で訴人したのがきっかけで、それからいもづる式にひろがったんです。
2番目のちがいは、家族の処刑は、小左衛門と長男甚十郎、次男市三郎だけで妻女や幼児たち、また水夫たちも、ほとんどが死刑をまぬがれていること。
3番目は、小左衛門の出生地が、伝えられている青柳ではなく、木屋瀬だということです。

それで、事件のボスが小左衛門なんですね。

白水

資金の援肋をしてますからね。もっとも事件は寛文2年(1662)以来5年間で7件で、未遂が3件ですが、小左衛門がかかわったのは2件となっています。いちばんすごいのは、小茂田勘左衛門というのがいまして、この男は水夫たちに朝鮮ゆきを承諾させるために、不服なら海中へ切り捨てるぞと脅すんですね。
この密貿易はすべて小茂田が計画し、指図して事をはこんでいたようです。彼は大阪奉行所で、朝鮮には15回往復したと述べていますし、朝鮮政府から文引という貿易計画書をもらっています。

藩主の光之も、さぞかし驚いたでしょうね。

白水

光之は小左衛門を信任し、頼りにしていましたから、困ったでしょう。
一例をあげますと、事件が小左衛門に及ぶちょっと前に、光之は幕府の巡検使を迎えるために、小左衛門の屋敷で休憩していますからね。また長崎警備役で、長崎におもむいたときは、水の浦の小左衛門の別邸に泊まることが通例で、長崎奉行の饗応もここでしているようです。

信頼が厚かったのですね。

白水

寛文7年6月24日、長崎に着き、奉行の河野坂権衛門に挨拶の折、小左衛門密輸のことを知らされるんです。光之は、直ちに小左衛門をとらえさせ、すぐに帰国して対策をたてています。経済的に貢献している小左衛門を捕らえるいたみはあったでしょうが、それ以上に藩は幕府からの嫌疑のほうが気がかりだったでしょう。巡検使を小左衛門邸でもてなしたり、まだ2代忠之のときの黒田騒動の記憶はなまなましかったでしょうからね。

そういう状況では、10月婚礼はありえない。

白水

ありえませんね。発覚からの日どりをくると、伊右衛門の訴えで3月に関連者が捕縛され、その調べから、小左衛門の線がうかぶ。小左衛門は6月25日に捕らえられ、すぐ光之は帰国し、関連者を捕縛しています。だから10月15日婚礼の日に捕吏が宴席にふみこんだというのは、後世のドラマ仕立てですね。

一族全部処刑というのは……。

白水

小左衛門は長崎で磔(はりつけ)、市三郎は斬首、甚十郎は博多で斬首、でも妻女や、小四郎、万之助は斬られていません。
この事件に対する幕府の指令がのこっていて、「妻、娘、奴婢は奴とする。嫁に行った娘や、養子となり同じ家に住んでいない者は無罪」とあります。
これを裏づける証拠がありましてね。伊藤家の屋敷跡で麹屋をいとなんでいた御手洗家に伝わっている位牌に、妻と小四郎、万之肋が記されていて、戒名は菩提寺の妙楽寺にあるのと同じですが、妻は女中に、小四郎は河辺源兵衛の男子、万之肋は河辺庄左衛門の男子となっていて、死没年月日も、それぞれちがっているんです。小左衛門は藩にいろいろつくしていますし、妻女や幼児もあわれで、助命されたんでしょうね。

一方で、博多町民の小左衛門たちをいたむ心が、万四郎神社になったと思えばいいのですね。

白水

そういうことで、だいたいが万四郎恵比須と白川稲荷は、伊藤家の屋敷神だったようですから、万四郎神社を祀ることは、不幸な伊藤小左衛門一家をまつる、何よりの菩提になっていたでしょうね。博多の人のあわれ心のあらわれなんでしょうね。

白水康三 氏 略歴

明治44年、福岡市中浜口町に生まれる。山一企業株式会社の経営に従事するかたわら、福岡地方史研究会に入会し伊藤小左衛門を研究。
同会誌に「伊藤小左衛門一族の受難についての一考察」、「伊藤小左衛門の出自について」等発表。