No.30 五足の靴から「九州文学」まで「福岡と文学」

対談:昭和59年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
原田 種夫氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


あすの日はあすの悦び

「ペンの悦び」の詞が刻まれた
中洲河畔の文学碑
(中洲大橋たもと)

司会

先生、お元気ですね。中洲河畔に、先生の文学碑が建てられて、おめでとうございました。

原田

中洲大橋のたもとなんですが、そこにブラジレイロという茶房がありました。山田牙城(やまだがじょう)、矢野朗(やのあきら)たちの文学仲間と、詩や小説、映画を語ってあきませんでした。文学青年のたまり場で、1杯のコーヒーで何時間も文学論議をかわして平気でした。実に気持ちのよい茶房でした。那珂川の改修で川幅が拡げられ、とりこわされてしまいましたが、中洲の川っぷちの遊歩道のところなんですよ。

松本

先生の『ペんの悦び』の詞(ことば)がのせられているんですね。

あすの日に あすの悦びあり
あす書くもの 胸にみなぎる
もの書きは 幸いなるかな
あすの日は あすの悦び

実にいい詞ですね。

原田

皆さんの御好意で立派な碑を建てていただきました。82歳ですから、ブラジレイロの頃を想いますと、往古茫々の感じですね。

松本

今日は、長年『九州文学』を主宰してこられた先生に、博多と文学についてお話をうかがいます。万葉から大隈言道(おおくまことみち)まで、博多はすぐれた歌人にめぐまれているのですが、近代文学ということになりますと……。

原田

たくさんの先達があり、草の根のような文学運動も多いのですが、大ざっぱにあげていくと、与謝野鉄幹(よさのてっかん)、北原白秋(きたはらはくしゅう)、吉井勇(よしいいさむ)ら明星派の〝五足の靴″の一行が九州南蛮旅行で来博したこと、ついで加藤介春(かとうかいしゅん)の詩活動、久保猪之吉(くぼいのきち)の主宰した文芸誌『エニグマ』となっていきますね。昭和にはいって白秋の影響、そして『九州文学』『とらんしっと』『九州芸術』『文学会議』の4誌から『第二期・九州文学』への統合とつづきます。
大きなできごとは、火野葦平(ひのあしへい)の芥川賞受賞がありました。私たち文学仲間はほとんど短詩型の文学、即ち詩人でしたが、火野に刺戟されて小説を書きはじめました。戦後は、芥川賞を受けた松本清張野呂邦暢(のろくにのぶ)、推理作家の石沢英太郎夏樹静子、時代小説に新風を吹きこんだ白石一郎、そして昨年の芥川賞を受けた高樹のぶ子(『光抱く友よ』昭和60年に芥川賞を受賞)とあげられますね。この座談会、失礼して皆さんの敬称をはぶかせていただきますよ。

五足の靴 旅籠屋(はたごや)の名を川丈といひしこと

北原 白秋

西島

先生のまかれた文学の種子が大きくひろがっているのですね。ところで五足の靴の人たちは、川丈旅館に泊まられたのですね。

原田

与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎(きのしたもくたろう)、吉井勇、平野万里(ひらのばんり)の5人で、鉄幹は明星の代表です。明星派の著名な5人が、九州南蛮旅行ということで、明治40年の7月から8月にかけて博多を振り出しに、柳川、佐賀、唐津、名護屋、佐世保、平戸、長崎、天草、霧島、島原、熊本、阿蘇、大牟田、そして柳川と巡遊したのです。これが、後日異国情緒の作品を生むことになります。

西島

交通不便な折、これだけの著名な人たちがこられた。博多の文学愛好家は驚喜したでしょうね。

原田

そのようです。鉄幹を除いてみな若い。杢太郎は東大生、白秋、勇は早稲田の学生でした。
西公園の吉原亭で福岡県文学会主催の歓迎会があり、午後10時に散会して伊崎浦から1艘の舟を借りて、博多港に上陸し、中洲の川丈旅館に泊まっています。吉井勇は後年、このことを追懐して

旅籠屋(はたごや)の名を川丈といひしこと
ふとおもい出てむかし恋しむ

とうたっています。ついで一行は白秋の案内で柳川へ行き、白秋の生家の酒造家北原家を基点として、九州をめぐるのです。

西島

日本文学にとっても大きな収穫だったのですね。

原田

そうです。この旅行は白秋の処女詩集『邪宗門(じゃしゅうもん)』にみのりました。杢太郎の〝はためき″という詩も有名です。

あな、おぞ、渡海船、今し出ずとて
帆捲くなり 唐津の殿の
いとわかきあえかの姫の
髪に塗る伽羅を買うべく

これらの詩が、明星の10―12号をかざったのです。絢爛たるものだったでしょう。
柳川では、吉井勇が白秋生家の酒名「潮」に題して

筑紫の海 国いと若し 青き潮(うみ)
こをろこをろと 鳴りわたるかな

火のうしほ
世をも人をも焼かむとす
恋にさも似る君が家(や)の酒

などともうたっています。

松本

目の前に情景がうかぶような、文学昂揚のときですね。九州の文学を志す人たちが大きな大きな刺戟を受けたのもわかりますね。

原田

まだ私は子供の頃ですが、後年、白秋と介春を、我が師と仰ぎましたから、とても関心のあるできごとですね。

加藤介春の獄中哀歌

原田 種夫氏
加藤 介春

西島

加藤介春(かいしゅん)という方、あまり存じませんが……。

原田

残念ですが一般には忘れられていますね。でも次の久保猪之吉(くぼいのきち)とともに、九州文壇の黎明期に種子をまかれた方々ですから、記録しておかねばなりませんね。

松本

介春は新聞記者でしょう。

原田

ええ、九州日報の編集長をしていました。福岡県田川郡赤池の人で、明治18年に生まれています。嘉穂中学から早大英文科に進みましたが、在学中から詩活動にはいり、同窓の相馬御風(そうまぎょふう)、人見東明(ひとみとうめい)、三木露風(みきろふう)、野口雨情(のぐちうじょう)らと、現下の詩壇に警鐘をと、早稲田詩社をおこします。45年、東明、山村暮鳥(やまむらぼちょう)らと自由詩社を結成し、月刊誌『自然と対象』を発行します。
この詩誌は、言文一致の口語詩を主張したのが特徴です。博多とのつながりは、大学を卒業した明治43年の春に、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)の紹介で九州日報に入社、翌年弱冠27歳で編集長になって存分に腕をふるうんです。

松本

詩人を編集長にしたり、昔の新聞は、多分にロマンがあったんですね。

原田

明治45年から、探訪記者の小田部博美とともに九大生と芸者や娘たちの間にくりひろげられていた恋物語を「恋の大学生」というテーマで連載するのですが、これが大評判となりました。ところがここで事件がおきましてね。

西島

名誉毀損とか……。

原田

この記事に、大阪の医師の息子吉田某の乱行が掲載されようとしたのです。吉田は驚いて記事差し止めを、ある女将にたのみ、女将はこのシリーズの担当写真師にもみ消しを依頼、彼は30円を介春に渡すがつっかえされる。そこで女将は介春の留守中に、介春の下宿に30円の紙袋を投げこむ。介春は友人と遊びに出ていて、どういうわけかその間に警察の家宅捜査があって、30円が発見され収賄ということで逮捕されてしまうんです。

西島

なにやら、いまの週刊誌をみている感じですね。

原田

そうですね。介春はこのため未決監に70日ほうりこまれるんです。事件そのものは介春に罪の意識がありませんから、どうということはないのですが、この経験が、孤独で厭人癖のつよい介春の暗い世界を定着させたと言えるでしょう。そうした経緯で生まれたのが詩集、『獄中哀歌』で、46判、286頁、定価80銭となっています。
獄中哀歌16篇を見ますと、いずれも監房に入った介春の苦痛と煩悶を、リアリスティックな手法で表現し、凄まじい迫力をもっています。たとえば〝夜の白樺″をみるとその一節に

月光に輝やく白樺の心は
草の葉にあやしき影をうつせり

かがやく心にそよ風のわたりきて
おぼれおつる白樺の甘き夢

夜は白し木かげの青き草の葉に
心の影をうつして眠る白樺

夜は白し木かげの青き草の葉は
何故か眠れず欠伸をなす

松本

それにしても白秋の詩とちがって、介春の詩は、なにか暗いですね。

原田

やはり獄中体験がひびいているんでしょうね。翌年次の詩集『梢を仰ぎて』を出しますが、この詩集は地元を刺戟し、後の『エニグマ』にも大きな影響を与えています。『眼と眼』を続いて出しますが、後年には福岡日日新聞の家庭部長に転じ、次第に詩壇からはなれていきます。
戦時下という世情もあったでしょうね。終戦後の昭和21年に62歳で逝(な)くなります。

久保猪之吉と長塚節

西島 伊三雄氏
松本 攻

松本

つぎが久保猪之吉博士ですね。この方は九州大学の先生でしょう。

原田

ええ。九大教授で耳鼻咽喉科の権威、あわせて歌人としても知られた方で、同好の先生たちや、歌人たちと文芸誌『エニグマ』を発行されました。この雑誌は、先生の顔の広さと介春の交友関係から、相馬御風若山牧水前田夕暮片上伸(かたがみのぼる)、川路柳江(かわじりゅうこう)、柳原燁子(やなぎはらあきこ)という中央のそうそうたる方たちまで寄稿していますから、当時としては注目すべき存在でした。

松本

やはり文学の原型は、短詩型からはじまるんですね。で、エニグマとは、どういう意味があるのですか。

原田

英語で、「謎」という意味です。初号は大正2年2月に発行されています。表紙は古代のエジプト王妃像の石摺(いしずり)で、日本ではじめて紹介されたものだそうです。

松本

その久保猪之吉と、長塚節(ながつかたかし)がつながるんですね。

原田

名作『』をかいた長塚節が、喉頭結核を病んでいて、夏目漱石の添書をもらって、福岡まで久保猪之吉をたずねてくるのです。
猪之吉の奥さんが、松山の生まれのより江夫人です。
漱石が松山中学に奉職していたとき、上野という家に止宿していましたが、当時正岡子規も松山で療養中で、ともに上野家でよく談議していたようで、この上野家の孫娘が当時12歳ぐらいのより江で、折々は伯母といっしょに、子規の俳句の席にも出ていたそうです。
成人して久保夫人となり、福岡にこられたので、その縁もあって、漱石が節の治療を久保猪之吉にたのんだのですね。

西島

長塚節は漱石の門人ですか。

原田

門人とはいえませんが、漱石は正岡子規の友人であり、節は子規の弟子なので、漱石と関わりがあったのですね。
漱石が朝日新聞に節を紹介して、明治43年に連載されたのが、名作『土』で、これは日本文学で最初の、本格的な農村小説の傑作となったものです。
より江夫人は、「鸚鵡姫」という題で

紅の珊瑚の足に歌結び
放ちやらばわが思うあまり

ほか9首の歌をのせています。
『エニグマ』第1巻を、山田牙城と私が、久保邸で見せてもらったのは、60余年も昔のことですが、いまでも、冬の寒い日で庭のバラが見事だったのを、おぼえています。介春は、夫人を「お菓子のように美しい人」と言いましたが、私たちには、その言葉とバラの花の美しさが1つになったように思えました。とても美しい気品のある方でした。

西島

長塚節はその後……。

原田

節は『土』を発表の翌年、大正13年6月に久保博士の診察を受け8月まで入院しています。そのときに、アララギに発表したのが

白銀(しろがね)の鍼(はり)打つ如ききりぎりす
幾夜はへなば涼しかるらむ

退院後、人吉、日向、小林を経て青島に遊び、帰福して、東公園の平野屋旅館から大学病院に通っていましたが、大正4年1月に再入院し、2月8日博士にみとられながら逝(な)くなりました。享年37歳、まことに夭折が惜しまれますね。

長塚さんの葉書

久保 猪之吉
長塚 節
(長塚節全集第1巻より)

松本

節の小説『土』や、秀歌は知っていても、福岡で逝くなったことは知らぬ人が多いですね。市内に歌碑はありますか。

原田

ええ、ゆかりの九大医学部構内や、太宰府観世音寺などにあります。観世音寺のは

手を当てて鐘はたふとき冷たさに
爪叩き聴くそのかそけきを

松本

彼の晩年の光芒を輝かせたところが、博多だったのですね。

原田

節がより江夫人に送った葉書が、『エニグマ』第1巻12月号に載せられています。
「先生はいつお帰りになりますか。此間エニグマで日本には1つのラファエルも、1つのレンブラントもないとのお小言も承知しましたが、日本人くらゐ自身の祖先を理解してゐない国民もないだらうと思ひます。近くは250年前に出た俳人芭蕉の名句を味ひ得るものが幾人ありませう。まして万葉集などに成ると万葉学者と称する人々にちつとも理解がない様です。殊に美術上の作品に成ると何処にどういふものが有るかさへ無頓着で居ませう。それで批評が出来ませうか。血筋のつながつた祖先の芸術を理解することが出来なくてどうして外国の芸術がわかるのでせう。外国といふことをちつとも知らぬ私達にはちつともわかりません。
今度は珍しく議論めいた事をいつて見ました。病人の囈語ばかりでもありますまい」
と言っています。節のこの意見は、今日にも通用するものですね。

松本

『エニグマ』の充実ぶりがしのばれますね。ところで、雑誌はのこっているのですか。

原田

いいえ。散逸していたのですが、同人であり、博士の教え子である小倉の医師の曽田共助氏(故人)が、保存しておられました。10冊ぐらいしか残っていませんが、博多の文学の黎明期の証として貴重ですね。
オーストリアのプラーグの詩人で、医者のサールスという人の手紙では、日本を代表する文学誌として紹介されたそうです。まあ、博士も歌のたのしみという面があり、博士の歌への情熱が冷めてくると、先生の魅力でもてていただけに、自然と消えてしまったのですね。

かずかずの文学の地下水

鹿児島寿蔵の歌碑(櫛田神社)

西島

博多の文学の流れは、つぎに原田先生の主宰されてきた『九州文学』になるのですか。

原田

『エニグマ』が大正4年1月号で終刊になってから、博多詩社から国藤武という人が『みなと』を出しています。創刊号の巻頭に久保猪之吉博士は

大天地(おおあめつち)春の光にみちぬらし
生あるものは 皆よみがえれ

と言った歌10首を寄せています。先般逝(な)くなられた紙塑人形作家で、歌人としても著名だった鹿児島寿蔵(かごしまじゅぞう)や柳沢健(やなぎさわけん)、武者小路実篤中島哀浪(なかしまあいろう)といった人たちがよい作品を寄せております。
国藤武は『みなと』を大正5年2月から10月まで9冊発行して中絶、復刊は加藤七三(かとうしちぞう)博士により12号刊行されました。『みなと』は、『エニグマ』から一歩文学作品としての趣きをふかめたものといえるようです。

西島

鹿児島寿蔵さんは、櫛田神社につくられた山笠の歌碑がありますね。歌の中の〝ゐさらひ(お尻のこと)″がむつかしいので説明をつけようということになりましたが、寿蔵先生のご機嫌がわるかったんですね(笑)。

原田

あの歌は

荒縄を下げしゐさらひ露(あら)はなる
山笠比(び)と乃瑞々(みずみず)しさよ

ですね。〝ゐさらひ″がお尻とは、わからないということでしたね。
『みなと』を継承した形の博多詩社から出た『ハカタ』に、寿蔵は

さめざめと雨にぬれたる清水の 伽藍の色は泪ぐましも

といった感傷的な歌をのせています。
『ハカタ』は碧草(鹿児島寿蔵)により大正8年『南方芸術』に改題、表紙のセザンヌの絵は『出家とその弟子』で有名な倉田百三から借りています。
寿蔵の上京で『南方芸術』も13号で終刊になりますが、介春、『エニグマ』に発した文学の地下水はつきることなく流れていました。
福岡文壇の黎明期にあたって、その文学運動の中心が医者と新聞記者であり、そのきずかれた基盤をひきついで、私たちの世代が活動することになったのですね。

松本

そうした流れが、いつか『九州文学』にまとまるのですね。

原田

ふりかえれば、実に遠い日の出来事のように思いますね。詩友の山田牙城、星野胤弘(ほしのたねひろ)と私が、『瘋癲(ふうてん)病院』を出したのは昭和3年でした。題字は介春先生にかいてもらいました。この詩誌をもとに、昭和4年2月に全九州詩人協会の創立をはかりました。同年『九州詩集』を出版、参加メンバーは、白秋、介春ほか30人の詩人たちでした。この頃、劉寒吉(りゅうかんきち)も北九州でさかんに活動しています。
昭和8年に、私と山田は介春の名で全九州の詩人によびかけて、「九州詩壇」を発足させ、9年には、山田や劉等と九州詩人祭を開催しました。

松本

50年前、先生も30代のお話ですね。

原田

劉、山田との友情は、50年余にわたり続いています。このときの主宰は私たちの「九州詩社」と、「とらんしっと詩社」、「小劇場」ほかの5社でした。44名参集し、隔月刊の『九州芸術』発刊をきめました。
九州詩壇は自然的に解消し、九州芸術の第1号は昭和9年11月に発行、第一線の詩人26名が作品を寄せました。

芥川賞になった火野葦平の糞尿譚

火野 葦平

原田

この4号から生涯の友人、火野葦平が参加しました。
当時のペンネームは火野葦助で「追撃する筏」という詩をのせ、『とらんしっと』17号からこの同人にもなって、葦助で詩篇「山上軍艦」をよせています。
このほか、九州ではじめての文化雑誌『九州文化』が昭和9年に創刊され、林逸馬(はやしいつま)や夢野久作(ゆめのきゅうさく)も詩やエッセイをのせていますが、これが内部分裂して旧制福岡高校の教授だった秋山六郎兵衛(あきやまろくろうべえ)や矢野朗らが、『九州文壇』をはじめましたが、すぐに消えました。
火野は九州文化に「帝釈峡記」「修験道」をのせました。

松本

目まぐるしい変遷ですね。葦平さんの『糞尿譚』もこの頃ですか。

原田

昭和12年の9月に、若松の玉井組の若大将だった火野に召集令状がきて、壮行会を若松でしたときのことでした。
火野は別室で小説の終わりを書きつづけていましたが、やっと書きあげた小説『糞尿譚』の原稿を手にもって、「日本一臭い小説ができたけ、終わりのところを聞いちくれ」と言って、糞尿を全身にあびて、彦太郎が黄金の鬼と化すところを朗読しました。
みんなゲラゲラ笑って拍手大喝采でしたが、これが昭和12年の11月に、矢野主宰の『文学会議』第4冊に発表されました。出征の折、火野は壮行会の席にやっと間にあったできたての詩集『山上軍艦』を持って、喜んで出征しました。

松本

『糞尿譚』が芥川賞になるんですね。授賞を小林秀雄(こばやしひでお)が中国戦線でおこなって、話題になりましたね。

原田

火野の芥川賞受賞で、九州の文学地図が全く変わってしまうのです。火野の小説がそれだけ評価されるのなら俺たちも……と、いうわけですね。

西島

それから葦平さんの『麥と兵隊』が評判になりましたね。葦平さんの芥川賞受賞がなければ、先生は詩ばかりかいておられたかも……。

原田

そうかもしれません。それから劉寒吉も矢野朗も、岩下俊作(いわしたしゅんさく)も、私も、小説をかきはじめました。それぞれ力作を発表して、何度も芥川賞の候補になったりしました。岩下の『富島松五郎伝』が「無法松の一生」で阪東妻三郎の主演で映画になったり……、ともかく短詩文学から小説への転回がおこって、火野の芥川賞受賞は、実に大きなエポックでしたね。

松本

なるほど、九州文学の地核を変えた大きなできごとだったのですね。

西島

『九州文学』とは、どうつながるんですか。

「第二期・九州文学」

「第二期・九州文学」

原田

前にあげた『九州文化』をひきついで、秋山六郎兵衛、林逸馬らにより、『九州文学』が出されていて西日本新聞の学芸部長だった黒田静男さんがバックアップしていました。その黒田さんが私たちに凪洲屋に集まってくれと言う。矢野と劉、私が出席すると、『九州文学』『とらんしっと』『九州芸術』『文学会議』の4誌が合併し、強力な雑誌をつくりたいということでした。
劉と私は、どうもひとつのポーズがある教授たちとは肌があわないからやめようと決めました。その後、黒田氏から再三の話がありましたが、まとまりません。そこで『第二期・九州文学』ということにしてはどうかということでした。

松本

その頃は、何もかも合併統合という背景がありましたね。そういう時代でしたから……。

原田

そうでした。その結果、九州文化100年の大計のためにという説得を受けいれて誌名を『第二期・九州文学』とすることで合意しました。
編集発行人は私、編集委員長は秋山とし、雑誌所有者は黒田、そして九州文学の看板を私のところに吊しました。編集委員は矢野、劉、原田、山田、秋山、林、ほかの9人でした。

松本

なるほど、そういういきさつがあったのですね。生みの悩みですね。

原田

紆余曲折をへて、第1号が出されたのが、昭和13年9月3日で、120頁の大冊でした。『九州文学』の看板を矢野朗に手伝ってもらって、私の家に掲げたのは7月17日のことでした。

司会

そうして、先生が主宰して57年まで『九州文学』を育てられた。ひとつの大事業でしたね。この次は『九州文学』についてのお話をじっくりとお聞かせください。

原田種夫氏 略歴

明治34年、福岡市春吉に出生。法政大学予科文科を中退。
早くより文学にこころざし、昭和13年第二期九州文学を創刊。以来58年末の休刊にいたるまで、46年にわたり同誌を主宰。 ついで『九州時代』を発行。昭和8年、小説『風塵』で芥川賞候補、つづいて『家系』『南蛮絵師』『竹槍騒動異聞』などで直木賞候補。『さすらいの歌』『西日本文壇史』『実説火野葦平』『記録九州文学』『あすの日はあすの悦び』著書、詩集多数。
昭和64年逝去。享年88歳。蔵書、資料、原稿など『原田種夫文庫』が福岡市総合図書館に設置されている。