No.31 歩兵第二十四聯隊

対談:昭和59年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
石田コンクリート 株式会社 社長 石田 順平氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行監査役 林 良廣

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


にじゅうし聯隊のおこり

戦争が終わって40年も平和が続いたということは、明治以後の歴史にはありませんね。平和のありがたさがあたりまえになっていますが、これからも平和を大切に守らなければなりませんね。
今日は福岡に設置されていた歩兵第二十四聯隊(れんたい)のことを、終戦まで在営しておられた石田さんにおたずねいたします。
博多っ子となじみの深かった二十四聯隊のプロフィールを歴史のひとこまとして、記録しておこうというわけです。兵隊さんの哀歓や博多っ子とのふれあいなど、いろいろお聞かせください。

西島

私は海軍でしたが、石田さんは二十四聯隊には長くおられたのですか。

石田

いいえ、私は入隊してすぐに本隊が満州に行ってしまったものですから、こちらにはあまりいなかったのです。
しかし、市民として聯隊に対していだいていた感情がありますし、博多にいたわけではありませんが、二十四聯隊にはずっと属していましたので、聯隊のことはよくわかっているつもりです。

まず、二十四聯隊のおこりからお話しいただきたいのですが…。

石田

正式に軍旗が親授されたのは、明治19年8月17日です。それよりさかのぼってみますと、まず、明治7年4月に歩兵第十四聯隊が現在の北九州市小倉区の小倉城に新設されています。9年4月にこの十四聯隊の第三大隊を福岡城に移すことになり、これが「福岡分営」のおこりということになります。9年の秋月の乱、10年の西南の役、これにつながる福岡の乱の鎮圧に出動しています。乱後、小倉へ引き揚げておりましたが、その後の軍備拡張の空気の中で明治17年7月1日に初めて「歩兵第二十四聯隊」と名づけられた第一大隊が小倉の第十四聯隊のもとに新設されました。そして19年6月14日、二十四聯隊の聯隊本部が正式に福岡城に設置され、8月17日明治天皇から軍旗が親授され、同月30日、全将兵第一装で整列の中、野崎少将が福岡に出向き、練兵場で初代聯隊長の竹田実行中佐に軍旗をわたし、授与式が行われたのです。
聯隊歌の一節にもその状況がうたわれていますよ。

仰げ畏(かしこ)し我軍旗
明治大帝御手づから
19年の葉月中(はづきなか)
授け賜ひしものなるぞ
威武宣揚のみことのり
股肱(ここう)の臣の任重し

西島

後にのこっていた軍旗はフサだけになっていましたね。

石田

二十四聯隊は日露戟争で激しい戦線にまきこまれたりしていますから、ずいぶん銃火もあびましたからね。

だいたい砲弾で破れてしまうようです。周囲の房は金属製ですので、これだけは残るのですが…。

石田

房と菊の紋章が金属であとの部分は布地ですからね。戦線で弾丸や風雨にさらされるとそこだけ残るようになるのですね。

西島

聯隊は全部で何人くらいでしょう。

石田

戦時と平時とでは人数が違うのですが、だいたい3千5百名くらいだったと思います。聯隊は大隊、中隊、小隊と分かれていて、大隊が800~千人。中隊が150人、小隊が40人くらいでした。

西島

聯隊の中が大中小隊に分かれているということでしたが、聯隊全体はどういう組織になっていたのですか。

石田

1番大きいのが師団で、3個聯隊から成っています。その下に兵団というのがあって、以下聯隊、大隊、中隊、小隊というふうになっています。

二十四聯隊の呼び方は「にじゅうし」「にじゅうよん」どちらですか。

石田

にじゅうし聯隊が正しいのです。なぜかというと、軍旗を親授されるとき明治天皇が勅語でにじゅうし聯隊とおっしゃっている。それからにじゅうしが正しくなったわけです。(笑)

西島

二十四聯隊があったのは、現在の平和台競技場と野球場を全部合わせた範囲と、兵舎のあった城外練兵場、これがいまの大濠公園でしたね。

石田

ええ。まず城内練兵場が今の舞鶴公園と城内橋という橋までです。その外側に護国神社も含めて、今の大濠高校も含む広大な城外練兵場がありました。

二十四聯隊本部の模型(陸上自衛隊春日原基地蔵)

二十四聯隊本部の模型(陸上自衛隊春日原基地蔵)

成人式は徴兵検査

西島

昔は数え年で20歳になると徴兵検査がありましたが、昔の成人式ですね。検査はたしか西日本新聞社の裏の記念館で……。私は小学生の頃に疱瘡(ほうそう)をした証明の紙を、兵隊検査のときもっていかなくちゃいけないといって、大事にとっておいた記憶があるのですが……。

入ってから結核になる人は結構多かったですね。徴兵検査のときは聴診器での検査でしたから、ちょっと重病の風邪をひいたりしていると疑われました。

石田順平氏

石田

入隊してからの検査の方が徹底していましたね。タンの検査や検便などはしょっちゅうでした。予防注射もよくありましたね。徴兵検査のときには、疑いのある人間は丙種にしてしまいます。感染を恐れたのでしょうね。

甲乙丙丁の順序でしたがみんな合格。失格はなく、丙種でも合格でした。(笑)

石田

それでも聯隊に行く可能性のあるのは乙種まででしたね。終戦近くは丙種の人でも召集されたようですが……。
甲種の中でも並はずれて身長が高く、体重がある者が工兵とか砲兵に。工兵は土木工事、たとえば水中に入っての架橋には背の高い方がいいとか、重い大砲をひいてゆく砲兵は体の大きい力持ちがいいわけですね。

徴兵検査は夏頃で、入隊は1月頃でしたね。福岡の人が久留米の聯隊に配属ということはありませんでしたか。

石田

久留米は工兵や砲兵などの特科隊の人が行くので、歩兵は皆二十四聯隊でした。だから二十四聯隊というのは歩兵ばかりだったのです。

入隊初日は天国 次の日からは……

石田さんは何年入隊ですか。

石田

私は昭和15年の入隊です。

西島

昭和15年というと、太平洋戦争が始まる直前ですね。火野葦平さんの小説「陸軍」の映画がありましたね。監督が木下恵介さんでした。博多の町を新兵が行進する。お母さんの田中絹代が見えがくれにあとを追う。いい映画でしたが、石田さんもああいう感じで出征されたのですか。

石田

映画はちょっと前の時代をえがいていますね。しかしだいたいの雰囲気は同じです。

西島

入隊なさったときの模様などを……。

石田

入隊のときには、町内の人がずっと行列して先頭にはブラスバンドがいて、その後ろに入隊する者が10名くらい並んで行進です。場内練兵場のところで祝詞やら励ましやらをうけて、いよいよ聯隊への受け渡しとなる。家族ともそこでお別れです。いままで着ていた平服をぬぎ、支給された軍服に着替えます。

軍服の呼び方も独特でしたね。

石田

そうです。ズボンやらシャツやら言ったら叱られる。洋服は軍衣袴(ぐんいこ)、シャツは襦袢(じゅばん)。入隊はだいたい1月10日でしたから、1番寒いときですね。あたたかい服をぬいで、特別に入室を許可された家族に渡して最後の別れをするときには、さすがに寂しい気持ちがしましたね。

西島

入隊日には何があるのですか。

林監査役

石田

最初の日だけは天国のようなものです(笑)。鯛のお頭つきなどのごちそうが出て、いろいろと優遇されるので、これはたいしたことないわい……と(笑)。ところが次の日からはおおごとです。(笑)

隊内の心得もいっばいで……。

石田

それはもう心得ばかり、注意されてばかりです。部屋に入るときはこうせんといかん、靴はこういうふうにぬげ、便所ではこういうふうに…と、規則だらけです。
持ちものには全部名前を書かなくてはなりませんが、譲り渡して長く使わないといけないので名ふだを縫いつけます。

西島

「入隊前には針仕事を練習しときやい」とよく言われたそうですね。

石田

ええ、とにかく針仕事はいっばいあって、めんくらいましたね。

寝る場所は……。

石田

寝台に自分の名前が貼ってありました。藁ぶとんが置いてあって、毛布と持ちものが全部、枕元の棚には二装と三装の軍服がおいてありました。二装は外出用、儀式用で、三装が常時着るものでした。三装は甲乙の2枚と作業服があり、一装は戦時用でしたので支給されませんでした。

西島

襟章はどうなっていました。

石田

新兵は二等兵ですから星1つです。歩兵ですから赤い布の上にラシャ地の黄色い星が1つついていました。

西島

一等兵になると星2つで、上等兵は星3つですね。

星も布の一部を糸で縫いつけてありますから端の方からはずれてきて、ぐしゃっとつぶれたようになるんですね。私たちはそれをカボチャの花と言っていました。

石田

ほとんどの人がカボチャの花でしたね。

西島

次の日から起床は何時でしたか。

石田

夏は5時半、冬は6時だったと思います。起床ラッパがなったら、とび起きて点呼の準備です。その間、20分くらいしかないのでたいへんです。規則ですので早く起きることもできません。

西島

その20分で、顔を洗って服装をきちんとして……。たいへんですね。

石田

そうです。毛布をたたんで所定の服装をして外に整列しなければなりません。だが、帽子や靴がよく失くなって、それを捜していて遅くなったりということも……。

西島伊三雄氏

西島

軍隊生活に慣れるまでにどれくらいかかりますか。

石田

それはもう、なかなか慣れませんネェ。一期は4ヵ月でしたが、終わり頃になってやっと慣れました。

一期の間は1人前に扱ってもらえないんですね。

石田

一期の終わりの検閲が終わるまでは初年兵、幼年兵といって、1人前とは思われないんですね。実際に二年兵と比べると何をやらせても遅い。その間しごかれて仲間入りするまでがたいへんなんです。

西島

検閲にパスしてやっと部署が割りあてられるのですか。

石田

いえ、それはまだ先です。検閲のあとに修業というのがあって、それをすませてから自分に向いた部署を割りあてられるのです。ラッパ手とか衛生兵、また靴直しの上手な者は靴(か)工兵というあんばいです。成績のいい者は上等兵候補にあげられます。そのうちに二年兵に混じって勤務につくようになります。

西島

兵役は3年でしたね。

石田

いいえ、だいたいは2年でした。3年になったのは昭和10年か11年頃の戦時体制になってからです。

陸上自衛隊春日原基地に
資料館を移設。

西島

そうした生活の中で、中隊長と兵隊とは親子の関係のようになったそうですね。

石田

今でも私達は中隊長を中心に、1年に1回の会合をやっています。

中隊は中隊長を中心とする家族的な面がずいぶんありましたからね。

西島

中隊と大隊はまた違うんですか。

石田

大隊というのは中隊を指揮するための機関的な面が強かったですから。中隊長はお父さんでも、大隊長とは直接のつながりはなかった。家族的な意味では中隊でした。

小隊というのはその中で、また分かれていましたからね。銀行でいうなら本部が聯隊、支店長が中隊長で、支店の各部門長が小隊長ということになりましょうか。

兵隊さんの1日

明治大正昭和

明治大正昭和

西島

兵隊さんの1日というのはどんなふうになっているのですか。

石田

1日のスケジュールは午前の部、午後の部とわけてきちんときまっていました。その間に炊事や配膳もありますから、1日中結構忙しいものでした。

西島

食事はいくらでも食べられたのですか。

石田

古参兵が先にメシを山盛りにとるので、終わりの方の初年兵は量が少なくなるんですが、がまんしなくてはなりません。これはつらかったですね。
おかずも終わりのほうにはなかなか回らんこともあって、それを具合よく配らんとケチをつけられる。たいへんでした。

西島

他に雑用といいますと……。

石田

洗たくから針仕事。ボタンのつけ方1つにしても細かく決まっていて、ボタン穴が4つあるボタンは、糸を平行に通して最後に糸を何回まわす、とそのとおりにしなくてはなりませんでした。

銃の手入れはたいへんでしたね。銃身に菊の紋章が入っているので、サビでもさせようものなら処罰ものでしたね。
飯上(めしあげ)、せんたく、訓練も初年兵は個人の訓練から団体での訓練、最後は諸隊での訓練といろいろありましたからね。

石田

小笹に実弾射撃場があったのですが、ボンボン当たるようになるには、日頃の訓練が大切なんです。まず銃を持つための基礎訓練をします。そうでないと銃はもち上がりませんね。それを毎日毎日練り返して、だんだん上手になっていくのです。
この射撃が終わると食事までの時間は間(ま)げいこで、銃剣術です。電車通りから銃剣術をしているのがよく見えましたね。
練兵場の真ん中に根上り榎というのがあって、何かあるとすぐ罰に「あれを回ってこい」と言われてました。2~300メートルだったと思うのですが、ヘトヘトになったところで走らされるのですからたいへんでした。やっと帰ってくると、「もう1回まわってこい」(笑)あれにはまいりました。

西島

土曜、日曜はどんなふうに……。

石田

外出することが多かったですね。

ただ、何かで注意をうけた者は、外出禁止の罰則がありました。

外出の門限は何時でしたか。

石田

6時の夕食まででした。下士官は点呼までに帰ればよかったので、だいたい8時頃までよかったですね。階級によって違っていました。

西島

時間までに帰れない人もあったでしょう。

石田

それはありました。だが遅れると止むをえぬ場合以外は処罰として営倉に入れられます。私が週番のときに捜索に出たことがありますよ。

西島

電車が遅れたとかいろいろの理由を言ってもダメなんですか。

遅れたときには駅長の証明書がいるんですね。ただ汽車が遅れたと言うだけでは理由になりません。

西島

食事はどんな内容だったのですか。

石田

米と麦が半々のごはんとおかずと漬け物です。

わりとごちそうでしたよ。平素でも3千カロリー以上はありましたからね。演習になりますとうんとカロリーを増やしていました。家の豊かな連中は食事がマズイマズイと言っていましたが、私は山形の三十二聯隊(在満州)でしたが、東北の田舎から釆た人たち、当時の東北の農村の暮らしはきびしかったからですね。この人たちは毎日ごちそうだと喜んでいました。平常肉なんかあまり食べたことがない人が多かったんですね。肉やら魚やらこんなに食べられるのなら軍隊もいいじゃないかということに……。
軍隊の食事には生物(なまもの)はいっさいないですね。さしみなんて絶対出ません。万が一のまちがいを恐れたのでしょうね。

石田

生物(なまもの)と言えば、博多ではオキュートだけでしたね。

豚汁とか、肉とじゃがいもを煮たようなものが多かったですね。

石田

そして皆に平等に配らねばなりませんでしたので、みそ汁のネギなども非常に大きく切ってありまして、1人前はネギ2つなどというふうでした。
冬はみそ汁に油を流したりしてカロリーを増していました。カロリーにはやかましかったからですね。

毎食、きちんとカロリー計算がしてありましたね。

西島

演習のときはどうでした?

石田

演習のときは弁当で、おかずはカン詰めのようなものが多かったですね。

弁当箱も柳行李の小型のようなんでしたね。

西島

風通しがよくて、腐りにくいんですね。兵隊さんの楽しみは酒保……。いつも行けたのですか。

石田

夕食と夜の点呼の間ですね。自由時間が2時間くらいありました。

西島

病気したときにはゆっくり休めたんですか。

カゼひきは咽頭炎、もうちょっとひどいのは急性気管支炎。それから練兵休というのは病気はしとっても見学くらいはしていないといけない。就床というのは兵舎で寝とるだけ。入室というのが医務室で寝とること。それよりひどいのは入院というふうに段階があるんです。

下の橋と聯隊の表門

西島

軍隊といえば、よく叩(たた)かれましたねェ。毎日のように叩かれて、叩かれんで寝た日はなんか気持ちの悪いような気がして……(笑)。これでいいのかなあ……と。

全員2列横隊に並ばせられて、前列は回れ右で向かい合って互いに叩き合わないといけなかったり。(笑)

石田

友だちを叩かんといけなかったので辛かったですね。

西島

モノがなくなったときに、他人のをとってきて補充する者があるんですね。自分の班の食器がなくなったら、隣の班のをとってくる、という具合で……。

それが軍隊は員数主義でしょう。員数があうならばそれでいいのです。いま考えるとムチャクチチャですが……。

軍旗祭には追い山を…

西島

私たちが子供の頃は、どんたくのときに招魂祭があって、その時だけは自由に営内に入ってよかったですね。中で売ってた玄米パンや団子がとても安かったのを覚えています。

石田

タバコも安かったですね。「誉(ほまれ)」だったかな。

西島

一般市民が今日は入ってくる、という日には、機関銃部隊と歩兵部隊との柔道や剣道の対抗試合などをして見せよったですね。

石田

それから各中隊の前に人形やら何やらの飾り物を作ったりして。招魂祭というのは兵隊にとっても楽しみでしたね。

招魂祭ともう1つ。軍旗祭というのが聯隊にとっての2大祭でしたが、軍旗祭にはどのようなことを……。

石田

軍旗祭は、8月17日に行っていましたが、そのときには追い山があり各中隊ごとに山笠を作って、聯隊本部の前を出発して平和台側の上の橋を回り、通り筋の大工町、簀ノ子町を通り下の橋から聯隊本部までの時間を競っていました。

西島

山笠は何台くらいあったのですか。

石田

中隊の数だけ、13個ありました。

西島

聯隊のは若い鍛えられた者ばっかりが走るんだから早かったでしょうね。

石田

中隊どうしの競争ですからねェ。遅くなったら後で怒られるのが恐ろしくて必死で走りましたよ。
私たちは満州に行きましてからも、8月17日には現地で軍旗祭で追山を行っていました。

捧げ銃で軍旗と訣別

二十四聯隊の特徴というと、どういうことになるのでしょうか。

石田

日清、日露の戦争でもわかるのですが、突撃型の聯隊ということでしょうね。日清戦争のときの旅順攻略、日露戦争のとき蛤蟆塘(はまたん)での死闘などで勇名は全国に鳴りひびいています。旅順といえば日露戦争での激戦地ですが、その旅順要塞を10年前にほとんど独力で攻略した。これによって勇名を全国にとどろかすことになったのです。

しかし、被害も大きかったのでは……。

石田

旅順戦の戦傷者は84人、戦死者は6人と激戦をくぐりぬけたにしては、希有なことと言えるでしょう。

西島

日露戦争では、どのように……。

石田

日露戦争が始まったのは明治37年2月ですが、陸軍の先発部隊は8日には仁川に上陸、急行軍で京城に向かいました。この中に二十四聯隊も入っていました。日露戦争でまず思い浮かぶのは牧沢第五中隊長です。緒戦で大きな被害も出さず蛤膜塘を目指して進撃していた二十四聯隊の前に露軍の主力部隊が立ちはだかりました。このときの最前線が第五中隊だったのです。
敵は野砲と多くの機関銃で猛烈な砲火をあびせてきました。第五中隊に十字砲火が集中して、このままでは中隊が全滅するしかないと考えた中隊長牧沢大尉は「あの砲台へ突撃!」と叫んで、軍刀をぬいて飛びだしました。とたんに敵側の銃弾は中隊長に集中。この戦いで第五中隊は戦死38人、負傷66人を出したのですが、二十四聯隊は攻撃をやめず、援軍の到着をえて敵を潰滅したのです。壮烈な戦死をとげた牧沢中隊長の勇猛さは、以後二十四聯隊に語り伝えられるようになるのです。

英雄というと上海事変のときの「肉弾三勇士」もありましたね。たしか靖国神社にレリーフになっていますね。

石田

廟行鎮(みょうこうちん)の戦いのときで、敵陣は鉄条網とトーチカと重火器で完全武装していました。これを陥落させるためには、鉄条網を切断して突撃路を開く他に方法はありません。しかし、何回決死隊を出しても鉄条網を爆破することはできないのです。鉄条網にたどりつき破壊筒に点火するその数秒のすきにねらい撃ちにされてしまうからです。あらかじめ点火した破壊筒を持って突撃すればいいのでしょうが、それは確実に死ぬことを意味します。誰もがロにすることをはばかった作戦でした。そこへ「自分達が決行いたします」と名乗り出たのが後にいう肉弾三勇士で、二十四聯隊についていた久留米工兵隊の江下武二工兵一等兵、北川丞一等兵、作江伊之助一等兵の3人です。

西島

二十四聯隊は終戦をどこで迎えられたのですか。

石田

実は昭和19年に二十四聯隊は2つに分かれているんです。本隊は満州に残っていましたが、その後台湾へ行きますので、終戦は台湾で迎えることとなったのです。軍旗と訣別ということで、悲運の聯隊長は26代の糸日谷大佐で、軍旗は林子辺小学校の校庭で全聯隊の将兵の整列する中「足曳き」のラッパの吹奏に最後の「捧げ銃」の礼を受け60年の歴史を閉じたのです。それには少しエピソードがあるんですよ。

西島

ほう、どのような……。

石田

台湾でも軍旗祭をやろうということになって準備していたのです。ところが8月15日に終戦となり、とうとうそれきりで軍旗ともお別れになってしまったのです。そのときに聯隊副官だった田中さんという方が軍旗の房の一部を切り取って、かくし通して内地に持って帰ったのです。いまは軍旗は複製が護国神社にありますが、あの房の一部に本物を少し加えてあるのです。

風化の中で…

西島

今は軍隊の話をするとすぐに戦争と結びつけて考えますけど、あの当時は兵隊に行ききらん者はつまらん、ということでしたね。まあ、最初は辛いし刑務所に入れられたような感じもありましたけれど……。

石田

当時は納税と教育と兵役は国民の三大義務といわれていましたから、私たちは当たり前と受けとめていましたね。
軍隊というとすぐ戦争とか軍国主義とか言いますが、昔は兵役を終えることが人間形成の上でひとつのステップになっていたのですね。平和ないい時代ですが、時代のちがっていた私たちのときは決められたこととして軍隊に抵抗なく入っていました。若いときに自分をすてての2年間でしたが、それはそれなりに役に立ったと思いますよ。

西島

戦争を嫌う気持ちは、若い人より私たちのほうがよほどあると思いますが、それとは別に、やはり軍隊は卒業してきたんだなあ、という気持ちがありますね。

軍隊を除隊したら郷党の模範たれという考え方がありましたからね。帰ってきて初めて1人前で嫁さんをもらう資格ができる、みたいなところがありましたね。

石田

よしあしは別として、人間がつくられた場所でしたね。平和な40年の間に、軍隊もすっかり風化してしまいましたが、冷静な評価の中で人間修養の面などは、見直されてもいいでしょうね。

どうも長時間ありがとうございました。

石田順平氏 略歴

大正4年博多浜小路に生まれる。奈良屋小学校、福岡中学校、龍谷大学卒業。
石田コンクリート株式会社社長。博多町人文化連盟常任理事。博多煎茶会会長。
(号東永)フクニチ『博多なぞなぞ』選者。著書に『博多なぞなぞ』がある。