No.32 近代洋画界における「無冠の帝王」児島 善三郎

対談:昭和60年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州造形短期大学 学長 谷口 治達氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


三者三様の魅力

Profile:児島善三郎 年譜

昭和29 荻窪の自宅にて

四島

博多からは多くの芸術家が出ていますが、今日はその1人である油絵の児島善三郎さんについてお話しいただきたいと思います。

谷口

中洲から石堂川に至る〝古い博多の町″からは多彩な芸術家が出ていますが、その中でも木彫の山崎朝雲(やまさきちょううん)(慶応3~昭29年)、日本画の富田渓仙(とみたけいせん)(明12~昭11年)、油絵の児島善三郎(こじまぜんざぶろう)(明26~昭37年)の3人は博多が生んだ3大芸術家と言えるでしょう。これからは敬称略で話させてもらいましょう。この3人は3者3様で、それぞれの生まれも性格も違っていて、おもしろいですね。山崎朝雲は櫛田前町の生まれ、富田渓仙は下川端、児島善三郎は中島町です。性格はというと、朝雲は几帳面を絵に書いたような真面目な人で、渓仙は横山大観(よこやまたいかん)等の日本美術院に属し、ユニークで個性的、そして洒脱な日本画を描いた人です。

四島

その他には、どんな人があげられますか。

谷口

彫刻では朝雲門下より冨永朝堂(とみながちょうどう)、日本画なら今中素友(いまなかそゆう)、小早川清(こばやかわきよし)、油絵では山田栄二(やまだえいじ)や木下邦子(きのしたくにこ)といった人たち。
児島善三郎が独立展を創設して後輩をどんどん支援するので、九州に独立の人脈というものができてきますね。弟子筋にあたる人に、赤星孝(あかぼしこう)、小原雄二(こはらゆうじ)、足達襄(あだちじょう)などがいます。独立展の中の福岡勢は今日でも主流派を占めています。

四島

児島善三郎さんの絵を見ていると、明るい色彩で気宇壮大、豪快、豪奢な感じがしますね。

谷口

そこが博多というか、南国的なところですね。

学校を中退して油絵の道へ

西島

生まれたのは中島町で……。

谷口

お父さんが九州一の紙問屋児島本家の九代目です。裕福な商家の長男坊として、明治26年2月13日に生まれています。

四島

絵が好きだということで、家業は継がないで弟に家督を譲ったんですね。今の児島紙店の社長さんは善三郎の甥御さんですね。

谷口

中学は修猷館ですが、3年生のときに油絵を描きだして熱中しています。家が紙問屋だから、絵描きさんも出入りし、影響を受けたのかもしれませんね。

四島

中学3年で油絵というと、当時としてはずいぶんハイカラだったのですね。

谷口

修猷館の2年下に中村研一(明28~昭42年)がいました。彼も後年、官展を代表する大家となります。善三郎は研一らを誘って修猷館時代に、パレット会という洋画の同好会をつくっています。善三郎はこの会のことを、ふざけて"テレット会″と言っていたそうです。絵を描きだしたらテレ~ッとして、成績が下がったからというんですが……(笑)。

四島

同じ時期に中村研一がいたというのはおもしろいですね。生涯の友人になるのですね。

谷口

ええ、研一はかなりかわいがられていたようで、ときどき児島紙店の善三郎の部屋をのぞいたりしています。後に研一が言っていることなんですが、善三郎は部屋中に高価な骨董品などを並べ、その中に座って絵を描いていたそうです。蔵から気に入ったものを持ち出しては周辺に置いていたのでしょうね。
中学を卒業後は長崎医学専門学校の薬学部に進みます。

西島

画家を志しているのに、医学というのは……。

谷口

やはり親の要望だったようです。善三郎自身も医者や薬剤師になる気は全くなくて、長崎は景色がいいから絵が描けるだろうというような気持ちだったようです。親としては薬学を学ばせて、絵の具とか顔料とかにも商売の手を広げようということだったのでしょう。ところが善三郎はどうしても画家への夢を断ちきれず、20歳のときに中退し、実家の売り上げを失敬して上京してしまうんですね。これが大正2年のことです。

四島

当時は長男は跡取りということで、たいへんな存在でしたから、家業を継がないということになると、親子の葛藤がたいへんだったでしょうね。善三郎も家を飛び出すくらいのことをしなくては、志は貫けませんね。

谷口

おもしろいエピソードがあるんです。あるとき、父親が善三郎の画家志望を断念させようとして、生命判断師に「画家になっても偉くなれないから、あきらめるように言ってくれ」と頼みます。易者は承諾したのですが、善三郎の前に座るなり「これは偉い画家になる。もし家業をつがせると、家を潰してしまう」というのです。打ち合わせと違うと父親はあわてたでしょうし、善三郎は我が意を得たりというところだったでしょう。こういうこともあり、善三郎が家出した後はもう仕方がないということで……。

西島

結局は許したのですね。

谷口

東京に姉名義で送金までしていますから、不孝者とは思っていても、やはりかわいかったのでしょうね。やるからには東京美術学校に入れということだったようです。

四島

美校には合格したんですか。

谷口

入試のために岡田三郎助(おかださぶろうすけ)(佐賀県出身、明2~昭14年)が指導する本郷洋画研究所に2ヵ月ほど通っていますが、失敗しています。試験場では、自分の前にいた男が下手に絵を描いているので、これなら1番で合格、と思ったそうですが、結局はその男が合格して自分は落第、これ以後は学校が馬鹿らしくなって2度と受験していません。

西島

中村研一は美校に合格し、岡田三郎助について有名になっていくでしょう。

谷口

善三郎はこれといった師にもついていません。彼の師は常に自然で、自分の力以外には誰にも頼ろうとはしなくなります。

二科展に5点入選

谷口治達氏

四島

大正の初期といえば、画壇が大きく動いていた時代ではありませんか。後期印象派のセザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどが喧伝され、印象主義やフォーヴィズムを信奉して、高村光太郎岸田劉生(きしだりゅうせい)等が結成した大正初期の美術家グループのフュウザン会、劉生や木村荘八(きむらそうはち)、中川一政(なかがわかずまさ)等の草土社などの運動が起こり、文展に飽きたらない有島生馬石井柏亭などが大正3年には在野の団体として二科会を設立していますね。

谷口

ええ、この時期に善三郎もセザンヌに傾倒していたようです。ところが上京して2年めに喀血して4年ばかり博多で療養生活をするのです。再び東京に出てくるのが大正9年。27歳のときです。そのときには、父親とも話がついて、家督を正式に弟に譲りました。この頃、善三郎には内縁でしたが、「はる」という奥さんがいて、7歳になる子供までいたのです。父親は2人の結婚もさせねばならず、かなりの心労だったことでしょう。

四島

そうした中で二科展に入選、嬉しかったでしょうね。

谷口

そうでしょうね。それも二科展に5点入選という壮挙をなしています。大正10年、28歳のときですね。当時は二科に人選したというだけで新聞に大きく掲載される時代だったので、かなりの大ヒットと言えるでしょうね。

四島

そのときの福岡での評判はどんなふうだったのでしょう……。

谷口

当時は地方に美術館も展覧会もあまりありませんから、洋画に触れる機会がない。一般の理解は薄かったでしょうね。そこへ児島紙店の総領息子が、油絵とかで東京でどえらい展覧会に選ばれなさったということで、評判になり、本人の喜びはもちろんでしょうが、両親も鼻が高かったことと思います。

四島

林武の入選もその頃ですか。

谷口

その次の年に2人そろって二科賞をもらっています。それ以来2人は生涯の友人となり、ライバルとなったのです。善三郎は昭和37年に69歳で亡くなりましたが、林は善三郎を追悼して「お互いに本当にライバルだった。僕が昨年パリにいたころ、彼は病床でパリ行きの計画をしていたそうだ。しかし、その彼の願いは空しかった。僕はこの最後までライバルであった児島くんに言いたい。『本当に僕の好きな画家であった』と」と言っています。(昭和37年3月23日付、朝日新聞)
二科展入選の直後に、善三郎は代々木の初台にアトリエをつくり出します。次に国分寺、荻窪と生涯に3軒のアトリエをつくりますが、その最初ですね。土地が何百坪かあって、建坪が60坪というたいそう大きなものでした。

四島

それから洋行するのですね。

谷口

アトリエを建ててすぐの大正12年の9月1日に関東大震災がおこって、しばらくは物情騒然として絵を描くどころではない。それで翌々年の大正14年に外遊を決意します。昭和3年まで3年間行っていますが、これもたいへんだったろうと思います。当時、大学出の初任給が50円くらいだった時代に、3年間の留学費用が1万円かかったそうですから。

西島

実家が裕福でないと、とても行けませんね。

四島

パリで誰かに師事したということは……。

谷口

当時はモディリアーニ、スーチン、キスリング、シャガール、藤田嗣治などパリにいた国外の芸術家の活躍が目ざましく、この人たちを呼称したエコール・ド・パリの新しい活気の時代でしたが、面白いことに彼は誰にも師事していません。もっぱら基礎的な勉強に力を入れたようで、イタリア・ルネッサンスのティツィアーノやティントレットなどの古典を学んで絵画の基礎のイロハから出直しているんですね。

四島

パリに行った絵描きさんは多いでしょうが、そういう姿勢の人は善三郎だけだったでしょうね。セザンヌが好きだったそうですが、タッチや色調を見ているとマチスの影響が大きいような気がしますね。

谷口

西欧の模倣ではなく、日本の油絵をと考えていた人ですが、マチスをはじめ天才たちの滋養分はどしどし吸収したでしょうね。

タッチを大事にする博多の絵描き

西島伊三雄氏

西島

善三郎の絵はタッチが大胆で堂々としていますね。絵を見ていていつも思うのですが、博多の絵描きというのは、油絵でも筆のタッチのうまい人が多いですね。ルオーのように塗り重ねていって深い感じを出すのではなくて、日本画のように1回のタッチを大事にする。一筆で決める、そのタッチがうまい。善三郎も中村研一もそうですし、仙涯から渓仙への日本画の流れでも、墨絵のようなタッチのはっきり出るものが多いですね。

谷口

墨絵のように一気呵成に描くというのは善三郎の絵に関しても言えるようです。

四島

一気呵成に描くということは感情がそのまま出るということですね。

西島

そうしないと自分の感情が表現できないのでしょう。何回も何回も描き直し、何日間もかかっていたのではなんだかわからなくなってしまうのですね。いやになってくるんじゃないかな。はっきりしたタッチというのも博多っ子特有の性格的なものがあるような気がします。やり損なったらやり損なったでいけ、というような……。その点では同じ福岡県でも筑後の画家はタイプが違いますね。久留米出身の坂本繁二郎(明15~昭44年)にしても、古賀春江(明28~昭8年)にしてもコッテリ塗り重ねた美しさがある。土地柄でしょうか。

谷口

善三郎の好きな言葉に「写実とは久遠の生命の把握」というのがあるのですが、久遠の生命を把握するには知性ではなくて、感情、感性でつかまなくてはならないというんですね。それを把握して大胆なタッチで描いたんでしょう。

西島

なるほど。感性ですね。それに善三郎のデッサン力。それで一筆でビューンと力強いタッチが生まれたのですね。

谷口

ヨーロッパで基礎づくりをいちばんに勉強した人ですからね。基礎のデッサン勉強には特に力を入れたようです。

西島

キャンバスの上に塗り重ねていくうちにでき上がるというものではないのでしょうね。頭の中で仕上げて、仕上げて何回も仕上げたものをドーンとぶつけていくという描き方ではないでしょうか。

四島

じゃ、描くのも割合と早かったんでしょうかね。亡くなるときも、描きかけの絵が十数点あったそうですね。

日本的フォーヴィズムの巨匠

四島頭取

四島

ところで、善三郎の近代絵画における位置づけというのはどうなるのでしょう。

谷口

善三郎の絵画の根底には、西洋で起こったフォーヴィズムの影響があります。フォーヴィズムというのは、原色を使った荒々しい感情を表現していくという運動なんですが、善三郎はそれを取り入れて、それに日本ふうというか、文人ふうのものを加味していったのです。

西島

フォーヴィズムというと野獣派ですね。

谷口

マチス、マルケ、ヴラマンクなどが一九〇五年に初めてパリのサロン・ドートンヌの一室に彼らの奔放な作品を発表したときに、その人たちの絵があまりにどぎついので、それを見て美術の評論家たちが「野獣たち」と呼んだのです。いまのアクションペインティングなどのはしりですが、赤いものを赤く描くのではなく、写実の上に自分の感情を大きく反映させるような絵の運動です。そういう系譜の中に善三郎も入るのですね。彼は日本人の感情をフォーヴィズムに反映させようとしたのです。善三郎は、一方で日本美術では桃山から江戸時代初期の俵屋宗達尾形光琳尾形乾山など琳派を好みましたので、そんな感覚をフォーヴの手法と一致させていったのです。強烈な感情表現と日本的な装飾性とを組み合わせた文人フォーヴを独立展を通して展開し、そのリーダーであったということになりますね。

四島

中でも特に影響を受けているのは乾山ではないでしょうか。

谷口

絵の中に○とか×とかを入れて風景を描いています。対象を極度に単純化すると○や×になったのですが、そんな簡潔な画法が乾山に通じているかもしれませんし、本人も乾山にことにひかれたと言っています。宗達、光琳、乾山、の流れと西洋のフォーヴを一致させようという考えは、ヨーロッパ留学の頃に固まっていたようです。

日本人の油絵を

自画像(1936~51年)
春遠からじ(1950年)
箱根(1938年)

西島

独立美術協会をつくったのも、そうした考えからですか。

谷口

ええ。協会設立当時の彼の抱負に「独立美術協会は、私と林重義、里見勝蔵の合作である。二科の形式的な新しさばかりを尊重するやり方は、日本の美術をフランスの植民地化していくように思われたし、それでは日本固有の油絵をつくっていくことへの指導精神の欠如にもなる。そこで、もっと自分たちの足で、大地を歩こうではないかという私の意見から出発したものである。」という部分があるのですが、“独立”と名づけたことに、二科からの独立と西洋美術からの独立の二重の意味があり、日本人の油絵ということに関する彼の意気込みがよく伝わってきますね。

四島

乾山を自分の中で消化させ、西欧追随の洋画から日本の洋画をつくろうとしたわけですね。彼の絵の堂々とした印象も、その気宇の広大さによるものでしょうね。
ところで善三郎に共鳴した独立美術協会のメンバーにはどのような人が……。

谷口

前にあげた林重義里見勝蔵のほか、林武高畠達四郎中山巍三岸好太郎伊藤廉など13名です。

四島

錚々(そうそう)たる連中ですね。

谷口

たしかに、藤島武二岡田三郎助、あるいは梅原龍三郎安井曽太郎の次を担う巨匠だったでしょう。もう10年の命があれば、画壇に確実に児島時代が出現していたでしょうね。

四島

惜しいですね。独創性ということから言えば善三郎はその4人を凌駕しているのでは……。

谷口

そう言えるかもしれません。善三郎の大きさは、没後20余年の今日でも、まだ十分に評価されていない面がありますね。

四島

現代は価値観が非常に多様化していて、すべての人に支持されるという画家はなかなか出にくいのですが、技術的に秀れた画家より、強烈な個性、独創性を持った画家のほうが、現代にマッチしていますね。そういう意味で児島さんは、これから、もっともっと評価の上がる人だと思います。

谷口

人のまねはしない、自分の世界を持っている人ですからね。大きな風景を1枚の絵の中にグっと凝縮する。躍動しながら装飾美のある作風……実にいいですね。

四島

その児島さんの絵に博多であまり接することができないのは残念ですね。福岡で大きな展覧会はやっていないのですか。

谷口

戦前に1回やっています。昭和3年に福岡県商品陳列所で滞欧作を80点発表したという記録がありますので、かなり大規模だったのでしょう。戦後は、八幡で開催された現代九州巨匠展に10数点だしていますが、本人主催の個展はありません。没後の回顧展としては、51年の秋、県立文化会館が開きましたが、全般に福岡には作品が少なく、常時は見られません。

西島

あらためて画集を見ていると、本物を見たいですね。それから、偉い絵描きさんもよく本の挿絵を描いたりしているのですが、そのような作品は……。

谷口

描いていないでしょう。善三郎は戦争画も描いていませんね。

四島

反対におもしろいのは、彫刻をやっていることですね。

谷口

若いとき彫刻を二科展に出品して、陳列を拒否されたことがありますね。善三郎は画家であって彫刻家ではないのだから、彫刻は出すな、ということで……。それでもめて、結局は自分の絵の前に置くということで決着したのです。あの頃はかなり量感に富んだ人物画を多く描いています。量感を具体的に把握するために彫刻をしたのでしょうね。

四島

画家で彫刻もしたというのは、あまりいないのですか。

谷口

彫刻家でデッサンを描いている人はいましたが、画家で彫刻というのは日本にはあまりなかったようですね。西洋ではルノワール、モディリアーニ、ピカソなどたくさんいますが……。善三郎は、立体の処理法ということに非常に関心をもっており、大久保秦氏への手紙の中でも、「日本の油絵は立体に対して決定的な解決をつけねばなりません」と言っています。

豪快さの裏の優しさ

四島

性格が非常に激しかったようですね。

谷口

林武が善三郎のことを「九州男児の豪快さと博多商人の強引さ」というふうに言っていますが、独立美術協会を設立した当時、昼間は必死になって絵を描いているが、夜になるとどぎつい柄の上着を着て、派手なネクタイを締めて遊びに出かけたそうです。その遊びかたがまた激しい……。独立展の三岸好太郎が「生活を生産と消費に分けると善三郎はその両極を兼ね備えている」と……。

四島

自信家だったのでしょうね。

谷口

といって、いばりかえっていたわけではありません。性格はたいへん真面目だったと思います。真面目だから遊ぶのも真面目に必死になって遊んでいたわけで、女性にふられたりするとシュンとなってしまうのです。また、画論を始めて興奮すると、涙をポロポロこぼすといった涙もろい面もあったようです。強い一面、ある優しさも秘めている。それが絵にも表れ、豪快さの一面、緻密な表現があることにもつながってくるのでしょうね。

西島

いろんなエピソードを持った人のようですね。

谷口

逸話のひとつに、ケチだったということがあります。代々木、国分寺、荻窪と3軒もアトリエを建てたり、金づかいは荒いのですが、出費には渋いところがあり、飲みに行っても、なかなか自分では払わない。一緒に行った中に金持ちがいると、その人に払わせる。若い人たちと一緒のときは、割勘の分だけサッと払って、「おれはもうこれだけしかないよ」と(笑)そういうことをしていながら周囲に人がいつも集まってくる。憎めないところがあったようです。

四島

プライドがとても高かったとか……。

谷口

ええ。日本の油絵を自分が……という自負があったからでしょうね。プライドといえば、自分の絵の価格をとても気にしていたそうです。まあ、そういうことが、戦後になって美術界でとやかく言われることになるのです。これだけの画家でありながら、変な言いかたですが、何の賞ももらっていない。芸術院会員にもなっていません。どうもこれは、戦後になって作品だけではなく、作者自身が問題とされる面がでてきたためでしょう。

無冠の帝王

縞切れの上の静物 1950年

西島

福岡でも何も受けていないのですか。

谷口

西日本新聞の前身である福岡日日新聞が、福日文化賞というのをある時期まで出身の人にもあげていて、福田平八郎堅山南風らがもらっていますが、善三郎はもらってはいませんね。文字どおり「無冠の帝王」ですね。

四島

ところで本人には「帝王」という意識はあったのでしょうか。

谷口

あったんじゃないでしょうか。善三郎が独立展の初回に出品した「独立美術展首都(第二の誕生)」という絵は、いろいろと取り沙汰されるのですが……。3人の女性が描かれていて、横の2人が真ん中の1人にかしずいているような図なのです。真ん中が独立展で脇が二科展と帝展の象徴であるとか、中心が善三郎で他が仲間の画家たちであるとか……。さらに戦後の独立展においても、とかく自分が中心であるという意識は強かったようです。

四島

善三郎の絵を見ていると花を描くときには非常に装飾的で華やかになりますね。ところが風景になると全然違う。華やかさがなくなってスケールの雄大さが出てくる。対照的ですね。

谷口

花は室内でいじりすぎてしまうのでは……。それに、花を描くときは、とかく健康の調子が悪いときでした。体調のいいときには、やはり積極的に外に出て風景を描き、それも力強く一気に描くためにその違いが出てくるのだと思います。

四島

風景のほうが、彼の本質を表しているのではないでしょうか。善三郎の特徴である日本的なフォーヴ、枯れたフォーヴという感じがよく伝わります。
春遠からじ」(昭25)や「アルプスへの道」(昭26)、「熱海夜景」(昭32)など、日本的フォーヴィズムの1つの到達点といえそうですね。

西島

「熱海夜景」などかなり原色がつかってありますが、処理がうまいですね。

谷口

善三郎は色彩的に秀れた画家ですね。色のコントラストは強いのに、その激しさを感じさせない見事な調和を生みだしています。
善三郎は息子である児島徹郎さんに向かって「色彩感覚は天賦のもので、後天的に身につくものではない。絵描きにとって色感がよくないことは致命的だ」と言っています。

四島

善三郎は博多に帰ろうとは思ったことはなかったのでしょうか。

谷口

3番めの杉並のアトリエをつくっているときの昭和24~5年頃に博多に帰ろうかと考えたことはあったようですね。太宰府あたりなど土地を探し歩いています。なかなか気に入った場所がなくて、やっと気に入ったかと思うと、そこは史跡の国分寺跡でダメ(笑)。まあ、本気で帰って来るつもりだったかどうかはわかりませんが……。

四島

帰っていたら、おもしろかったでしょうね。坂本繁二郎さんもいたし……。

谷口

さあ、しかし坂本さんのように地方にうずもれていられる画家ではなかったでしょうね。やはり中央で脚光をあびていなければ気のすまない気性だったのでは……。

四島

そういう面では、傲慢なほどの自信家であり、一面感動屋で涙もろい。まさに、孤高にそびえる無冠の帝王というのがぴったりですね。ともあれ児島善三郎さんはこれからますます評価されてくる大きな存在ですね。今日は貴重なお話をどうもありがとうございました。

谷口治達(はるみち)氏 略歴

昭和7年広島に生まれる。同31年、東京大学国文学科卒。同年西日本新聞社に入社。編集委員、文化部長。その後、論説委員。現在九州造形短期大学学長。
著書に『坂本繁二郎の道』、『冨永朝堂聞書-彫心澄明』など。