No.34 激動の時代に生きた巨人 緒方竹虎

対談:昭和60年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡市長 進藤 一馬氏
聞き手:
福岡シティ銀行頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


温厚・果断の自然人

緒方竹虎
(修猷通信「緒方竹虎」より)

司会

緒方竹虎(おがたたけとら)さんは(明治21―昭和31年)大宰相の識見を持っておられた方だけに、追慕が年々深まるようです。
今日は、緒方さんの親友だった中野正剛さん(明治19―昭和18年)の秘書をしておられた進藤市長さんに、お感じになったままの緒方竹虎像をお話しねがいます。

四島

緒方さんの家系は有名な蘭学者だそうですね。

進藤

おじいさんの郁蔵さんが、福沢諭吉の先生だった緒方洪庵(おがたこうあん)と義兄弟だった有名な蘭学者でした。お父上の道平さんも明治初年に外国へ留学され、林学を学んで、帰国後は内務省につとめられました。山形県に勤務のとき、緒方先生が生まれられたんですね。
先生が4歳のとき、父君が福岡県書記官となられ、退官後は銀行の頭取をされ福岡に永住なさいましたが、それで先生と福岡との結びつきができたのですね。

四島

先生の体の中には、開明的な蘭学者の血が流れているのですね。

進藤

そうですね。先生の視野の広さの一因かもしれませんね。
緒方先生は33年間を新聞人として、そして昭和19年に政界に入られてからは、その清澄、闊達な人柄からいつも日本のあり方、将来を考えておられました。
新聞人としては、広い裾野を感じさせる論壇をはられ、政界や軍部にもどしどし物を言われ、政界に入られては終戦時から戦後の混乱処理、そして保守合同と実に大きな仕事をなさいました。
新聞人としても、政界人としても、常に一級の業をなさいましたが、それは、緒方先生の海を感じさせる大きな風格、西洋的教養と東洋思想が、渾然と一体になった大きな人柄によるものでしょうね。性格的には外面温容、内面果断のお人柄でした。

四島

市長さんは、緒方さんにたびたび接しておられたのですね。

進藤

私が中野先生の家の「猶興居(ゆうこうきょ)」に書生としてはいったのが昭和12年で、緒方先生のところへお使いにもよく行くし、中野先生の会合や郷土の会合でもよくお目にかかっていました。朝日の政治部長をされていた緒方先生に、政治の動きなどをよく聞きに行ったものです。緒方先生はお忙しい中に嫌な顔もされず、よく話をしてくださいました。そういうところに緒方先生の魅力があると思います。
緒方先生は、相手が偉い人であろうが下っ端であろうが一様に扱われるし、丁ねいに挨拶もなさる。威張ったところがなくて、本当に自然人というか、天衣無縫で飾らないお人柄でした。会った人みんながあたたかい、やわらかい感じを受ける……、これが緒方先生の天性のものだったと思いますね。この風格で緒方先生は目上の人にも一目おかれていたようです。

2・26で沈着な対応

四島

大正の元号制定。あの大スクープはまだ新聞記者駆(か)け出し時代ですね。あれもそういうことから。

進藤

先生の25歳のときですね。明治天皇が崩御され、枢密院で新しい元号が決定されるというので、緒方先生は顧問官の三浦梧楼(ごろう)さんの家で帰りを待っておられた。三浦梧楼という人は、明治維新に奇兵隊で活躍した元老ですね。
大勢の記者が目をつけていたでしょうが、緒方先生は三浦さんに信用されていたので、元号は「大正」、読み方はタイショウであると教えてくれたんです。
大スクープですね。後に緒方先生は三浦さんの遠縁にあたるコト夫人と、玄洋社の創始者である頭山満先生(安政2-昭和19年)の媒酌で結婚していますから、ずいぶん信頼されていたんですね。

四島

東洋的な沈毅な風貌も感じますね。2・26事件のときに反乱将校を相手に冷静に対応されたことなど……、あのときは反乱将校が朝日に来て、緒方を出せと言ったんですか。

進藤

いいえ、社の代表者をということでしたから、先生でなくてもよかったのです。しかし、緒方先生は、「僕が行こう」と、すぐ降りて行かれたんですね。
会ってみると、自分の息子ぐらいの若い者がいる。目は血走っているが、名刺を出すと顔をそらして、こちらをあまり見ることもできない。これは大丈夫だと、緒方先生のほうが相手の顔を見すえて話をされたようです。

四島

その士官は朝日を襲う前に、高橋是清(これきよ)蔵相を殺害していたのでしょう。殺気だっていたでしょうね。そのときピストルは……。

進藤

ええ、つきつけられていました。まあ、緒方先生は小野派一刀流の大目録を受けたほどの剣道の達人ですから、腹がすわっていたんですね。結局、蹶起(けっき)趣旨書を置いただけで何もせずに引きあげていった。緒方先生ならではの対応があったからでしょうね。

進藤一馬 氏

四島

中野正剛さんが切腹して自裁なさったのは、何年でしたかね。あのとき葬儀委員長を引き受けられたのも、たいへんな勇気がいったことですね。

進藤

あれは昭和18年の10月でした。東条内閣を激しく批判して逮捕され、憲兵の看視付きで帰宅中に割腹自殺なさったのです。
東条首相の目が非常に厳しい頃ですから、葬儀委員長を引き受けるというのは大変なことでした。しかし、緒方先生は中野先生とのつながりを大切になさったんですね。「中野のお父上も奥さんも息子さんも自分が葬儀委員長をしているのに、中野の葬儀委員長になるのが何がおかしい」と言って……、そういうときの強さは実に見事でした。

四島

なにか西郷隆盛あたりを髣髴(ほうふつ)とさせるものがありますね。大きな人だったんですね。
緒方さんの人間面ですけれども、緒方さんはチャッキリ節や白頭山節などもお上手だったそうですね。

進藤

うまかったですね。歌だけじゃなく、何をやってもスジがよく、すぐ覚えられる。中学に入る前から福岡の一到館という幾岡先生の道場で剣道を修業されて、その筋がいいというので、大阪の先生が養子にほしいと言うぐらいでした。
チャッキリ節は終戦後の追放時代に、静岡に行ったりしてのんびりしていた頃、覚えられたのでしょうね。
調子がいいですもんね。すべてにおいて調子はずれということがないですよ。小学校のときも成績がよくて、2学年特進されたことがあります。優等生で何をやってもよくできる。だけど、天才という感じの人じゃないですね。

四島

学校も無欠席だったそうですね。真面目で努力の人で……。

進藤

小学校から修猷館まで無遅刻、無欠席、無早退(笑)。これはお兄さんの大象さんも同じで、それで修猷館卒業のとき先生方がお金を出し合って、英語の辞典を贈ってくれたそうです。

四島

いい話ですね。

進藤

努力家ですが、そうつとめているようには見えないですね。その緒方先生が、中野先生のことを非常な勉強家だと褒めておられます。それほど中野先生はよく勉強なさいました。2人は若い頃から切磋琢磨しながらやってこられたということです。

親友 中野正剛

自炊仲間。
左から中野正剛、緒方竹虎、阿部眞言
(朝日新聞社刊「緒方竹虎」より)

四島

中野正剛さんとは無二の親友で、修猷館時代からですか。

進藤

そもそものつながりは、福岡師範学校付属小学校時代に1歳上のお兄さんの大象さんと中野先生が同級生だったことから始まるのですね。この頃から中野先生はお兄さんよりも、緒方先生と仲が良かったようです。
中野先生が修猷館に入学後、足のケガがもとで1年間休学したために緒方先生と同級生になるのですが、それでより親密になられたんですね。修猷館の同級生には、安川電機の創立者の安川第五郎さんもおられます。
中野先生は修猷館を卒業後、早稲田から朝日新聞へと進まれますが、緒方先生は自分は商業で身を立てるということで、東京高等商業学校(現一橋大)に進まれます。中野先生は政治家を目指しておられたようですが、緒方先生は政治資金でも何でも俺がつくってやるからまかせとけ、というようなことを言っておられたそうです。ところが高商に入られて1年くらいたつと、校風が合わないのと大学昇格運動が起こり、校長排斥にまで騒ぎが大きくなり、明治41年には学生は総退学ということになる。緒方先生も福岡に帰られて1年ばかり悩んでおられたようです。一方中野先生は、早稲田で中国やいろんな国の人と交際があり、緒方先生にもしきりと早稲田に来るように勧められた。それで、それじゃ行くかということになり、緒方先生が早稲田の2年に転入されます。

四島

高商時代は、ずっと中野さんと同居しておられたそうで、中野さんの勧めが大きかったのでしょうね。

進藤

中野先生という人は、自分と親しい人と仕事を一緒にしたいと願われる人なんです。このとき一緒に朝日に入社した人に、中国問題の大家であった大西斎(おおにしいつき)さんがいます。

四島司

四島

中野正剛さんはたいへんな名文家としても知られていますが……。

進藤

中野先生は朝日に入社するとすぐ、文筆で有名になります。『朝野の政治家』を書いて出版し、ついで『明治民権史論』を書くんですが、これがまた天下の名文として執筆者は誰だと騒がれました。
ものを書く一方では、桂内閣のときにおこった憲政擁護運動に参加して、緒方先生もいっしょに、犬養毅や三浦梧楼、古島一雄などいろいろな政治家を訪問して歩いたらしいですね。
こういうふうに中野先生は社外では声望が高いのですが、内部では反感がずいぶん強かったようです。護憲運動の記事も、他の記者たちは中野と緒方にやらせておけということでろくに書かない。中野先生と緒方先生で書きまくって、1ページの政治面を埋めたこともあったそうです。

四島

中野さんは非常に負けず嫌いの激しい性格だったそうですが、そういう意味では親友同士といいながら、対照的な性格だったようですね。
政治的にも立場を異にされていたのでしょう。中野さんが全体主義に傾倒していたのに対して、緒方さんは英米派でしょう。日独伊三国同盟の頃から政治的には一線を画されていたのでは……。

進藤

そうですね。緒方先生は英国式の紳士タイプで、考え方も英米派というか日本の三国同盟加盟にも反対の態度をとっておられました。まあ、緒方先生は議会主義者と言えるでしょうね。
おだやかな紳士タイプということでも、中野先生とは非常に違っておられましたね。それで政治の話をすると2人の間もキシんでくる。自分たちはもう政治の話はするまいや、ということになって……。

四島

なにか乗馬の話だけされたとか……。

進藤

ええ、緒方先生や2人の友情は一生保ちたいということで、議論はお互いやめて乗馬の話だけにしようじゃないかと申し入れられた。それを中野先生も承知なさって。
しかし、中野先生は亡くなるまで緒方先生を政界にひっぱり出し、共に中央にあって一緒に政治をしようという気持ちがずっとあったのですね。

四島

馬の話をしているときの緒方さんは、非常に機嫌が良かったと聞いています。中野さんは義足で乗馬をなさったのですか。

進藤

中野先生は足の手術がうまくいかず、片脚切断されて義足でしたが、緒方がやっているなら俺もと、自邸に馬場まで設けられる熱の入れようで、最後には障害とび越えもできるようになられました。たいへんな負けず嫌いでしたね。

日華和平に奔走

四島

前大戦に突入する寸前に、緒方さんは中国との和平工作を頭山満さんとずいぶんされたそうですが……。

進藤

私もよくは知らないのですが、以前から乗馬の仲間だった東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)と、時局の打開策について話し合っておられて、こうなったら頭山満先生にでも重慶に行ってもらって、蒋介石総統と会ってもらうしかない、ということになった。
頭山先生は、孫文先生の中国革命を親身になって応援し、蒋総統が北伐の失敗後、頭山先生を訪ねてみえたというつながりがありますから、東久邇宮もずいぶん期待をかけられていたようですね。緒方先生は、自分も頭山先生について重慶に行こうと言われていたようですね。
ところが日華和平のためには、中国大陸から日本軍の撤兵が不可欠ですが、東条首相が絶対反対で、この工作は行き詰まってしまったのです。

四島

そして次は、大戦も末期の昭和20年、小磯内閣に入閣されたとき繆斌(ミョウヒン)という人を通じて、和平工作を熱心にやられたようですね。

進藤

そうですね。だんだん戦局は悪くなってくるし、どうしても中国と和平を結ばねばならないということでされたのですね。繆斌は、南京政府の考試院副院長でしたが、ずっと上海にいました。蒋介石の重慶政府とも密接な連絡があるし、日本人の知人も多い。緒方先生は前年に上海で繆斌と会っているんですね。
このまま戦争を続ければ、日本のみならず中国も駄目になる。沖縄がアメリカにとられれば、ソ連は満州に進出するだろう。ソ連の勢力が強くなってくると中国も困る。早く日中の和平を結ぶのが両国のためだということで、繆斌が日本人にいろいろと工作をしていたんです。
小磯内閣になって、繆斌を日本に呼ぼうじゃないか……。小磯さんも、よかろうということで繆斌に重慶との接触を頼んだのです。
そこで、その頃戦時特別委員会という総理と陸海軍大臣や5、6人の軍人を中心とした戦争問題について話し合う委員会に、繆斌工作が提案されたのです。ところが陸軍側は、柴山兼四郎中将が南京の汪兆銘政府を通じて重慶と接触をはかり、日華事変を解決させようじゃないかという方針。

四島

かみあわないですね。

進藤

汪兆銘はすでに亡くなっており、陸軍は汪の側近だった陳公博周佛海を通じて重慶工作を考えているんです。ところが、周彿海は蒋介石を裏切ったことがあるのであまり信用がないんですね。
一方繆斌からは、「電信技師ほか必要な人間を3、4人連れていくからその用意をしてくれ、そして7人分の飛行機の座席をとってくれ」という申し入れだったのですが、陸軍が繆斌1人でいいという。結局1人で来日して、緒方さんや小磯さんと会うのです。繆斌は小磯さんがあまり熱心でなかったように言っていますが、小磯さんは杉山元陸相ともしっくりいってないし、杉山さん自身も陸軍から押さえこまれているし、と無理からぬ面もあって話がすすまないんですね。

四島

繆斌案はどんな内容でしたか。

進藤

南京政府の解消と、重慶側の承認する民間有力者による国民政府南京留守府政権をつくることでしたね。留守府政権と停戦、撤兵の交渉を開始するということで、妥当な案だったのです。
しかし、それをとり上げる力は小磯内閣にはない。その上、外務大臣の重光葵(しげみつまもる)さんが、繆斌は蒋介石の信頼がどれくらいあるかわからんと言い出す。そこいら、ちょっとこの問題の弱いところなんですね。

四島

蒋総統の信任状でもあればよかったのですね。

真藤慎太郎氏(右)と
昭和30年(朝日新聞社刊「緒方竹虎」より)

進藤

重慶と直接に電信させればよかったのでしょうが、それもさせない。そうこうしているうちにドイツは負けるし、ポツダム宣言も話し合われるようになってくる。緒方先生は、東久邇宮も繆斌案の支持者だし、なんとかして小磯内閣で戦争終結をしたいと、一生懸命になられたのですが、結局行き詰まって、このことから小磯内閣は瓦解してしまいます。
頭山満先生をつかっての和平工作の頃にはまだ余裕があったんですよ。戦局も有利に展開していましたし……。ところが繆斌工作の頃になると、もうどうにもならなくなって。どんどん戦争には負けてくるし、陸軍は本土決戦、海軍は沖縄と意見が相違するし……。あれがもう少し早く本当に繆斌が蒋介石と連絡がとれて、日本がその気なら南京で話し合いをしよう、撤兵しようということにでもなっていれば、終戦の様相もずいぶん変わっていたでしょう。残念ですね。

四島

緒方さんが、新聞人から小磯・米内内閣に入閣して政治家になられたというのは、中野さんの影響が大きいのでしょうか。

進藤

そうとも言えないでしょう。緒方先生は、中野先生からどんなに言われても政治家にはならん、ということで、朝日新聞に38年間ですか、ずっとおられたのです。ところが昭和19年に小磯・米内内閣ができたとき小磯さんから入閣して、たすけてくれとたのまれる、海軍大臣になられた米内(よない)光政さんからも朝日には自分が談判するから是非、情報局総裁になれと言われる。

四島

小磯さんや米内さんと緒方さんは、以前からお知り合いだったのですか。

自由党総裁時代 博多駅頭にて
(修猷通信「緒方竹虎」より)

進藤

緒方先生は山形の生まれですが、生家が小磯さんの家の近くだったということで親しくされ、朝日の主筆時代には小磯さんともよく会われていました。
小磯さんは首相になられる前は朝鮮総督で、政治の事情はあまりわかっていなかったんですね。それで、緒方先生もなんとか小磯さんを助けたいという気持ちがあったようです。
米内さんとも非常に懇意でした。米内さんの自宅が麹町で、そのそばに緒方さんと生涯の友人だった福岡出身の実業家の真藤慎太郎さんがおられて、慎太郎さんは海軍と関係が深く、米内さんとも親しい。だから、おおかた慎太郎さんが米内さんに緒方先生を紹介したのでしょうね。以来2人は相許す仲で、ことごとく意見が一致するんです。ただ1つ繆斌工作に関してだけ、意見が反対だったんですね。

四島

情報局総裁で、緒方さんの抱負は活かせたのでしょうか。

進藤

陸海軍それぞれの情報局を政府の情報局に組み入れて、日本の情報を1つにできるなら引き受けようということだったのですが、実際は東条系の軍人がずっと陸軍の情報局にいて統合を承諾しない。
結局内閣調査局のような形で、いろんな情報を集め、政府に提供するということになって、緒方先生が考えておられたように日本の情報を1本にして、政治の方向を変えていきながら、世界に対応していこうということはできなかった。残念でしたね。

緒方竹虎 略歴

緒方竹虎
(修猷通信「緒方竹虎」より)

緒方竹虎 おがたたけとら
1888・1・30-1956・1・28(明治21~昭和31)
政治家。

山形市に生まれる。
幼児、官吏であった父道平の任地福岡に移る。
修猷館から東京高等商業学校(現一橋大学)中退、早稲田大学専門部政経科卒業。
1911年(明治44)大阪朝日新聞社入社、のち主筆、副社長に進む。
1936年(昭和11)の2・26事件の際、東京朝日新聞を襲撃した反乱軍将校と沈着に応接、大事を食い止めた。
1943年10月、東条首相の弾圧に抗して自殺した中野正剛(修猷館、早大、朝日新聞を通じての親友)の葬儀委員長を務めた。
1944年小磯・米内内閣の国務大臣兼情報局総裁。繆斌(みょうひん)を通じて日中和平工作を図るが、陸軍や外務省の反対で失敗。
1945年、終戦直後の東久邇内閣の国務大臣、内閣書記官長、情報局総裁となり占領軍進駐、陸海軍解体に当たるが、翌年公職追放を受けた。
追放解除後自由党入党、1952年(昭和27)の総選挙で福岡県1区から立候補当選、第4、5次吉田内閣の国務大臣、官房長官、副総理。
1954年衆院解散を主張する吉田首相を説得して内閣総辞職。
自由党総裁。1955年の保守合同、自由民主党結成を推進、同党総裁代行委員となり、鳩山首相後継者と見られたが急性心臓衰弱で急死した。

剣道に秀で小野派一刀流の大目録を受け、修猷館剣道部に「心外無刀」の額を贈った。思想的には玄洋社の流れをくむアジア主義的なナショナリストと近代の開明的な民主主義者の両側面を持つとされる。
著書に『人間中野正剛』『一軍人の生涯一回想の米内光政』がある。

(西日本新聞社刊 福岡県百科辞典より)

保守合同、次は?

四島

戦後は自由党と民主党の保守合同が一番の功績でしょうね。

進藤

緒方先生が吉田内閣に入られての一番の問題が保守合同、これに一生懸命でしたからね。
緒方先生の真価を見せたのは、例の造船疑獄の後、ワンマンの吉田茂首相の解散論に断固として反対されたことでしょうね。佐藤幹事長の逮捕を犬養法相の指揮権発動でまぬがれたものの、野党から内閣不信任案が出される。そのとき吉田さんは強気で衆議院の解散をすると言われた。緒方先生は正論をとって内閣総辞職を主張。どうしても容(い)れられないならば、解散の書類に署名拒否という固い決意を示して、吉田さんと争われたのです。
当時、吉田さんの人気はだんだん下がっているし、緒方さんの人気は上がるしで、百数十人の代議士が、緒方先生に後をよろしくということで連判状をとったりしたこともあります。
そういうときでしたから、緒方先生に吉田内閣の副総理を早くやめないと、責任をいっしょにとらなくてはならなくなるという人があったんですね。しかし緒方さんは、今までこうしてきていたのに、今さらこっそり裏口から逃げていくようなことは俺にはできん、とおっしゃって、そういうところは筋を通される正々堂々とした人でしたね。

四島

その緒方さんが、柱となってすすめられたから保守合同が実現したのですね。

進藤

保守合同ですが、緒方さんの自由党側では、昭和30年4月に保守合同、翌年には緒方先生を総裁にという空気だったんですが、民主党は鳩山一郎総裁、緒方副総裁を強調して同調しようとしない。党首問題でもめたんですね。
それでしばらくは党首問題は棚上げにして、新党の運営は代行委員制にするということになったのです。緒方さんは保守合同に懸命で、総裁問題はそれほど気にかけてはいらっしゃらなかったのではないでしょうか。一党一派だけでは政治はできないから保守合同するしかない。それが日本の正しい議会政治のあり方だと主張されていました。

四島

保守合同の大仕事をなさった翌年に総理を目前に亡くなられてますよね。惜しいことでしたね。

乗馬。先頭は東久邇宮。
前から3番めが緒方竹虎
(修猷通信「緒方竹虎」より)

進藤

まあ、あのまま緒方先生が生きていらっしゃったとしても、鳩山さんがすぐ退かれたかどうかはわかりませんね。むずかしい兼ね合いですから……。でも日本の空気としては、次は緒方さんということでしたね。
緒方さんは政治家になるのは嫌って、自分は一生新聞記者をやりたいとおっしゃっていましたし、小さな新聞を自分で出したい、何ものにも支配されない自分の思うとおりの新聞を出してみたいというのが理想だったようです。それが政界に入られたというのは、小磯さんとの因縁というか、人間の因縁がずっとついてまわっていますね。

寒に耐える白い梅

四島

中野正剛さんにしても広田弘毅さんにしても、緒方さんにしても、最後が悲劇的ですね。死因は急性心臓衰弱だそうですが、以前から心臓は悪かったんですか。

進藤

自分でときどき結滞すると言っておられましたからね。

四島

不整脈みたいなものですね。

進藤

結滞は朝日時代からで慢性と思われていたようで、まさか、そんなに悪いとは思っておられなかったんでしょうね。

四島

東久邇宮内閣の終戦処理などで疲れておられたんでしょうね。

進藤

ええ、東久邇宮内閣はたった50日間の内閣ですが、仕事はできてますね。あの混乱のときですから、宮様内閣でないと終戦処理はできなかったでしょうね。
それから後の保守合同もたいへんなことでしたからね。合同の前年には、自由党総裁にもなられて……。政党の総裁はなるともう体力競争ですからね。ずっと遊説して回らないといけませんし……。

四島

亡くなられてあれだけ皆から惜しまれた人もいないでしょうね。

進藤

ほかにありませんね。国民も戦後のとまどいの中で、緒方さんに1つの新しい期待をもっていましたから、総理になられたら世の中がずいぶんよくなると思っていたものですよ。
その緒方さんが急に亡くなったものだから、知ると知らぬとを問わず国民はがっかりしました。政界のみならず、国にポッカリ穴があいた感じがしたんですね。

四島

当時の社会党の中央執行委員長の鈴木茂三郎さんの弔辞は、いま読んでも泣かされる文章ですね。

進藤

〝寒に耐ゆる白い梅がまさに開かんとして一夜の風雪に地上に散った……″というものですね。緒方さんは、新聞記者時代からいろんな人とつき合っておられましたし、特に鈴木さんには信用があって、緒方さんが出られたら右派も左派もない、社会党も自民党も一緒になってやろうというふうな気分が……ありましたね。それが緒方さんの大きさでした。

司会

心から日本のため国民のために尽くされた緒方先生の真摯な生き方。貴重なお話をありがとうございました。

進藤一馬 氏 略歴

明治37年1月1日福岡市に生まれる。大正15年、早稲田大学政経科卒業、中野正剛の秘書となる。昭和19年、玄洋社社長、昭和33年衆議院議員初当選。以来4回当選。42年法務政務次官に就任。47年より61年まで福岡市長。後、福岡市美術館館長、福岡市博物館館長を歴任。平成4年11月逝去。享年89歳。