No.35 近代日本への歩みに大きく貢献した外交官「栗野慎一郎」

対談:昭和60年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
フクニチ新聞社顧問 柳 猛直氏
聞き手:
福岡シティ銀行副頭取 森田 孝雄

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


歴史の礎となった筑前藩

Profile:栗野慎一郎 年譜

森田

この博多シリーズの明石元二郎、川上音二郎、黒田長溥、広田弘毅で、栗野慎一郎の名前が出てきます。折々の情景で、それぞれ主役の1人を演じている。けれども、あまり知られていない。気になる存在です。維新にのりおくれてぱっとしない筑前藩で、彼は子爵になっています。
子爵は5万石の殿様がなれた爵位ですね。伯爵は10万石。ずいぶん功績があったんでしょうね。

筑前の人は近代日本の歩みに功績をたてた人が多いのですが、みんな裏方ばかりで、あまり歴史の表面に出てこないのです。
維新で近代国家に生まれ変わった日本にとっていちばんの悩みは、幕府の安政条約以来締結されてきた不平等条約で、この改正に歴代内閣は苦慮してきました。

森田

不平等条約とは。

治外法権、関税自主権喪失、一方的最恵国待遇条款などです。治外法権とは外国人の犯罪は日本に司法権がない。関税は平均2%ぐらいでないにひとしい。輸出すると高率の関税ですから不平等ですね。最恵国待遇条款というのは、締結相手国に、もっとも恩恵的な地位を与えている国と同じ待遇をするというわけで、これがお互いの双務協約ならいいのですが、片務的で、まったく後進国扱いだったんですね。

森田

その条約改正に栗野が功績を。

ええ。それから日露戦争のときの駐露公使として、戦後フランス大使として日仏条約の締結など。薩摩、長州閥のように政治や戦役のはなばなしい活動はないが、地味な分野でポイントをあげた。それで子爵を与えられたのですね。

森田

とにかく、なじみがうすい人物なので、まず生い立ちから教えてください。

生まれたのは嘉永4年(1851)11月17日です。昭和12年11月15日、数えの87歳で亡くなっていますから、長生きですね。西公園の近く、福岡教育大の附属小中学校のあるあたり、荒戸の谷町というところで生まれました。父親は小右衛門という人で、城代組の八石三人扶持といいますから、足軽よりはすこしましですが、下級武士ですね。代々、宝蔵院流の槍の師範をしていますが、鉄砲への献言をしたり、時代が見える人だったようです。

慎一郎の幼名は昇、15歳のとき、西新にあった瀧田紫城(しじょう)の塾、「折中堂」へ入り漢学、国学、蘭学を学びます。ところが慶応2年、父の小右衛門が急死してから非常に苦労するのですね。

森田

扶持がへるのですね。

ええ。たいへんだったようです。このとき、亡父の友人の源光院の住職から、供養に法華経8巻の写経をすすめられます。それが後年出てきて慎一郎がとても喜んだという話が伝えられています。苦労はしていましたが頭がいいので、慶応3年に藩の留学生として長崎に派遣され、英語を学びます。

森田

長崎は佐賀藩と黒田藩の輪番警備でしたから、身近な感じだったでしょうね。

長崎英兵殺害事件

栗野慎一郎
(枢密院顧問時代)

ところで、ここで、慎一郎の生涯の方向をきめるでき事がおきるんです。
慎一郎17歳のときでしたが、七夕の前日の夜祭に同藩の若い連中が、金子才吉という42歳の人といっしょに散歩に出るのです。その日は霧が深く、先が見えない。寄合町までくると2つの灯りがぼおっと見える。なにかと思うと外国人が2人、泥酔して道に寝ている。通行人がつまずかないように町役人か誰かが、2人の靴先にローソクを灯していたのですね。通りすぎると、うしろの方でギャッという絶叫が聞こえたので、びっくりして引きかえしてみると2人が切り殺され、そばに金子才吉が血刀をさげてたっている。そしてすーっと姿を消したんだそうです。藩屋敷にかえって事情を話すと、厳重な口どめを命じられます。金子は翌日ぼおっと藩邸に帰ってきました。

森田

ノイローゼだったので……。

多分そうでしょう。一室に監禁していたのですが、警護の人の刀をぬすんで切腹してしまいました。殺されたのはイギリスの軍艦、イカルス号の水兵で気の毒なことでした。これで大騒動となり、英国から犯人を出せと強硬な要求になります。坂本竜馬の海援隊の船が当日出港したのがあやしまれたりします。そのうち鳥羽伏見の戦いがあり、明治政府ができる。やかまし者として知られた英国のパークス公使が、今度は新政府に犯人を出せと強硬談判です。そこで、佐賀出身の外国官判事、大隈八太郎(後の重信)が、取り調べのため長崎に出向きますがわからない。あきらめて帰京しようとしていたところへ、犯人は筑前の者という投書がなげこまれる。

そこで、一切が明るみに出るのですが、パークスは1人であんなことはできない。共犯を出せと強硬です。仕方がないので当夜金子といっしょにいた学生8人が牢へ入れられてしまう。栗野さんの思い出話に、取り調べの場に襖をパッとあけて、背の高い大隈さんが黒紋付を着て出てきたのが、実に見事だったそうですね。

結局、京都送りとなり六角の牢につながれます。ここは同藩の志士、平野国臣が殺されたところで、あまりいい気はしなかったでしょうね。お互い「自分たちもこれで最期だ。見苦しい死に方はするまい」と話しあっていたそうです。

翌明治2年の正月に、人相の悪い男が来て、牢から出ろと言う。いよいよ最期かと心をきめて出ると筑前屋敷につれてゆかれて、釈放になる。途端に、人相の悪かった男が、急にやさしい顔に見えてきたそうです。(笑)

森田

たいへんな災難でしたね。でも、それが慎一郎の一生にかかわったとは……。

後年、外交官になったのは、このときのパークスの横車などをみていて、外交を強くしなければと感じたことが要因とも言われていますからね。

そのあと、すぐ福岡へ帰って滝田塾へ通っていますが、このとき、頭山満が後年話した面白い話があります。滝田先生の娘のおトキさんという活発な美人がいたそうですが、そのおトキさんが栗野に惚れて塾をのぞきにくる。男ばかりの塾におトキさんがあまり来るものだから、元気者の頭山満が縁側から蹴おとしてしまう。先生に叱られると、「お嬢さんが男ばかりの塾にこられるから滝田家のためにたしなめました」と言った。こんどは先生からおトキさんが叱られて襖につかまってガタガタゆすりながらくやし泣きにないていたそうです。ともあれ、栗野は後年、アメリカでも女性にしたわれている。写真をみてもりりしい男前ですね。

サミー、ジョー、トミー

森田 孝雄

森田

アメリカ留学はいつ頃のことで。

明治7年ですから、4、5年先のことです。ただ明治4年に同藩の金子堅太郎団琢磨(だんたくま)はアメリカに留学しています。慎一郎は、同藩でアメリカ帰りの平賀義質(ひらがよしただ)という人の推せんで外国留学生におされていたのですが、長崎事件のあとだけに、当分謹慎ということではずされてしまうんです。

金子等の渡航は、例の有名な岩倉使節団で、木戸孝允大久保利通伊藤博文など一行に便乗したもので、西郷さんをのぞいて、内閣がそのまま出かけたようなものです。新政府の威信をみせる、安政5ヵ国条約以来の不平等条約の改正交渉などが目的でした。維新後数年で政府要人がそろって外国へ先進文明の吸収に出かける。日本の夜明けを感じさせる気宇広大な渡航ですね。一行の中に藩主の後嗣長知、その随伴ということで、19歳の金子、14歳の団が加わっていました。失意の栗野は21歳でした。またのちに津田塾をおこした当時6歳の津田梅子や、大山巌の夫人となり後年津田梅子を支援した山川捨松などの女性がいたことはよく知られています。

森田

栗野は残念だったでしょうね。

栗野のえらいのは、別にしょげもせず、東京で平賀について懸命に勉強していることですね。そうして明治8年、数え年25歳のとき、長溥公の推薦、費用負担でアメリカ留学がきまるのです。そのときの申請書が面白いのでのせてみましょう。

福岡県士族 栗野慎一郎

私家従にて英語修行可致候處年令当年23年6ヶ月海外へ留学為仕候はゝ先々假成御用にも相立可申候私の支給を以て當年より先ず3ヶ年の間米國へ差遣し申度此段許容相成度偏に御執成奉願候也

明治8年5月13日 華族 黒田長溥

東京府知事 大久保一翁殿

これに対し「願之趣聞召候事」と承認されています。

森田

アメリカで金子、団の2人といっしょになるのですね。

ええ。まず横浜からシティ・オブ・ペキン号でサンフランシスコにつき、大陸横断鉄道でボストンへ着きます。この長旅をして、当時ハーバード大学の学生だった金子、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んでいた団の歓待を受けます。英語はずいぶん勉強していたのですが、なかなか通じなくて困ったといっていますから、国言葉で話せる2人に会って心強かったでしょうね。

ハーバード大学入学を希望しますが学制が変わってラテン語の試験がある。ラテン語のいろはからはじめて半年近くでマスターし、合格していますから、頭もよかったし、外交官に向いた語学の才能もあったんでしょうね。大学で法制や国際法などを勉強しています。

森田

黒田長溥公は、維新の舵とりには失敗でしたが、この3人が出ただけでも人づくりには成功したんですね。スポンサーが殿様だから、学資は潤沢だったんでしょう。

そのようですね。家庭教師にもついたりして充分に勉強できたようです。この頃、飫肥(おび)藩(宮崎)からの留学生小村寿太郎と南部藩(盛岡)の菊池武夫、この人は熊本出身の同名人とは別人です。この2人と親友になり、慎一郎はサミー、小村はジョー、菊池はトミーと呼びあっていたそうです。

米国留学中の栗野慎一郎(右)
金子堅太郎(中央)団琢磨(左)

森田

小村寿太郎は日露講和の全権ですね。栗野はたしか、開戦のときの駐露公使でしょう。歴史にかかわるふれあいですね。

そうです。ふれあいと言えば、金子の同級生にセオドア・ルーズベルトがいて親友になります。この人が後のアメリカ大統領で、日露講和のとき、ずいぶん日本の肩をもってくれた。たいへんな恩人です。

森田

長溥の志は、彼等を通じて、日本のために大きくいきている。生きたお金、生きた人づくりだったのですね。

そうですね。6年間勉強して14年に帰国しますが、その間に西郷隆盛の西南の役がありますね。動乱の時期に勉強にうちこめて、かえってよかったでしょう。帰ってみると1年前に帰国した小村寿太郎が、司法省につとめていて、栗野のために席を用意していましたが、断って外務省に入ります。外交官栗野慎一郎が誕生するのですね。

念願の外務省へ

柳 猛直氏

森田

その頃の外交の1番のテーマは条約改正なんですね。

ええ。幕府が西欧5ヵ国と結んだ安政条約以来各国と結んだ条約が、いわば植民地のような条約で、治外法権、関税特権、片務の最恵国待遇。この改正が国をあげての要望でした。でも栗野が条約改正で登場するのは、まだ先のことで、韓国内乱にからんで調査を命じられたりしています。明治16年には博多の奥村伊右衛門の長女英子と結婚しています。 18年になって、条約改正係を命じられます。外務卿は井上馨(いのうえかおる)でした。その前年にパークスの後任としてブランケットが公使になりましたが、この人は日本に好意的で、話し合ってどうにか政府の条約草案ができました。

またフランスの法律学者のボアソナード(1825~1910)も政府顧問として、いろいろアドバイスをしてくれました。ドイツ人のルードルフという人もいました。

ところがこのルードルフが草案についてプリンシプルがちがっているといってクレームをつける。じゃ、なおしてくれ……で、できたものをみると全然役にたたない。仕方がないので、外務卿の井上、外務大輔(がいむたいゆう)(次官)の青木周蔵、ルードルフ、同じく顧問のシーボルト、そして栗野の5人の協議となり、栗野がルードルフ案の不都合なところを指摘する。すると青木がルードルフの肩をもつ。青木は、夫人がドイツ人であったこともあって、親独的で2人の激論になるんですね。このとき栗野は体調が悪く、高熱をおして出ていたそうですが、上司の青木と喧嘩にまでなる激論をしたので、休養のあと外務省を退きます。

井上に、榎本武揚(えのもとたけあき)逓信(ていしん)大臣が君をほしがっているので行けと斡旋され、明治19年に逓信省へ入ります。井上は条約改正をすすめるために、これまでの漸進的な改正をやめて、2年以内に全国いっせいに撤廃する。そのかわり、外国人裁判官を日本の裁判所に入れるということにしよう。

森田

それが、またもめたのですね。

外国人裁判官問題でたいへんな論議になる。法律顧問のボアソナードはこの法案は後進国にとって危険なものだと反対。法制に強い井上毅(こわし)に意見書を提出、それが民間にもれ民権家がたちあがる。また農商務大臣の谷干城(たにたてき)、この人は西南の役で熊本城を守りぬいた人ですが猛反対。首相の伊藤博文は仕方なく、外務卿の井上をクビにします。

森田

でも、それだけ、国をあげての論議が条約改正への関心をたかめた、いわば大きなタタキ台になったのですね。

そうです。結局、のちに陸奥宗光(むつむねみつ)外相のもとで改正が実現するのですが、歴史的にみて井上馨は大きな貢献をしたと評価していいでしょうね。その意をうけて栗野が尽力します。のちに公使となって、各国と条約改正の交渉をして、成功するのですが、その下地はこのときに築かれているんですね。

森田

なるほど、すると、栗野にとって逓信は畑ちがいのポストでしたね。

いいえ。逓信に明治24年までいますが、この5年間に郵便電信学校を創設して初代校長として技術者の養成にあたったり、郵便法や万国郵便電信規則の制定に活躍しています。

森田

その頃ですね。帝国憲法が発布されたのは。

憲法発布は明治22年2月11日で、当時の国民待望のもの。とにかくこれにより総意をきく議会制となり立憲国家となったのです。
翌22年、山縣内閣総辞職で松方内閣となり榎本が外務大臣になります。条約改正に意欲をもやす榎本は、栗野を外務省によびもどし、取調局長を命じます。

森田

栗野が離れていた間、条約改正はどうなっていましたか。来島恒喜(くるしまつねき)の大隈襲撃もその頃でしょう。

たいへんゆれうごいていました。井上失脚のあとは大隈重信が引きついで、伊藤・黒田両内閣で外国裁判官の任用に期限をつける内地雑居をみとめるなど修正をして、英国、米国、ロシア、ドイツの4国と調印しましたが、国権論者から猛反対をうけ玄洋社の来島恒喜の馬車に爆弾を投げつけられ片脚切断という大事件(明治22年10月)があり、内閣総辞職となり、この調印もご破算になります。来島はその場で自害、従容たる態度が国士の典型とされ、玄洋社に隠然たる勢力をもたらす一因になりました。
そのあと青木周蔵が第1次山縣内閣の外務大臣となり修正をくわえて、大体成立のはこびとみられたとき大津事件がおこり、内閣総辞職でダメになる。

森田

ニコライ皇太子が負傷した事件ですね。

明治24年、来日中のロシア皇太子に護衛の警官津田三蔵が切りつけた大事件で、国中を震憾させ、条約問題はふっとんでしまいました。そのあとが松方内閣、その外相に榎本武揚、そして栗野の登場になるわけです。けれども、榎本は数ヵ月で辞職、そのあとを外務大臣ナンバーワンといわれるきれ者の陸奥宗光が外相になり、いよいよ条約改正が実現するのです。

条約改正に着手

森田

陸奥になって、どう変わったのですか。

この人は、胸中に自分ならという経倫をあたためていたのでしょうね。これまでの各国いっせいをやめて、出先公使に各国政府と直接交渉させることにかえたのです。当時の電信はなかなかの経費で、各公使館の予算が窮屈ということもあり、条約改正は別に先方が急ぐことでもないので、どうしてもゆっくりになってしまうのです。

森田

アメリカが条約改正の第1号ですか。

いいえ。英国が1番です。当時は何といっても英国が西欧第一等の国で、英国がOKすれば他の国も承諾せざるをえない……といった読みもあったですね。条約改正にかかわった駐独公使の青木周蔵に、駐英公使を兼務させ、顧問のシーボルトをつけて交渉。27年に青木とキンバレー外相との間に第一号の条約改正が調印されます。
この余勢をかって、アメリカとの改正にあたるため、陸奥が栗野を抜擢して駐米公使を命じるのです。明治27年、栗野が44、5歳のときで、満を持しての登場という感じですね。これから目をみはる栗野の活動がはじまるのです。

森田

アメリカ留学が実ってくるわけですね。

そうです。前任の建野という人がラチがあかない。それで更迭になったのですが、アメリカの国務大臣だったグレシャムという人とウマがあって、話がとんとん進んだようです。グレシャムは南北戦争の勇士だったそうですが、テーブルの上に足をのせて話をする、これは親しい人にしかできない。栗野を友人扱いしたのですね。大統領のクリーブランドも、栗野が気にいっていました。
ハーバード大学出身ということ、卒直な人柄で、条約改正にうってつけの人を派遣したことになりますね。

森田

10年後の日露講和のときの金子堅太郎さんも、ルーズベルト大統領とハーバードの学友で、うまくいった。同じような話ですね。

そうです。栗野は要人だけでなく、アメリカの女性にも好かれたらしいですね。ミス・ジョーシー・ロウという人が栗野のファンで、地位のある階層の女性だったのでしょう。大統領に会って、「条約改正で、栗野を支援してほしい」とたのんでいます。ハーバード時代に親しくしていた女性らしく、彼女の机の上に、銀の額縁にはまった栗野の写真が大事にかざってあったそうです。

森田

アメリカ人に好かれる人柄だったのでしょうね。

こうして、明治27年11月に栗野とグレシャム国務次官で日米条約改正が調印されました。非常に短期間で、栗野を抜擢した陸奥の慧眼はさすがですね。

森田

日清戦争(明27~28年)でも日本の優位が伝えられていた頃ですね。

日清戦争といえばその戦勝で台湾と遼東半島の割譲をえていましたが、中国に権益をもつフランス、ドイツ、ロシア3国の干渉で、遼東半島を還付することになります。これから、日露戦まで"臥薪嘗胆"となるのですが、列強干渉の動きを栗野は見事に察知して、外務省に報じています。駐独公使の青木のほうは、全然気がつかず、事がおこってびっくりした……と、つたえられています。
栗野はついで、明治29年の春にイタリア公使。スペイン公使も兼務でスペインとの条約改正をしとげます。30年5月にフランス公使。駐在武官が明石元二郎で、2人は、外交と諜報の両部門で活躍するのです。

森田

2人の年齢は。

明石のほうが13歳ぐらい下で、当時、少佐か中佐ですね。公使館にあまり出なくて家で猛勉強をしていたのですね。寝食を忘れてのすさまじさで、語学などすぐにマスターしていたそうです。

森田

川上音二郎のパリ公演もこの頃ですね。

明治33年から4年の頃、パリで万国博覧会が催されましたが音二郎は花のパリで歌舞伎を演じ大評判になるのですね。音二郎流の勝手自在な内容ですが、妻の貞奴の美しさと名演技も大評判です。栗野夫人の英子という人が博多の中石堂町生まれ、川上が対馬小路で非常に近い。そういうこともあって、栗野が川上に目をかけるのです。英子夫人と貞奴、そろっての着物姿がパリの街で評判になり、夜会服にアレンジされて奴服というのまで出たそうです。

森田

音二郎は勲章をもらって、ハクがつきますね。

ロシアより帰途ベルリンで、左より、2、3人目
栗野夫妻、後列左端は明石元二郎

これも栗野の斡旋です。アカデミー勲章、芸術の本場でもらった勲章ですから、音二郎は嬉しかったでしょうね。
フランスとの条約改正も終え、栗野は33年に賜暇(しか)帰朝しますが、ついですぐに風雲急をつげるロシア公使を命じられます。

日露戦争と明石元二郎

森田

今度は、すぐに開戦する国へですね。

明治34年秋のことです。栗野は桂首相とハーバードの学友だった小村外相に説得され、日露協商のために承諾するのですが、赴任の途次、日英同盟の交渉がすすんでおり、パリについた栗野は、もはや自分がロシアに行っても協商の実はあげられぬ。自分の役目はないと辞任を決意するのですが、外遊中の伊藤博文の慰留を受け、ロシアの主都ペテルブルグ(いまのレニングラード)へ参ります。このときの駐在武官が明石元二郎で、彼の大活躍がはじまります。

森田

日英同盟は、ロシアを仮想敵国としての同盟ですね。

だから明治35年の1月に調印され、それを知らせるのはつらかったでしょうね。特に外務大臣のラムスドルフと仲がよかった。栗野のすぐれているところは相手国の外相や担当者に、とても好かれていることですね。

森田

彼が紳士だったということですか。武士の心ばえが通じたのでしょう。

そうかもしれません。ともかく、隠しごとのできない性分で、外交官としては不向きでないかと思うのですが、それが相手の心を掴んでしまうのですね。肝心の英国公使から何も言ってこないのでラムスドルフが声をかけると困っていておかしかったと言っていたそうです。
あけっぴろげといえば、日本の諜報もそうで、こんな話もあります。夜会の席でベゾブラーゾフ無任所相が、「私の名前が変わったようですね」と言う。不思議なことを言うと思ったが、彼の名が長いので略号にしていたのですが、それを最近変えていた。暗号をすっかり解読されていて、それでベゾブラーゾフが皮肉ったわけです。

森田

暗号が役をなしていなかった。風雲急なのにおおらかなことですね。開戦前夜はどんなふうだったのですか。

開戦は36年の2月ですが5日の夕方、最後通告の電文が入ります。この日はニコライ2世招待の観劇会があって、栗野は解読できた半分くらいを読んだところで出かけます。
その日に限って皇帝が栗野をとらえて、しんみりした長話をされる。皇帝もこれで別離と思われたのでしょうね。音二郎のロシア公演でも、ニコライ2世は金時計を下賜したりしています。根はやさしい皇帝だったのでしょう。このとき、そばで2人の話をきいていたフランス公使が「セ・フィニ」といった。これでおしまいという意味で、ニコライ2世がとても嫌な顔をされたそうです。
翌日、国交断絶の通告をロシア側にわたし、その足で英国大使館へ行くと、イギリス大使が大声で泣き出したというんですね。東海の小国もこれでおしまい、負けてしまうと気の毒がったんですね。

森田

栗野さんは無事に帰国されたんですね。

日露両国ともに公使の退去には礼をつくしたものでした。栗野さんはスウェーデン公使もかねていましたからストックホルムに3ヵ月いて、明治37年5月に帰国します。ストックホルムで、スウェーデン国王にばったり会ったそうですが、国王は、私の気持ちはわかるだろうと、強く握手されたということです。ロシアにしめつけられていて、激励の握手だったのでしょう。

葉山の筑前3人組

森田

帰国してからはどんなふうに……。

帰国挨拶で参謀本部に大山巌元帥をたずねた折、シベリア鉄道は単線だから輸送力は1日に5回か8回だと思うがどうだろうときかれる。即座に栗野は否定するのですね。貴方々は列車の往復を考えておられるが、ロシアはそんなことはしない。物資を送った貨車は燃やして燃料にしてしまう。たいへんな誤算ですよ。大山さんは、ハア、ハアときいていて、その話を児玉にしてくれと言われた。児玉源太郎参謀長はびっくりしたそうです。明石元二郎も同じ推測を送ってきたそうですね。
後年、小倉出身の奥保鞏(おくやすたか)元帥と隣りあわせたとき、寡黙の元帥が「あのときは参謀本部の計算が大分狂いましたよ」と語ったそうです。

森田

戦後の生活は。

帰朝後は、老母をなぐさめ、一家団らんの生活で、釣りや銃猟に熱中しています。はじめての平安の日々だったでしょう。
しかし戦後、欧米諸国の公使館を大使館に昇格させることにきまり、39年1月、特命全権大使としてフランス駐剳(ちゅうさつ)を命じられます。このときの功績はフランスとの友好関係を深めるため日仏協約を締結したことで、積年の功労により男爵を授けられバロンクリノになるんです。

森田

帰国、そして晩年は……。

明治45年に帰国、同年子爵を授けられ、昭和7年には枢密顧問官になっています。葉山に別荘をたてて金子堅太郎、団琢磨の3人の親友が続き、葉山の筑前3人組とよばれていました。団琢磨は昭和7年に狙撃され、栗野は昭和13年11月15日、87歳で、金子は昭和17年に亡くなっています。
青年客気のとき長溥公の学資でアメリカヘ渡った3人が、晩年を葉山の海浜でともに過ごしています。明治人の大きな一生でしたね。

森田

なにか筑前人のロマンをつづった一生ですね。どうもありがとうございました。

柳 猛直氏略歴

大正6年、福岡市大名町に生まれる。
大名小学校から修猷館を卒業。西日本新聞社に入社。昭和21年、フクニチ新聞社の創立とともに入社。文化部長、編集局長を経て、現在は同社顧問。