No.36 軍の横暴を痛烈に批判しペンの自由を守った「菊竹六皷」

対談:昭和61年2月

司会・構成:土居 善胤


お話:
RKB毎日放送エグゼクティブ・プロデューサー 木村 栄文氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


筆鋒鋭く5・15事件を糾弾

編集局長時代の六皷

司会

今日の主人公・菊竹六皷(きくたけろっこ)は、5・15事件のときに、毅然と軍部を攻撃した反骨のジャーナリストとして知られていますね。

西島

5・15事件は、昭和7年5月15日に海軍の若い軍人たちが首相官邸を襲い、犬養毅(いぬかいつよし)首相を殺害した事件ですね。

松本

あの事件が軍国化、そして戦争への雪崩(なだれ)の口火だったのだと感じます。政党政治は犬養さんの死で終焉した。政治の流れを変えた大きな事件でしたね。

木村

それも、井上準之助と団琢磨が暗殺された血盟団事件の直後です。事件の盟主、井上日召(いのうえにっしょう)や橘孝三郎の感化を受けた陸海軍の若い軍人たちが首相官邸を襲撃し、犬養首相を射殺します。彼らは政党政治をたおし、国家革新を意図したのです。
当時は東北の凶作で、女の子が身売りをするといった社会不安が深刻でしたし、若手将校の間には、政治の改革以外に方法はないと真剣に考えていたのですね。
また一部には、北一輝(きたいつき)[国家主義者、明治16年(1883)~昭和12年(1937)]の『日本改造法案』が読まれていましたし、マスコミも現状改革の論陣を張るといった背景がありましたね。

松本

「話せばわかる」と従容(しょうよう)と応対された犬養さんを、「問答無用」と射殺した……。立派な人だけに、その最期の見事さが国民の涙を誘ったのでしょうね。

木村

首相を殺害しましたが、彼らには具体的な政権構想はありません。当時はイタリーのファッショが台頭してきたときで、軍人に日本も現状ではいけない、という焦躁がありました。
彼等は世論が極刑に反対したので死刑にもなっていません。軍部はこの事件を政治的に利用し政党政治の終焉を図ったのです。
そのとき福岡日日新聞の菊竹六皷が論説で、コテンパンに軍部、荒木貞夫陸相以下を批判するんですね。

松本

菊竹六皷の気骨を感じますね。写真を見ても古武士のようで威厳がある。書いた人も書いた人、書かせた新聞も新聞、地元福岡の人だけに嬉しいですね。

木村

信濃毎日の主筆、桐生悠々(きりゅうゆうゆう)もコラムで軍部を批判していますが、当時の情勢を考えますと、福日の論調はたいへんな勇気です。
世論はむしろ軍部の台頭を待望しているのですから、死を覚悟で出社した、ということもよくわかります。軍部追及の論説がこれまた情理を尽くし、完璧な批判、堂々たる論陣です。

西島

軍がアタマにくるはずですね。

木村

しかし、菊竹はこの事件で、突然に軍を批判したわけではない。彼の論説の流れを見ますと、前年すでに軍の動きがおかしい、と警告しています。
満州支配を意図した関東軍が、昭和3年に張作霖(ちょうさくりん)を爆殺します。中国側の謀殺とした満州某重大事件(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)。この事件で田中義一(たなかぎいち)首相が天皇からきつく叱責され、責を負って内閣総辞職をします。
これで中国との亀裂が拡大してやがて日中戦争へと入っていくのですが、この関東軍の暴走を黙認した陸軍首脳に対して、菊竹は反軍的な論陣を張っています。

義心あふれる青年論説委員

木村 栄文氏

松本

ここで菊竹の人間像を……。

木村

菊竹は本名を(すなお)、号を六皷、ロッコともリッコとも読みます。明治13年に、今の福岡県浮羽郡吉井町で大地主だった菊竹辰次郎チカ夫妻の二男として生まれています。
父方は農家、母方は武家でしたが、自らは侍の子をもって任じています。
幼年期は裕福な教養豊かな家庭で育ちますが、20歳ばかり年上の長男博之が政治に手を染めてから、家運が急速に傾くのですね。
家庭衰退の中で、母親を死なせたことを生涯悲しんでいます。『文藝春秋』で、山本夏彦さんも菊竹のあまりの親想いに驚嘆しておられましたね。

松本

親孝行だったのですね。足が悪かったそうですが、幼時からですか。

木村

2歳の時に、左脚を負傷して骨髄炎をおこします。後に何回も手術をするんですが、結局、生涯脚をひきずって歩くことになる。
明善中学に入学した頃には、家運が衰退し、苦労しながら東京専門学校(現早稲田大学)に進みます。
明善のときの同級生に、後に、戦後すぐの福岡の名市長、三好弥六(みよしやろく)氏[明治13年(1880)~昭和32年(1957)]がいました。三好さんは「日本一こまか市長」を自称されたほどの小柄な方でしたが、2人はよくウマが合って、同じ弁論部で憂国慨世の演説を競ったそうです。

西島

六皷とはめずらしい号ですね。

木村

いわれを問われると、菊竹は自分で足の不自由さをもじったのだ、と笑ってたようです。他に雷様の太鼓になぞらえたという説もありますね。
自分の不自由を敢えて号にしたところに、この人の諧謔と屈折を感じますね。ハンディをバネにできる人とできない人がいますが、菊竹は兵役も免除された屈辱から、筆一本で身を立て、国家へ奉公しようという気持ちを青年の頃から持つのですね。
東京専門学校では、英語政治科を選んで、政治家か新聞記者を志します。明治36年に卒業して、尊敬していた徳富蘇峰(とくとみそほう)[文久3年(1863)~昭和32年(1957)]の国民新聞をうけるのですが、足が不自由でダメ。長兄の友人であり、郷土出身の政治家である野田卯太郎(大塊)のひきで、福岡日日新聞に入社するのです。

松本

西日本新聞の前身ですね。

木村

山高帽を被って記事とりに歩いたという話を聞きますが、すぐに内勤の整理にまわされます。

西島

記者が取材してきた記事を、重要度にあわせて紙面に組み込み新聞をつくりあげるのが整理ですね。

木村

ええ。最初から六皷は存在を重視されていたんでしょうね。
彼は明治37年24歳で論説記者になっているのですが彼の論説で胸を打つのは、同年6月の「理想の死」ですね。この年、堅粕の踏切番の娘、11歳の少女山崎お栄が、列車に轢(ひ)かれかかった通行人を助け、自分は轢死(れきし)した事件を述べたものです。
日露戦争の最中で、論説は、天下国家を論ずるものと決まっていた時代に、少女の死をいたんだ論説です。
「可憐なる一少女お栄を有したりしことは永遠にわが福岡県民の誇りなり。広瀬中佐を出(いだ)さざりしことは福岡県民の恥辱にはあらず。東郷大将を出さざりしことは福岡県民絶大の恨事にはあらず。しかれども一少女お栄を出(いだ)したりしことは福岡県民永遠の誇りなり、名誉なり……」と。

松本

心情のあたたかい人ですね。

木村

その菊竹も、当時の福日の内情には不満で怒っています。当時の風潮で編集長以下みんなよく遊ぶ。仕事はほっぽり出して、待合に行って飲んでばかりいるんですよ。
菊竹1人が謹厳居士。同僚の記者たちにだまされて妖し気な店に連れ込まれ、ほうほうの体で逃げ出したこともあったようです。
しかし、才能とともに人物の重みを感じさせるものがあったんでしょうか。社長の征矢野半弥(そやのはんや)は、明治44年、六皷が31歳のときに編集長に抜擢します。征矢野の英断ですが、まわりは年上の部下ばかりなんで菊竹はおかげで人一倍苦労します。

松本

軍にあれだけ強かった人も、人間関係には……。

木村

編集長になりたての頃に一時期ノイローゼになっていますね。31歳の若さで、部下が自分より年上だから、命令がゆきとどかない。古参記者にはいびられ、信頼していた上司からもうとまれる。
そして、征矢野社長も菊竹を抜擢したあと急死しています。
このとき六皷を支えたのが静子夫人です。明治40年、27歳のときに恋愛結婚しています。夫人も家庭的には不幸で、身寄りがなく、看護婦さんでした。
夫人は、産婆の免状も持っているので、菊竹がつらいのなら、自分が産婆をして養うから新聞社は辞めてもいい。それがはた目に恥ずかしいなら、能古島ででも開業しましょう、と言うんですね。六皷は後年、長男の貞吉さんに「お母さんは強かったぞ」と話しています。
静子夫人は夫の恋愛問題もご存じだったようで、ずいぶん苦労されたようです。

「嵐も雨もさもあらばあれ」

西島

5・15事件の頃は、私が小学校1、2年生でしたから、覚えていませんね。ラジオもまだ普及していませんし新聞以外に情報伝達の手段はないんですね。
だから、論説が大きな影響力をもっていたんでしょう。

木村

それは今日とは大違いです。もっとも読者層も限られています。ブルーカラーへの影響力は乏しく、知識層が中心です。菊竹が入社した明治の頃が論説の最盛期ですね。
初期の徳富蘇峰を尊敬していましたから、論説を書くことに生き甲斐を感じて、使命とも思っていたんでしょう。

松本

たしかに昔は、一面に社説がありましたね。

木村

ところが大正になると、一部の中央紙では、社説は床の間の飾りものという風潮が出て、好きなやつに書かせておけばいいという雰囲気になってきている。
どこの新聞でも、論説の紙面に占める位置が相対的に低下していく時代に、菊竹一人、「オレは社会の※木鐸(ぼくたく)で、日本の屈原だ。この筆によって国民を教え導きたい」なんてことを考えているのですからボルテージは高いですよ。

※木鐸 古代中国で法令などを知らせるときに鳴らしていた木製の舌のある鉄の鈴。転じて世人を覚醒させ、教え導く人の意となった。

私には、ある意味ではドン・キホーテのようにも思えます。それをよくぞ福日が支えた、とつくづく思いますね。
5・15で同じく軍部を批判した信濃毎日の桐生悠々が、寂しく孤独に死んでいったのに対して、福日は最後まで菊竹を温かく遇していますからね。
福日は立派ですよ。

西島

5・15のときには軍部からずいぶん威嚇されて。福日上空に陸軍機まで飛んできたとか……。

木村

それは実際にはなかったようです。しかし、そんな話が信じられるほど軍部の反撥は激しかったんですね。
軍部や右翼の脅迫の電話や手紙が舞い込んで、いつもは穏やかな菊竹が、声を荒げて電話で応えているのを部下たちが見聞きしたといいます。
オリンピックの日本代表だった納戸徳重さんもそれを見られたそうです。

西島

菊竹に対する保護は……。

木村

社は、輪転機の側に屈強の職工を配置したといいますが。菊竹自身は死を辞さない考えだったのでしょう。「五十余年戦ひぬけるこの身なり、嵐も雨もさもあらばあれ」なんて詠んでます。

松本

編集長が所信を通したために被害をうけた人もいたんでしょう。

木村

師団側も福日本社を屈服させることが、容易でないことはわかっていますから、北島久留米支局長を見せしめに攻撃したのでしょう。それはひどいものだったそうです。
司令部に呼びつけて将校が拳銃をいじりながら、記事の取り消しを要求する。菊竹は「福日の主張を貫け」と一歩も譲らない。北島支局長は菊竹に私淑(ししゅく)していたのですが、進退極まってしまう。
その憔悴(しょうすい)ぶりを見て、菊竹は本社への転勤を勧めますが、すでにその気力はなく、昭和11年に福日を退社しています。
亡くなられた北島御夫妻からじかに聞いたのですが、つらい話でした。〝一将功なりて万骨枯る″で、菊竹の名声の陰に犠牲になった人もいるんです。

5・15論説の周辺

西島 伊三雄氏
松本 攻

松本

菊竹のすごさは、1年後にまた軍部批難の論説を書いている。

木村

ええ。事件後内務省通達で5・15事件に関する記事は、1年間差し止めになるのですね。
で、1年たった昭和8年5月16日付の論説で、また「憲法かファッショか―5・15事件1周年に際して」と糾弾のペンをとるわけです。
あの執念は圧倒的ですね。社でも多分、迷惑顔だったのでは……(笑)。

松本

社長も偉かったんでしょうね。

木村

当時は社長空席で副社長は永江真郷(ながえまさと)氏でした。後に社長になりますが、以前は三池銀行、そして戦後は福岡銀行の頭取もされた人ですね。
しかし菊竹が決意を打ち明けると快諾したといいます。新聞の使命を心得た度量の大きな人だったのでしょう。

松本

書いた菊竹もですが、書かせた人も(笑)。なかなかのものですね。

木村

それと大切なことは、ライバルの九州日報民政党に近いのですが、福日は犬養総裁の政友会を支援する政友会系の新聞だったことです。
事実上の創業者の征矢野半弥(そやのはんや)社長が、新聞に政治的主張があるのは当然だとして、菊竹もその訓えを守ったのです。
だから福日が政友会系だったのであの論説が生まれたのだ、という人もいますが、それは一面の事実にすぎません。不偏不党の有力紙がなぜ昭和軍閥に対して無力だったのか、なぜひとり福日が闘えたのか。殺される2年前の昭和5年11月、犬養は政友会九州大会に出席するため鹿児島へきましたが、六皷は車中同乗して話を聞いたりしています。
人格高潔、見識も人一倍秀れた老政治家、犬養への敬愛の念が強かった。それがポイントですね。
こうした背景もあって、一貫した主張で軍批判を続けたのだと思います。

西島

もともと軍部に批判的だったのですか。

木村

それが面白いことに軍部が弱いときには軍を支援しているんです。陸軍の師団削減などで軍部の立場が弱い時代がありますね。大正デモクラシーの最中に、軍人が軍服のまま電車に乗るのがはばかられたという時代です。
そのとき菊竹は、論説で堂々と軍を鼓舞するわけです。軍装備の近代化、殊に航空戦力の充実を計れなどと主張しています。
国軍に対する信頼、天皇の軍隊に対する信頼は厚かったのですね。それだけに軍人が、天皇や政府に反逆して、満州で暴走を始めたから、軍部不信と憤りが起こるわけです。

司会

どうも菊竹は思想家というより、信念の人という感じがしますね。リベラリストというより、むしろ国家主義者……。

木村

思想家として観ると矛盾したところがあるんです。理屈に合わないことを言い出したりもするんですが、言われる通り志の人、信念の人として捉えた方が適当でしょう。
この信念の背景に、福日の資本の強さがあったのだ、と思います。福日は政友会の前身の自由党の志士たちが、小さな民権新聞を買いとって、明治13年に創刊したものです。
資本は、自由党、政友会と続く有志でかためていました。後に社屋建築も、近代設備もぜんぶ自己資金で、無借金でやってのけています。経営の基盤が言論の強さをしっかり支えているんですね。

松本

当時、福日におられた篠原雷次郎さんが、広告と記事を半々くらいにしたらと、進言されたそうですね。

木村

実際に、中央紙に比べて広告面の比率が低かったそうですね。見出しも小さく、黒っぽいベタ記事ばかりが目立つ。広告を増やすと親しみやすくなるし、収入も増えるしという意見だったのでしょう。
でも菊竹に、「あなたは衆を愚と思ってはならん」と諭(さと)されたそうです。つまりは、広告にあまり頼る必要がないほど経営も安定していた。読者も福日の地道な紙面づくりを信頼していたということでしょうか。

西島

歴代の社長がよほどしっかりしていたのですね。

木村

明治24年に社長になった征矢野半弥、この人には社会主義者の堺枯川(さかいこせん)も心酔しています。偉かったんですね。
さらに次の庄野金十郎社長が、主張を守るためには、誰にも頼らない経営でなくてはならないと、堅実経営につとめた。地元政友会の有志が資本家ですが、紙面には口を出さない。没後は、子息が相続して資本が移動しなかった。
征矢野は経営姿勢だけではなく、福日の社風もつくりあげています。社長は編集局には立ち入らない。執筆に干渉しない。これは卓見でしょう。
また、情報の電通、当時は最大手の情報通信社でしたが、その創始者の光永星郎さんとも懇意で、この電通に出資して情報面をしっかりおさえている。きちんと新聞経営の要点をつかんでいますね。

竹虎・正剛と六皷

松本

ところで、5・15事件ではあれだけ強硬な論説を書いた六皷が、昭和11年の2・26事件ではあまり勢いがありませんね。

木村

はい。病気と時代の変化。昭和7年とは政情がまるで違います。翌年には日中戦争が始まるでしょう。そうした追いつめられた状況だけに、さすがの菊竹も論調が弱いんですね。
彼自身も論説の中で、「(批判を書かないことを)なんたる怠慢ぞや、と読者は思うことだろう」と詫びています。意気地なさを告白するという形で、書けない状況を説明しているんですね。

司会

菊竹にすれば痛恨のきわみ……。

木村

そうだと思います。とにかく、5・15と2・26では事件のスケールが違いますから。2・26では部隊出動というクーデター計画で、政権構想も一応ありますし、菊竹は治安維持法と新聞紙法でガンジガラメです。事件を書けないもどかしさは想像がつきますね。

西島

国民も軍部に煽(あお)られて、戦争の方に気持ちが傾いていましたね。

松本

2・26のときは、朝日新聞社に押しかけた反乱軍人に対し、当時、朝日の主筆だった緒方竹虎[明治21年(1887)~昭和31年(1956)]さんが、沈着に応対して社を守っているでしょう。
5・15では菊竹六皷です。どちらも福岡出身の新聞人ですね。お二人になにかつながりがありますか。

木村

親交の有無は知りませんが、書簡の往復はあったと御長男から聞きました。残念なことに手紙の類いは散逸してしまったそうです。

西島

だいたい博多の人間は、人から嫌われることはしやんな、みたいなところがあって、道理が多少曲がりよっても、「もう黙っときやい」(笑)。それなのに、菊竹六皷にしろ緒方竹虎にしろ、めずらしいですね。

松本

玄洋社という国士風土もありますからね。その意味では、同じく福岡出身の中野正剛[明治19年(1886)~昭和18年(1943)]にも似ていますね。代表的な言論人で、2人につながりはなかったんでしょうか。

木村

出身校はともに早稲田、顔立ちやタイプも似ていますが、皮肉なことにお互い敵視しあっているんです。近親憎悪のようなもんでしょうかね。

西島

どちらも憂国の志士で。

木村

それをお互いに意識しているんでしょう。中野は中央紙から中央政界で活躍している。菊竹は地方紙に籠城している。中野にしてみれば、「田舎記者が」という気があるし、菊竹にしてみれば、中野は右に左にと揺れ動き、最後にはヒットラーやムッソリーニに傾倒していく。
緒方が、「牢騒心」と呼ぶ中野の言動が、菊竹は嫌いなわけですよ。

日本の屈原その横顔……

菊竹六皷 昭和11年56歳

木村

六皷の貧乏話もいろんな方から聞きました。昭和に入っても、家に柱時計がなかった。
その頃の月給取りの家で、柱時計のない家はめったにない。
代わりに懐中時計がぶら下がっていたそうです。

松本

頼ってくる人たちをとても可愛がって、奥さんは質屋通いをよくされたそうですね。

木村

もと福日記者の中原繁登さんもたいへん菊竹に可愛がられた人でした。就職の世話はもとより、結婚のときには京都の有名な紺屋へ白絹を送らせて新郎の紋付をあつらえ、式、披露の費用まで全部負担してやっています。
「新聞記者の貧乏は誇りである」「新聞記者は裁判官よりも清潔でなければならない」と説く、金銭に淡泊な夫に仕えて、静子夫人はご苦労だったでしょうね。

松本

ところで、木村さんは菊竹をテレビ化して、大きな評価を受けられましたね。浩瀚(こうかん)な労作『六皷菊竹淳』も出しておられる。六皷は没後50年にして知己を得たといえますね。あなたが六皷にひかれたものは何ですか。

木村

まだ高校か大学の頃、御手洗辰雄(みたらいたつお)さんが書かれた『新聞太平記』の中に、菊竹のくだりがあって感動したんです。福岡にもこんな人がいたのかと。
当時は存命だった父が、菊竹の長男、菊竹貞吉氏に引き合わせてくれたのがきっかけで、貞吉さんの御好意で、門外不出だった手記もお借りできました。

松本

肉親の方以外では、木村さんが初めて読まれたのですね。

木村

手記に、結婚後の隠れた恋がでてくる。あの古武士然とした男にこんな面もあるのかと親しみを覚えました。
原鶴の六峰館で逢い引きしているんですが、相手の女性が来ないときがあってノートに綿々と書き綴っている。「来ないでもいい、君が幸せになってくれることを祈る……」と。中年男が書くにしては滑稽なくらい純情ですね。

松本

その頃、原鶴までは大変だったでしょうね。

木村

きっと、格好つけているんでしょう。福岡市内で会う度胸はないし、人目が怖い。当時の原鶴は、温泉宿が5、6軒の静かなところ、忍ぶ逢瀬(おうせ)には都合がよかったんでしょう。
菊竹は一方では廃娼を唱えながら、一方ではコッソリ恋人と逢っている。別れようと女性に言われると、私はいのちがけなんだ、と哀訴しています。
そのへんは矛盾に満ちて……、しかし人間味を感じますね。そういうところがなかったら立派すぎてたまりません。私だって調べる甲斐がない(笑)。

松本

眼光炯々(けいけい)として、まさに古武士のような風貌ですが、ロマンチストでもあるようですね。
子供さん、特にお嬢さんはとても可愛がられたようですね。

木村

非常に温かい人ですね。2人の息子さんには厳しいが、娘さんたちには溺愛ともいえる可愛がり方です。
君(きみ)さん、節(せつ)さん、文(ふみ)さんと3人いらっしゃるんですが……。君さんのところにきた手紙を読ませてもらったんですよ。実に懇切だし、やさしいですね。それに、娘だからと言って見下げる言葉はないんです。そういう意味では私共より非常にリベラルですね。
女性全体に対する恋愛感情の発露かなとも思うんですが、昭和10年の節さんに宛てた、「私は日本の屈原(くつげん)だ」という手紙などもまさに恋文ですね。屈原というのは、中国戦国時代の、楚の人で、世を挙げて濁る中で、我独り澄むと言って汨羅(べきら)の淵に身を投じた憂国の人ですが、菊竹も自分を日本の屈原に擬しています。
狂おしいほどに国を憂えている自分を、誰一人わかってくれない。その嘆きを誰かに語りたい。わからなくてもよいからお前に書く……。菊竹の孤独と、女性に対する憧憬を感じますね。

逝去の際まで〝超人″

西島

反軍のほかに、菊竹さんが論陣をはられたのは。

木村

廃娼や禁酒です。救世軍を応援しています。それから暴力団との対決ですね。
すごいなあと思うのは、戦前の官権の強い時代に、警察と花柳界の癒着を何回もたたいていることですね。
花柳界は暴力と結びつき、警察と結びつく。本県の警察は花柳病に侵されつつある、と。花柳界攻撃は、即地元の警察攻撃なんですね。これは相当の勇気がいったことと思います。
それだけに反面、警察の方も菊竹をたいへん畏敬していますね。

西島

いやあ、写真を見ても菊竹先生が横におられたら怖かったと思いますよ。

木村

とにかく一目会っただけで、どこかが違っていたようですね。右翼の連中が押し寄せる。青白いインテリが出てくるかと思うと、眼光炯々、威風あたりをはらう人物が出てくる。

右翼の連中より、当人の方が国士的風采です。まして皇室には彼ら以上に敬意をもっていますから、もう因縁のつけようがない。反対に頭を下げてしまうということだったらしいですね。

松本

亡くなられたのは……。

木村

昭和12年7月21日に喉頭結核で亡くなっています。奇しくも、今年が50回忌ですね。新聞人が声を失って死んでいった……なんとも暗示的です。享年57歳です。

松本

逝去ぶりも超人だったとか……。

木村

ええ。死の当日、朝から新聞社の人を呼び、後事を託し終わってから、〝死ぬ″という……。そしてそのまま端然と亡くなるでしょう。高僧でもできない。

松本

まいりますね。晩年は仏教に興味を持たれて、人に挨拶されるときは合掌されたと書いてありますね。

木村

鋭い論説を書く一方で、他の人に非常に気を使い、人情家で詩人。そして信仰者……。
一見矛盾したように見えるこの内面が菊竹を苦しめ、また奮起させる原動力ともなっていたのでしょうね。

司会

まことに人間・菊竹六皷の姿が浮かぶようです。今日はどうもありがとうございました。

昭和7年5月16日福岡日日新聞

「首相兇手に斃(たお)る」(菊竹六皷・論説)

陸海軍人の不逞(ふてい)なる一団に襲われたる犬養首相は、国民が、この不祥なる事件の発生を知るや知らざるうちに、遽然(きょぜん)として逝去した。真に哀悼痛惜に堪えざるところである。
もし当代政治家中、識見高邁、時局の艱難(かんなん)を担当する実力のある士を求めば、おそらくは首相の右に出づるものはなかったであろう。過去50年間政界に馳駆(ちく)して、民権の伸暢(しんちょう)に尽瘁(じんすい)し、いわゆる憲政の神様をもって称せられたる首相の政治的閲歴は、今さら喋々(ちょうちょう)するまでもない。しかも老巧首相のごとくにして清節一片の汚点を印することなく、近来政界の腐敗に対して、ファッショ運動等の説を聞くにいたるや、率先して政党自身また七分の責任を負わざるべからざるを公言し、政党自ら相戒めて、改革の実を挙げなければならぬ、と力説高唱し、その一端として来たるべき議会に、選挙法の改正を断行せざるべからず、と大いに意気ごみつつありたるに徴すれば、もし真に皇国のために、政治の改革振作を希望するものならば、まず首相のごとき政治家に、その全責任を負荷せしむるの当然であることを知るはずである。しかもその政治家を虐殺するにいたっては、かれらは、真に政治の改革を望むものにあらずして、自家の政治的野心を遂げんがためにする一妄動であると断ずるのほかはない。
乏しい報道が、なお明白に伝うるごとく、老首相は、事の危急を告げて他に避難せんことを勧告せるものに対し、かれらは将校であるといえば大いに談論してその誤解を解かなければならぬ、と自らすすんでかれらに面会している。のみならず、ひとたび致命の重傷を受けて病床に横たわりながらも、なお邦家のために、兇行者に会談せんことをねがったほどである。その78歳の老首相を捉え、ムザムザと虐殺をあえてせる行為実に憎むべきであると同時に、あくまでも堂々として、大政治家としての態度を失せず、死にいたるまで大いに邦家のために戦いて戦いぬける老首相の最期ほど尊敬すべく、また同情に値するものはない。
いかに現代政治の腐敗を痛論するものといえども、犬養首相の清節を疑ったものは1人もない。またいかに他人を誹謗するをもって能事とする人々も、犬養首相の識見と力量と、しかして時局匡救(きゅうきゅう)の誠意とを疑ったものはない。その老首相を、政治の改革に藉口(しゃこう)して虐殺しさるにいたっては、かれらは、国家を混乱潰滅に導くほか、なんの目的なきものと断ぜざるをえない。
かつて原首相は、東京駅頭に斃(たお)れた。また浜口首相は、同じ東京駅頭に傷ついた。いずれも一国の首相であり、いずれも政策に対する誤解のために過まられたことは同じであるが、今回のごとく、首相官邸に多数押し入り、別に懐抱せられたる政治的目的の犠牲として、虐殺の厄に会える老首相ほど悼ましくも悲しきものはない。
昨日まで矍鑠(かくしゃく)として邦家の重きを担当せる老首相今や亡し、真に痛惜のいたりである。
(木村栄文著『六皷菊竹淳』より転載。ルビは編集者)

※菊竹の号、六「皷」は、通常六「鼓」とされていますが、論稿の署名が皷となっていますので、本篇はその表記によります。

木村栄文氏略歴

1935年福岡市に生まれる。西南学院大学を卒業後、RKB毎日放送入社。1963年、菊竹六皷を描いたテレビドラマ脚本「風に叛く樹」にて芸術祭奨励賞受賞。現在エグゼクティブ・プロデューサー。主な作品に「苦海浄土」(芸術祭大賞)「鉛の霧」(放送文化基金大賞)「鳳仙花」(芸術祭大賞)「むかし男ありけり」(同優秀賞)「ふりむけばアリラン峠」(民放連最優秀賞)等多数。著書に『記者ありき 六皷菊竹淳の生涯』がある。