No.37 博多の味

対談:昭和61年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
博多町人文化連盟事務局長 帯谷 瑛之介氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 監査役 宮地 勇

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


アレンジ精神旺盛な博多っ子

宮地

博多は食べ物のおいしいところだということでは有名ですね。今日は四季のうつり変わりや1年間の行事とからめて、博多の味ということでお話しください。

帯谷

博多の味というと2つの特徴があるんです。まず皆さん博多は料理がおいしいとおっしゃるんですが、これは料理もですが、なんといっても材料がおいしい。博多の味の特徴の1つめは、材料がおいしいということですね。

西島

もう10年程前になるんですが、京大の先生が調査に来られて「博多は住みいいですか」と聞かれるんですね。私は住みいいかどうかはわかりませんが、食べ物はおいしいですもんね、と答えました。すると食べ物が豊富にあって安く、かつうまいということになれば、人間が自然とおおらかになってくる、と言われるんですね。食べ物というのは、そんなふうに影響を与えるんですね。だから博多の者はおおまんでしょう。

宮地

料理もおおまんなものが多いですよね。材料の持ち味を活かすような…

帯谷

昔から博多の板前は京都にやってもなんにもならんと言われていました。なぜかというと、昔は京都へ来る魚は、若狭湾から来るにしても大阪湾から来るにしても、京都に着いたときにはすでに古くなっている。古い魚だから、おいしく食べさせるために料理、味つけが発達するんです。ところが博多は材料そのものがおいしい。だから料理に凝る必要がなかったんですね。ひるもんの魚のような食べ方がいちばんおいしいんです。

宮地

“ひるもん”というと…

帯谷

昔、博多では箱崎や姪浜で漁れた生きた小魚を昼前に町に売りに来ていたんです。この魚の煮付けを“ひるもん”と言うんですが、博多のごりょんさんは、これを生(き)じょうゆでさっと煮て昼膳にのせたわけです。なにしろ新しいから、もったいなくてムニエルになんかできない。しょうゆでさっと煮るのが一番うまいんですが、それは料理とは言えませんよね。

宮地

非常に恵まれているんですね。

帯谷

海のものだけじゃなく、果実や野菜でも日本一のものがありますね。山海の新鮮な材料はどんどん入ってくるんですね。

西島

東京の人を柳橋の市場に案内すると、たいていびっくりしますね。こんなに豊富でいい材料がいっぱいなら、博多がおいしいのもあたりまえだと納得されますよ。

よくスケッチをしに行くんですが、エビでもカニでも何でもあるんですね。だから私は柳橋市場は「全科参考書」だと言っています。

帯谷

博多の食べ物の2つめの特徴はアレンジがとてもうまいということです。博多は港でしょう。遣唐使以来、堺が登場するまで500年間、外国からきた料理はみんなまず博多に上陸していたんですね。それを博多の人は、中国料理であろうと琉球料理であろうと、何でも日本料理にアレンジしてしまうんです。

がめ煮などはその代表例ですね。古くは中国の野菜煮なんですけど、原型はナマズとか鯉を唐揚げして、野菜をいためたものと一緒に煮たんですね。だから相当ギトギトした料理だったんです。それを骨付きのカシワに変えて原型からネギやタマネギなどを除き、酒としょう油とみりんだけで煮てあっさりさせるなんてことは、博多の人がつくったものだったんです。

宮地

オリジナルなものは…。

帯谷

オリジナルはあまりないですね。これは料理だけではなくて唄にも言えるんですが、博多で生まれた唄は…と聞かれると数えるほどしかないんですが、どの歌でも博多に入ってくるととても粋でいい唄になるんです。そういうアレンジの精神エネルギーが旺盛なんですね。

だいたい博多の味は関西系の薄味であっさりしたものが多いんです。中華料理の油っこいものも非常にあっさりとしたものに、しかもエッセンスは残すというふうにアレンジが実にうまいんですね。じゃあ、そのアレンジは誰がやったのかというと、誰というわけではなくて、いつの間にか庶民の舌でそういう方向にいってしまう。そういう舌をもっているんですね。がめ煮の原型の野菜煮もあちこちに残っているんですが、どうもクセが強くてがめ煮のように誰にでも食べられるものではありませんね。

宮地

博多のごりょんさんの功績でしょうか。ごりょんさんの始末の知恵ですね。

帯谷

がめ煮にしても残った野菜をうまく利用しています。正月4日に食べる福入り雑炊も、おせちの残りを全部雑炊にしてしまう、そういう始末は非常にうまいですね。博多の人は一方ではぜいたくですが、一方始末の知恵も発達しているんですね。

早春はフクとシロイオ

“全科参考書”柳橋市場

西島

博多の食べ物でめずらしがられるのはあぶってかもオキュウトコウトウネギ…。あぶってかもなんておもしろい名前ですね。

帯谷

雀鯛のことで、「炙って噛もう」をそのまま名前にしているんですね。昔は“かじ切り”と言われていたんですね。あまりたくさんいて船の舵がとれなかったというんで。網を入れると網いっぱいかかってきて、魚屋では捨てていた魚です。干物にもならんし、しかたないので塩漬けにでもしとこうということで、これが食べてみたら結構おいしい。下の魚だったので戦前までは魚屋では売っていなかったですね。

西島

八百屋か干物屋でしたね。

帯谷

それがどうして名物になったかというと、戦後になって東京、大阪からの客がもっと珍味を…と求めるのに、篠原雷次郎さんがやま弥の女将をたきつけて出させてみたんです。ところが評判がよくてパーッと全国に広がったというわけです。春の終わり頃脂がのってしゅんになるので、博多ではあぶってかもが出はじめると夏が来るといいますね。

宮地

珍味といえば、冬のフグ。博多へ来るお客さんは、内心期待して来ているんではないでしょうか。

西島

しかし高いですからね。昔は家庭での簡単な酒の肴だったものが、今じゃ料亭や営業用になってしまって、残念ですね。博多のフグは下関から?

帯谷

そうですね。でも玄海のフグもうまい。実はフグが下関というのは理由があるんです。別に下関でフグがとれるわけじゃないので…。とれるのは大分県の姫島沖と徳山沖がいいんです。そこでとれたのを生きたまま下関に持って来るんですが、下関に着く頃には体内のものを全部消化していちばんいい状態になっているんです。この状態を職人は「血がまわる」と言いますが…。これがちょうど下関の夕方なんです。この時期はさしみにした身が薄いピンク色で盛りつけた絵皿の絵がすけてみえるようなときです。そして身がくっつきあうときです。これを過ぎるとまずくなるんですね。

宮地

東京の人など、フグというと毒を心配して手をつけない人もいますが、いったいいつ頃から食べていたんですか。

帯谷

実はフグは明治までは禁制の魚だったんです。ところが伊藤博文が萩の出身で鰯が好きですから帰郷のたびに下関で鰯を食べるのを楽しみにしていました。あるとき海が荒れて鰯がとれなかったときに、料理屋の女将が「お手打覚悟で出します」と言って出したのがフグだったんです。何の魚かわからずに食べてみたところが非常にうまい。3日間食べ続けて、これはいったい何だ。実はご禁制のフグです。するとこんなうまいのを禁止するとはけしからんというわけで許可になったんです。(笑)

西島

フグのいちばんおいしい季節は…。

帯谷

彼岸から彼岸までと言いますから10月の終わり頃から菜種の花が咲く頃までですね。しかしいちばんうまいのは、雪がチラチラ降って寒がしまった頃です。

宮地

春のお彼岸にフグ供養をしますものね。ところで、フグ刺しには欠かせないコウトウネギ、あれは…。

帯谷

細ネギでいまでも下関からもってきていますね。戦前に下関市安岡で朝鮮や満州向けの高等野菜として栽培されていたんですが、フグ料理の薬味として珍重され、水たきにも合うもんですから、博多に多く入るようになったんです。

西島

朝倉郡にもネギがありますよね。

帯谷

あれは博多万能ネギ。昭和53年に空輸で東京に出したんですが、なんにでも合うというので一気に広まったんです。東京では「博多万能ネギあります」という貼り紙は高級野菜屋のステータスシンボルになっていまして、昭和60年度の「日本農業大賞」を受けています。

宮地

フグの次は白魚ですね。室見河畔の料亭に白魚の旗がたち並ぶのは、すっかり博多の早春の風物詩になりましたね。白魚供養もすっかり根付いて…。あれは西島先生のお力が大ですね。

帯谷

室見川の白魚やな漁は江戸時代から300年の歴史があります。産卵のため室見川を遡ってくる白魚を、木や石を組んだり流れの落差を利用して竹などで編んだ梁簀(やなす)をしかけてとるんですね。

昔から白魚を売りに来ると春が来たという感じがしました。昔はどんな小さい川でも、那珂川でもとれていたんですよ。僕らはあれを魚釣りのエサとしてバケツ一杯買ってました。安い魚だったんです。漁師たちがちょっと一杯と、角打ちに行くときには、白魚を生きたままマスに持っていって、酢としょうゆをかけて喰っていました。それほど大衆魚だったんですね。

宮地

シロウオとシラウオ、どっちなんですか。

帯谷

博多のはシロウオが本当ですね。シラウオはシラウオ科の魚で、ハゼ科のシロウオより大きく、体長17~18センチです。味はシロウオの方がおいしいですね。

西島

私たちは昔はシロウオとは言わずに、シロイオって言いよったですもんね。それを九大の内田恵太郎先生にシロウオって言わないかんと言われたときはまいったですね。いまでもまいってます。(笑)

宮地

シロウオは博多だけですか。

帯谷

いえ、長崎あたりでも昔から食べています。しかし、長崎のは外海でもまれるせいか味が荒っぽいですね。

西島

いまは生きたままをうずらの卵と二杯酢ですすりこむ踊り喰いが有名ですが、昔はなかったですね。卵とじとお吸い物とかきあげくらいですか…。

白魚供養を4月下旬に行うとシーズンも終わりで、それからはどんたくですね。

どんたく、山笠、放生会 運がつくから運ソバたい

宮地

どんたくの時は何か…。

西島

どんたく隊が家を一軒ずつまわってきたときに出すおつまみがありますね。文字どおりおつまみで、全部手でつまめるようなものばかりです。かまぼこ、ギナン(銀杏)の甘煮、竹の子、それから必ず夏みかんの皮をむいて、とさかのようにしたものを出しますね。

帯谷

やはり疲れるから酸っぱいものが欲しくなりますね。5月になると、先程のあぶってかも、脂がのって最高においしくなりますね。

宮地

それから夏になるとオキュウト。オキュウトというのもおもしろい名前ですね。

帯谷

いろんな説があるんですね。沖のウドというわけで沖独活、また沖から来た人が製法を教えてくれたから沖人、黒田藩の飢饉のときに人を救ったからお救人(きゅうと)、などいろいろあるんですが、はっきりしませんね。原料はエゴノリで、北陸でもイゴテン、エゴテンなどと呼んで食べています。

西島

私達が小学生の頃は、朝、学校に行く前におキュウトを売りに行きよったですね。「とわい、オキュウトわい」と掛け声をかけて…。ひょうげて「オキルトバイ(起きるとバイ)」と言ってたこともあります。(笑)

帯谷

あの声は戦前の育ちには懐かしいですね。食べ方も今ではマヨネーズやゴマ、酢じょうゆをかけて…といろいろありますが、磯の香りを消さないためには、削り節に生じょうゆ、これが最高で、博多の食べ方です。

宮地

博多の朝食には欠かせないものだったでしょうね。

帯谷

そうですね。みそ汁とオキュート、箱崎のノリが一般的なメニューでしたね。残念なことに箱崎のノリは40年頃なくなってしまいましたが、これは最高のノリでしたね。

宮地

山笠には…。

帯谷

山笠はごちそうはないんですね。というのも、男たちは山笠で家を出はらっていますから、ごりょんさんは家事と商売で大忙しなわけです。そこで料理は自然と男でもできるものになってしまいます。かまぼこ、コンコン(漬物)、アサリ汁くらいですね。

宮地

なるほど、ごりょんさんへの思いやりですね。お盆などは…?

西島

お盆はアチャラ漬けタラワタ、焼酎ですね。

帯谷

アチャラというのはあちらという意味で外国のことだろうと思われます。コオリコンニャクにレンコン、ゴボウ、ユリ根、ショウガ、コンブ、木クラゲなどを二杯酢でトンガラシと漬けてあるんです。焼酎には砂糖を入れて飲んでいましたね。タラワタは骨付きのタラの干物を煮たもので、義理にもごちそうではありません。

宮地

9月になると放生会。放生会は幕出しでごちそうだったでしょう。

帯谷

幕出しは町内ぐるみのレクリエーションでなべ、かま、七輪から酒、食料、衣装いっさいを長持ちに入れて、男も女も新調の放生会ぎもんで箱崎浜にくり出し、飲めや唄えの大騒ぎをしたんですね。ごちそうは、三段になった堺重の中に放生会ガメ(カニ)、末広カマボコ、オオスボ、がめ煮、糸コンニャクなど。それに箱崎の浜でとれる魚を鍋ものにしたり、甘酒もありましたね。

宮地

秋はサバのおいしい時期ですが、ゴマサバも博多の味のひとつですね。

帯谷

サバは博多のサバが日本一だそうです。対馬から五島までのサバがいちばんおいしいんだそうで、ゴマサバはなんといっても新鮮なサバでないとだめですから、東京に行った博多の人間がどうしてもゴマサバが食べたくなって、つくったところが中毒を起こしたなんて話もよく聞きますね。

その他に秋といえば、栗節句に栗ごはん、冬至に、煎った黒豆をご飯に炊き込む黒豆*飯を食べますね。

西島

年末は運ソバですね。博多では年越しソバのことを運ソバといいます。

帯谷

運ソバは博多が発祥の地なんです。運ソバを始めたのは宋の謝国明(しゃこくめい)という人で、この人は一説によれば宋人と博多の女性との間に生まれた混血だということですが、博多湾の漁業権を全部もっているほどの大商人だったんです。この謝国明が山笠を始めた聖一国師(しょういちこくし)について日本に帰ってきて承天寺を建ててやったんですね。

その謝国明が、ある年博多の町が不景気で天災地変が続いて、町民がお正月を迎える元気もないときに、大晦日に承天寺へ集まれという布令を出すのです。博多の人は何だかよくわからないけど、謝国明が言うんだからとにかく行ってみようと集まりました。そこでカユノモチをふるまったと書いてあるんですね。それがソバ粉をかいたもの、いわゆるかきそばだったんです。そこで町民もソバを食べて、こんなことしておれんと元気を出して年を迎えたところが、その年が非常にいい年であったというので、あのソバから運がついた。運ソバと言い出したというんです。

ブリかアラか、はたまた鯛か…お雑煮論争

博多名物「水炊き」

宮地

さていよいよ博多のお雑煮ですが…。

西島

これがなかなか問題がある。(笑)

帯谷

ブリをつかう家とつかわない家がある。この両説、それぞれに頑固で…(笑)

西島

家によってはアラか鯛というところもある。

帯谷

どうしてアラや鯛なのかというと、博多の雑煮はダシがとても微妙なんですね。せっかくの微妙なダシに、青魚のブリを入れると味がにごるというわけです。

宮地

博多では焼きアゴをダシにつかいますね。

帯谷

コンブと焼きアゴですね。焼きアゴは腹と頭をとって、ガーゼに包んで昆布といっしょに水に一晩ジワーッとつけておくんです。そして朝、鍋にかけるんですが、沸騰するとコンブやアゴの苦みが出てしまうので、その前にはずします。そしてシイタケの汁を加え、煮たつ直前に削りぶしを3回くらいふるだけです。これでたいへん微妙な味わいのダシが出ているわけです。ですから、その味を壊さないために魚は白身の方がいいわけですね。

西島

私は自分の小さい頃のことしか知りませんから、雑煮といえばブリだと思っていました。

帯谷

ブリは出世魚でおめでたいですし、大ブリな年をとるということでもお正月の魚とされているんですね。それに、博多の雑煮のダシは微妙すぎて、薄味すぎるということで変わってきたのかもしれませんね。

ついでに言うと、餅は丸餅をつかい、焼かずに水餅をだし汁にこんぶを敷いて煮るんですね。こんぶを敷くのは、鍋の底に餅がくっつかないためです。

独特の大ぶりのお碗に、かつを菜、さといも、焼きどうふ、とここまでが博多雑煮の古い形です。今ではかまぼこなども入ってにぎやかになっていますね。

これにだし汁と煮た餅を入れるわけです。餅と具を一緒に煮ると汁が濁るので別々に煮て、きれいなすましに仕立てにするのです。

宮地

暮に、婚家へお嫁さんの両親がブリを持っていく習慣があるようですが…

帯谷

嫁ごぶりがいいように…というわけでブリなんですね。お雑煮に使わない家ではナマスにしました。

宮地

家庭料理じゃないかもしれませんが、博多の“水たき”も有名ですね。

帯谷

水たきはもともと中華料理の鶏の水煮で、明治30年代、林田平三郎さんが香港で習って博多で「水月」という店を開いたのが始まりです。始めは売れなかったようですが、移転に反対して残った柳町「新三浦」が始めたところ、九大医学部の教授や学生が愛用するようになりました。当時の学生の大半は一高、三高出ですから卒業して関東や関西に帰って「博多に水たきというハイカラで安くて栄養満点の料理がある」と宣伝したため名物になりました。ですから明治の終わりから大正にかけて名物になった料理です。これもアレンジされた料理で、スープから始まってほん酢や薬味を生かし、更に野菜からうどん、餅、雑炊まで広げて日本の味にしたのは博多人ですが、2系統ありまして、水月系はスープが澄んだコンソメ、新三浦系はポタージュで濁っています。本山荻舟の「飲食事典」には博多の人は家庭料理と称すると書いてあります。

ラーメン、からし明太子 アイディアで勝負の新名物

宮地

よその人は博多というとからしめんたい子と思っているようですが…。

帯谷

そもそもは明太魚(めんたい)子は韓国のものなんです。あそこは市のたつ日にはくさいくらいに明太魚子の干したものが出まわります。冬になると子を持ちますから、それをトンガラシで漬けこんで売るんです。あちらの冬の風物詩のようなものですね。戦前、釜山におられたふくや先代の川原俊夫さんがあの味が忘れられず、工夫していまの味をつくられて評判になりました。それ以前にも似たものをつくっていた店もありました。

宮地

いつ頃の話ですか。

帯谷

「ふくや」が始められたのは昭和27年頃だそうですが、ワッと売れ始めたのは昭和40年くらいですから、そう古い話じゃありませんね。今ではからしめんたいといえば博多ということになりました。

西島

この前函館でも売ってたんで買ってみたんですが、ぜんぜんおいしくないんですね。

帯谷

だいたい原料のタラは北海道からもきているんです。北海道では、なにも自分のところでとれる明太子が博多で有名になることはない、こっちでも…と思ったようですが、どうしても勝てない。博多のからし明太子で名が通ってしまうと盛り返すのはなかなかむずかしいですね。名物は必ずしもそこでとれるわけではないこともありますものね。

宮地

名物といえば東京あたりでは博多ラーメンがもてはやされていますね。

西島

博多ラーメンというとトン骨スープで白く濁って脂が浮いたものですよね。かなりクセが強いんですが、全国的に広まったのはインスタントラーメンで登場してからですね。最初はクセの強いあの味がうけ入れられるか不安だったんですけど、一度食べなれてみるとあれでなくちゃいけないんですね。

帯谷

代表格は長浜ラーメンでしょうが、以前は真夜中にベンツが止まってたりしましたね。

西島

長浜という土地柄がよかったんですね。まず港に船の着いた人が食べる。市場に朝来た人が食べる。中洲で飲んできた人が食べる。仕事が終わったバーテンの人たちが来る。するとまた朝になって漁師さんたちが食べに来る…と24時間営業ですものね。

帯谷

替え玉といっておつゆが残っていると50円で玉だけポーンと替えてくれる。あれも名物でしたね。

宮地

ラーメンといえば屋台ですね。中洲や天神には屋台がズラーッと並んで、博多に来られたお客さんにはたいへんめずらしいらしく、喜ばれますね。

帯谷

屋台は本当に安くておいしかったんですね。屋台では器で勝負するわけにもいかないし、店のつくりで勝負するわけにもいかない。それで自然と味だけで勝負ということになって…。材料も沖物のいいのをつかっていましたし、屋台のオヤジからも包丁1本でこれから成長するんだというような気概が感じられていましたね。

近頃では、こういう職人気質がすこしうすれたようで残念です。

しかし、博多の屋台は楽しいですね。他の土地では屋台というと侘しい雰囲気が漂うんですが、博多は陽気なんですね。ご飯が足りないというと、隣の屋台から一膳借りてこられるオープンさが魅力ですね。

宮地

ビルの中では腹いっぱいになっていても、外に出て屋台にすわれば、また食べたり飲んだりできますものね。

帯谷

バラエティーがありますもんね。すしからラーメン、天プラからおでんからうどん…。

西島

サンフランシスコのフィッシャーマンオフのようなものを築港のところに作ったらいいでしょうね。常設して、いつでも新鮮な魚を安く食べられるようにするといいですね。

食通の天国…博多

帯谷

甘いもののことにうつって、まんじゅうが博多で生まれたことはあまり知られていないですね。

承天寺を建てた聖一国師という人がいますが、この人が1241年に宋から博多へ帰って来て、禅宗のお坊さんですから托鉢をして歩いていた。そのときにたいへん親切にしてもらった栗波吉左衛門にまんじゅうの製法を教えます。そして自ら「御饅頭処」と字を書いて与えます。これは現在でも残っていますね。

その後「虎屋」という屋号になります。これが日本におけるまんじゅうの始まりなんですね。ところが一般には龍山禅師についてきた林浄因が奈良に伝えたものが、京の饅頭屋町に移り、江戸に行って塩瀬になった。これが始まりと思われています。しかし私は、博多説を信じていますね。

ただし、虎屋系のまんじゅうは酒種のまんじゅう。塩瀬系は薬まんじゅうです。博多に今でも甘酒まんじゅうが多いのは、その名残りなんですね。

宮地

甘党には嬉しい話ですね。博多のまんじゅうが気をはいているのは、そうした土壌もあるのでしょうね。ところで辛党の方は…。

帯谷

江戸時代までは加賀の菊酒と博多の練り酒が二大銘酒だったんです。練り絹のごとしという意味なんですね。製法を見ますと一度つくった酒に焼酎と甘酒を加えたとありますから、かなり度数は高かったのでしょう。日本の代表酒の一つです。桃の節句の白酒はこれから生まれた酒です。

宮地

うまい食べ物にいい酒。庶民の暮らしに溶けこんだごちそうの数々、博多は本当に食べ物の宝庫ですね。

帯谷

その他、現在のお茶が初めて伝えられたのも博多です。聖福寺を開いた栄西(ようさい)がもってきて、境内に植えたのが始まりです。その種が何種か京都へ流れて、宇治に根付いたんですね。お茶には深い霧ときれいな水、そして夏の日照りが必要なんですが、宇治はちょうど条件にぴったりだったのです。現在、八女茶は日本一の生産量を誇りますが、八女にもこういった条件がそろっていますね。

その他、菜種が伝えられたのも博多ですし、日本の食物史から博多をとり去るといくつもの料理が姿を消してしまうほど、大きな役割を持っているんですね。食い道楽には天国といえそうです。

宮地

貴重なお話をどうもありがとうございました。

聖福寺(しょうふくじ)

福岡市博多区御供所町にある臨済宗妙心寺派の寺。1195(建久6)千光国師栄西の開基。わが国最初の禅寺と言われる。山門の掲額「扶桑最初禅窟」は後鳥羽上皇の宸筆。開創以来、高層が相ついで住持となり、室町時代には臨済宗十刹の第三位に列した。歴代住持のうち頤賢碩鼎(いけんせきてい)、景轍玄蘇(けいてつげんそ)、仙★義梵(せんがいぎぼん)は特に有名である。
栄西は我国の茶祖と言われ、背振山、聖福寺その他に茶種を植え「★茶養生記」を著した。
広大な境内全域が国の史跡指定で、寺宝に重要文化財の絹本着色の大鑑禅師像高峰断崖中峰三和尚像、銅鐘などがある。また、寺内には初代玄洋社社長平岡浩太郎、広田弘毅、緒方竹虎などの墓がある。

住所/福岡市博多区御供所町6-1 -博多駅より徒歩10分

承天寺(じょうてんじ)

福岡市博多区博多駅前にある臨済宗東福寺派の寺。1242年(仁治3)宋時代の中国の人、謝国明の創建。開山は聖一(しょういち)国師。鎌倉時代には国師の高弟が次々と住持になり、室町時代には天下十刹に列した。
博多との関わりも深く、境内には博多織の始祖満田弥三左衛門や俳優川上音二郎などの墓があり、謝国明の墓も残っている。また、博多山笠の起源は、聖一国師が悪疫退散の祈祷をしたとき施餓鬼棚(せがきだな)をかつぎまわったことによるという説がある。まんじゅう、ようかん、麺類が伝えられたのもこの承天寺である。
寺宝には重要文化財に指定されている木造釈迦三尊像、絹本着色禅家六祖像、銅鐘など多数ある。

住所/福岡市博多区博多駅前一丁目29-9 -博多駅より徒歩5分