No.38 お櫛田さんと博多町人

対談:昭和61年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
フクニチ新聞社顧問 武野 要子氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 副頭取 森田 孝雄

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


博多の町と平清盛

博多名物 櫛田のぎなん

森田

今日は櫛田(くしだ)神社と博多町人ということで、櫛田神社に伝わる古文書の中に出てくる町人の様子から、昔の博多の町をのぞいてみようということなんですが、櫛田神社といえば博多総鎮守で、博多っ子にとってはたいへん馴染みの深い神社ですね。

西島

山笠にしろどんたくにしろ、博多っ子はことさえあればお櫛田さんに集まりますもんね。博多祝い歌にも“さても見事な櫛田のぎなん、枝も栄ゆりゃ葉も繁る”とあるように、櫛田神社の銀杏(ぎんなん)は市内でも有数の巨木で、シンボルのようなものですし、社前の「力石」など文化財も多く博多の顔ですね。櫛田神社は承天寺(じょうてんじ)から分かれてできたと聞いたことがありますが…。

武野

櫛田神社の社史の中には西暦700年頃できたと記してあるんですね。とにかく古い由緒のあるお宮さんですからその創建には諸説がありましてね。私は平清盛が大宰大弐(だざいたいに)のとき勧請(かんじょう)したのではないかと思っています。博多と清盛というと意外に思われるかもしれませんが、たいへん深い関わり合いを持っているんですよ。

西島

博多の者は戦国時代に焼け野ヶ原となっていた博多を復興した豊臣秀吉を博多の元祖のように思っていますもんね。

武野

そうですね。平清盛というと平家物語にも出てきますが、最後は熱病で死んで、奢る平家は久しからずと悪玉にされていまして一般的な人気がないんですね。しかし博多を考える上では秀吉とともにとても大事な人です。平氏と九州との関わり合いは清盛の祖父にあたる平正盛の時代からそのきざしが見えています。武士の棟梁として九州へ赴き、肥前藤津荘の平直澄や源氏の源義親を討伐したりしています。その子忠盛の時代になると結びつきはもっと濃くなり、西国地方の受領(ずりょう)を務め、やがて九州の肥前神埼荘の院司(いんし)となります。ここは上皇の領地で、忠盛はその代官のようなものだったのですね。清盛は後白河天皇の保元2年(1158)に大宰大弐に任じられています。この任官は九州の掌握と日宋貿易の足場を確保するためのものだったんですが、宋船の出入りの中心は博多ですから、ここに平家の貿易拠点をつくたんです。これが袖の湊(そでのみなと)ですね。袖の湊は日本で最初の築港と言われているくらいで、これ抜きには日本の国際貿易は考えられません。

袖の湊

森田

袖の湊というと、いまのどのあたりですか。

武野

呉服町一帯と思われますね。袖の湊という名前もおもしろいんですが、これは実際に着物の袖の形をしていたんですね。それをつつんで沖ノ浜があって貿易の中心地となっていました。その横のところには妙楽寺(みょうふくじ)があったようですね。妙楽寺がいまの場所に移されたのは黒田長政のときですから、それまではこの袖の湊にあったんですね。

森田

妙楽寺というと博多三傑の一人で秀吉にかわいがられた豪商神屋宗湛(かみやそうたん)や、朝鮮との密貿易で打ち首になった悲劇の博多商人伊藤小左衛門(いとうこざえもん)の墓のあるところですね。

西島

昔の袖の湊のあたりに、いまでも沖ノ浜神社という小さい祠(ほこら)がありますよ。

武野

つまり清盛は日宋貿易の経済拠点として袖の湊をつくり、博多の人々の心のよりどころとして櫛田神社をつくった、と考えるのが理屈にあっていると思います。

西島

すると承天寺から分かれてきた…というのは?

武野

社伝にはたしかにそう書いてありますが、その点どんなものでしょうか…。

博多オールガイド「博多津要録」

森田

その櫛田神社の古文書の中に、博多を知る上で重要なものがあるんですね。

武野

櫛田神社には櫛田文庫(くしだぶんこ)と櫛田神社文書(くしだじんじゃもんじょ)という2つがあるのです。櫛田文庫は日本の図書館の初めだったと言われていますが、内容は漢籍のたぐいが主です。櫛田神社文書の方は博多町人とかなり関係ある資料がそろっていて、資料の宝庫です。総数1,126点で、戦国期から昭和期にまで及んでいます。戦国期のものは大友氏の博多支配を物語る文書や秀吉の博多復興に関する文書、この中で「定」は博多津に楽市楽座、廻船の自由などを保障した文書として有名ですね。江戸時代以降では博多の町政の記録である「博多津要録(はかたつようろく)」、各戸の営業種目と運上銀(営業税)を記した「博多店運上帳(はかたみせうんじょうちょう)」など、近世博多研究の上で重要な資料です。他に延宝年間から明治の初め(1680~1874)にわたる「山笠記録」などもありますね。博多の資料は個人所蔵のものもたくさんあったと思われるのですが、保存状態が悪くあまり残っていません。それでこの櫛田神社文書がたいへん重要となってくるのです。いつ、どうして櫛田神社に集まったかは必ずしも明らかではないのですが、ただ櫛田神社はほとんど火災にあったことがないんだそうですね。それで本能的に大事なものは櫛田神社にもってくる…という風になったんじゃないだろうかという説があります。櫛田神社文書の中でまず最初に挙げなくてはならないのは「博多津要録」で、これは福岡県文化財に指定されています。37年間も博多年行司(はかたねんぎょうじ)を務めた原田安信(はらだやすのぶ)の撰になるものだと言われています。28巻あるのですが、惜しいことに第1巻は消失していますね。

森田

「年行司」というと…。

武野

博多の町役人のことですね。博多年行司は鎌倉時代の頃からおかれていたと言われています。人数は12~16人でした。慶長5年(1600)に黒田長政が入国したとき、それまでの慣例どおり年行司は12人と決め、1年に4人ずつの輪番勤務としました。次第に減っていって、元文3年(1738)からは半年ごとの交代となり、人数も2人になっています。年行司は奉行が決めましたが、町年寄(まちどしより)の入札で奉行が決めたこともありました。年行司の仕事は年行司役所に出勤して、町奉行の申達を受けて博多津中に伝え、運上銀の取り立て、人足入目の算用など重要案件を審議、実行し、町年寄や組頭(くみがしら)を町奉行に推挙したりしていました。町奉行は町の行政司法を管轄する藩士ですが、寺社奉行を兼ね、2人で輪番。馬廻り組以上300石以上の上士で、福岡と博多の町人を支配していました。その下に年行司を頂点として、町年寄や組頭によって代表される町人社会があります。町年寄は、博多の各流れから1名、輪番で月行事とも言われていたと古文書に書いてあります。その下に1町内の10戸か20戸ごとに組頭があって、この組織で諸般の運営と切銭を集めることなどしていたのですね。ほかに養育方というのを2~3人置いたりしていました。町人社会のいちばん上の指導者が年行司で、博多の町と奉行所との間の交流をはかる役割を果たしていたのです。たとえば山笠を指導していたのも年行司です。

森田

編者の原田安信はいつ頃の人ですか。

武野

はっきりと何年から何年というのはわからないのですが、江戸時代半ばの人です。福岡名島町劉家〈鉄屋〉の出、博多川端町の原田家の養子となり、年行司を38年間つとめた人です。

博多総鎮守 櫛田神社

博多総鎮守 櫛田神社

福岡市博多区上川端町にある旧県社。祭神は大幡主命(櫛田大神)、天照皇大神、素盞鳴命(祗園大神)。古来、博多の総鎮守として諸人の崇敬厚く、その歴史は、博多の一面の歴史でもある。境内にひときわそびえたつイチョウは市内でも有数の巨木で、博多の古謡に歌われ、県指定天然記念物。江戸時代中期の博多津の年行司役所の公式記録『博多津要録』27冊、肥前鐘、蒙古碇石、町内の力比べに使われた力石はいずれも県指定文化財である。室町時代末期豊後(大分県)の大友氏が博多津にあてた書状および、豊臣秀吉が博多を再興するにあたって発給した楽市・楽座関係史料は、博多を知る貴重な史料(市指定文化財)。また毎年7月1日から15日早朝にかけて行われる博多全町あげての祭事・博多祗園山笠は豪華絢爛、その勇壮さは全国にも比類がなく、重要無形民俗文化財となっている。境内の博多歴史館で社宝および山笠関係資料が展示され、飾り山も年中見ることができる。(西日本新聞社・福岡百科辞典より)

住所:福岡市博多区上川端町1番

「殿様、税金が安すぎますバイ」

森田

何年間分の内容がはいっていたのでしょうか。

武野

巻之二が寛文6年(1666)からで巻之二十八が宝暦4年(1754)ですから、100年くらいの記録ですね。内容としては博多の町のしくみ、町役人、町人の格式、問屋、御用銀(ごようぎん)、運上銀(うんじょうぎん)、人馬人足継所(つぎしょ)、町人の公役(くやく)・負担、切銭(きりせん)、博多織、櫛田神社の普請、松ばやし、山笠、その他博多に関するいろいろな記事です。文字どおり博多津の要録ですね。

西島

運上銀など独特の用語ですね。現代風に言いますと…。

武野

そうですね、運上銀は商人の規模に応じた運上、つまり営業税ですね。ご用銀は藩の行事などへの献上金。人足継所は幕府の目付や周辺の大名の家臣、また長崎奉行の出立、参勤交代など、折々に人足と馬を動員する、それをスムーズに果たす役目ですね。切銭は日ごと月ごとの負担金の集金、松ばやしは1月15日に行われていましたがどんたくの前身です。興味深い固有名詞も出てきますよ。伊藤小左衛門の名前も出てきます。ところが小左衛門のことは目次だけあって内容がないんです。伊藤小左衛門は朝鮮との密貿易で打ち首になっていますから、殿様に遠慮してあとからそこのところだけかくしたのかもしれませんね。

森田

文書の記事でおもしろいのにはどのようなものがありますか。

武野

町人どうしのけんかですとか、遊び好きの町人某があやまって妻を殺し、そのあだうちを妻の父親が遺言して自害した話だとか生活的な細かい記事まで出てきます。いわゆるお役所的な編纂物じゃないようですね。博多の町人に溶け込んでいて紋切り型の資料じゃないのでおもしろいんです。鰯町だったでしょうか。税金が安すぎるからもう少し差し上げます。と申し出たなんて記録も残っていますね。

西島

鰯町というと今はありませんが、川端からまっすぐつっ切った浜の方ですね。

武野

資料によりますと海産物問屋が多かったようですね。問屋街だったのでものすごくもうかって、それで税金をもう少し差し上げます、と申し出たようです。殿様も素直にもらっています。「まあ、そう言わんでもいいじゃないか」なんてことは言っていませんね。(笑)既存の鉄かね問屋へ新人の参入願いもあります。これは7~8軒の問屋の猛反対でダメ。姪の浜の町人が博多の酒屋営業権を譲りうけようとして、在郷はダメと反対される、新旧の対立、商戦のきびしさは昔からですね。上方町人からのきびしい督促にネをあげているのもありますね。代金支払を幕府の力を借りて御給判という請求がくる。これにはまいったでしょうね。

森田

経済情勢がありありと見えるようですね。

武野

くりかえし倹約令を出しています。料理、家作(かさく)、衣服、刀、音信、祝言、出産祝、交際の節減、振舞、贈答と項目をあげましてね。

西島

博多っ子もまいったでしょうね。

武野

忠義をはげめ、朋友間を正しくといったことも出てくる。

西島

殿様も勝手だな。(笑)

森田

いろんな資料が年行司のところに集まるしくみになっていたのでしょうか。

武野

そうですね。年行司が町の取り締まりの総括でしょう。だからいろんな具体的な資料がぼう大な量集まってきていて原田安信が仕事上の必要からこれを編纂したんだと思います。

西島

町人の方から報告に来ていたものもあるでしょうね。

武野

そうですね。組頭が町年寄に情報を提供して、町年寄が年行司にこんなことがありましたよ…という調子で報告をすることはありましたでしょうね。

森田

司法権は持っていなかったのでしょうか。

武野

裁判記録的なものはないんですが町年寄の上ですから親方格でしょう。そして年行司は町年寄の互選か入札で決めていましたので人望もある。上に立つ人ですから、もめごとがあればそこに出かけて行って調停するということは当然考えられますね。

森田

そういう資料が櫛田神社に集められていたから残ったのでしょうね。

武野

最初から櫛田神社に収めてあったのではなく、年行司役所に集められていたんですね。ところが年行司役所には年行司の自宅を使っていた場合もあるらしく個人の家ですと火事にあったり雨にぬれたりという恐れもあるので、櫛田神社にお預けしといた方がいいんじゃないか…ということで預けたんじゃないかという考え方と、一時的に櫛田神社に年行司役所的なものを置いていたという説もあります。といっても櫛田神社に役所があったわけではなくて、年行司が櫛田神社に寄り集まって…という具合に寄り合いの場所のようになっていたのではないでしょうか。

“流れ”で盛りあがる山笠

西島

山笠が出てくるのはこの博多津要録ですか。

武野

ええ、博多津要録や山笠記録帳、祗園山笠並びに能定格渡帳(のうじょうかくわたりちょう)など櫛田神社文書の中にたくさん出てきます。山笠の経費は切銭によってまかなわれていました。切銭は、日ごと、または月ごとに積み立てる町内会費のようなものですね。

西島

山笠は明治でいったん途切れていますが、それを除けばずっと続いているんでしょうか。

武野

続いていますね。江戸時代には殿様がご覧になったり、藩が奨励金を出している時代もありますね。

西島

昔の山笠の絵を見ると台上がりしている人が軍配をもっているんですね。今は鉄砲といって赤い布のついているものですが、あれが年行司だったかもしれませんね。山笠というと、これは各町内の流れで保存されて現在へ伝えられたのですね。昔の流れはいくつだったのでしょう。

武野

博多が大内支配のあと、大友、龍造寺、島津の激戦地となって焼野ヶ原となっていたのを秀吉が復興しますね。一小路というのを中心に、東西に流れをつくっていったのです。有名な太閤町割りですね。流れは○○通り、○○筋のようなものですが、それぞれの連帯結束意識がつよく、町の行事もこの流れによって運営されました。1月15日の松ばやし、これは現在のどんたくですが、それと山笠の運営もこの流れがあって維持されたのですね。古くは東町、呉服町、西町、土居、須崎、石堂、魚町の7流れで、享保元年(1716)には新町、途子が加わって9流れ、幕末は、博多店運上帳によると、浜が岡新町と浜に分かれて10流れでした。

西島

いまは区画も変わるし、町名も変わって…。いまは飾り山が12、かき山が7流れになっていますね。

揺り合わせて丸くおさめる町人気質

武野

ところで櫛田神社文書としては他に「博多店運上帳(はかたみせうんじょうちょう)」があって、博多の店の名前と屋号、職種、運上銀の多寡といつ納めたかということが載っています。

森田

税金の台帳ですね。

武野

それがなぜ櫛田神社にあるかというと、藩が町に税金をどれだけ納めさせるか決めると、その振り分けは年行司がやるんです。おたくの流れはこれくらい、おたくはこれくらい…というふうに決めるわけです。それで年行司の資料として櫛田神社にあるわけですね。

森田

その当時の博多の町にはどんな店が多かったんですか。

武野

衣食住にかかわる商品の製造、販売業が多いようですね。具体的に申し上げますと代呂物(しろもの)問屋(雑貨商)、柑橘野菜商、売薬商、搗米(つままい)商、櫨蝋(はぜろう)板場、綿弓(わたゆみ)(木綿商)、生魚問屋、相物(あいもの)問屋(塩魚・干魚商)、船問屋などです。福岡藩の特産物である蝋、綿弓、魚類の製造、加工、販売業がさすがに多いですね。てほ、そふけ、なども出てきます。てぼ、しょうけのことで笊屋(ざるや)ですね。志賀というのもあります。これは農村の必需品を天秤棒で担って売り歩いた行商でしょう。店ごと、名前ごとに銀三匁なんて克明に書いてある。当時の町並み、商人の生活が目に見えるようで、本当に興味のある資料ですね。中でもとくに運上銀納入額が多いのは相物問屋や船問屋でした。

西島

当時、そんなふうに税金をふり分けて取り立てられたというのは、博多の町の組織がよっぽどしっかりしていたからでしょうね。

武野

年行司が流れごとにふり分けを決めて、それを各戸に分けるわけですが、驚いたことに誰もそれに対して文句を言っていないんですね。ものすごく自治的というか不思議なくらい統制がとれていますね。一方で不満がないようにふり分けた年行司のウデもすごい。町人から信頼されていないとこういうふうにはできませんね。

森田

年行司の制度は博多だけなんでしょうか。

武野

そうですね。他の地方ではあまり聞かないですね。とにかくもめないというところに博多町人の伝統のようなものを感じますね。

森田

やはり博多独自の町人の争いをなくすためのシステムとして、年行司もあったんでしょうね。

西島

そういう町民どうしの統制があったからこそ、今だに山笠も続いていますし、どんたくも続いているんですね。どっちにしろ博多がゆたかな町だったからこそ統制がとれたということが言えそうですね。

森田

博多店運上帳はいつの資料ですか。

武野

慶応末年から明治初めのものですが、それの元になる店運上帳も櫛田神社文書の中にありました。それは天保年間のものでしたから、江戸時代からずっと運上帳をつけていたんでしょうね。町全体の負担を各流れにふり分けることを「揺り合わせ」と言うんですが、この言葉にはなにかこう不平や文句もあって様々に揺れながらも、最終的にうまく振り分ける、そこのところいかにももめごとのないように、うまい具合に平等にという姿勢が出ているように思いますね。いかにも博多的です。

焼野ヶ原を大復興「楽市楽座令」

櫛田神社古図

武野

時代的にはさかのぼりますが、もうひとつ大事な古文書に豊臣秀吉が天正15年(1587)九州征伐で博多に来たときに出した「楽市楽座令」があります。これは教科書にも載っているような大事なものですね。

西島

博多を楽市楽座にするという布令ですね。楽市楽座とは税金をとらないということですか。

武野

市と座(ざ)を楽にする、中世的な座から商人を解放するという意味です。座というのは特権的同業者団体で、販売の独占権、課税免除などの特権をもっていました。例えば奥の堂という地名がありますが、あれは奥の堂氏という豪族がいたのでそういうのだそうですが、その奥の堂氏が箱崎の油座を支配していました。博多における典型的な中世の座です。楽市楽座は市場税、商業税の免除および、座そのものの廃止を行うものですね。

西島

油を売る権利が独占されていたものを、もう誰でも売っていいというふうにしたんですね。

武野

秀吉はこのとき、朝鮮出兵を目論んでいて、博多をその兵站基地(へいたんきち)にしたかったんですね。ところがその頃博多は焼け野原でした。これは戦国時代に、海外貿易に地の利を占めた博多をねらって、肥前の竜造寺、薩摩の島津が進出してきて博多を舞台に何度も戦争が起こされ、戦禍にさらされたためで、いちばんひどくやられたのが天正14年(1586)島津が大友軍を破って博多にはいったときです。大友宗麟はたまらず秀吉に助けを求め、秀吉が薩摩征伐に乗り出して現在の出水で講和条約を結びました。ところが島津は撤退のときに町に火を放っていきましたから、博多は一面の焼け野ヶ原と化してしまいました。町民は戦禍を避けて皆逃げてしまっています。町民を呼び戻し、博多の町を復興するために秀吉は楽市楽座令を出し、地子銀(じしぎん)免除といって家屋敷にかける税金も免除しています。商品流通を盛んにしませんと朝鮮出兵のための兵糧(ひょうろう)も秀吉の思うように動きませんし、博多の復興は秀吉にとっても是非必要なことだったんですね。そしてこのとき、島井宗室(じしぎん)や神屋宗湛が天下の豪商として大活躍するのです。楽市楽座令は博多津に対して出されたので、年行司の手許に保管してあったんだと考えられますね。

森田

楽市楽座令では他にどんなことを言っているんですか。

武野

喧嘩、口論をしたらいけないとか、秤(はかり)の統制、火の用心などを命じています。

森田

櫛田神社の古文書としては他にどのようなものが…。

武野

年行司の誓詞があります。年行司になるときに藩に対して出されたものです。内容としては不埒(ふらち)なことを絶対にしないとか、キリシタンじゃないとか、殿様に対して誓いを立てているんです。つまり年行司はそれくらい責任のある地位にいたということですね。キリシタンでないという部分など非常に博多的です。博多はキリスト教の布教がたいへんむずかしい土地だったようです。日本で布教していた耶蘇(やそ)会士が、インド、ヨーロッパの会員に送った書簡集「耶蘇会通信」でも「博多はわが聖教を容るるについて日本国中で最も頑固かつ頑迷なところである」と記録していますね。これは博多がキリスト教布教を頑として拒んだというよりは、無関心だったのでしょう。国際都市博多では南蛮の宣教師もめずらしくなかったのでしょうし、博多町人の功利性や現実主義は教理への無関心となって表れたのでしょう。

定 筑前国博多津 (※は編集者による)

  • 一、当津において諸問、諸座一切不可有之事
    • ※楽市楽座を定め、自由競争で都市の繁栄を図った。
  • 一、地子、諸役御免許之事
    • ※税金や労役の免除
  • 一、日本国津々浦々において当津廻船自然(手ヘンにム+貝)儀雖有之違乱妨不可有之事
    • ※日本国中どこの港でも博多の船が遭難破損して避難してきた場合、乱暴などしてはならない。
  • 一、喧嘩口論於仕者不及理非双方可成敗事
    • ※喧嘩口論は理由の如何を問わず双方を処罰する
  • 一、誰々によらず付沙汰停止之事
    • ※人に因縁をつけてはならない
  • 一、出火付火其一人可成敗事
    • ※出火、つけ火は犯人一人だけを処罰し連座制はとらない
  • 一、徳政之康雖有之当津令免許事
    • ※徳政(すべての借金を棒引きにする法令を公布すること)が行われても博多だけは適用しない
  • 一、於津内諸給人家を持儀不可有之事
    • ※博多に武家が家を持つことは許さない
  • 一、押買狼藉停止之事
    • ※押売りや押買いや乱暴、ろうぜきは禁止する

町人と共に……お櫛田さん

西島

お櫛田さんには災害に備えての米倉が建っていたそうですが、その話を聞かせてください。

武野

いまでも石碑が立っていますが、備荒貯蓄(びこうちょちく)のための米倉があったんですね。江戸時代の後期になって博多町人の側から自然と話が出てきて始まったのです。町人の主な人たちがお米を出しまして、それを借りにくる人たちに出してあげるというようなことをやっていたようです。

西島

災害にあったからつくったのではなくて、いつ災害があるかわからないからそれに備えてつくった…というわけですか。

武野

博多町人の用心深さと言いますか、自分たちのことは自分たちでという連帯意識のようなものがよく出ていると思います。お米を貸すのは、たとえばお米の値段が高くて困ったときなどが多かったでしょうね。米倉の場所はよくわからないのですがいまの櫛田会館のあたりではないかと思いますね。社殿の右手です。櫛田会館は大正13年に備荒貯蓄のお金で建てられたんだそうです。また櫛田会館の前に博多廉売(れんばい)の碑というものが建っているんですが、これは第一次世界大戦の折に物価が急騰して町民の生活が圧迫されたとき、町民の有志がお金を出し合って輸送費などを出し、生産地と直接結んで櫛田神社の境内で日用品の原価販売をした記念なんですね。公設市場と言っていましたが、スーパーマーケットのはしりですね。やはり自助的な博多町人の性格がよく表れていると思います。

西島

櫛田会館は山笠の寄り合いなどよくするところですね。とにかく昔から櫛田神社は博多っ子の集まり場所、緊急の場合の避難場所ですもんね。

森田

ひとつ不思議でならないのは、商売の神様をまつってあるわけでもないのに、どうして博多の町民が櫛田神社で寄り合いをしたり米倉を建てたりするのかということですね。

西島

やはり昔ながらの心のよりどころというか…。

武野

そうですね。ですからやはり平清盛の思わくがあたっていると思いますね。今でも町民の方が始終、出たり入ったり。私も資料整理のため3ヶ月ほど、あちらに通いましたが、いつでも誰かが来ているのですね。ちょっと1杯お茶を飲みに…という感じでいい雰囲気なんです。とくに山笠の前などは、調査に行っても家のご主人はおられない。みんな、櫛田神社に集まっている。(笑)私が櫛田神社に初めてお参りしたときに思ったのですけど、櫛田神社は、なにかこう町の真中にあるな…という感じがしたんですね。鎮守の社は高台にそびえている場合が多いですが、お櫛田さんは、そびえていない。いかにもそのへんにある、町や人とのつながりがすこぶる濃い神社ですね。人間臭を強烈に感じました。

森田

博多の町と共に歩んできたお櫛田さんの姿がよくわかりました。今日はどうもありがとうございました。