No.39 食をとおして人を創る -中村学園 学園祖-中村ハル

対談:昭和61年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
中村学園大学教授 楠 喜久枝氏
聞き手:
福岡シティ銀行 副頭取 森田 孝雄

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


明治人の意気に燃えて

中村ハル 年譜

中村ハル

森田

中村学園をおつくりになった中村ハル先生の自伝、『努力の上に花が咲く』を読ませていただきました。先生のことは、小学五年生の道徳の教科書にも掲載されていますが、御自身も言っておられるように、本当に“いばらの道を切りひらいて、努力に努力を重ねて歩いて”こられた御生涯だったようですね。
学校をお始めになったのが六十四歳だったとか。まったく驚きます。

そうですね。現在の中村学園は先生が六十四歳のときに設立された中村割烹女学院から発展いたしましたもので、学園ではハル先生を学園祖と申しております。
先生はその生涯の全てを女子教育にうちこまれました。私も無我夢中で先生についてまいりまして三十年、今日更(あらた)めて中村ハル先生を語るとなると、「あんた、ちゃんと私ば見とったとな」という先生の声が聞こえるようです。

森田

若い頃からご苦労を重ねられ、己を律して社会のために尽くすという生きかた、これは明治の人特有のものですね。
私どもの創立者、四島一二三と相通じるところが多いように感じました。やっと先進国に伍した日本を一流国家にしていくんだという気概を、国民一人一人がもっていた時代だったのでしょう。

ハル先生は明治十七、福岡市西新町の農家に中村徳右衛門、サト夫妻の二女として生まれられました。四歳のとき股関節脱臼をされましてね。手当が十分でなかったために一生、御足が不自由になったとうかがっています。八歳のときには、お母様が他界される。それから先生が炊事をされたり、幼いときからずいぶん家族の面倒をみられたようです。
優秀な成績の先生を見込んで、将来は是非教師に……という西新町町長伊勢田宗城氏のすすめで、西新尋常高等小学校に進学、首席で卒業しておられます。その後県立師範学校に進まれ、明治三十五年、十九歳で鞍手郡直方小学校の訓導として赴任、炭坑の荒っぽい風土の中で教員生活をスタートされます。
その頃の先生は教師としての若い情熱に燃え、朝早くから夜遅くまで勉強なさる毎日だったようです。ところが数え二十六歳のとき先生のすぐ下の弟、関次郎さんが結核でたおれられ、このことが先生の一生に大きな影響を及ぼすのですね。

森田

その弟さんをたいへんかわいがっていらっしゃったそうですね。

ええ。たいへん秀才だったそうでして東京高等商船学校に在学中の不幸でした。結核はまず転地療養ということで、先生は収入の大部分を関次郎さんの治療費につぎこんでおられます。関次郎さんはその後十年ほど療養されて、一旦は快方に向かわれるのですが、大正十年に沖縄で他界なさいました。
このとき先生は三十六歳。ひたすらに弟さんの快復を祈ってこられただけに、気持のはりを失ってしまわれたそうですが、思いなおして結婚もあきらめ、一生を教育に捧げる決心をなさいました。
関次郎さんは先生がたずねられますと、目に涙をためて治療費を押しいただき、後ろ姿に手を合わせて拝んでおられたそうです。死の直前に先生に送られた手紙の中で、「病床について十数年の長い間、母代(が)わりとして、姉さんに本当に御世話になりました。この大恩はたとえ死んでも忘れることはできません。不幸にして私は先立つことになりますが、霊魂不滅を信じています。私の霊魂は必ず残って姉さんの生涯を守り抜き、せめてもの御恩報じをいたします」と書いておられます。
このことはたいへん先生を勇気づけられたようで、中村学園の入学式、卒業式など折々の式辞には必ず“関次郎が私を守ってくれる”と話しておられました。

弟の死を転機に

森田

先生が料理を専攻しようと考えられたのは、いつ頃からでしょうか。

教師になってから料理の勉強をしたいという願望をもっておられたようですが、弟さんの死を一つの転機として思い切って横浜に出て、優秀な家庭科の先生になろうと決心されたのでしょう。後々まで料理をしながら、「食うもん食わんやったら肺病になる。基礎体力は食べ物がいちばん……」と、よく言っておられましたね。
このとき、お姉様のタミさんから四男の久雄さんを養子にもらわれています。この方が学園設立以来、陰に陽に先生を支えられた理事長の中村久雄氏です。

森田

横浜は、いちばんハイカラな街だったのでしょうね。洋食も中華料理も一級品の感じで……。でも、ずいぶん思い切ったことをなさいましたね。

先生はいいと思ったらすぐ実行にうつされる。進んだ料理イコール横浜と自然な気持だったのでしょう。昼間は小学校の教師で働きながら、毎日、夜の十時までコックとして東京や横浜の一流店を訪ねて、料理を学ばれました。
帝国ホテルや雅叙園などでプロの調理師に教えを請われるのですが、門外不出で教えてくれません。先生はこりずに、自分の家庭科教育にかける情熱を訴えて、何度もかよわれたのですね。

森田

女性が大きな志でひたむきに頼まれる、これには先方もまいったでしょうね。自伝の中でも鮨やカレーライスのつくり方をおそわった逸話が出てきますね。新宿中村屋のカレーライスの話には、頭山満(とうやまみつる)翁の名前も出てくるようですが……。

ええ、当時中村屋のカレーライスはとても有名でしたが、見学を申込むとキッパリと断られた。あきらめきれずいろいろと考えられた末、中村屋のカレーが他と違うのは、婿養子のビハリ・ボースがいるからだろうと思い当たったんですね。
ビハリ・ボースはインドの独立運動の志士で、玄洋社の頭山満翁がかくまったという経緯がありますから、同郷の翁に紹介状を書いてもらおうと思いつかれた。この目論見は見事に当たって、中村屋のカレーのコツを会得することができました。
先生はこれらの料理を日本人の好みに合うようにつくり直し、中村式の調理法を生み出されました。家庭科の先生は、ただ料理を教えればいいというのではなく、本物にふれ、その技術を身につけなければならないというところに着眼され、それを実行なさったところは、実にすばらしいと思いました。

森田

横浜で関東大震災に遭われたんですね。

ええ。その日先生はいつもは二階の裁縫室でする勉強を、一階の自分の担任教室でやっておられました。地震と同時に外に飛び出されたのですが、その直後、校舎は崩れ落ち、火の海となったそうです。そのとき中にいた四、五名の先生は亡くなられて、自分だけが助かったのは、関次郎の加護があったからだとよく言われていましたね。
震災後、先生は神戸にうつられます。神戸時代は、先生の教員生活でいちばん華やかな時代だったのでしょう。その頃の話になるといつも顔がほころんでいました。

森田

横浜から神戸へ。生活感覚、味の感覚、ともに先端のハイカラな街ですね。たいへんな高給とりだったそうですね。

「私は兵庫県でならした家庭科の先生だった。男先生など足元にもよらん日本一の高給とりだった」と言っておられました。神戸でも先生は、給料のほとんどを料理研究につかわれました。『学校を生活の場としたる家事教育』という教師用参考書も出されて、注文が殺到したそうです。昭和四年には兵庫県視学委員も拝命、校長という話もあったくらいで、その活躍ぶりが偲ばれます。
こういう華やかな活動をしていらっしゃった先生が郷里福岡に帰って、九州高等女学校(現九州女子高校)に赴任なさるにあたっては事情がございました。

減俸承知で九州高女へ

森田

当時は不景気で、視学経営は軒なみたいへんだったでしょう。

そうなんです。九州高女の創立者、釜瀬新平先生は中村先生の師範学校時代の恩師で、いずれ九州高女へという話はあったようです。けれども、釜瀬先生が急逝なさいましてね。不景気のどん底でただでさえ経営が思わしくないところに創立者の死で、学校の窮状はたいへんなものだったようです。後をつがれた安河内健児先生が、教員の強化に着手され、家庭科の主任として中村先生に白羽の矢が立ったわけです。
先生としては気の進まない話だったでしょうが、恩師とのお約束ですから断ることもできず、昭和五年、神戸での華やかな生活にピリオドを打ち、九州高等女子校に赴任なさいました。四十七歳のときのことです。
神戸の学校とくらべると校舎や設備はお粗末そのもの。がっかりしている先生に安河内先生は、釜瀬先生の仏前で、「現状ではいまの貴方の給料は出せませんが、ひとつたすけてください」と頼まれるのですね。神戸時代の月給百四十五円から一挙に八十円まで下げられたそうです。それでも先生は安河内校長の懸命になっておられる姿に共感して、九州高女のために専念なさったのです。

森田

いまの人にはとてもできない話ですね。楠先生がハル先生にお会いになったのも九州高女ですね。

ええ。私は昭和十七年、戦争が始まってすぐに九州高女に入学いたしました。
私共家族は韓国におりましたが、母が九州高女で教鞭をとっていたこともあって、教育は姉妹四人とも九州高女にまいりました。十五歳年上の姉は、ハル先生が神戸から帰られて間もないモダンな先生のときに、下の姉二人はハル先生が九州高女に情熱を注いで、運動で全国制覇を目指していらっしゃるときに習っています。これは生徒獲得のために、「学校の名をあげるには運動でもせにゃ」というわけで、なさったのです。
これが実を結んでバレーボールの全国制覇など、スポーツの九州高女は着々と有名になりました。ですから上の姉は先生のことを「モダンなハル先生」と言い、下の姉たちは「怖いガマ先生」、口が大きかったんですね(笑)。
三人の姉からさんざんうわさを聞いていたガマ先生に初めてお会いすると、「あんたが秋本さん(旧姓)の妹な」とおっしゃって、慈愛ぶかいまなざしで私をご覧になりました。そのときは先生がすでに五十九歳ですから私にはおばあさんに思え、姉たちの言ったような怖い先生には見えないなと思いました。後から考えれば、それがハル先生のいちばんいいお顔だったんですね(笑)。
私は寄宿生で先生が舎監でした。学期末には先生に通知簿をお見せするのですが、「どうしてこげん悪いとな」と丸眼鏡の奥からニラまれる恐ろしいお顔、逆にいい成績だとみんなの前で恥ずかしいほどほめちぎってくださいました。釈迦と夜叉の両面をお持ちでしたね。

森田

昭和八年に教育功労賞、昭和十五年に文部大臣賞をうけておられますね。

先生の九州高女での精励ぶりに、安河内校長先生がせめてもの感謝の意をと、働きかけてくださったようです。
ハル先生と言えば、盛大なバザーが忘れられません。先生が指導実演されたバザーはどれも大盛況で、多額の利益を生み、福岡の空襲で一時は丸焼けになってしまった校舎新築の大きな力となったそうです。
こうして九州高女に尽くされた先生でしたが、昭和二十年に安河内先生が他界されてから、しっくりいかないこともあって、昭和二十三年に九州高女を退かれました。十七年間の奉職で、このとき先生は六十四歳でした。

六十四歳からの再出発

短大生に調理実習中

こんどは横浜時代からの料理研究の成果を活かして、御自分で料理学校を創ろうと決心されます。これが中村割烹女学院(なかむらかっぽうじょがくいん)で、唐人町の公会堂を借りての第一歩となったのです。

森田

生徒さんは何人くらいで。

先生が料理学校を創られたと聞いて、教え子が友人を連れてやってくる……、結局入学希望者は450名余りと大盛況でした。
先生はどうしたら人が張り切るのか、よくご存知なんですね。学校に友人を連れてくると庖丁がもらえる。何人世話したら庖丁が何本という具合で。今でも学園は卒業のときに庖丁を渡しますが、それはこのときの名残りなんですね。もともとは、庖丁を研ぐたび魂を研げという教えで、家の中に錆びた庖丁があるような家庭は駄目だ、が口ぐせでした。

森田

設立のときに当行がお手伝いしたようなことを聞いていますが。

ええ、創立のときに五十万円をお借りになったそうです。このとき先生のお姉様、保坂タミさんがご主人には無断で担保を差し出された。太っ腹で、気持ちの大きいお姉様ですね。それからあとは福岡相互銀行の四島一二三会長のカツミ夫人が先生の後輩ということもあって、心からご支援いただいたのだそうですね。

森田

会長は自助の人が好きでした。女手で大きな志を立ててがんばっておられる、私どもの記憶でも四島一二三にはハル先生が別格の方で、喜んでお手伝いさせていただいていたようです。
楠先生は、割烹女学院創立当時から手伝っておられたんでしょう。

私は大学で児童学を専攻していましたが、先生から毎日のように手紙が来るんですね。それこそ「ハハキトク」のような文面で、福岡に帰って自分の料理学校を手伝えとおっしゃるんです。根負けして福岡に帰りましたが、最初は生徒募集のビラ貼りから授業が始まれば材料の買出しに……
と、目のまわるような忙しさでした。
料理学院も二年めには、希望者が七百五十名にのぼり、公会堂では手狭になりましたので、地行西町に新校舎を建てて移転することになりました。
新しい学校をつくられてから先生は、これからは栄養の時代になる、栄養も考えられる人材を養成しないといけないと言われて、福岡高等栄養学校をつくられました。
先生が栄養のことを考えられた背景には、日系二世のすばらしい体格がありました。体格には遺伝などの要素もあるが、やはり栄養。日本国民の体位の向上のために、料理を通じて国に貢献しようというのが先生の信念でした。また、この頃の栄養士はカロリーとかばかり言ってちっともおいしくない。ですから、基礎的な料理の技術を学んだ上でカロリーを考えられる、おいしいものをつくれる腕の立つ栄養士の養成も目的のひとつであったようです。
栄養学校をつくられたときに経営も学校法人で行うようになり、ここに学校法人中村学園が誕生したのです。

森田

先生はその頃から私大の女子教育を、と考えられていたんでしょうか。

そこまでは、まだお考えではなかったと思いますね。とにかく、まずは料理学校を成功させようとなさる、生徒が多数集まってくるが専門学校だから教養が足りない、そこで短期大学にして知徳体の総合的な教育を、と短期大学をつくられました。三十二年のことですね。当時は他に女子の総合的な養成機関はありませんでしたから、福岡県下の高等学校から多くの人が集まりました。
ですから将来は大学を建ててというよりは、ひとつひとつが先生を駆り立ててひろがっていったと言えるでしょう。私などは叱(しか)られながら一生懸命ついていっただけです。

森田

経営面でもたいへんだったことでしょう……。

学園はドンドン発展するのですが、先生御自身は無欲淡々で本当に質素な生活をされていました。しかし、学園のために出すべきお金はパッと出されましたね。寄付や寄贈をうけると思うとおりのことができなくなると言って、寄付なども極力受けられず自力で借金をしょって……、という状態がずっとのようでした。
経営面では、現理事長の久雄氏が、当時は事務局長として先生を支え、先生は教育一途、理想を追求して実践するという理想的な車の両輪だったと思います。

森田

先生の教育に対する火の玉のような情熱が、多くの人や支援者を惹(ひ)き寄せたのですね。

さらばに続くの実際の
表記は下記のとおりです。
さらばくくくく

ええ、師の鏡と申しますか、私がアメリカに二、三年行っていたときにいただいた手紙もあるんですよ。ごらんください、小さい字でぎっしりと、びんせん五、六枚も。綿々とした文章で最後のところに、「どうか身体を大切に、そして元気よく大いに修養を積まれて御帰国あらんことを祈って筆を止めます。さらば さらば さらば さらば さらば」、なんとも情熱的ですね。さらばが五回ですよ。この手紙を読むと、涙が出てきます。

森田

いいお話、いい手紙ですね。

本当に先生は情の深い方でしたね。そのあらわれでしょう。おもてなしにもこまやかな心づかいがありました。
お茶をいただきたいな、と思う。すると先生はわかっていて、さっとお茶を出してくださる。先生をお訪ねするとお腹(なか)はガボガボ、お菓子も五つくらい仏様に備えるように出してくださいました。
お料理にも人間性ということをよくおっしゃって、「同じ材料を同じ方法でつくっても、その人に真心と温かい愛情がなくては良い味も出なければカロリーも十分に保たれない」とおっしゃっていました。
中村学園の入学式、卒業式には、先生が中心となって何百人分という料理がつくられました。これが現在の中村学園事業部へと発展しているのですね。自分の手料理でもてなしたい……、もてなしの心ですね。

努力の上に花が咲く

森田

大学を創られたのは昭和四十年ですね。そのとき、おいくつで。

短大を創られたのが七十歳近かったでしょう。それから短大ではじっくりと研究ができんばい、とおっしゃって大学をつくられた。このときが八十一歳です。
設立にあたって、私に向かって、「あんた児童出じゃろうが、文部省に顔のきくじゃろうけん、コネつけてきんしゃい」と、無理な注文です。ヤレヤレですが、私も恩師などかけまわって、いろんな先生方に会っていただきました。不思議なことにその方々が皆、この人のために何かをしてあげたい、となるんですね。

森田

前会長の四島一二三も言っておりましたが、もうハルさんから頼まれると何でもしてあげたい……。

不思議ですね。老若男女、皆ですからね。それは先生のお心が無だったからだと思うんですよ。全てを学校のために投げ打って、自分は粗末な部屋に住み、生活は質素にしておられる。この姿勢と熱意には、誰だって搏(う)たれますよ。先生の人柄にそういうものがしみこんでいたんですね。
こうした先生の歩みでしたから、昭和三十八年に藍綬褒章、四十年に勲三等瑞宝章の叙勲をお受けになりました。このときには、天皇陛下から親しくお声をかけていただいて、たいへん感激しておられました。

森田

その後、八十三歳で朝日幼稚園をつくられ、お亡くなりになったのは八十七歳ですね。先生はご満足だったのでしょうか。

先生のやってこられたことは、とても常人にはできないことでしたね。幼稚園設立のときも血圧が高くなって、物が二重に見えるとおっしゃっていました。でも、自ら交渉にもかけまわられ、八十二、八十三歳までは、ご自分で教壇に立って教えていらっしゃいました。先生はまだまだなさりたいことがたくさんあったと思いますね。四年制大学の児童学科と食物学科で、人づくりと体力づくりの悲願をかなえられて、これからというときですからね。
ここにお葬式の弔歌があるのですが、先生を亡くした日は、正にこういう気持ちでした。

天に祈り 地にひれふして
病癒(い)ゆるを 請い願いたる
われらの望み いま絶え果てて
秋立つ空 とこしえに恨(うら)む
中村先生よ なぜ逝きたまふ
われら ただ 涙 流るる
ひたすらに 涙 流るる

森田

料理学校をつくられたのが六十四歳のときで、それから今日を築かれたのですからたいへんなものですね。

晩年におっしゃっていたことですが、「『中村さんちゃ、フのいい人じゃなあ』とよく言われるけど、口には言われん努力が実ったとは誰も言うちゃくれん」と。
また「天が将(まさ)にその人に大任を下さんとするや、先ずその人の心身たしかめる」という、孟子の教えもよく口に出されていました。正に天与の道と言いますか、教育のために生まれてこられたような方でしたね。写真を拝見しても、女教師の模範でしたね。

中村式、最新新調理法

学校法人 中村学園

森田

写真では、なにか明治のハイカラおばあさんの感じもありますね。

ええ、ハイカラでしたよ。教師時代の先生はずっと髪を結って着物を着ていらっしゃいましたが、料理学校を建てられたときに、私たちが「先生、もうそんな髪ははやらないから、パーマをおかけになったら」と言うと、「パーマちゃ、どげんしてかけるとな」。それから断髪されて、ゆるやかにパーマをかけられてモダンになりお洋服も着られるようになりました。

森田

なかなかのおしゃれおばあさんで……。

それはおしゃれでしたね。忙しくとも髪ふりみだして……、ということはなかったですね。お化粧もエリからつけられるんですよ。いつも朝、美容師が来てきれいにセットして……。私どもは「あげな顔、化粧やらせんでもよかろうもん」とか言っていましたけど(笑)、男でも女でも、きれいな、ハンサムな人がお好きでした。
お料理というのは美しさを追求する心がなくてはなりませんよね。先生のつくられた料理は美しかったですよ。味があって、先生そのものだったな、といまなつかしく思います。

森田

先生ご自身は何料理がお好きでしたか。

どれもいきいきしてなさいましたが、鮨はお得意でしたね。先生の鮨は美術ズシなんて名前をつけて、最新新式ですよ。最新式でもよさそうなものですが、最新新式で(笑)。戦後の日本は生まれ変わらなくては……ということで、原稿なども「先生、の字が多すぎるんじゃないですか」と言いたくなるほど、最新新式、中村式でした。
華やかなお鮨で、先生は肝が太いですから当時つくられたものが、そのままで現代も通用するのです。私なども先生から教わったものを今だにやっていますよ。すごいなあ、先生の豪快さ、先生の美的センスは……なんて思いながら。
そのほか例のビハリ・ボース氏直伝のカレー、これは今度の学園祭でつくってみようと思っています。中華料理なら鯉の丸揚げがお好きでしたね。なにかのお祝いというと、すぐに生きている鯉を買いにやらせて、自分でさっとつくられました。
面白いのは、先生の料理をけなしでもしようものならたいへんでした。「誰が言うたな」とにらまれて(笑)。
でも、年をとってこられると、色などがきつくなるんですね。お料理が原色に近くなってきて、おまんじゅうでも真っ赤に着色されるんです。「先生、もっとほんのりつけられたら」と言っても、「せからしか」(笑)。
自分の料理がいちばんいいという自信がなければ、とてもあそこまではできませんね。

森田

中村学園高校と言えば、女性のしつけの厳しさは有名ですね。失われつつあるものが大切にされている。

ありがたいことです。先生はこの高校を女性のための徳育を重視したものとして創られました。知育偏重の風潮に疑問を感じられたんですね。「清節・感恩・労作」を徳目として掲げ、清く、正しく、優しく、強い女性に育てようとなさいました。
おかげさまで国公立からこられた先生方は、皆この学校には心があるとおっしゃっていただいていますが、私にはその心が薄れていってはいないかと、気にかかります。
でも私が調理の実習を通してハル先生の話をしますと、先生と会ったこともないのに、居眠りしていた学生までピリッと起きて聞くんです。ハル先生のことをもっともっと知りたい、と言うんですね。研究室でも歴代の助手が先生のお写真に熱い朝の一服をさしあげるようにしているんですが、心はきちんと伝わっているんだな、と思っています。中村学園は先生が実践を通して言ってこられた、教育学者ではなく、教育者としてやってこられた心を失ってはいけないな、と思っています。
先生は入学式、卒業式の訓辞に必ず、「日の丸十二徳」の話をなさいましたが、日の丸のもつ美しさ、真紅の情熱、白の清潔などを、日本人の人間形成目標と考えられたのですね。真摯な態度で努力を続ける人間を理想とされていました。
いま、この時代に先生が生きていらっしゃったら、どうでしょう。食のみだれは心のみだれと、いつも言われていた先生でしたから、インスタント食品の氾濫している世の中を見て、ガミガミ怒鳴りあげて、手づくり料理の激しい運動をおこされるでしょうね。愛情とまごころ、心の通い合う手づくりのお料理にいつまでも若々しい情熱をもたれた方でした。

森田

今日は心がふるえるようなお話をうかがいました、どうもありがとうございました。