No.40 ふるさとの駅、博多の玄関 博多駅物語

対談:昭和61年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
博多駅長 宮脇 宏彦氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行副頭取 中 脩治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


博多駅の歩み

「博多駅」か「福岡駅」か

今日は駅長さんに〝私たちの博多駅″についてお話しいただきます。ところで、国鉄も民営化が決まって、宮脇駅長さんが、博多の駅長さんになられますね。いろいろとたいへんでしょう。

宮脇

国有鉄道になりまして私が46代で、まあ最後の駅長でしょう。駅長会が年1回ありますが、しっかりやれと大先輩から言われまして(笑)。

駅前広場がみちがえるようになりましたね。筑紫口も西島先生の「博多の祭」の噴水ができたり、国際都市福岡の顔らしく、立派になりましたね。
福岡市の博多駅、この命名の由来から。

宮脇

福岡にあるのに、「博多駅」というのはおかしいという声は、何回もあがっているんですね。最近では駅を現在地に移転したときに、これを機会に、「福岡駅」に……との声がずいぶんあったと聞いています。 大きな会社の支店長さんなどに多かったとのことですが、やはり地元の皆さんにとっては親しんだ「博多駅」の名前の方がよかったようですね。

西島

明治22年ですか、市制がしかれたとき武士の町の福岡市にするか、町人の町の博多市にするかで大もめにもめたんだそうですね。市議会の投票で同数となって、士族出身の議長が福岡に入れて、わずか1票差で福岡になった。

宮脇

ええ、そうです。ちょうど駅の開業も市制と同じ明治22年ですから、駅が博多駅になったことは、福岡、博多、どちらの人にも痛み分けのようなものでしたでしょう。

そうでしょうね。でも、やはり駅名は「博多駅」でよかったと思いますね。福岡駅では、味のある「博多」という言葉はなくなってしまったかもしれませんね。その意味で、博多駅の役割は大きかったと思いますよ。

宮脇

他の土地にも通称が駅名となっているところはあるのですが、博多駅1丁目というふうに駅名がそのまま地名になっているのは、全国でもここだけで珍しいんですよ。

文明の息吹をのせて、博多駅開業

開業当初の博多駅、
人力車がたくさんとまっている。
旧博多駅、
ルネサンス式の駅舎が人目をひいた。
現在(対談時)の博多駅

西島

ほう、それは知りませんでした。そこで、最初に博多に鉄道がついたころのお話を。

宮脇

私も若いので古いことはあまり知りません(笑)。でも昭和52年、85周年のときの駅史をかじっていますから、それで……(笑)。
日本で初めて鉄道が開業したのはご存じのように新橋-横浜間で明治5年ですね。博多開業は17年後の明治22年(1889)12月11日でした。九州鉄道会社といって民営だったんですね。開業区間は博多-千歳川間でした。

千歳川は筑後川の別名ですね。

宮脇

ええ。当初の予定では博多-久留米間で開業するはずだったんですが、筑後川の洪水で架橋が間に合わず、やむなく川の手前に仮停車場千歳川駅をつくって開業したのだそうです。だから開業の日、祝賀式参列者は佐賀県側の岸で汽車を降り、仮橋をわたって久留米駅の祝賀会に参加したそうです。

西島

騒ぎ好きな博多っ子のことですから開業日は博多でもさぞかし大騒ぎしたことでしょうね。

宮脇

粋筋(いきすじ)の踊りやどんたく隊が新しい祝い唄で、町にくり出すなどの計画があったのですが、あいにく当日はどしゃ降り。なにもかも中止となってしまいました。
ただ一番電車に三味線や太鼓を積み込んで、大騒ぎしたらしいことは、記録に残っていますね。

〝陸蒸気(おかじょうき)″見物はたいへんな人出だったそうですね。駅前の馬繋所と人力車の「たて場」は、連日大繁忙だったそうです。駅前広場で、駅夫が発車5分前を知らせる鐘を鳴らすと、見物人が食堂からうどんを食べかけたままとび出してきたそうです(笑)。

当時の博多駅はどこにあったんですか。

宮脇

博多駅前1丁目の出来町公園に「九州鉄道発祥の地」という碑が建っていますが、当時の駅は承天寺(じょうてんじ)、東光寺、若八幡などの境内を買って敷地にしたそうです。駅の総面積は約2千平方メートルで、今の6分の1ですね。
開業の工事については、ドイツからプロシア国有鉄道の機械技師であるヘルマン・ルムシュッテル氏を、招いて指揮をしてもらいました。

西島

駅のコンコースに肖像のレリーフがありますが、その方ですね。

宮脇

そうです。資材も多くはドイツから輸入したものですが、築港まで船で着いたものを呉服町経由で、博多駅まで線路を通してトロッコで運んだんだそうです。

停車場の周辺は……。

宮脇

停車場から呉服町までの道路は、荷車2台がやっとすれ違えるくらいの狭さで、周り一面が畑。構内との境には板塀(べい)が張りめぐらされて、そば屋やみやげもの屋がボツボツ姿を見せはじめていました。これらの中で開業当初からの古い歴史をもっているのが、「二〇加(にわか)せんぺい」の高木東雲堂で、前身は「三角屋」と言っていたそうです。
当時の汽車は1日3往復。ドイツ製の45型の機関車が6両編成の客車をひいて、1時間32分で走っていました。運賃は片道27銭で、これは当時の米5升分に当たったそうですから、決して安くはありませんね。

博多と筑後川間が1時間32分。それから近代産業がどしどし九州へくるのですね。

宮脇

鉄道の開業とともに、新しい時代や産業の息吹が九州に流れこんできました。九州の躍進ぶりは、創業以来の貨物収入が10年間で十数倍にはね上がったことでも想像がつきますね。
この頃の新聞記事を見ると、鉄道についての当時の人々の反応がうかがわれて面白いですよ。停車場に財布の落とし物があったから取りに来いとの通達があったとか(明22、福日)、踏切を渡ろうとした老人が馬と一緒にはねられた(明23、福日)、これは初めての踏切事故ですね。
太宰府や宮地嶽神社の祭礼には、臨時列車が出ています。明治23年2月16日の福陵新報に、「博多より二日市まで下等にて22銭、二日市より太宰府まで人力車往復14銭とすれば都合36銭。午前9時25分の列車に乗込み、ゆるゆる太宰府に参詣し、午後9時50分の列車にて帰宅することは安い安い。(但し梅ヶ枝餅代は此外)」などというユニークな記事もあって、汽車が民衆から歓迎されている様子がわかりますね。

新駅開業、仕事を休んで大騒ぎ

宮脇 宏彦氏

西島

その頃の呼び方、停車場(ていしゃば)はいいですね。人がとまり、動きだす感じ。ステションともいってたのでしょう。そこから鉄道が広がっていったんですね。

宮脇

ええ。最初の千歳川-久留米間が明治22年。24年4月に博多-門司間、同7月門司-熊本間が開通、30年に筑豊電鉄、34年には豊州鉄道と合併して九州内の鉄道の一本化を計る。というスピードで、九州の大きな動脈となったのです。

明治38年に日露戦争が始まると、軍事輸送で博多駅もにぎわったことでしょうね。

宮脇

朝に夕に出征兵士を見送る人の波で埋まったようです。明治37年2月16日の福岡日日に「……西より東より北より南より市民は停車場に向い、正午頃に至れば駅付近線路の両側は人を築きて寸地を余さず、折柄修猷館の一団は拍手をもって一士官を迎え、勇壮に胴揚げをなし、音楽隊の奏曲は坐(おもむ)ろに人の血を湧かしめぬ……」とあって、当時の状況をよく表していますね。

西島

鉄道が国有化されたのは、いつですか。

宮脇

明治40年7月のことです。鉄道の国有化は日清戦争以後、私鉄の経営が困難になるたびに議論されていましたが、議会の反対もあって実現していなかったんですね。
ところが、日清、日露の戦争を経て、鉄道の全国的統一が強く求められ、近代産業にとっても鉄道の乱立は不便でしたので、ついに政府は明治39年、鉄道国有法案を可決します。九州鉄道は明治40年7月1日、正式に国に買収されました。

民営から国有化、そして今回また民営化と。考えてみればおもしろい時代の流れですね。国有化されてからはどのように変わったのですか。

宮脇

目的のひとつに面白いのは、官僚主義的な経営から利用者サービス第一主義への転換がありました。

当時は国営になると官僚主義的でなくなる、活性化すると思われていたんですね(笑)。

宮脇

そのようですね。国鉄になってから特急、回遊車の運転や団体旅行の制度、ビュローやホテルの開設などが次々考えられて、明治42年に新博多駅が完成したんです。

西島

それが、昭和になるまで祇園町のあたりにあったあの博多駅ですね。趣のあるいい建物でしたね。

宮脇

落成したときには、西国一と言われるほどの立派さだったそうです。
外は赤煉瓦と銅板の屋根、大理石を使ったルネサンス風の建物で、内部も三等待合室までマントルピースが置いてあって、採光や照明まで、ずいぶん気をつかった建物でした。
福岡に市内電車が通ったのが翌年の明治43年ですが、電車から降りた人は、正面に立派な博多駅をみて、みんなびっくりしたそうです。この駅は、東京駅や今の歴史資料館になっている日本生命ビルの設計者であった辰野金吾博士も、絶賛されたそうですね。
『博多駅史』を見てみますと、落成祝賀の日は全市をあげて国旗を掲げ、軒に提灯をともし、町内で幔幕(まんまく)を張り、仕事は休んで、曳き台をひいて大騒ぎだったそうです。

西島

博多っ子のうかれ方が目にみえるようですね。

宮脇

この日のにぎわいは、櫛田神社の昇格祭と福岡聯隊の招魂祭と並んで、博多の三賑わいと言われたそうです。当時、福岡市の人口は8万人で、停車場の乗降客は4千人ですからたいへんなものです。

西島

前の駅は、威厳のようなものがあったし、人間の駅といった愛着もありましたね。

宮脇

そういえば、博多駅は貨物は少なくて、私たちのいう人間中心の〝旅客駅″でした。それが戦争で様相がやはり変わっていますね。
昭和2年には鹿児島本線が全通し、7年には日豊本線、9年に久大本線と、昭和にはいって九州の主な鉄道が整いました。そして昭和12年に日華事変、16年に太平洋戦争へと突入でしょう。旅客中心だった博多駅も軍事輸送へとすっかり様変わりしてしまいます。
戦時産業の燃料として、九州炭確保のためにすすめられた関門トンネルが、昭和17年に開通すると、本州と九州を結ぶ輸送力は大幅に増大しました。開通日には、博多駅正面と1番乗場の天井には、「祝関門鉄道旅客列車開通」の横断幕が下げられ、祝賀気分が一層盛り上がったようです。

東京が近くなった…… 特急列車次々と

西島 伊三雄氏
中 脩治郎

戦争中とはいえ、まだ国民にも余裕があった頃ですね。

宮脇

昭和18年頃から兵員や資材の輸送要請が激しくなり、軍隊関係の輸送業務に忙殺されるようになります。日夜、臨時の軍用列車が出ますし、出征兵士の見送りもあって改札口が足りず、補助の改札口を設けたりしています。
駅弁のレッテルにも、「私するな輸送力」「この1年、旅行はやめて増産と防空につとめよう」などが、印刷されている。駅弁もたいへんでしたね(笑)。

西島

女子の駅員さんも見かけましたね。

宮脇

青年男子はほとんど軍隊に応召され、労働力がたいへん不足して、女子職員の採用も始まりました。博多駅でも女子職員が慣れない手つきで改札バサミを持ったり、出札や小荷物の係もひきうけていたそうです。戦争末期には、15、6歳の女性が車掌補として乗務したり、転轍機(てんてつき)転換作業訓練まで……と、たいへんな時代でした。
一般職員も非常時体制で、俗に言う月月火水木金金の、厳しい勤務内容でした。

終戦の年に福岡も大空襲を受けましたが、あのとき博多駅は……。

宮脇

昭和20年6月19日の空襲では、博多駅も例外でなく駅舎全体が被災しました。ホームの屋根も穴だらけで惨憺(さんたん)たる様子だったそうです。貨物線には火薬を積んだ貨物列車が停車していたので、いそいでひきはなして難を逃れたそうです。

西島

そうして戦後の博多駅になるのですね。

宮脇

終戦になると、どうやら罹災をまぬがれた駅本屋が進駐軍に接収されて司令官室になり、国鉄全体も進駐軍の統制下に置かれました。そのころの博多駅前はすっかりヤミ市になって、食料難の時代、多くの人々でごったがえしました。

西島

食料難といえば、当時の駅弁はさつまいもでしたね。弁当箱の倍もあるような容器に入れて売られていたのを覚えています。

宮脇

よく駅弁を出していたものですね。終戦後しばらくは、復員兵や罹災者で汽車は超満員。乗客は機関車の上にも乗るという状態でした。やがて終戦のゴタゴタもおさまってきた昭和24年6月1日、マッカーサー書簡により公共企業体の「日本国有鉄道」が誕生したのです。
昭和24年には待望の特急「平和」(後に改称して「つばめ」)、25年に「はと」、九州では28年に博多―京都間を10時間で結ぶ特急「かもめ」が運転をはじめ、ソフトサービスを目指しての「かもめ嬢」の募集が行われました。

西島

「かもめ嬢」はあこがれの的でした。明るいニュースでしたね。

宮脇

たいへんな人気で、15名の採用に600名からの応募があったそうです。3人1組で乗務しましたが、たいへん好評で、当時のホットニュースですね。
同じころに門司港-久留米間に初の快速列車が走り、通学、通勤の足に歓迎されました。列車の前は長蛇の列で、「ドル箱列車」と呼ばれたそうです。

特急と言えば、博多と東京を結ぶ寝台特急「あさかぜ」が通ったのはいつでしたかね。

宮脇

昭和31年11月19日のことで、博多の人の長い間の夢を実現したんですね。

西島

「あさかぜ」はよかった。博多を夕方に出て、寝台車で寝て翌朝東京に着く。便利な時間帯でしたし、寝台車で揺られていくというのも、「ああ……東京に来たなあ」という気分で、旅行気分を満喫できましたね。
私の知人に今でも「あさかぜ」の愛好者がいましてね。時間がかかってもそちらの方がいいと言うんですよ。

宮脇

「あさかぜ」は爆発的な人気で、増発に加えて「はやぶさ」「みずほ」「富士」「さくら」と、特急の新設が相次ぎました。また昭和36年には門司港-久留米間で初めて電化がされています。

一夜明ければホームは道に

博多駅がいまの位置にうつったのも、その頃でしたね。

宮脇

昭和38年でした。博多駅の移転は、大正の初めから話は出ていたらしいんです。昭和にはいると、駅周辺の整備が進まなければ、福岡市の発展もあり得ないという世論が盛り上がりました。しかし戦争のために声は消されて、民生の安定しだした24年頃からまた問題がクローズアップされてきまして、結局、35年に起工ということになったんですね。
博多駅は純旅客駅として、東南に約600メートル移転と決まりました。それまでの駅が50年を経過して老朽化し、輸送力の増大に対応が不充分、駅前広場の混雑などが、その理由だったようです。博多駅を純旅客駅とした結果、貨物はみんな吉塚駅に集中されることとなりました。

西島

移転先の土地が暴騰しましたよね。それまでは田んぼばかりのところだったですものね。

ものすごい暴騰でしたね。
それにしても、50数年も博多の玄関として親しまれてきた駅舎とのお別れ、駅関係者はもとより、市民も感慨ひとしおだったでしょうね。

宮脇

そうですね。「サヨナラ電車」が着くホームには、当時の井手駅長をはじめ市民の皆さんなど約300名が集まって、親しんだ駅との別れを惜しんだそうです。
12月1日0時40分、最後の電車となった長崎・佐世保行きの下り電車が着くと、ホームには蛍の光が流され、見送る人もいっしょになっての大合唱で、旧駅最後のお務めが終わったのでした。

西島

新駅への移転工事は一晩でできたと聞きましたが……。

宮脇

その日の一番電車からは、新駅に着けるようにしとかなければなりませんので、のんびり感慨にひたっている間もなかったでしょう。作業員600人がホームをはずし、線路をはずして、約3時間後には旧駅をはさんで、東西に幅10メートルの「新駅への道」が開かれました。これで市街地からバスも通えるようになったわけですね。
無事に道路もできて1日早朝の普通列車から、新博多駅が活動を始めました。当日は盛大に開業式が行われ、新駅開業を見物に来た人は10万人を超え、「博多名物のどんたくや放生会に匹敵するにぎわい」だったそうです。新駅は総面積が旧駅の約2倍、建築面積は4・5倍、駅前広場は9倍という大きなものでした。
新駅の特徴のひとつに民衆駅であることがありますね。

民衆駅というのは……。

宮脇

民衆駅は駅舎やその附帯施設の建築費を民間で負担していただき、かわりに建物の一部を使用できるようにしたもので、民活の導入ということになりましょうか。
民衆駅の発想の背景には、150にも達する戦災駅の再建の経費は、とても国鉄だけではまかないきれない、という財政的事情があったようです。

博多ステーションビルは、百貨店、ホテル、専門店街、大衆食堂などと、まことに民衆駅そのものですね。

宮脇

昭和39年に駅前地下街、40年に交通センタービルが開業しました。これで、田んぼの中にポツンと建っていた感じの博多駅も、総合的な交通センター、ショッピングセンターになってきました。

いまの駅前に当行の本店を建てたのが46年ですが、あの頃からの博多駅前の発展には目を見張るものがありますね。
それに、博多口と筑紫口、両方ともに発展して、もう駅の表裏という感覚もなくなってきましたね。

新幹線、地下鉄乗り入れ

宮脇

駅の表と裏がこれだけバランスよく発達した駅は、全国でもめずらしいですね。筑紫口方面に、新幹線乗り場と、合同庁舎を持ってきたのがよかったんですね。

西島

なんといっても新幹線の要素は大きかったでしょうね。

宮脇

新幹線は昭和50年3月の開業ですから、10年以上になりますね。開業までには、障害も多かったのですが、昭和39年に東京-新大阪間で東海道新幹線が開業して11年後、九州に「ひかり」号がやって来たわけです。

西島

文字どおり、九州に光をはこんできたんですね。

宮脇

開業間近の49年12月に行われた博多駅開業85周年の式典で、進藤一馬市長が「目の前にせまった山陽新幹線の博多乗り入れは、福岡空港および博多湾の整備とあいまって、ますます発展をつづける『福岡』の原動力として、西日本の拠点都市としての福岡市に新しい息吹を与え、国際都市づくりに大きく貢献するものと期待している」と挨拶されています。 この言葉に、新幹線に対する地元の期待が凝縮されているように思いますね。

西島

新幹線をむかえて、博多っ子のフィーバーぶりもたいへんでしたね。

宮脇

ええ、その一例に開通第1号の乗車券は10分間で売り切れ、その後の指定券も各車とも3-5分で売り切れという過熱ぶりでした。博多-東京間が6時間56分に短縮されたことで、ビジネスマンの出張が日帰りになったことも驚きだったようですね。

58年には、地下鉄も博多駅に乗り入れましたね。

宮脇

現在の博多駅が完成したのは地下鉄乗り入れがあってですね。
地下鉄博多駅の工事は、新幹線工事に引き続き昭和53年12月に着工し、58年3月に仮駅開業、60年3月に本駅での営業が開始されたわけですが、工事が竣工した61年6月まで実に7年余の長い工期で、皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。
これで福岡市の都市交通と国鉄高速大量交通が接続して、総合的な交通体系が完成しました。また、今日の博多駅を中心とした新都心への発展につながったのですね。

HOW MANY ‐ 博多駅 (JR九州・平成6年平均)
1日の乗降客 18万人弱
博多駅利用者数 約40万人
・在来線18万人・新幹線4万6千人
・地下鉄12万人・バス5万4千人
駅の広さ 12万4千8百㎡(平和台球場の約4.9倍)
列車の本数 特急 200本
快速 119本
普通 281本
(その他) 317本
忘れ物 1位 傘 年間10,859件
2位 食品 10,834件
3位 衣類 4,757件
4位 装身具(メガネ、帽子) 4,045件
5位 財布 2,974件
6位 カバン 2,958件

忘れ物の問い合わせは 092-474-4282 まで

多機能をもつ駅へ…… これからの博多駅

西島

新幹線で博多織や博多人形などのみやげ物もずいぶん伸びたでしょうね。今ではすっかり博多名物として定着していますが、〝からしめんたい″も新幹線が開通してからあんなに広がったんですよね。

それに博多という地名が、全国で通用するようになったのも新幹線のおかげですね。
しかし、お話をうかがっていますと、駅というのはいつも時代の真ん中にあったと言いますか、駅が時代を運んできたという感じがしますね。いよいよ来年(62年)4月からは国鉄の民営化が行われて、新生博多駅としてスタートするわけですが、今からの駅ということについて、駅長さんはどのようにお考えでしょうか。

宮脇

これからは駅もただの交通ターミナルとしての役割だけではなく、地域社会に密着した場にしていかなくてはいけないなと考えています。そういった意味で、先日、それまでは内部の行事だった鉄道記念日を外部にも開放して、ゲームなど地域の皆さんにも楽しんでいただいたのですが、なかなか好評でした。駅に集まっていただく機会は大切だなと感じています。

西島

私は駅が輸送機関だけとは思っていない。郷愁のような、人をつなぐところと思ってるんです。だから博多駅というといろんな思い出が浮かんでくるんですね。小さい頃、少年倶楽部を買ってもらったのは駅の中の本屋さんだったし、兵隊にいくときもこの駅からでした。
駅長さんもひとつのロマンで、大きくなったら駅長さんになるんだ。というのは小さい頃の夢でした。ですから、国鉄は民営化されても機能的であると同時に、みんなに親しまれるふるさとのようなところ、ひとつのロマンを持ちつづけていてほしいですね。

人を送ったり迎えられたり、そういう思い出が駅にはついていますものね。

宮脇

地域に融(と)け込むということで、おっしゃられたような駅の役割を果たしていきたいと思っています。四島頭取が中心となってつくられた博多駅周辺発展会や、商店連合会の皆さんたちと一緒になって駅周辺の発展につくしたいですね。

西島

汽車に乗るということ以外で、駅に行くのが楽しい感じにして欲しいですね。

宮脇

そのとおりだと思います。博多駅は博多口と筑紫口を結ぶ大きな通路で、1日の通行客だけでも3万人にのぼるんですよ。国鉄、地下鉄の乗降客数を加えると、毎日25万人から30万人の方々が利用され、まさに福岡新都心の中心となって来た感があります。この方たちにも喜ばれ、役に立つ場所にしたいと思っています。

西島

外国旅行のパスポートも、県庁へ行かなくても、駅のどこかでもらえるよう出張所ができるといいですね。

宮脇

いろんな機能をとり入れて、駅を多目的に利用していただけるようにしていきたいと考えています。県や市役所の出張所、情報センターなどを設けて、諸手続を駅でできるようにするとか、カルチャーセンターをつくるとか、いろんなことを検討していきたいと考えています。
また在来線の活性化のために、車両もお客さまのニーズに合った居住性の高いものにしなくてはいけないと思いますね。車両の形は、実は明治の頃からほとんど変わっていないんですね。旅を楽しんでいただける、そして収入を上げられる車両をつくっていきたいと思います。

将釆が非常に楽しみですね。福岡市の核として、市民に親しまれる駅の実現にどうぞ頑張ってください。今日はお忙しい中、どうもありがとうございました。

宮脇 宏彦氏 略歴

昭和9年2月14日、岡山県生まれ。昭和31年広島県誠之館高校卒。昭和35年明治大学商学部卒。同年4月国鉄入社。営業事業関係を経て鹿児島鉄道管理局営業部長。九州総局地方交通線部長を経て61年2月博多駅長。62年4月JR発足とともに取締役熊本支店長に就任。前職、JR九州ハウステンボスホテル(株)代表取締役社長、(株)駅レンタカー九州代表取締役社長