No.41 日本アカデミズムの巨匠「中村研一」

対談:昭和61年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
お話:西日本新聞社会長 青木 秀氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


寂しかった幼年時代

中村研一 年譜

中村研一

四島

今日は戦前、戦後を通じて、官展派の代表的な洋画家として活躍された中村研一(なかむらけんいち) さん(明治28-昭和42年)についておうかがいします。
中村研一さん、児島善三郎(こじまぜんざぶろう) さん、このお二人はともに博多出身ですね。

青木

ええ、研一は官展、善三郎は在野の独立展で、それぞれ立場は違いますが、2人は修猷館時代の友人で、そして熾烈(しれつ)なライバルでもあった。戦前、戦後の洋画界を代表する2人が博多出身というのは壮観ですね。

四島

青木社長と中村さんとはたいへんお親しかったそうですが、お知り合いは学生時代から……。

青木

東京の小金井が私の妻の里で、私もよく出入りしていました。東京空襲で家を焼かれた中村さんが、終戦の翌年に隣に千坪の土地を買って越してこられ、それからのお付き合いです。竹林に囲まれた閑静なお邸で、熊笹の繁った道を降りていくとすぐ中村邸。「おーい、お茶飲みに来い」というようなことで、ずいぶん可愛がっていただきました。

西島

西日本新聞の聞き書きシリーズで、芸術院会員で日展理事の中村琢二(たくじ) さんがおられましたが、あの方は弟さんですね。
研一さんは亡くなられるまで小金井に住んでいらっしゃったんですか。

青木

そうです。すばらしいお邸でね。大岡昇平さんが戦後『武蔵野夫人』という小説を書いたでしょう。あのなかに「ハケ」という土地が出てきますが、そのモデルになった場所なんですよ。大岡さんはよく中村邸に立ち寄っていましたし、奥さんの富子さんもきれいな人だったので、そこから小説の霊感を受けたのでは……。

四島

優雅な暮らしぶりだったようですね。実家も裕福だったのですか。

青木

研一の父親は住友のドル箱だった別子鉱山の所長から、後に住友本社の鉱山技師長にまでなった人で、裕福な家庭でした。研一は、明治28年5月14日に、宗像郡の南郷村に生まれています。ここは研一の祖父母のいた土地で、父親の転勤にともない、研一は4歳の頃から父母と離れて宗像で祖父母に育てられました。中学入学まで宗像ですからたいへん九州びいきで、九州にはいると汽車の揺れも少なくなる……と自慢していました。成長してからもちょくちょく帰っていましたし、子供時代の思い出はみんなこの場所につながって、とても懐かしがっておられました。
父親は、東京物理学校数学科(現東京理科大学)から帝国工科大学採鉱冶金学科選科(現東京大学工学部)を卒業、母親も学者の家系で、福岡のミッションスクールを卒業したインテリの家庭でした。鉱山技師だった父親は、研琢錬磨から1字ずつとって研一、琢二、錬三、磨瑳四、という具合に、男の子の名前をつけています。

四島

なるほど、鉱山技師らしい(笑)。しかし、小さいころから両親と離れて寂しかったでしょうね。

青木

幼年期をふりかえった文章などを読みますと、やはり孤独感が伝わってきますね。祖父は研一をかわいがっていたようですが、祖母のしっけは厳しくて、新居浜(愛媛県)の自由な雰囲気にいる弟妹たちがうらやましかったようです。母親にも甘えきれず、後年も祖母に対する情愛のほうが深かったようですね。祖父母はたいへん崇仏心の深い人たちで、これも研一に大きな影響を与えています。

西島

絵は小さいときから好きだったのでしょうか。

青木

手先のことは上手だったようですが、中でも絵がとびぬけて好きで、学術調査のために欧州に渡った父親から、ニュートンの水彩絵具やワットマン紙を送ってもらい、よく写生に出かけていたそうです。村と都会の中間のような、物静かで上品な子供だったようです。学校はよくできて、ずっと1番。明治42年に福岡県立中学修猷館に入学します。

修猷館時代 ― 友人たち

西島 伊三雄氏

四島

画家の児島善三郎さん(明治26-昭和37年)と同じ頃では……。

青木

児島善三郎さんは研一の2学年上にいまして、彼を中心に「パレット会」という絵の同好会がありました。研一が入学すると、1年にとびぬけて絵のうまいやつがいる、とさっそく善三郎に勧誘され、絵が好きですから、すぐに入会したようです。パレット会には児島善三郎と同期の太田清蔵(おおたせいぞう) (東邦生命会長)、研一と同期の中島正貴(なかしままさき) (旧姓不破、後年草土社で活躍)、後に東筑中学から転校した弟の琢二などがいました。

四島

後年活躍するすごい連中がいたのですね。

青木

ええ、この会は程度が高かったでしょうね。日本中の中学でこれほど粒のそろったものはなかったと思いますよ。なにしろ研一や善三郎ですから、美術の先生よりもはるかにうまい(笑)。

四島

研一さんと善三郎さんは家庭環境もよく似ていますね。一方は住友の鉱山技師長、一方は博多の旧家と、共に裕福で。

青木

善三郎の家にもちょくちょく遊びに行っていたようです。研一は修猷館の寄宿舎に入っていたのですが、ここは非常に厳格で、自由に絵など描いていられるところではなかった。一方、善三郎の家に行くと蔵に骨董品がごろごろしていて、長崎の壷など持ち出して二階の部屋で思う存分絵を描いている。ずいぶんうらやましかったと回想しています。後年、研一のアトリエのあった代々木初台(はつだい)に、善三郎もアトリエを建てて往来(ゆきき)しています。
絵のほかにも修猷館の友人に大物が多いですね。生涯の親友で後に社会党の代議士となった三輪寿壮(みわじゅそう) 、また寄宿舎の同室には後のイタリア大使を務めた日高信六郎 (ひだかしんろくろう)がいて、こちらも終生変わらない交際がありました。緒方竹虎(おがたたけとら) とも出会っています。修猷館には夕星(ゆうずつ)会という硬骨の優等生の集まりがあって、研一も三輪寿壮とともに入っていました。弁論部にも入っていて、たいへん話術がうまかったのは、この頃の影響もあるのでしょう。
後に同じ選挙で社会党の三輪寿壮と自由党の緒方竹虎の応援演説を同時にやって、しかも本人よりうまかったというのですからたいへんなものです。

四島

絵描きになると決めたのは……。

青木

中学3、4年の頃じゃないでしょうか。帝展で二等をとった新進画家青山熊治という人に絵を習っています。東京美術学校を受験したいのですが、父親が猛反対で、絵は一生の楽しみでいいじゃないかというわけです。一時は勉強する気力さえなくしていますが、親友の三輪寿壮の励ましで立ち直り、大正3年に優等の紫檀(したん)硯箱を受けて修猷館を卒業します。
それから、また父親に美校受験を頼むのですが、うんといわない。三高(現京都大学)受験の名目で京都に出て、住友の顧問画家でもある鹿子木孟郎の内弟子になってしまうんです。鹿子木の口ききがあり、また心配した父親が研一の絵を人を介して黒田清輝(くろだせいき) に見せたところ「これなら本人の努力次第で1人前になれるかもしれない」という返事で、ようやく美校受験を承諾します。

「お辞儀をする画家になるな」

四島 司

四島

善三郎も親の反対を押し切っている。どちらも似たところがありますね。京都滞在中に義太夫に凝ったとか。

青木

その頃の学生は娘義太夫(むすめぎだゆう)にのぼせたんです。郷土の宗像でも盛んでしたし、父親も好きだったから素地があったんでしょうね。
ようやく美校受験を許されて、大正4年早々から岡田三郎助(おかださぶろうすけ)の主宰する本郷絵画研究所に入り、そして4月には東京美術学校に2番で入学します。

西島

2番とはすごいですね。絵もじょうず、頭もよかったんですね。

青木

自信満々だったようですね。実技の試験では自分の分を描き上げて、自信のなかった友人の分まで描いてやって、2人とも合格していますよ(笑)。

西島

教授連にも注目されたでしょう。

青木

当時の教授としては岡田三郎助、藤島武二(ふじしまたけじ) 、和田栄作(わだえいさく) などそうそうたる人たちがいまして、学生達には藤島武二が最も人気がありました。研一の才能を買っていた藤島は、研一が自分の教室に当然来るものと思っていましたところ、本郷研究所以来のつながりでしょうか、岡田三郎助教室に行ってしまいます。それで気まずくなってしまうんですね。後にはよくなるのですが、研一が学校で浄瑠璃をうなっているところをみつかって、2週間の停学処分という厳しい処罰を受けたりしたのも、このことがあったからだと言われています。
研一の同期生には、鈴木千久馬(すずきちくま) (創元会)、山喜多二郎太(やまきたじろうた) (光風会)、和田香苗(わだかなえ) (光風会)などがいます。

四島

学生時代にはもうアトリエを建てていたとか……。恵まれていたんですね。

青木

そうなんです。大正5年に代々木初台に建てています。父親が株で大儲けをして、自分は書斎を建てるから、研一にはアトリエを建ててやろうということになって……。まだ美校の予科のときですからすごいですね。父親も美校受験を一旦許すと今度は是非とも立派な画家にと、毎月300円からのお金を送金しています。当時60円もあれば生活できた頃ですから、ずいぶん裕福な学生時代といえますね。大正9年、優秀な成績で美校を卒業します。一緒に卒業した中に後に独立美術協会の発足に加わった中山巍(なかやまたかし) がいます。卒業の前年には第8回光風展で、「お茶の水風景」が初入選。卒業の年には神田流逸荘で生涯ただ一度の個展を開いています。

西島

あれだけの人が生涯一回だけとは、なにか理由でも……。

青木

父親が反対だったんですね。唯一のこの個展は美校を卒業して、父親からこれからは自分でおやりなさいといわれ、じゃあ、個展でもやるか……と開いたそうですが、やってみると800円の収入があった。父親はすっかり安心して「もう個展はするな。買ってもらいたいと、ついお辞儀をしたくなる」そういう画家にはなるな、というわけです。変わった父親で……(笑)。台所は自分がみてやる……。

西島

嬉しい親父ですね(笑)。住友の鉱山技師長というと、当時はたいへんなものですね。

青木

それはすごいものだったと思いますよ。2千円もあれば邸宅が買えた時代に半期のボーナスが5千円とか1万円だったんですから。
この年第2回帝展に「葡萄の葉蔭」が初入選、翌第3回帝展では印象画風の「涼しきひま」が特選を受賞。これは父親にとってよほど嬉しいニュースだったんでしょうね。人に向かって「トンビが鷹を生んだかもしれんよ。〝嬉しさにしきりに目覚む夜長かな″こんな句ができた」と手放しの喜びようだったそうです。翌第4回帝展では「晴れたる朝」「マドモアゼルF」の2点を無鑑査で出品。洋々たる帝展へのデビューですね。

優雅だったパリ留学

青木 秀氏

西島

パリにも留学していますよね。

青木

大正12年から昭和3年までの6年間ですね。研一は学生時代からフランス留学を希望していましたから、フランス語の習得には力を入れていましたが、やはり本場では通じにくく、苦労したようですね。フランスでは義弟の知り合いのオカダという日本人画家に世話になり、まずパリから30キロ、ニースよりのカッシスでフランス語や風俗、習慣に慣れた後、パリに行っています。

四島

パリにいたときの先生が変わっているでしょう。あまり聞かないような……。

青木

モーリス・アッスランといって、好事家(こうずか)は非常に大事にしている画家ですが、アカデミー派のモノクロに近い色彩を基調とした素描的な表現を得意としていました。研一はたいへん親しく交際して多くの影響を受けています。それまでの印象派やフォーヴ風の画風を捨てて、アッスラン風の手堅い写実を追究することになります。

西島

当時は、エコール・ド・パリの華やかな時代でしょう。藤田嗣治(ふじたつぐはる) がサロン・ドートンヌで大活躍をしている時期ですよね。

青木

フォーヴィズムやキュービズムなどの動きも盛んだった頃に、あえて写実を追究しているところが興味深いですね。サロン・ドートンヌの会員にもなっている、すごいですね。

四島

パリの画学生というと、貧しい生活で苦労して……というイメージがありますが、中村研一の場合は……。

青木

優雅なものだったようですよ。パリのバロー街にアトリエを構えて、モンパルナスのグランド・ショミエール絵画研究所に通い、帰りにはカフェで一服する……、という日々を過ごしたようです。
研一は美食家で、とくにフランス料理にはくわしかったんですが、その由来もこの滞仏時代にあるようですね。美術評論家の柳亮さんも、研一に誘われてパリのあやしげなレストランの扉を押したものだそうです。戦後、私もご馳走になったのですが、小金井の彼の家の地下室の中にはいいブドウ酒がズラッと並んでいてね。料理の本も書いていますよ。古武士のような風貌のくせに料理好きで、原書のものすごく厚い食通の書をかかえこんで、これでいこうかと、お客にはよく手づくりの料理をご馳走したものです。

四島

日本人との付き合いは……。

青木

同時期に留学していた人に中山巍、児島善三郎、鈴木千久馬、向井潤吉(むかいじゅんきち) らがいますし、グランド・ショミエール絵画研究所では有島生馬(ありしまいくま) とも知り合っています。長谷川路可(はせがわろか) や田中繁吉(たなかしげきち) とも親しかったようです。
昭和3年、帰国に先だってパリから送った「裸体」が帝展で特選。翌10回帝展で「若き日」が特選。第11回帝展では「弟妹集う」が、帝展最高の帝国美術院賞を受賞。パリ帰りの新進画家として注目をあびました。
彼が帝国美術院賞を受けた昭和5年には、児島善三郎や高畠達四郎(たかばたけたつしろう) などが独立美術協会をつくり、官展に対して二科や独立などの在野の勢力が増大してきます。この中で、昭和6年、研一は帝展の審査員、名実ともに官展を代表する洋画家となっていきます。

四島

修猷館時代からのつながりの児島善三郎は、独立美術協会をつくって反官展派、アトリエも同じ代々木初台にあることを考えると2人はおもしろい縁といえますね。画風も全然違いますし……。

青木

善三郎との関係は、坂本繁二郎(さかもとはんじろう) と青木繁(あおきしげる) の間にあったような陰と陽とのからみですね。お互いにものすごく懐かしくなってみたり、すごく反発し憎しみ合ったり、そりゃあ激しかったですよ。
いちばん激しかったのは、昭和25年に2人が芸術院会員を争ったとき。私は文部省担当の記者でしたが、当時の社会教育局長から、芸術院会員候補者に、福岡から2人あがっている、どちらがふさわしいかと相談されて、本当に困りましたね。若い頃から可愛がられたのは中村研一さん。絵描き児島善三郎さんの魅力は大きい。帝展以降文展から社団法人日展となるまでの貢献度から言えば、はるかに中村研一なんで、結局研一になったんですが、善三郎は悔しがりましたね。絶対反文部省でいくんだといって、それ以後この話がきても、受けなくなってしまいました。

帝国美術院賞を受けた「弟妹集う」

戦争画と研一

西島

ところで私は、中村研一といえば、戦争画の傑作を思い出すのですが、終戦後、アメリカに接収されていましたね。

青木

ええ、それが還されて、一時話題になりました。

西島

私は「コタ・バル」が好きなんです。戦争画といえば鬼畜米英で、アメリカ人がやられて日本人が勝った勝ったという絵を想像するのですが、あの絵はそうじゃないんですね。

四島

描いているのは、全部戦争のなかの庶民、兵隊なんですね。

青木

ええ、彼は死地につく人の潔さに感動して、真摯(しんし)に戦争の事実を描こうとしたのです。どんなに請われても将官の似顔絵は描いていませんね。
彼はたいていのものは宙で描けたんですね。ところが戦争画になるとちょっとでも違っていてはいけないと、初めてモデルをつかった。本物の兵隊をつかって自分の庭でポーズをとってもらう。だから迫真の画面になったのでしょうね。終わると夫婦で、「体を大事にしてお国のためにがんばってください」とたいへんなもてなしかただったそうです。
先程言われた「コタ・バル」は、中村研一の最高傑作のひとつで、この時期が画家としていちばん充実していたときだったと言えますね。

四島

だいたい戦争画は隠すんですね。戦争協力者と思われますから。ところが中村研一は隠していない。

青木

兵士が国のために戦ったことを恥じていないように、自分も胸をはって立っているという気持ちだったのでしょう。「コタ・バル」は、当時画壇で非常に名誉とされていた朝日賞をとっています。東京の空襲で代々木初台のアトリエは焼失し、彼の作品も焼けてしまうんですね。研一と夫人は疎開していて難を逃れましたが、戦前の作品がほとんど焼失してしまい、断腸の思いだったでしょうね。

西島

私たちも残念ですね。絵を売らないということは、保存にならない面があったのですね。時代とは言え、分散しとけば焼失せずにすんだのに残念ですね。

青木

ええ、画家としても戦争中に最高の時期を迎えた作家であるだけに、その時期の作品群がないのは悔やまれます。画集も真中がポッカリ抜けて、あるのは20代の絵と、50を過ぎてからのものばかりですので、彼の画業を画集だけで判断されるのは、かわいそうな気がしますね。

四島

戦前、戦後を通じて活躍の舞台は、ずっと官展ですね。

青木

戦後は日本の洋画の流れが大きく変化しました。それまでは洋画と言えば文展、帝展といった官展が代表でしたが、戦後は二科会、独立展などの在野団体が勢いを得、抽象表現へ、新しい流れへと押し流されていきました。そのなかで日展は、頑として旧来のスタイルと技術をまもってうごかないんですね。戦後の揺れ動く時代でしょう。新しい思想と新しい芸術がもてはやされ、日展は次第に古くさいと顧みられなくなります。その上、官展から社団法人日展となって、運営面でもむずかしい局面に立たされています。黒田清輝の後をついだ岡田三郎助も、その後の藤島武二も、終戦前に亡くなっているでしょう。だから日展の中心人物としては、中村研一と辻永(つじひさし) がうかびあがって代表に立たされるんですね。

西島

研一の作品は夫人を描いたものが多いですね。この時期の作品は戦前と作風が変わったように思いますが……。

青木

華やかな色彩がでてきましたね。戦前は黒っぽい、逆光の中に対象物をとらえて表現する作風でしたが、戦後は、むしろ明るい面を強調する装飾的な画面になります。有名な黒い輪郭線が出てきたのも戦後です。
おもしろいのはね、彼の奥さんとある1人のモデル以外は描いていないんですね。なぜかというと、これなら絶対画商が欲しがらない(笑)。しかも、自分は充分作画する喜びは感じられる。発表しても買いに来ないから、いっさい絵を売らずに生活できると言っていましたね。

西島

うらやましいなぁ(笑)。しかし、おもしろい話ですね。

青木

夫人は富子さんといって、昭和4年に結婚されました。きれいな人で自分でも岡田三郎助ばりのいい絵を描かれますし、御健在です。
中村研一が奥さんと1人のモデルしかつかわなかったということは、彼がモデルの変化というような表面的なことに関心がなかったことを表していますね。描く対象は何でもいいわけです。モデルの美しさではなく、人間の女の体を描きたかったのです。そこに存在する女の体、物体としての体に、存在としての肉体に決定的に関心の全てを注いでいる。美しい、醜いということはあまり関係ないわけです。質実に、まともに、きびしい描写を正面から押していく、そこに中村研一の絵の特徴があったといえるでしょう。

「コタ・バル」

「味」を拒否した画業

研一が絵付けをした九谷焼

四島

西島先生は絵を見てどうですか。

西島

うまいですね。確実なデッサンとリアリティー、どこにもごまかしのない、逃げていない、そんな作家ですね。絵は見たときにどこかにちょっと手を加えたいというくらいのほうが、おもしろいような気がするんですが、加えようがない絵ですね。

青木

そのことで、こんな話があるんです。日本画家の山口蓬春(ほうしゅん) と一緒に九州に来て、「山口君、いいなぁ、日本画は……」、理由を聞くと、「君たちは、背景をこうぼかして、なにかありげにしとけば、それでできあがりだもんな。油絵は辛いんだよ。その後ろはどうなっている、その後ろは、その後ろは……と最後の最後まで後ろを考えなくてはならない。フワッとぼかして何かありげ……なんてのは絶対だめなんだ」と。まさしく、そういう絵ですよね。

四島

たしかに研一の絵は後ろの後ろまで追究した絵ですよね。ただそれだけに、西島先生も言われたように、完璧でおもしろ味がないように思われるんですが……。

青木

こういう風に言っていましたね。日本人は味に流れ過ぎる。どれだけ味がなくてその絵が存在するかが大事なんだ、と。一見識ですね。それでいて平凡ではなく、絵を一見すれば中村研一ということがすぐわかる。その点すごいですね。
彼から見れば、いまぼくらが大事にしている人気作家がいるでしょう。それを一言。癖で見せる絵、情で見せる絵、好みで見せる絵、みんな本物じゃないんだ、と。淫することを拒絶した作家ですね。

四島

誇り高い作家ですね。

青木

ええ。日展を率いて、おそろしく大道を歩いていながら、価格の面じゃ過小評価されためずらしい作家ですね。画商が嫌いで、画商は来てくれないほうがいいんだといっていました。わずかに日動画廊の先代がアトリエに入れただけでしたね。画商受けが悪いので絵の価格があがらないんです。ある意味じゃ非常に位置づけのむずかしい作家ですよ。
人間は豪気でした。政界にいたら総理大臣になったかもしれないし、会社だったら社長か会長になった人ですよ。たまたま絵が好きで絵描きになったということでしょうね。美術評論家の今泉篤男さんは、中村研一に人気が湧かないのはあまりに何でも軽々とできてしまうから、絵に本当のおもしろさが出ないんだ。不器用な作家のほうがはるかに魅力が出せる、という言いかたをされていますね。研一はこれを読んで非常に怒りましてね、エセ評論家が……と(笑)。日本の場合には、一芸にひたすらな姿が認められるでしょう。彼はあまりにも何でもできて、万能選手で、優雅でお金もあって……、だからうとまれるんですね。

四島

たしかに、アカデミックな絵の基本のような画風ですね。息は長いでしょうから、評価はこれから……。

青木

そう思いますね。「味」を全く拒否したということではね、お付き合いしていて苦労したのは、田崎廣助さんと合わないのね。画風が全然違うでしょう。田崎さんが何回か足を運んだんだけど冷たい応対で……。どちらかというと田崎さんのほうが、その不器用さゆえに、いまは人気が高いかもしれませんね。

四島

現在は完全型では満足しないんですね。どこか波長が違う、悪く言えば崩れている絵じゃないとおもしろくない。それを中村研一はずばり邪道だという。一面では豪快ですけれどもね……。

西島

おもしろいとは、どうかするとごまかしにつながるものですからね。

青木

何でもできたということで、人間としての幅の広さでは並ぶ者がいないけれども、そのために絵描きとしての評価が低いんだとしたら、人間としてどちらのほうがいいのかわかりませんね。

西島

弟子にはどんな人が……。

青木

弟子といえる人は少ないですね。というのも、研一は弟子を取らなかったんです。それでも研一を慕って、教えを仰ぐ形での押しかけ弟子のような入門ですね。残念ながら福岡にはいないんですが、高光一也(たかみつかずや) さんなどがそうです。
中村研一を語るときにもうひとつわすれてはならないものに九谷焼の絵付けがあります。芸術院会員になった昭和25年くらいから陶芸を始めて、いろいろ試みたようですが、最後は色彩の表現の自由を持った九谷焼に傾倒していますね。九谷の名匠徳田八十吉さんに絵付けを習って、職人画にはない自由闊達な九谷を多く残しています。

四島

亡くなられたのは……。

青木

昭和42年8月です。72歳でした。癌から併発した黄だんで死去しています。この年の4月には、戦争画の「コタ・バル」などが返還されていますが、本人は意識朦朧(もうろう)として理解できたかどうかは分かりません。死亡当日に従四位勲二等瑞宝章を贈られています。
先日、弟の琢二さんとお話ししていますと、兄さんを本当に尊敬しておられるんですね。研一がいなかったら自分は画家にはならなかっただろう、「世間でどう思われているかは知りませんが、私など逆立ちしてもおよばない画家です。それはもう才能の質が違いますよ」と言いきられています。実にいい御兄弟ですね。

四島

真実の絵画、それを求め続けた一生ということができるでしょうね。今日は興味深いお話をどうもありがとうございました。

福岡市美術館所蔵の中村研一作品

・秋の花(1948)婦人像(1950)裸体(1952)静物(1955)ハンモック(1956)瀬戸内の午後(1960)など30点・六藝書房から『中村研一画集』

青木 秀(しげる)氏略歴

大正11年、宮崎県に生まれる。
昭和21年東京産業大学(現一橋大学)卒業。
22年西日本新聞社入社。
文化部長を経て、昭和45年編集局長。48年取締役。
以後常務取締役、専務取締役、副社長、社長を経て平成7年より同社会長。