No.42 博多こぼれ話博多町人気質いろいろ

対談:昭和62年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 波多江 五兵衛氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行副頭取 森田 孝雄

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


話も、墓も、「にわか」ふう

森田

今日は、博多の町人気質ということで、いろいろと〝こぼれ話″をおきかせください。

波多江

そうですね。じゃ狂歌と博多にわかの話からはじめましょうか。
博多では「にわか」がはやりましたけど、江戸時代からさかんだった川柳ははやらなかった。川柳が博多に入ったのは、やっと大正になってからです。

森田

どうしてでしょう。

波多江

狂歌はあったんですよ。博多の人は角(つの)つきあわせて、おこりっぽい顔で文句を言うのが嫌いだったんですね。
昔、国体道路ぞいに東中洲へまいりますと、水車橋という橋がありました。橋のたもとに油を搾る水車があり、その横に大きな居酒屋がありました。そこへ毎日のように飲みにくる大工の坂本卯平という人がいて、腕はいいんですが、年がら年中仕事もせず酒びたりになっていたんです。いつもどろんどろんになるので、別名「どろん軒」といったんですよ。この卯平がまた、飲むけれどもあんまり払わないわけですね。
今だったら、きっと「かけ飲みお断り」と書き出すんでしょうが、居酒屋の主人はそんな文句は書かない。何と書いたかというと、障子くらいの大きな紙に「貸しますと、金とりたてに困ります。現金ならば安く売ります」
すると卯平がおれに筆を貸せとその横に書いたのが、「借りますと、もろうたように思います。現金ならばよそで飲みます」とこうなんです(笑)。催促する方もつっけんどんでなく狂歌でやりますし、答える方もまた狂歌でかえす……。

森田

とてもおもしろい。

波多江

新しいところでは、皆さん御存じの岩田屋を始められた中牟田喜兵衛さんですが、この方が玄関に立っておられたら、あの西日本広告社におられた田中諭吉さんが来なさった。
この方は頭がつるっぱげで、「頭のハゲは私の名刺代わり」と、かえっていばっている人でした。これが大阪の人でしたら、「もうかりまっか」となるんでしょうが、中牟田さんは、田中さんのハゲ頭を見て即席の博多にわかで、「あんた、そげん頭でうちに入らないでくれ」「どうしてですな」「あんたが入ってきたらうちの店はモウケがない」と、こう言ったそうです。
田中さんもまた当意即妙に「あたしが入りますと、光線(口銭)が入りますばい」と言ったらしいですね(笑)。それで中牟田さんが、これは負けたと、田中さんを会長室に連れていった(笑)。

西島

田中諭吉さんらしい。まだ30代の頃の話でしょうね。

波多江

そのころからもうピッカピカだったですからね。この田中諭吉という人は、たいへんなアイデアマンで、今では年中行事になっている太宰府の「曲水の宴」、あれも、梅の季節から菖蒲までの間をつなぐものが何かなかろうかと、言い出されたのがきっかけで、九大の加藤退介教授や大広の中島保英さん、岡部定一郎さんらと話しあって始められたんですね。
田中さんが、「太宰府で曲水の宴をやろうと思とるたい。酒は何とかなるばってん、杯がないけん、波多江さん、あなた寄贈しんしゃい」とこられたので、よくおぼえているんですよ。

西島

大昔、菅原道真公の頃、平安時代にはあったんでしょうね。

波多江

それを見事に再現して、今では太宰府さんの春の行事になってしまっていますね。
博多のお墓もおもしろいんですよ。芥屋(けや)町(現、奈良屋町)に観音寺という寺があった。そこには、博多のなぞなぞを作る人たちのお墓があるんですよ。

西島

「博多なぞなぞ」ですね。

波多江

ええ、変わっているのは、墓碑に何々家の墓とも南無阿弥陀仏とも書いてないんです。なぞなぞつくりの自分の雅号が2列に書いてある。
野霧軒一生(のむけんいっしょう)
野満軒空海(のまんけんくうかい)

これが戒名としゃれている。最初の人は酒飲みです。もう1人はいけない口です。それ2つだけで、あとは何にも書いてない(笑)。
家族の者が涙流してメソメソするより、戒名を読んで「まあ、うちのじいさんは」と、笑ってくれた方がいいと言うんですね。

森田

博多にわかの原型みたいな感じもしますね。

波多江

ほかにも、表具屋さんで
朝寝坊尾衾(あさねぼうおきん)
とか、彫金師の羽田さんという人が
羽田羅漢(はたらかん)
とか……。明治末から大正の頃ですね。ほかにもいろんな傑作があります。

森田

こうしてみると、博多の人は結構裕福だったみたいですね。のびのびとしていて……。

西島

食べ物が豊富だったからでしょうね。海の物、山の物が豊富。それから多いといえばお寺の数も多いですね。

波多江

まあ、裕福というより、気持ち裕福だったんですかね。

博多の町人気質(かたぎ)

波多江 五兵衛氏

西島

町人気質について、もうすこし……。

波多江

実在の人物も含め、ちょっと変わった博多人気質についてお話ししましょう。結局、手前味噌のようですが、博多人気質というのは、「わがとこながら、博多はいいとこばい」と誇りたいんですね(笑)。

西島

そういう陽気さですね。

西島 伊三雄氏

波多江

博多の人間は上意下達というのが、1番嫌いなんです。明治31年に曽我部道夫という人が知事になったのですが、祗園山笠で舁(か)き山が電線を切るし、裸で走って野蛮だと言って、山笠禁止令を出したんですよ。文明開化の世の中です。そして福岡市の方に取り締まる責任を押しつけたんです。当時の市長は立花小一郎という人で、陸軍大将で、その下の教育課長というのが憲兵中尉か大尉かだったんです。
それで、博多の人たちがどうしたかというと櫛田神社に集まって、九州日報の編集局長をやっていた古島一雄(こじまかずお)という人にたのみこんで、反対のキャンペーンをはったんです。それは、「博多の自治制度を知らんのか。着飾った人間が上等で裸の人間が下等だという理由はない。鹿鳴館(ろくめいかん)の紳士淑女のスキャンダルはいいのか」という激しい調子でした。
そして、「県にしても市にしても、税金が完納できているのは誰のおかげと思うとるか!」です。
幸い、この古島一雄という人は、当時の内閣の西園寺公のところヘフリーパスで行ける人だったんですよね。で、ついに県の方も折れたんですが、なんとかメンツを立ててくれといって、結局、山笠がハッピを着るようになったのは、それ以後ということなんです。

西島

そうですか。昔は裸だったんですね。博多の場合、公共的な問題があった時も、県庁に座り込んだり、どなり込んだりしませんね。人から嫌われるようなことはするな、というのは昔からですね。そういう風習がありますね。
山笠でも、なにか文句を言いたそうな人に、好きなだけ文句を言わせます。次の会合でも言わせます。3回目もまた言わせます。そうするとだんだん声が小さくなって、4回目ぐらいからはだんだんまとまって、最後は丸く収まるんですよね。あれもよくできてると思いますよ。

波多江

茶化すわけではないですけど、何かネアカ口調で洒落て、ひっくり返すんですよね。
この頃、よく作家とか評論家とかが、ちょこっと来て、「博多の人間とは」とか書いているのを見ますとね。「陽気でお祭好きで……」と、何か軽薄人間の見本のように書いてるんですよね。あれはちょっと……。

西島

みんなで暮らしを楽しくしようと考えてやってることを……。

波多江

軽薄にパーッと茶化されてはこまります。

森田

本当に面白い風土ができたものですね。

波多江

とにかく博多の人間は争い事を嫌いますね。いくら自分の主張がどうのこうのいってもですね。
福岡の市長をされた小西春雄さん、この人は戦後の復興に尽力された名市長で、市民に親しまれた人でした。この人が福岡言葉でした。博多の連中は、「市長さん、そげな言葉使ったらあなた、博多から追い出しますばい」といったもんです(笑)。
そのかわり、市長さんに陳情に行く時も、半分茶化したような言葉で言うんですね。雨が降ると道がどろんこになって困る、なんとか舗装してほしい、と陳情に行ったんですよ。その時でも、「あなた雨の日に博多の町を歩いてみなさい。まるきり、あの回転焼の型のごとなっとりますばい」と言いかえましたもんね。「デコボコしてます」なんて誰も言いません(笑)。市長も笑ってきいとらっしゃった。

西島

平和台で西鉄ライオンズを茶化したり、応援する時の言葉もおもしろかったですね。

波多江

ピッチャーがボールばかり投げたりすると、「そのバット、地に埋めとけ!おれがスコップもって行って掘ってやろうか」と、こんな調子でしたね(笑)。

母と子も「にわか」で

西島

ごりょんさんも仁○加ふうの話をさっしゃって……。

波多江

そうですよ。私の母の話で恐縮ですが、母が博多の「ごりょんさん」なんですよ。それで私たちが小さい時、なにか質問しても、ろくに答えてくれないんです。たったの一口なんですね。
8月16日は閻魔(えんま)様の日で、海元寺という寺の閻魔様にみんながお参りして、お供え物の台に、次から次に蒟蒻(こんにゃく)を供えるんですよ。閻魔様に蒟蒻というのが、どうしてもわからなくて、小学校のころに、母に聞いてみたんです。するとたった一言「あれは〝あくぬき″たい」

西島

今でも蒟蒻をあげますね。

波多江

その時は全然わかりませんでしたがね。どうもこんにゃくで人間の身体のアクを全部外に出して、清浄な身体で詣(もう)でています、ということらしい。〝あくぬき″なんですね(笑)。

西島

海元寺はうちのお寺なんですよ。昔の蒟蒻やさんに知恵者がいたんですかね(笑)。

波多江

母親がそうですから、私も子供心に仁○加(にわか)かなんかで洒落(しゃれ)て答えなきゃならんなと思ったことです。
別に家でおしえられたこともありませんしね。以前は暮れになりますと、雑煮(ぞうに)の餅を搗(つ)くために、餅搗き屋さんが家庭をまわっていったんですね。そのとき最後の一臼は「搗きあげ餅」といいまして、小豆をいれるんですが、どういうわけか塩味なんです。ちょっとくらい砂糖が入っていたらさぞうまかろうに、どうして搗きあげ餅は塩味にするの、と母に訊(き)いたんです。すると、母の答えは「亭主が甘ちゃんにならんごとたい」それっきりしか言わないんです(笑)。なんのことやら、こっちはいっこうにわかりませんでしたね。

西島

女遊びをする甘い男のことですね。

波多江

ええ。

森田

お母さまの答えが、もう博多仁○加ですね。

博多商人が江戸に出なかったのは

森田

博多の豪商といわれた島井宗室(しまいそうしつ)や神屋宗湛(かみやそうたん)は天下人(てんかびと)の豊臣秀吉と話しあえる立場にいましたでしょう。それだけ力のあった博多の商人が江戸時代になるとかげをひそめてしまって江戸や大坂へ出ていませんね。例の伊藤小左衛門が密貿易で一族処刑になる。そういうことにこりた一面はありませんか。

波多江

いやそういうことはないでしょう。私はこう思っているんですよ。
慶長5年の関ヶ原の戦いで徳川幕府が成立し、戦国時代は終わりますが、西軍大名の領地没収、減封で侍の失業者がワンサとでました。

森田

たいへんな失業時代だったでしょうね。

波多江

この人たちが江戸へ出れば、なんとか食えるだろうと出てくる。いわば食いつめ者がいっぱいで、活気もあったでしょうが、江戸の治安のわるいことはたいへんなものだったでしょう。
また幕府の大名への賦役(ふえき)が多い。大名はこの費用を商人たちから借りる以外ない。いわゆる大名貸で、江戸や大坂の豪商は軒なみねらわれた。これは返してもらえるあてはないんですね。
だから、明治時代になってからはもちろん違いますが、江戸時代の間は、博多の商人は江戸や大坂に支店を出さなかったんですよ。

森田

それは、やっぱり博多がよかったんですね。なにも江戸まで行かなくても、長崎に目を向けてればよかったでしょう。

波多江

それもありますが、黒田藩が町人の博多にあまり口をはさまなかった。博多の自治制度がとても素晴らしかったこともあるでしょうね。黒田長政公が筑前の大主としてはじめて入国したとき、そういう時はたいていどこでもみんな、藩主にコネをつけに行くのに、博多の商人は誰も行かないんですよ。神屋宗湛が焼酎1升を贈ったという記録があるだけで、あとは誰も行かなかったようです。

西島

やることはやるものですね。殿様もいい気分じゃなかったでしょう。

波多江

そうでしょうね。で、博多人気質ということですが、長政公が城下町をつくる時は、協力してみんなお金は出しているんです。しかし、博多の連中は「どげなもんつくるか、まあ見とりまっしょ」と、いう調子なんです。
博多の町人気質ですが、博多の町人というのは、昔からデモとか座り込みとかいう無理じいは、絶対にしないんです。まあ、仲良うやっていこう、ということです。どんな暮らし方をしていたかというと、「みんなが笑って仕事ができるような暮らし。喧嘩はごめんだ」ということですね。

西島

なるほど、そうですね。でも殿様に言いたいことがあったとする。直接には言えないとなると……。

波多江

当時は殿様の行列に、これこれしかじかなんて、訴え状を持って走り込んだりすると、無礼者と厳罰で首を切られたりする時代です。幕府でも中興の英主8代将軍の吉宗の時に、民百姓の訴え事がわからないからと、誰でも身分に関係なく意見を投げこんでもいいという目安箱を設置しました。 この箱の鍵は将軍しか持たず、将軍が自分で開けて民の訴えをきいて、大老や若年寄に指示しようとしたのですね。思いつきはいいし、初めは役立ったんですが、次第に投げ込みが少なくなって中止されてしまいました。

西島

将軍がしたとなると、各藩でもまねたことでしょうね。

森田 孝雄

波多江

ええ。江戸に見習って、福岡でも目安箱を設置することになったんですが、しかし、博多でもあまり入れ手がないんですね(笑)。で、なぜ入れ手がないかというと、「書いて入れるなんて、そげなまだるっこしく、ぎょうぎょうしいことはすかん。侍たちの悪いことは博多仁○加で十分」それで、福岡の目安箱も1年半でつまらんとやめたそうです。

森田

おもしろいですね。

博多町人の自治制度

森田

博多が町人の町というのは、それなりに自治制度がすぐれていたのでしょう。

波多江

〝太閤町割″から400年ですけど、秀吉は町人衆の力をうまく利用していますね。

森田

秀吉が島津征伐をはたし、帰途に博多の「町割」をしたのは、天正15年(1587)ですね。神屋宗湛や島井宗室も協力したんでしょうね。

波多江

ええ。そのほか世話役として、長束正家(なつかまさいえ)とか黒田如水など5人の武将がえらばれていますが、実際に町割の図面をひいたのは、玄蘇(げんそう)という坊さんだといわれています。
この人は後の名を西道(せいどう)といって、聖福寺(しょうふくじ)の住職となった人です。
当時川端町はありませんで、横町筋までしかなくて、そこからは浜で、海になっていました。記録にもそこでお神輿(みこし)を洗った、というようなのが残っています。
玄蘇は、博多の町割を「七条の袈裟(けさ)」の調子につくろうとしました。それで市小町筋の両側に西町筋、東町筋とつくり、西町筋の外側に土居町筋、そしてこの縦の筋に対して、横に横町筋、博多本通筋、三藁小路で七本つくったわけです。三藁小路というのが、今の祗園町筋にあたりますね。さらに細かく、「博多の七(なな)堂、七番、七小路、七厨子(ずし)、七流、七口、七観音」といわれるように、どこからでも位置をはっきりと確定できるように定めました。この町割が素晴らしいのは、このとおりに町をつくると、夏は涼しく冬は暖かいんですね。

森田

秀吉は自治のほうも町人にまかしたのでしょう。

波多江

秀吉は朝鮮出兵を意図していましたから、博多を兵站(へいたん)基地にする考えだったのですね。博多に楽市楽座(らくいちらくざ)をみとめ、誰でも何の制約も受けないで商いができるようにしていますが、博多の発展が必要だったのですね。

森田

それは画期的なことですね。博多の治安も町人に……。

波多江

ええ。それが黒田時代になってもひきつがれている。黒田になると宗室、宗湛でなくて、大賀宗伯(おおがそうはく)が上席になりますが、博多の治安は町人に任せようじゃないか、ということで、今の市長と警察署長の役目を2つとも町人に任せてしまって、侍は一切口出ししていないんです。町人同士だからみんなで話して決める、これが1番よかばい、と。町割についても、どうやって家を建てたらいいかと相談して、1つの区画に3分の2しか建てないということを決めました。あとの3分の1は、空地にしておきなさいというんです。
1番怖いのは火事ですよ。それで、避難ができないと困る、ということで3分の2しか建てない。これだと、裏にでればスーッとどこにでも避難できます。最後まで残っていますのが桶屋町の下駄屋さんのところで、あそこはこのとおり建っていますよ。

西島

境はちょっとした垣根ぐらいですね。

波多江

ええ。塀がなくて裏が丸見えなんです。そこに、畑をつくったり、それと大きな木を植えていました。これは火災を防ぐために植えたんです。博多が火災で丸焼けになったのが7回あるんです。それに懲(こ)りて火災を防ごうとしたんですね。そして、この家の建て方だと人間はうまく逃げられるんですよ。
それから家の左端に「通り庭」がつくられました。さらに家と家の間にはちゃんと一尺五寸(約50センチ)ずつ雨落ちのための空間をとって、三尺(約1メートル)の空間ができるようにしているんです。

西島

その境界が何もないから、なにかのときはさーっと走って退避できたんですね。

波多江

ええ。これも町人同士で決めたんでしょうね。お互いに家を守りましょう、と。上金屋町にこの通りの図面が保存されている所がありますよ。間口はそれぞれ違いますが、奥行きはみんなここでとめられています。

西島

裏がつつぬけですから、ごりょんさん同士のコミュニケーションはよかったでしょうね。

波多江

そりゃ、もう裏同士で、ごりょんさん連中が非常に仲よくなるんですね。
この自治制度でまた良かったのが、税金面です。所得税というのは当時はなく、全部間口割で、間口ごとに税金がかかっていたんです。ところが、やはり商売がうまくいくところとうまくいかないところがあって、税金が払えない家がでてくるんですよね。そうしたら町内の人が立て替えて払ってくれる。
町内から立て替えてもらったら何とかして払わないと町内を歩けない、だからみんな優先して払うでしょう。1番おかしいのは、払わないときの罰則です。町内全部の連帯責任になるんですが、たった1軒でも税金を払い切らなかったら、その町内は、盆の時に博多では家紋の入った角提灯を出しますけれども、これを出してはいかん、正月には門松をおいてはいかんと、これが罰則になっているのですよ。

森田

これはかえってきつかったでしょうね。

波多江

で、他の連中がどう言うかと言うと、「あそこの町内は、立て替えちゃりゃよかろうに、なんちゅう不人情な町やろうか」と、町内全部がやかましく言われるんですね。それで博多の町というのは、税金は大体完納していました。

西島

その払えなかった人に対して、町の制裁はなかったんですか。

波多江

何にもありません。ただ、どうしても苦しくて家を売らないといけなくなると、町衆が買ってくれるんです。またよくなって戻って来る時は、買い取った時の値段で戻しますという取り決めになっていました。お互いに無理のないやり方でお互いに繁盛しようやないか、ということだったんですね。

森田

いい制度だったんですね。

波多江

このほか、いろんな自治制度がまだまだあります。町役場のほうも各町に税金の使い途はこうです、とすべて細かく報告書を書いて配っていましたね。役所が冬寒かったので炭を1俵買いました、とか書いてあります。それから火事の時の1番駆(か)けつけにはいくら、2番駆けつけにはいくらやったとか、こと細かく書いてあります。また、橋が汚れて困ったので橋の掃除人にいくら払ったとか。
おもしろいと思うのは、やはり当時1番怖かったのは火事だったんですが、夜、博多中を見回る「夜回り」が16人くらいしかいなかったんですね。すると、このごろは家も増えたので、すまないけど夜回りの人数を増やしてほしいと陳情に行って、それの費用はみんなが出しますと、町の方から税金の値上げを言っているんですよ。そういう町はあんまりないと思いますね。

西島

それからさきほどのお話の間口の広さによっての税金ですが、金持ちは多くて貧乏人は少なかったのでしょう。話し合って調整してたんでしょうね。

波多江

それは町役場から各「流(ながれ)」に今年はこれだけいるんだ、ということが1度来るんですね。そこで、「あんたんところは商売繁盛してるし、もうちょっと引き受けん」というようなことで分けていたんでしょうね。

森田

おもしろいですね。町のために使われるほかに、黒田藩の方に納める分も当然ありましたでしょう。

波多江

特別のものいりのときはあったでしょうが、普通のときはそれはどうも別だったらしいですよ。

森田

じゃあ、税金は自治でほとんど使われていたんですね。

西島

そのかわり殿様はあまり町のことはしなかったでしょうな(笑)。

森田

でも何か大きなことがあった時に、割り当てが来てたんでしょうね。幕府の用を引き受けるとか。

波多江

そうでしょうね。「今度こげなことできてるけど、あんたんとこいくら引き受ける」という調子できめたんでしょうね。
おもしろいのは、松囃子(まつばやし)の当番とか、山笠の当番とかにあたっている町にたいして、大変だというので補助金が出ていることです。今の市役所みたいにですね。「松囃子笠鉾補助金」いくら、とか「山笠なになにの補助金」とか……。これは役所の方もすぐに出したようですね。おそらく税金という感覚じゃなかったと思いますね。

西島

町内で1番偉い人というのは誰なんですか?

波多江

多い時は博多中で12、3人の年行事と称する人がいました。あの人なら、町のいろんなことをするのに頭もいいしお金も持っている、いろんなことをしきる人だということですけどね。少ないときは7、8人ということもありました。

森田

1つの町から1人というわけでもないんですか。

波多江

そうでもないんですね。だから税金の方は各流にいってきていて、そこからいろいろ割り当てしていたようですね。

侍の給料

侍の給料は米の石高ですが、たとえば百石どりの侍で、実際には半分か3分の1しかもらえない。参勤交代の費用がかかった、水害の防災のための費用がいくら……といった具合に、上に借上げされて、これは天引でかえってこない。 その残りを春に4分の1、冬に4分の1、秋に残りの半分をくれる。ところが、この秋の半分というのが、今年は稲の作柄が悪かったとか何やかんやで減らされる。徳川時代250年に、だんだん悪くなって幕末頃は知行百石のが三十石ぐらいしかもらえなかったらしいです。 何々役という役につくと加役手当がつくのでうるおったのですね。黒田長政の次男長興(ながおき)が開いた秋月藩の殿様はあけっぴろげで、侍は家で内職せな食っていけないぞ、決して恥ずべきことではない、やれやれと内職を奨励したそうです。
(波多江五兵衛氏談)