No.44 鴻臚館

対談:昭和63年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
専修大学教授 亀井 明徳氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 副頭取 中 脩治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


商客を“安置供給”

鴻臚館 年譜

中山博士の指導による復元図のため資料絵図
・左に博多の鴻臚館平画図 ・右は専門書から写した平安京の西鴻臚館絵図

よかトピア博覧会で、福岡市民の目がアジアに注がれているときに、鴻臚館(こうろかん)跡が発見されて、なによりでしたね。

西島

西鉄ライオンズが活躍した球場に鴻臚館が発見された。福岡の新しい誇りができてうれしいですね。

亀井

鴻臚館は古代の大和朝廷の迎賓館、そして官営の貿易商館でした。九州の総監府だった大宰府に所属していて、中国の唐や宋、朝鮮の新羅からの使節や渡来人、そして前後17次にわたった遣唐使や、遣新羅使を接待する客館でした。承和5年(838年)の最後の遣唐使以降は、もっぱら大陸の商客を受け入れました。官営の貿易で、民間の交易は禁制、700年後の長崎の出島と同じでしたね。

西島

空海や最澄も、ここに泊まって唐へ行ったのですね。

亀井

そうです。秀才をあつめて、唐の政治、宗教、文化の一切を吸収してくる大プロジェクトが、遣唐使でした。大がかりで100人から500人の人数が、2艘(そう)から4艘の船で出航しました。それまで北東の風を待って、何十日も鴻臚館ですごしたのですね。帰りも、唐の制度や文物をいっぱいお土産に、鴻臚館に泊まったのでしょう。

西島

迎賓と交易、もうひとつ情報蒐集(しゅうしゅう)の役目も大きかったでしょう。

亀井

日本は、新羅に攻められている百済を支援して、天智2年(663年)に白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しますね。そのあとは神経ピリピリだったでしょうし、世界国家だった唐の情報は、どんなことでも貴重で、鴻臚館は唯一のレーダー基地だったのです。能登や敦賀から入京していた渤海(ぼっかい)使節も、渤海が十世紀の中頃に滅亡してこなくなる。もう大宰府鴻臚館しか、外国との接点はなかったのですね。菅原道真公が遣唐使廃止を献言したのも、藤原氏の敬遠を察知してとか、いろいろ言われていますが、膨大な国費をかけて出向いても、今更うるものなしという正確な情報を、鴻臚館ラインで掴んでいたからでしょうね。

鴻臚館は、記録にのこっているのですか。

亀井

平安初期の天長10年(833年)に作成された『令義解(りょうのぎげ)』にのっていますが、これは平安京の鴻臚館です。主として渤海国の国使の応接機関で、外交の役目をになっていました。承和5年(838年)の最後の遣唐使も、ここを出発地として、大宰府へ向かっています。鴻臚館の管轄は玄蕃寮(げんばりょう)で、蕃客の接待が役目、蕃客とは新羅と唐の使節で、使節の辞見、饗宴、送迎が役目でした。大宰府鴻臚館の前身は筑紫館(ちくしのむろつみ)で、記録にはじめてでるのは、『日本書紀』の持統3年(688年)に、新羅使節を筑紫館で応待したことが、「霜林らを筑紫館に饗(あ)える」と、記されています。筑紫館で応対し、必要に応じて大宰府政庁や平城京にのぼらせています。

西島

民間交易はできなかったのですか。

亀井

はい。交易唐物使という役人が、先買権を行使し、残りを民間が買うわけで、典型的な国家管理貿易でした。唐商人は、一船100人ぐらいの大人数、それに取引も煩雑な仕組みだったようで、商人たちは3カ月から半年ぐらい、鴻臚館に滞在しているのです。その間の滞在費は全部役所持ちで、中国の商客を“安置供給"させたとあります。ただで泊め、ただで食事を給したということですね。

博多以外で接することは…。

亀井

原則としてはありませんでした。風の関係で能登半島についたが、大宰府へ行けと、回航を命じられた記録もあるんです。

西島

大陸と交渉の役所は、以前にもあったでしょう。

亀井

古くは邪馬台国のとき、一大率(いちだいそつ)というのがありますね。外交専門です。次が、JR博多駅近くに設置されていた那津官家(なのつのみやけ)、これは軍事が主です。ここまでは古墳時代ですが、大化改新(645年)で律令制が設けられますね。ついで白村江の敗戦から、天智3年(664年)筑紫に水城がつくられ、大宰府が設置されて筑紫館が設けられます。飛鳥時代後半ですね。チクシノムロツミ、またはタチと読むのですが、これが大宰府鴻臚館の前身です。都は藤原京で、持統天皇の時代、大伴旅人(おおとものたびと)や山上憶良(やまのうえのおくら)もここへ泊まったでしょうね。

前身は筑紫の館

青磁花文碗

西島

その頃も博多と言っていましたか。

亀井

“金印"到来の頃は那の津ですね。奈良時代から博多、博太とも資料にあります。博多大津とも言ってましたね。

筑紫館が鴻臚館と言われるようになったのは…。

亀井

資料の上では、承和9年(842年)の太政官符にはじめて名前が出ます。

西島

なぜ、名が変わったのですか。

亀井

わかりませんが、興味をひかれるのは、筑紫館から鴻臚館へ名前が変わったころその機能も変わっていて、妙に符合しているんですね。鴻臚館時代になると、遣新羅使、遣唐使も廃止され、唐の国使も宝亀10年(779年)が最後で来なくなった。変わって登場するのが、唐、宋、新羅の商人たちで、鴻臚館が貿易商人を接待する宿泊場と市場に変わるんですね。

いつまで存続したのですか。

亀井

だいたい寛治5年(1091年)頃になくなるので、持統2年(688年)から数えて403年は、確実に存続したわけです。

ずいぶん長命でしたね。でも大宰府のほかにもおかれたのでしょう。

亀井

難波鴻臚館がいちばん古く、ついで大宰府、平安京の三つでした。難波鴻臚館は、『日本書紀』の推古紀18年(608年)に、「唐客のために高麗館の上に新館をつくる」とあり、大阪の四天王寺の周辺だろうと言われています。瀬戸内海のつきあたりですから、外客の終着地になっていたのです。大宰府鴻臚館が設置されると、急速におとろえ、承和11年(844年)に廃止されています。でもほぼ236年は続いています。平安京鴻臚館は、主に渤海の使節を接待しました。渤海は中国の北東部で旧満州地区のところにあった国ですが、10世紀に契丹(きったん)にほろぼされてしまう。それで自然と天徳元年(957年)頃に廃止されます。こちらは163年は続いています。場所は朱雀(すざく)の七条で、京都駅の北のところあたりでしょう。

西島

大宰府鴻臚館が一番長命だった。いちばん重要だったんですね。

亀井

ええ。“諸蕃通交の関門"として403年以上続いた。それだけに今度の発掘で、鴻臚館の存在が実証された意義は大きいですね。

西島

それにしても、鴻臚という字は難しいですね。その本来の意味は。

亀井

難しいんですよね。大体、奈良、平安の官制は唐の模倣ですね。唐で来朝の蕃人(外国人のこと)を接待する役所が鴻臚寺で、鴻臚寺は六世紀の北斉(ほくせい)の頃からありました。鴻臚の意味は諸説ありましてね。鴻は洪、ひろくですね。臚は伝の意で伝える。大きな声で客人を案内し触れてまわる、伝声引導ということでしょうね。また文字の意味は、鴻は大きな鳥のこと、臚はその鳥の腹の部分、つまり声を出すところです。

大宰府鴻臚館はどうしてなくなったのですか。

亀井

後半の役目は国家管理の貿易でしたね。貿易が拡大してくると、官僚機構で次第に融通がきかなくなり、商人はそれに対応して、博多の町をつくっていく。藤原氏の摂関政治が衰退し、大宰府政庁の弱体化ということもあったでしょう。大宰府の役人が私腹をこやして商品を横流ししたり、書類を改竄(かいざん)したり、末期によくあることですが、鴻臚館の役目が終わったのですね。

西島

そのあとが、お寺さんですね。

亀井

聖福寺(しょうふくじ)、承天寺(じょうてんじ)、この二つの寺が主体となった私貿易で、キャップには宋人をやとっていました。

西島

900年も眠っていた鴻臚館がアジア博をひかえたこの時期に、よくまた発見されたものですね。オープン戦にそなえ平和台球場の外野の整備をしてみつかったとか。

鴻臚館はここに・・・中山平次郎氏

亀井

経緯はいろいろありますが、礎石がでてきて、ここが鴻臚館とわかったわけです。当時のゴミ捨て場だった瓦留りから、出土品が続々でてきて……。大正時代からこの辺りだと言われており、私も論考していましたから嬉しかったですね。

西島

福岡城、兵営、球場と、ずいぶん大工事でいじられたでしょうに、よくのこっていたものですね。

亀井

本当にそう思いますよ。だいたい鴻臚館は博多部にあるというのが、江戸時代からの通説でした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』や平安時代の文献にも、博多がよくでてくる。博多部が福岡部よりも古いという思いこみがある上、さらに決定打を与えたのが、江戸時代の学者たちが、鴻臚館は博多の官内町だと言ったのですね。黒田藩の著名な学者、青柳種信(あおやなぎたねのぶ)と子息の長野種正、地理学者の伊藤常足(いとうつねたり)が官内町説を主張、鴻臚館が博多官内町というのは、江戸時代から大正初期までの、定説だったのですね。

西島

戦後まで官内町はありましたね。

亀井

石堂橋付近で、いまの蓮池のところですね。その通説を、九州大学医学部教授だった中山平次郎氏が、誤っていると指摘。鴻臚館は福岡部の城内だとする論文「古代の博多」を、大正15年から昭和2年にかけて、『考古学雑誌』に発表されました。これが学界に衝撃をあたえ、論争を巻き起こすんですよ。

西島

ご本業が医学博士なのに、専門外ですごいですね。

亀井

ええ。九州考古学の開祖のような方で、今度の発掘で鴻臚館の位置が先生の言われた通りだった。実に卓見でした。

西島

どうして、そう推理されたのですか。

亀井

万葉集の歌を根拠にされているんです。天平8年(736年)「遣新羅使の一行が筑紫の館に至りて、はるかに本郷(もとつくに)を望みて悽愴(いた)みて作る歌」とありますね。

志賀(しか)の海人(あま)の一日(ひとひ)もおちず焼く塩のからき恋をも吾れはするかも

志賀の浦に漁(いざ)りする海人家人(いえびと)の待ち恋ふらむに明かし釣る魚

かしふ江(え)に鶴(たず)鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも

今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴きぬ

それと、やはり鴻臚館で詠んだのでしょう、「海辺にて月を望みて作る歌二首」をあげておられます。

神さぶる荒津の崎に寄する波間無くや妹(いも)に恋ひ渡りなむ

志賀の浦に漁りする海人明けくれば浦回(うらみ)(こ)ぐらし楫(かじ)の音聞ゆ

さきの歌は新羅へ派遣される国使が、出発にあたり、はるかに故郷をしのんで詠った歌です。これらの歌は筑紫館で詠んだに違いないと、中山先生は考えられた。そうだとすれば、官内町はおかしい。その第一は、前の歌に志賀島や、志賀海人がみえる。第二は、「神さぶる」の歌に荒津の潮の音がきこえている。第三は、「今よりは」で、裏の松山に蝉の声が聞こえる。この三点で、官内町(蓮池)からは志賀島は見えない。潮の音もきこえない。裏に松山もおかしい……、ということで、それに合うところと考えて、築城以前の福崎の地以外にはないと論考された。「筑紫館は博多湾を隔てて志賀島を望むべく、また西公園をみるべき海岸の山地にあったことになる。この条件を容るべき地点は、(旧)博多にあらずして、福岡城の位置より他には之を索(もと)むる能(あた)はず」と、述べてあります。

西島

すばらしい推理ですね。

亀井

先生はとてもカンのいい方ですね。でも、私はこう思うんですよ。先生は万葉から疑問点をあげて推論されているんですが、実はこれは傍証で、先生は別にそのもとになるものを検証されていたと……。というのは、戦前はこの城内に二十四聯隊がありましたね。招魂祭で営内がオープンのときに中をしらべ、奈良時代の瓦がうまっていることを確かめて、ここに瓦ぶきの楼閣があった、それが鴻臚館だと確信されたのですね。武器庫と被服廠(しょう)と火薬庫のところで、いまの球場の正面側と南のテニスコートのところです。

面白いですね。先生が医学博士で、門外漢がと、学界でもめたりは……。

亀井

当時は九州大学にも考古学教室がなく、考古学そのものが素人集団のようなもので、専門外だと異端視されることはなかったでしょう。むしろ、医学部のほうで変わりものと異端視されたんじゃないですか(笑)。さらに貞観11年(869年)に、新羅の海賊が博多を襲ったことがあるのですが、そのとき博多警固所の前身が鴻臚館に付属して設けられています。ここはいまの警固町ではない。実は天神の警固神社は、いまの城内にあったのを築城のため遷座しているんですね。鴻臚館時代の警固所は城内にありました。また11世紀に、沿海州の女真(じょしん)族、刀伊(とい)が博多に来襲しているんですが、このときの記録からも、鴻臚館は福岡城方面の山地を背にした地だと、考えられるんですね。

万全の論証なんですね。

亀井

説得力があるので、中山説が学界の定説とみとめられたのですね。

鴻臚館は百メートル四方

亀井

九州考古学界の重鎮(じゅうちん)だった鏡山猛先生、あの方は学者ではえらいが、召集された二十四聯隊では、最低の二等兵でした(笑)。弾薬庫の歩哨(ほしょう)にたったとき、銃を片手に鴻臚館の瓦を探されたんだそうです。軍律違反ですよ。それを知った上官の筑紫豊先生、記紀や万葉の研究家で有名な方でしたが、この方は大尉でえらい(笑)。鏡山先生が古瓦を掘り出し、被服廠にもちこんで研究するのを、大目に見られたんだそうです。それが空襲で、滅茶苦茶になったと惜しんでおられました。鏡山先生も中山説を強く支持されていました。(鏡山、筑紫氏ともに故人)

西島

先達(せんだつ)の方の研究には、頭が下がりますね。

亀井

さらに戦後になって、中山説の正しさが出土品から例証されるんです。昭和23年、第3回国体が福岡県開催ときまり、そのとき平和台に総合運動場をつくり、翌24年に平和台球場に改造されます。32年には球場の大改造工事がある。そのときに大量の陶片がでてきました。高野孤鹿氏、大場憲郎氏が3,000点ほどあつめられ、高野さんのは福岡市歴史資料館、大場さんのは九州歴史資料館に保存されています。中山先生はこの陶片に注目され、昭和27年に来福された文化財保護委員の小山冨士夫氏に見せられると、それが中国の越州窯陶磁だということがわかった。その陶片がたくさん出たので、ここが新羅、唐、宋の使節や商人が来泊した鴻臚館にちがいないとなって、中山先生ご健在のときだけに喜ばれたのでしょうね。

その場所に、今度は亀井先生が、鴻臚館の規模を推定されたのですね。

亀井

15年前に出した「鴻臚館の実像」という論文で、私は福岡城の築城前の地形を考えて鴻臚館の規模を推定したのです。貝原益軒の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』に、「城の西の方、むかしは福崎の汀(みぎわ)まで入海有て広き潮入の斤(がた)地なりしを此城に築かる時、是を以て平地とす」と、あります。城の西はすぐ海で、いまの大濠公園はもっと南に入りこんで草ケ江とよばれてたんですね。また「城の北の方、町ある所、又乾(いぬい)(西北)の方、荒戸、諸士の屋敷など、昔は入海の潟也、この城を築きたまいし初め、ようやく海を埋め」とあって、北は潟だったんですね。南は「城の南は赤坂山より本丸の山とつづきて、要害のためあしかりければ山を掘り切て堀とし堀の南の山をならして平にす」と、あります。赤坂から桜坂と続く丘陵だったのを切断し、肥前堀をつくった。この堀を埋めたのが、いまの国体道路です。こうして南は丘陵、北はすぐ海、東は内湾があり、西は草ケ江という限定した地形が浮かんでくるでしょう。

西島

今より、狭かったんですね。

亀井

埋立以前ですからね。それから昭和38~39年、高等裁判所建設にあたり、福岡県教育委員会が発掘調査をしましたが、このとき興味あることが二つみつかったんです。一つは、高裁の予定地と平和台球場の間に幅130メートルの谷があったこと。築城で埋められたが、高裁のところは、昔は島だったんですね。もう一つは、城の本丸で、天主台のところから古墳時代の箱式石棺がでてきた。これは天主台がもとのままの地表だったことを、物語っているんですね。この二つから、築城前は、南の赤坂山から本丸まで丘陵が続き、鴻臚館を建てるにふさわしい平地でないことがわかります。東側の高裁のところは島で駄目。のこるのは、球場の南半分とテニスコートのところになるのです。ここは、東は谷、南は崖、北はすこし先が荒津の海、西は万葉にある「山かげの蝉の声」の丘陵になります。こうして鴻臚館は、球場の南部からテニスコートへかけての東西150メートル、南北300メートルの地形で、建物は方一町、100メートル四方だったろうと推定したんです。

西島

その場所に、ピッタリに遺跡が出てきたんですね。

亀井

いや、その一部が出てきただけです。今後の発掘が楽しみなんですよ。

建物の規模は記録にないのですか。

亀井

建物では「鴻臚北館」が出てきます。天安2年(858年)に、僧円珍が唐の商人李延孝の船で帰国し、鴻臚北館門楼で歓迎宴がもよおされ、唐人が円珍に詩をおくっています。北館に門楼がある大きな建物ということですね。貞観3年(861年)に、李延孝がまたここに泊まっています。鴻臚中島館の記録もあります。貞観11年(869年)に新羅の海賊船がくる。今後の警備に鴻臚中島館を設け大宰府の兵を派遣した。これはさっき申しましたね。

西島

建物は、朱ぬりで……。

亀井

朱ぬりに窓は緑、ギンギラギンだったでしょう。瓦も当時は一色には焼けないのでまだらですね。国威を見せるためにと、門も壮麗に、唐人が目を見張る色彩にしていたでしょう。

西島

目に浮かぶようですね。

北面していた鴻臚館

亀井

面白いのは、鴻臚館が北の海に向かっていたことです。官衙(かんが)や寺は“天子南面す"で、すべて南向きが原則です。法隆寺の南大門がいい例ですね。ところが鴻臚館だけは、渡来使が海からくるので北面していたと考えます。

西島

鴻臚館のところが史跡指定で、ビルも建たず、市有地だから球場になっていてよかったですね。

亀井

ここは鴻臚館だからでなく、史跡福岡城跡で指定になっているんです。あの周辺は球場のとき、国立病院のとき、高裁のときも、文化財関係者は建設に反対したのですが、それぞれの名分もあって、どうにもならなかった。いまのように遺跡への関心が強くなかったこともありますね……。

西島

版築(はんちく)が大きな発見だったそうですが、ハンチクとは……。

亀井

掘っていくと地面の層が違っていた。これは土を固め、締めこむために砂と土を交互に重ねたサンドウィッチ方式で、古墳時代からあるやり方ですが、この版築が出てくると、上に建物があるということになって鴻臚館だと、沸いたわけなんですね。

西島

獣骨などいろいろ出てきて、食物のことも興味深いですね。鴻臚館の役人や客人はどんな日常を……。

亀井

日本人は江戸時代より前は、肉食をさかんにしていたので、不思議ではないんですよ。まして、唐人が客人ですからね。生活の記録は全然ないので分かりませんね。ただ長逗留(ながとうりゅう)の唐人や新羅人でしたから、自然、日中混血の子は多かったでしょう。でも、人種差別なんてない。だいたい国境があるようでないような時代ですから。会話は中国語が多かったでしょうが……。

中国や、朝鮮の文献には……。

亀井

それが全くないんですね。万葉集でも、鴻臚館を詠んでいるのはありません。大伴旅人も山上憶良も、なにものこしていないんですね。

鴻臚館の館長は、外務次官ぐらいの権限はあったのですか。

亀井

いいえ。大宰府の役人の組織表があるんです。51人の役人がのっていますが、鴻臚館担当はいない。大宰府の職制にある蕃客所が、鴻臚館を管轄していたんでしょうね。

折角、鴻臚館がはっきりしたのに、その日常がわからない。残念ですね。

亀井

だから、私たちは今後の発掘で、木簡(もくかん)がでてこないかと願っているんです。中国の地名や人名、何でもいい。文字の資料がほしい。1,200年の間をおいて、鴻臚館が現代の私たちに話しかけてくれないかな……と。

西島

出土品がずいぶんですね。

亀井

ええ、これはすごいんです。新聞にも紹介された越州窯の青磁の碗、あんな見事な出土品は珍しいでしょう。

西島

いまの青磁とは違うんでしょう。

亀井

青磁の最初の頃ですから、黄緑色の肌色ですが、実にいい色です。越州窯は東は日本、西は8世紀にエジプトやヨーロッパまで渡っている。

新の古銭の大銭50も出ましたね。

亀井

あれは紀元9年の鋳造ですから、日本はまだ弥生時代ですね。それが9世紀に出現したわけです。中国人がもってきたんでしょうね。古銭は、唐初のものが、我が国では1400年の室町時代でも通用していましたからね。古銭は輸入品のひとつの目玉だったんですよ。

西島

(せん)(土ヘンに専・甎)というのは……。

亀井

いまの煉瓦の古名です。別名、敷き瓦で床材や壁材に利用しました。これも、模様があればいいんですがね。それに木簡、そして奈良時代の唐三彩がでてくれば言うことありませんね。

御苦労が多いでしょうが、しかし大きなロマンがあるのですね。

亀井

千年前の世界を再現するのですからね。陶片など、掘り出して洗って手にとったときの色の鮮明なこと。眠りから醒め呼吸をはじめた感じで、実にいいんです。しかし、あとでみるとそれほどでない。不思議なんですがね。

会話が終わったからじゃないですか。ガラスがまたすごいんだそうですね。

亀井

瑠璃杯(るりはい)と瑠璃碗(るりわん)ですね。この断片はイスラムでないかと言われ、これまで出土がなかっただけに評判になっているんです。この酒杯にはどんな酒がみたされたのでしょうか……。

陸のシルクロードと対比される海の道を通ってきたんでしょうね。

亀井

ペルシャやイスラム、エジプトから、印度、マラッカ、広州、明州(いまの寧波(ニンポー))、新羅を経て、はるか博多の鴻臚館へ。国際線はここまでで、博多から京都までは国内線。鴻臚館は、世界に向かって大きく手をひろげた文明情報の国際交流センターだったんですね。

西島

鴻臚館と周辺の人たちとの生活ギャップは、大きかったでしょう。

亀井

その頃の人は須恵器や土師(はじ)器で質素な生活をしていて、豪華な鴻臚館の饗宴とは大違いですね。まことに国際交流の別世界だったんですね。

鴻臚館跡は、保存の要請が強く、桑原市長さんもセントラルパーク構想を打ち出され、対応の早さ、見事ですね。

亀井

博物館の計画もあるし、アジア博を目前に、鴻臚館が永い眠りからよみがえったというのは、意義深いですね。歴史の重味を感じましたし、若い少年少女に大きな夢を与えたことでしょう。とにかく福岡の誇りとして、大事に管理しなければなりませんね。とにかく壊滅したと思っていた鴻臚館が、あまり傷をおわないで残っていた。これが発掘の一番大きな成果で、今後の発掘調査がたのしみですね。

どうも、いいお話を、ありがとうございました。