No.45 西南学院の創立者 C・K・ドージャー

対談:昭和62年11月

司会・構成:土居 善胤


お話:
宣教師・西南学院大学講師 ロイス・リネンコール・ホエリー女史(Lois Linnenkohl Whaley)
RKB毎日放送 エグゼクティブ・プロデューサー 木村 栄文氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行副頭取 中 脩治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


27歳で福岡へ

C・K・ドージャー関係略年表

博多の地に私学の雄・西南学院が生まれて70年ですね。この学院をつくられたC・K・ドージャー、この方は非常に人物のはっきりした、理想に燃えた方だったのですね。

木村

お話しいただくロイス先生はもう日本で40年近く宣教と教育に尽くしていらっしゃいますし、『エドウィン・ドージャー(C・K・ドージャーの息子)伝』も書かれた方です。

じゃあロイス先生、ドージャー先生が日本に来られることになった経緯からお願いします。

ホエリー

英語に諺があります。
「EAST IS EAST.WEST IS WEST.AND NEVER THE TWAIN(=TWOの古語) SHALL MEET. 東は東。西は西。その2つは会うことはできない」
現代ではそういうことはありませんが、ドージャー先生の頃は、東と西はとても離れていて、その区別がはっきりとしていました。

木村

明治39年に、そのドージャーさんが27歳のとき福岡に来たわけです。ちょうど日露戦争の翌年ですよね。ロイス先生、あの頃、アメリカ南部のジョージアから日本の九州という島に来るのは、よほどの気構えが必要だったんでしょうね。

ホエリー

その時代には、アメリカの人たちは日本のことをほとんど知りませんでした。しかし、日露戦争で、日本は一躍世界の人々に有名になりました。ドージャー先生は、「日本についてなされることは全東洋についてなされること。急がねば……」と、南部バプテスト教会に熱心に日本布教を申請されとうとう実現なさったんです。

アメリカを出られる時は、日本語はご存じなかったのでしょう。

ホエリー

全然知らなかったでしょう。私も全然知りませんでしたもの(笑)。福岡では家庭教師を頼んで、勉強されました。

木村

日本の生活環境や食べ物に慣れるのには苦労があったでしょうね。

ホエリー

それに、ミセス・ドージャーは、自分の子供をアメリカ人として育てたいでしょうし、慣れない食べ物とか、生活習慣、家のつくりの違いとか、たいへんだったでしょう。

木村

テレビで、「荒野に呼ばわる者-C・K・ドージャーの生涯」を制作したとき(昭和61年RKBテレビ放送)井上精三さんにうかがった話なんですけど、お宅に招かれたらジャガイモばっかりだった、と。宣教師の乏しい給料をやりくりするんですから、モード夫人の写真を見ると、結婚前のふくよかな感じが、頬もそげ落ちたようになっています。

C.K・ドージャー一家

ホエリー

彼女は身体の弱い人でした。1920年頃、アメリカに帰った時に手術をしています。日記を読むと、よくこんなふうに書いてあります。「今日はとても疲れました」「今日はとてもきつい。でもお客様がみえるので、食事をつくらねばなりません」。ドージャー先生もきちんと日記や家計簿をつけていました。仕事が多いので、夜はつかれて眠れなかったそうです。モードも疲れているということを、しきりに書いておられますね。でも、モード夫人はドージャー先生より長生きをなさいました。

木村

90歳まで生きられたんですよね。

しりけつドージャー

木村

私たちのような地元の人間は、博多というと、非常に開放的であかるいというイメージを持っているでしょう。
ところでこれは、江戸時代の初めの話ですが、博多はとても布教が難しかった所だというんです。「西南学院七十年史」に引用してあるんですが、イエズス会の伝道に当たった会員が、「この市は、わが聖教を容るるに付、日本国中の最も頑固なりし所にして、かつて神父ガスパル・ビレラも来たりしが、キリシタンとなりし者、はなはだ少数なりき」と本国に手紙を書いている(笑)。それから約300年経って、このドージャーさんが来たころ、果たして、〝耶蘇″の教えを、地元で素直に受け入れたんでしょうか。

西島

鎖国時代、ずっとキリシタン禁制だったですもんね。布教がむつかしいというのは、博多の人間が、じっと坐って話を聞くような面倒なことが嫌いだったのもあるんじゃないですか。でも、教えはともかく、博多のもんは1度誰かが口を切って友達になれば、今度は、よその土地以上に友達になるという面がありますものね。すぐドージャーさんと仲よしになったんじゃないですか。

木村

子供たちが「しりきれドージャー」とか「しりけつドージャー」とか、はやし言葉を言いながら、ドージャーの後ろについてまわったんだそうです。

「C・K・ドージャー」がなまったわけですね(笑)。

ロイス・リネンコール・ホエリー女史

木村

子供たちに好かれていたんですね。鹿児島寿蔵さんの短歌がありますね。「明治末期この市にはなき自動車(くるま)にて宣教師ドージャー氏来り笑みにき」。この「笑みにき」のところですが、村上寅次先生がおっしゃるように、やわらかいもの、磊落(らいらく)なものをもった人だということでしょう。ドージャーという人の頑固な面をたくさん聞かされてきたんですけど、豪放な、明るい、如才ない面があったということなんですね。たとえば当時の天長節、天皇誕生日の式典にもドージャーはちゃんと出ているんですよ。
酒の席にもつきあっています。おそらく芸者さんもいたと思うんですけれど。酔っぱらった軍人からからまれても、うまくやっているんですよ。意外に世間通の、屈託のない人柄だったと思いますね。

西島

日露戦争のとき、ルーズベルト大統領が非常に親日的だったので、アメリカ人に親近感があったのかもしれませんね。

木村

それもありましょうし、あの方の人間的魅力だったんでしょうね。あのこわい写真の顔からはうかがい知れない面白みがあったんだと思います。
有名な〝ドロボーの話″があります。3人の宣教師がいまして、ドージャーと、J・H・ロウ、この人は、後に西南女学院を創立した人。それからボールデン、この人は後に西南学院の院長になった人。この3人がある集会で同時に居合わせたんです。するとドージャー先生が大きな声で「皆さん用心してください。ここにはドロボーがいます」と。実は種あかしをすると、ドージャーの〝ド″とロウの〝ロ″とボールデンの〝ボ″を一緒にして、〝ドロボー″がいると(笑)。ドージャー一流のギャグですよ。

105名でスタート

中 脩治郎

先生が福岡で中学校をつくられるまでは。

ホエリー

最初、1906年(明治39)に長崎にいらっしゃって、佐世保長崎で布教して福岡へ。1911年にG・W・ボールデンさんと大手門で夜学で神学を教えました。中学校が正式に始まったのは1916年(大正5)だったと思います。その10年の間、何回も本国に手紙を書いて「(学校をつくるための)予算をください」と頼んでいます。

木村

手記でも訴えていますね。
ここ2、3日ほどお金がほしいと思ったことはありません。」給料が乏しいだけでなく、学校経営の資金ぐりがつかず、例えば学校を建てるのにいい土地が見つかったのに惜しい、と繰り返していますね。

西島

ドージャーさんが学校をつくられた目的は。

ホエリー

大きな目的は伝道でした。でも、その時代、福岡には官立の中学校は修猷館が1つあるだけで、多くの人は中学校の教育を受けることができませんでした。ですから、教育と伝道の2つの目的があったと思います。

西島

博多の一般の人々との触れ合いみたいなものは、具体的な例で何かありませんでしたか。

木村

先生は市民の方と親しくしようと、そうとう努力されたに違いないんですけど見つかりませんでした。モード夫人が、福岡の女子教育のために女性を集めて、英語学校や料理学校をひらいている。これも当然宣教と教育のためですよ。

ホエリー

まだ、その時教会の数も少なかったです。自宅を使って宣教していましたね。

ドージャー先生が学校を創立されたときの先生方は。

木村

中学を創立した時に、キリスト教信者で教師をかためようと思っていたでしょうけど、現実に教師の数が足りないわけで、異教徒の先生も入ってるんですね。敬虔なクリスチャンで漢文を教えていた波多野培根も当時の教師の1人です。なかなかユニークな方だったようで、西南の〝あらくれ坊主″どもを、儒学者たちを交えた教授陣がうまく指導していたんでしょうね。

西島

ドージャーさんは何を教えていらっしゃったんでしょうか。

ホエリー

英語を教えたり、聖書を教えたりしましたが、他の科目は日本の先生が教えたと思います。文部省に認められていたので、数学とか化学とか普通の科目も教えていたと思いますね。

西島

中学校ができて、最初の生徒さんは何名くらいでしたか。

ホエリー

105名で始まりました。ドージャー先生の手紙にも、「百名もの学生がこういう学校に入学するということはないと、皆さんが言っていましたけど、105名の学生が入学しました」と喜んでいます。

西島

当時としてはよく集まったのでしょうね。なにかと修猷館と対比されるでしょう。珍しさもあったでしょうね。

ホエリー

キリスト教は「愛・許し・平和」ですね。だから「チャンスのない他の子供たちを助けたい」ということがあったわけです。ですから他の学校を落ちた子供も受け入れました。が、みんな立派な紳士になりましたでしょう(笑)。

木村

そう言われますと、非常に……(笑)。

ホエリー

その学生は、他の学校には入れなかったので、感謝の気持ちでいっぱいで、一生懸命勉強したと思います(笑)。アメリカには特に「LATE BLOOMERS」という言葉があります。「遅れて作られた人間」。アメリカでは1度チャンスを失っても何回も年をとってからでも入学することができます。12歳で落ちた子供も、15歳では喜んで勉強するという考え方が、「LATE BLOOMERS」です。

木村

あの頃、子供たちの入学の記念写真をみると、筒袖に袴でかしこまって写っています。ドージャーさんが喜んでいる手紙がありますけど、予想以上に子供たちが集まったんですね。これから後も入ってくる可能性があると、バプテストの本部の方に書いていますよ。やっぱり、落ちこぼれも結構救ってくれたんじゃないですか(笑)。

ホエリー

このとき南部バプテストに出した手紙は、「非常にすばらしいスタートを切った」という内容です。119名の受験生がいたということで、「もし、入学年齢を15歳に限定しなかったら、受験生は、200名から300名にはなっていたと思います」と書いてあります。さらに、「入学させてくれ」と言ってくる人が毎日後を絶たないと言っています。「15歳を越えた男子を、1日30名から40名断りました」というくだりがありますね。

木村

それから「私は毎朝、チャペルでこの105名の学生を前にして、神の声を伝えています。その他にも正規の授業として、聖書講読を週に1回ずつ各クラスで教えています。聖教者として、これほど恵まれた状態はないと思います。来年以降は、これが300、400名の学生を相手にキリストの教えを伝えることになるのです」と書いてますね。喜びを手紙で表現しているんですよ。彼の魅力のひとつはこうした熱っぽさですね。そして、次に高等学部ができるわけです。

西南よ基督に忠実なれ

「西南よ基督に忠実なれ」が遺された言葉ですね。最初から「西南」だったんでしょうか。

ホエリー

福岡は日本の西南でしたので、そうだと思います。
アメリカでも、有名な学校に「ノース ウエスト」とか「サウス ウエスタン」とかありましたので、アメリカ式に西南としたんでしょう。

ホエリー

北学院や関西学院が、同じミッション系で先にあったんです。それで、西南学院が、日本の西南の部分のミッション系の学校を分担しようということだったんですよ。

創立の資金は、全部アメリカから送ってもらったんですか。

ホエリー

全部アメリカからだと思います。戦後大学を建てた時も、全部アメリカからの資金で建てています。1970年に、バプテスト連盟から自立したいということで、補助は少なくなっていきました。

木村 栄文氏

木村

いまの西南のゆったりしたおおらかなところ、これが、ドージャー先生が持っていた強い信仰のあり方から生まれた、というのが面白いですよ。

「詰め襟で帽子もきちっとかぶって学校に来なさい」というのが官学でしたが、西南には「おまえら、私学の学生らしく、スーツでも着てこい!」と言うような先生がいましたね(笑)。九州でスポーツはなんでも1番だったんです。やはり、建学の精神として、ずっと流れているものがあると思うんです。おそらく、ドージャー先生の頃から受け継がれているんでしょうけどね。

西島

当時、私立の学校をつくるということは大変なことだったと思うんですが、そのことに、博多の人はどんな反応を示したんですか。

木村

たとえば、新聞はベタ記事で、もっとも、当時たいていはベタ記事なんですが、開学の記事がちょっと載っているというぐらいですよね。特別大きく取り上げた様子はない。ただ、当時の福岡県知事が「すばらしいことだ」と言っている。どうも、息子さんがクリスチャンみたいですね(笑)。

日曜日問題で辞任

木村

井上精三さんや伊藤八郎さん、篠原雷次郎さんは西南の高等学部の方々ですね。

西島

皆さん、どなたも博多の文化を語るとき忘れられない人たちですね。

木村

篠原さんたちが裏の松林で煙草を吸っていたところをドージャーさんにみつけられて逃げる。室見まで追ってきて、やっと逃げきったそうです。あの気迫にはまいったと言っておられましたね。

西南学院ができたのは大正5年ですが、どういう人たちがドージャー先生を助けたのですか。

ホエリー

まず斉藤惣一、そして初代院長の條猪之彦先生でしょう。院長は日本人にと先生が言われたのですね。

木村

若い先生では、戦後に福岡県知事をされた杉本勝次先生などがいますね。

條院長が病気になられ、ドージャーさんが止むなく、大正6年に2代目院長になられたのですね。院長はいつまでされたのですか。

木村

昭和4年までですね。

お辞めになったのは学生たちの排斥運動、日曜日問題が発端でしたね。

木村

ええ。野球部の学生に、日曜日は対外試合をしてはならんと言いわたしたのですね。安息日にスポーツをしてはいけない。この教えを日本の、ノンクリスチャンの学生にわからせるのは無理だったでしょうね。

しかもスポーツに強い学校ときていますからね。

木村

ドージャーさんは、あの時まで学内で親近感が保たれていたと思うんですよ。話せばわかるところがこじれてしまったんでしょうね。
あの内村鑑三の息子で、一高の名ピッチャーだった内村祐之という人も、日曜日は投げなかったそうですけど。

学校の規模が大きくなったということもあったでしょうね。

木村

1つはそれだと思います。もう1つは、ドージャーさんの学校の経営方針に、教師間で対立があったんだと思います。その対立が、この〝日曜日問題″という形で尾をひいたんでしょう。それから、ボールデン(次の院長)という人も被害者だったと思いますね。リベラルな教育者だったんですが、ドージャーさんの後を継いで辛い立場に立たされました。

ホエリー

でも、日曜日問題については、アメリカのキリスト教の学校でも同じような問題がありました。C・K・ドージャー先生がいったマーサー大学は、今でも日曜日の対外試合はだめです。
ドージャー先生はキリスト教の信仰の強い土地から日本へ来ましたので、信仰のために小さな掟を守れないということにがっかりされました。
彼は理想的な学校をつくろうとしてきましたが、やはり、地上には理想的なものはないですね(笑)。

それこそ、日本人の理解不足もありますね。たまたま先週ニューヨークヘ行ったんですが、同僚が朝食の時にビールを頼んだら断られた。「日曜(安息日)の朝、酒を飲むとは何事だ」ということですね。教会へ行って帰ってきた人でないと出さないというんです。

ホエリー

ニューヨークでですか?すばらしい!(笑)。

木村

何の傷もないような人よりも、欠点を持っていたであろうドージャーのような人、彼は自分がたくさんの過ちを犯した、と認めているんですが、そういう人間の方が、日本人に限らず人間の心に残る、ということなんでしょうね。
やはり、ドージャーという人物を調べて面白いのは、信仰の厳しさと、慈父の寛容さとの両面ですね。柔軟に対人関係を処理できる人なのに、信仰を譲らないで孤立する。「頑迷固陋(がんめいころう)」ですまされない、彼の面目でしょうね。
例えば現代の有名な科学者の中に、敬虔なクリスチャンや仏教徒がたくさんいますね。宇宙飛行士のジム・アーヴィンがアポロ15号で月を探査した時に、神の存在を直感し、信仰の道に入ってバプテストの牧師になりました。ああいう宇宙科学の先端にいる人の、胸の奥底に生まれた回心の衝動ってもの。ああいう回心に、信仰を持たない私は畏れと魅力を覚えます。ドージャーさんを衝き動かしたものが、ロイス先生をも動かしているのですから。番組でドージャーの足跡を追いながら、その核心の周辺をグルグル回った気がしますね。信仰を持てば核心を描写できるか、っていうと、こりゃ判りませんけど。

南部魂で伝道

木村

ロイス先生、ドージャーさんのバックボーンには、アメリカ南部の気質が加わっていると思うんですが、南部魂を福岡に持ち込んだみたいな。そのあたりの人間像をもっと知りたいんですが。

西島伊三雄氏

ホエリー

もう200年くらい前のことですが、南部は北の方よりずっと立派でした。南部の方に来て大きなプランテーションを作られた方というのは、イギリスのスコットランドの1番上流の方です。もちろん、その大きなプランテーションの仕事には奴隷を使いました。アメリカの北の方に来たのは、ヨーロッパから進出した工場の労働者や、新教の信者でヨーロッパから逃げて来た人たちでした。そして、南部の方がお金持ちでした。けれども、南北戦争で負けたので逆になりました。
〝アメリカの南部″という言い方では、イメージが低いように思えますが、それは逆です。『風と共に去りぬ』という本を読むとわかるでしょう。ドージャー先生はその負けた土地で、1番貧しい時に育てられました。お母さんは熱心なクリスチャンで、平和主義で、クエーカー教徒でした。そして彼を普通の学校には通わせないで、家で自分で教育しました。お父さんは、裁判官であるおじいさんの影響で、厳しい方でした。そういう家庭に育てられて、もちろんプライドは高かったと思います。
今ワシントン州にいらっしゃるチャールズさん、C・K・ドージャーのお孫さんですけど、彼にインタビューしました時、「お父さん(エドウィン、C・K・ドージャーの息子)とおじいさんはよく似ていましたが、1人は日本人で1人はアメリカ人でした」と言っていました。

木村

有田ヒデヨさんという方がおっしゃっていましたが、百道の海岸でドージャーから浸礼(バプテスマ)を受けたというんです。冬ですよ。雪が降っていたそうです。あれは、完全に水に入ってしまうんですよね。
「風邪をひくので嫌だ」と言うと、ドージャーさんが「大丈夫です、風邪などひかない」って。波にさらわれそうになった。それからあがって、雪の降る中を院長の家まで肌襦袢で走ったそうです。モード夫人がお風呂を沸かして待っていて、あったまって、紅茶か何かをいただいたと。

西島

それが浸礼(しんれい)(バプテスマ)ですか。

木村

らしい(笑)。ちょっと水をかけるなんてものではなくて、水につかってしまうんです。つまりバプテストでは、信仰の確信があって初めて信者と認めるわけでしょう。クリスチャンは、幼少時に洗礼を受けることもありますが、そのときは信者である自覚がないともいえるわけです。バプテストの特徴は、確信があって初めて信者になるのであって、幼児洗礼は意味を持たないんですね。やはり、そういう信仰のありかたというのは力強いでしょう。

モード夫人と愛嬢ヘレンさん

ドージャー先生もたいへんでしたが、戦中戦後の先生方もたいへんでしたね。

木村

ドージャーさんは個人的に苦しまれたんですけど。時代とぶつかって苦労されたのは戦争に遭遇された方々でしょう。天皇かイエスかという時代ですからね。そして、その次の時代の息子さんのエドウィン先生は、60年、70年代の学生運動に遭遇。だから、ドージャー先生は、時期としてはいい時代に生きられたという気もしますね。

ホエリー

戦時下の西南では、むしろ残っておられた水町義雄先生や、河野貞幹先生がたが、学校を守らなければならないので、たいへんだったと思います。

西島

何か、エピソードはありませんか。

ホエリー

第1次世界大戦の時、博多で時々パレードがあったんですが、ドージャー先生が馬に乗って兵隊たちと行進されたそうです。
やはり、自動車のあまりない時代に育ったので、馬車とか馬に乗って旅をしたことがあるのでしょう。とても上手に乗ったという記録があります。それから、西新に引っ越してからは交通が不便でしたから、先生はよく自転車で博多まで通ってきたらしいですよ。

木村

先生は、博多弁が結構上手だったと聞きましたが。

ホエリー

ええ、とってもお上手だったそうです。そして、とても冗談がお好きで、おもしろい方だったと思いますね。

木村

奥様のモードさんが、また、たいそう賢夫人だそうですね。ドージャーさんの説教がいいときは、学生たちが「今日は奥様が下書きを書いたのだろう」と噂したということです。夫人に対するみんなの敬意があったんです。

木村さんの作られたテレビ番組で、ドージャーさんのお嬢さんのヘレンさん、今はもうおばあちゃんですが、笑顔が実にいいですね。

木村

実にいいですね。そして「時代が変わっても信仰は変わりません。聖書のやわらかい都合のいいところだけを、とりあげるのはおかしい。神とイエスは常に不変です」とおっしゃる。あの人の考え方というのは、現代の私たちの生き方に対するアンチテーゼを含んでいますから、生き方としては辛いところがあるでしょうが、魅力はありますよね。

彼女のお話を聞いていると、信仰とはそういうものなんだなあと思いますね。

ホエリー

きっと彼女はお母さんよりもお父さんによく似ていただろうと思います。

木村

村上寅次前学長が、番組でヘレンさんがお話しになっているのをご覧になって、画面を指して「ドージャーが生きている」とおっしゃいましたよ。だけど、あそこまで妥協せずに厳しく生きていくのは、現実の生活では、本当に大変だと思いますね。

勇気の人だった

西島

ところで、宣教師の方というのは全然お酒をお飲みにならないんですか。

ホエリー

……記録はあります(爆笑)。
私が日本に来るまでの40年近くアメリカは禁酒令の時代でした。ドージャー先生はその前で、クリスマスプレゼントにアメリカからワインを送ってきたという記録があります(笑)。1921年頃、モード夫人は博多でお酒を売らない運動をしたりしています。困りますか(笑)。

西島

学校と宣教で。ご生活はつつましかったんでしょう。

ホエリー

はい。つつましいご生活でした。お金を作りたいと思っていらっしゃったならば、宣教師にはならなかったでしょう(笑)。先生は大変忙しかったので、あまり遊ぶということもしなかったと思います(笑)。

西島

先生がC・K・ドージャーさんに1番ひかれているのは、どんなところでしょうか。

ホエリー

その時代を考えると、ドージャー先生はそんなに厳しい方ではないと思います。でもやはり、先生の信仰はすばらしいと思います。信仰よりもさらにすばらしいのは、その勇気です。東洋の日本まで伝道にこられた、その勇気と信仰の強さはすばらしい。そういう方はどうしても、時々問題を起こしたりするでしょうけど、パイオニアの時代には、そういう方が必要だったのではないでしょうか。弱い人間では学校はつくれないでしょう。

西島

ドージャーさんは、辞められてからどうされたんですか。

ホエリー

北九州の西南女学院内に移られましたが、1933年(昭和8)5月31日狭心症で、尊い54年の一生を終えられたのです。

木村

遠い異国へ来て、伝道と若い人たちの教育に尽くした、果敢な生涯でしたね。日本人にはちょっと真似ができない。

今日は、人間の生き方についていろいろ考えさせていただき、本当にどうもありがとうございました。

ロイス・リネンコール・ホエリー 女史 略歴

1946(昭21)年 ジョージア州マーサ一大学卒業
1948(昭23)年 南部バプテスト神学校卒業。宣教師として来日
1949(昭24)年 Charles Lloyd Whaley(前西南学院院長)と結婚
1951(昭26)年 西南女学院短大の教授、理事、東京バプテスト神学校教授をへて1987(昭62)年3月まで西南学院大講師
1988(昭63)年 4月夫君とともに帰米。神学関係著書多数
1993(平成5)年 1月逝去

木村栄文氏 略歴

1935年福岡市に生まれる。西南学院大学を卒業後、RKB毎日放送入社。1963年、菊竹六皷を描いたテレビドラマ脚本「風に叛く樹」にて芸術祭奨励賞受賞。
現在エグゼクティブ・プロデューサー。主な作品に「苦海浄土」(芸術祭大賞)「鉛の霧」(放送文化基金大賞)「鳳仙花」(芸術祭大賞)「むかし男ありけり」(同優秀賞)「ふりむけばアリラン峠」(民放連最優秀賞)等多数。著書に『記者ありき六皷菊竹淳の生涯」がある。