No.46 大濠公園

対談:昭和63年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
博多歴史研究家 江頭 光氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 野口 康見

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


万葉時代は草香江の入江

司会

いよいよ大濠公園が池水浄化でよみがえりますね。あのあたりは、万葉集に詠まれているそうですね。

江頭

ええ、大濠公園はその昔は「草香江の入江」と言われていたらしいですね。1,100年ほど前に編まれた万葉集に「草香江之 入江二求食 蘆鶴乃痛多豆多頭思 友無二指天(くさがえの いりえにあさる あしたづの あなたづたづし ともなしにして)(巻第4・575)という歌があります。草香江で友だちのいない鶴が餌を漁っていて、非常に「たづたづし」さびしそうだ、ということです。これは大宰師(だざいのそつ)だった大伴旅人(おおとものたびと)が、任期が終わって都にもどった後、観世音寺の別当だった満誓(まんせい)が送った歌への返歌です。下僚である満誓を友とよんでいるわけで、その点がおもしろい。山上憶良(やまのうえのおくら)も送っていますが、それに対する返歌はありません。

西島

草香江の入江、いまの大濠が出てくるんですね。

江頭

ええ、でも学者の間では、いまの東大阪市に草香江という地名があるので、そこを詠んだという説があるんですが、私は、大濠の草香江の入江だと考えています。

野口

大濠のあたり、東側の平和台のところは今鴻臚館(こうろかん)で沸き立っていますが、1,000年前は外国使節の船がはいってくる入江だったわけですね。

江頭

はい。そのころは草香江の入江がずっと迫っていたんですね。荒津(西公園)沖に着いた大船からハシケなどは行き交ったことでしょう。大きな入江で、広さは今の大濠の2倍以上あったんです。

黒田長政の築城がルーツ

大濠の400年

江頭

それから800年ぐらいたって、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの恩賞で黒田長政が筑前52万石の大守になりますね。長政は大がかりな城をつくるし、福岡の街づくりもしたんですが、このとき幕府に入江の浚渫(しゅんせつ)願いを出して入口を埋め立てました。地行の1番丁から5番丁もこのときの埋め立てで生まれました。黒門川を残して埋め立てて、博多湾と大濠が環流するようにし、元の電車通りのお堀を通って、肥前堀で薬院新川に流れるようにしたわけです。

野口

すると、水はきれいだったんですね。

江頭

水もきれいだったし、舞鶴公園がわの土手の松並木も見事でした。面白いことに、「杉土手」と呼ばせている。攻めてきた敵は、杉土手を目標にやって来ますが、松があるのでそのまま行き過ぎてしまうわけです。300年以上たった松が随分ありましたが、戦時中に次々と伐採されました。輸送船を造るためで、今から考えると、非常に残念ですね。これが、草香江の入江に工事をした最初です。長政は、南当仁にあった父の如水(じょすい)の茶室へ行くのに船で渡り、家中の侍たちも、船を浮かべてよく月見をしたらしいですね。

野口

のどかな風景ですね。

江頭

漁は禁止されていて、鯉、鮒、鯰(なまず)、どじょう、そして鳥では、鶴、鴫(しぎ)、白鷺、そして朱鷺(とき)がいました。これは記録にもありますし、小さい時、あそこで朱鷺の羽根を拾ったという古老の話を聞いたことがあります。明治4年12月に福岡県が誕生するわけですが、その前の7月に福岡藩知事として着任した有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんのう)が大濠で魚釣りを楽しまれ、鮒を5匹、宮様に差し上げたという記録があります。大濠の鮒は大きくて、当時珍重されたんでしょうね。

西島

その頃大濠と言っていたのですか。

江頭

いや、多分「おほり」と呼んでいたんでしょう。明治6年の太政官布告で、それまで荒津山と呼んでいたのを、西公園とすることになりました。その時に大濠は、西公園付属大濠として出てきますね。文献に「大濠」が登場したのは、これが最初だと思います。しかし、長い年月でドブドロが溜まって、明治の末頃は水深50センチくらい、葦が茂って、臭くて、夏はやぶ蚊が多くて困ったそうです。明治43年に電車が走るんですが、夏は日が暮れるとやぶ蚊がワンサと入ってくるので、車内灯を消して走ったそうです。あの辺りは大正の頃まで、あまり人家もありませんでした。赤司広楽園や金魚屋さんも、大正になって移ってきたものです。

杭州の西湖がモデル

野口

大濠公園がいまの形になったのはいつからですか。

江頭

公園として大濠を整備しようということになったのは大正15年で、1月に福岡県が着工しています。このきっかけがおもしろいんですね。最初のプロジェクトは箱崎の「千代の松原」保存だったんです。赤松と黒松2万本の天下の美林だったんですが、これが大正末にばたばたと枯れだしたんです。

西島

当時もマツクイムシか何かですか。

江頭

でしょうね。県は東大駒場農場の林学の権威本多靜六博士を招いて見てもらったんですが、残念ながらもうだめです。その時に博士を西公園へ案内します。西公園は、明治22年に、桜、桃、梅などを植え、愛勝会という育成団体も生まれて、非常によく整備された自慢の公園でした。ところが、本多博士は、西公園から見た大濠の方に、心を動かされたんです。手を入れれば、こちらの方が水の公園としてすばらしいというわけです。福岡だから東洋風がいいと、愛弟子の永見健一という東大の講師に、中国の杭州の西湖をモデルにして、デザインをさせるんです。この人は、後に九州大学の教授になります。西湖を下敷きにしているんですが、最近は福岡の人も姉妹都市のアメリカのオークランドへよく行くので、あそこのメリット湖にそっくりだとも言われてますね。その時、面白いエピソードがありますね。永見さんが、一生懸命デザインした自信案を何度も持っていくんですが、だめ。それではと、10日くらい前に書いた同じ青写真をもう一度持っていったら、博士が「うん、これでよかろう」と言ったという。そういうこともあるんですね(笑)。ただ、公園設置はいまのように緑や、公園が重視されない時代で、冷淡視されていました。そこで、県の方は、物産博覧会実施の動きを何よりのチャンスとして、この大濠を会場にとすすめて公園実現をはかった訳です。

西島

デザインがすばらしいですね。あの中の島も…。

江頭

中国の西湖を模して真中に、柳島、松島、菖蒲島をつくり、その間に観月橋、松月橋、茶村橋、皐月橋(さつき)という橋をかけています。この茶村橋という名は、この工事に非常に力を尽くした柴田善三郎県知事の俳句の雅号の「茶村」から取ったものだそうです。それから途中に浮御堂(うきみどう)がありますね。あれは昭和19年、戦争がきびしくなって、東公園の動物園も猛獣が射殺され閉鎖されました。あそこのオットセイの池にあったのをもって来たものなんです。

公園実現に役立った博覧会

野口

それにしても、当時としては実に大きな構想を立てたものですね。

江頭

スケールが大きいですね。約40万平方メートルを水深2メートルに掘り下げて、その掘った土で周囲を23万平方メートル埋め立てました。ここが東亜勧業博覧会の会場になるのです。博覧会が終わってそのうちの9万9,000平方メートルを宅地分譲しています。これが今の高級住宅地の大濠地区です。今みたいな大型建築機材は一切ありませんから、トロッコと人力で、トロッコが150台、作業員が延べ35万人という大工事でした。

西島

何年かかったんですか。

江頭

えーと、4年ちょっとかかって、完成したのは昭和5年の春3月でした。

西島

工費はいくらくらいかかったのですか。

江頭

45万4,000円でした。宅地分譲で造成費をカバーする計画でしたがこれがうまくいきました。実際に72万円戻ってきたんです。

野口

たいしたものですね。

江頭

この時、後に国の天然記念物に指定されるツクシオオカヤツリが発見されるという副産物もありました。

西島

ちょっと花火のような形の植物ですよね。

江頭

あれは博多では「やぶれがさ」と呼んでますね。そして、39万8,000平方メートルが大濠で、全国屈指の水の公園ができたのです。

西島

その実現に博覧会が役立ったのですね。大濠の工事の途中で博覧会があったんでしたね…。

江頭

はじめは大正16年の3月25日から5月23日までの60日間の予定でした。大正15年の暮れに大正天皇が亡くなられたので、昭和2年になったのですね。東亜ということで、朝鮮、台湾、満州、それから当時の南洋委任統治地が参加しています。この時目標に掲げられたのは「本邦産業貿易の伸長」でした。この博覧会は、第1回目の明治43年の九州・沖縄連合共進会から数えて、福岡市で行われた9回目の博覧会です。福岡市が主催したのは、大正4年に九州・沖縄勧業博というのをやっていますので、これが2回目ですね。

西島

築港博覧会は、その後になるんですか。

江頭

そのきっかけも、昭和2年の東亜勧業博のとき、会期中に開催された全国港湾協会の総会です。この協会は内務省の諮問機関で、重要港湾指定に大きくかかわっていました。重要港湾(2種)は半額を国庫が補助して造るもので、長崎、鹿児島などはすでに指定されていましたが、福岡はまだでした。それで、時実市長が博覧会に事寄せて、全国から関係者1,500人を招き、市政や港の状況を視察してもらって、認可をよろしく、ということだったようです。昭和3年に認可が下り、着工は昭和6年、工費の530万円のうち国庫から231万円を補助。昭和11年に、長浜と昔の中央埠頭が完成して、それを記念して築港博覧会が開かれます。この時がなかったら、今の長浜ラーメンは存在しないわけです(笑)。

旧市内電車の城南線と市内バスが誕生

江頭

東亜博の時の市長は時実秋穂(ときざねあきほ)という人で、岡山県の人です。県知事の柴田善三郎の後を追って、愛媛県から朝鮮総督府、京畿道(朝鮮)の知事などをやってきた人で、柴田知事の強力な推薦で、市長になったんです。そのころ福岡市議会は、政友会と憲政会の激しい政争時代だったんですが、時実さんは、そういう争いに足を取られずに、博覧会と築港という二大目標で、政争のゴタゴタを逸(そ)らしながら、市政をどしどし進めた名市長でした。顎髭(あごひげ)を三角に生やした、やせ型の市長さんで、任期が終わると、岡山に帰っています。福岡市の発展に大きく貢献された忘れられない方ですね。

野口

博覧会の予算はいくらでしたか。

江頭

この東亜勧業博覧会の予算は95万円で、その2年前に開いた熊本博覧会の2倍以上の予算を注ぎ込んでいます。

西島

今だとどれくらいでしょうね。

江頭

64年のよかトピア博覧会の施設予算は151億円だそうです。

西島

ずいぶんにぎやかだったでしょうね。

江頭

博多駅前には大歓迎門、駅前から天神・会場まで街路照明灯やボンボリがつき、市内は花電車でにぎわったそうです。7,000坪の会場の中に、直営館が51棟あって、本館・機械館・電気館といったものもできています。それから自営特設館が142棟あって、これは商品を展示して、その場で契約できる商品見本市としての博覧会でした。鏡とガラスで作った20メートルくらいの水晶塔、初めてのウォーターシュート、それから、中の島の松島に、帝国海軍がドイツ製の探照灯をつけて、これも人気を呼びました。入場料は大人30銭、子供15銭で、夜は大人15銭、子供10銭でした。出品が38万4,573点、入場者数は、福岡市の人口が15万8,594人の時、160万3,472人でした。期間2ヶ月で、たいへんな入場客でした。総経費は102万でしたが、雨が続いて15万3,000円の赤字が出ています。数字から見れば失敗なんですが、大きな成果を残しました。まず、いまはなくなりましたが、50年間市民の足だった電車の城南線ですね。渡辺通1丁目から西新までの電車です。突貫工事で、博覧会の2日目の3月26日に初めて走りました。それと、4月1日から出現した福岡市内バスですね。昭和50年にチンチン電車が廃止されるまで、福岡市の交通はこの体系で続いたのですから、たいへんな成果だったと思いますね。

西島

市民には非常な恩恵でしたね。

江頭

城南線といえば博覧会開催中に、西南耕地組合が薬院、六本松、鳥飼の辺りの397万平方メートルの区画整理を完工していますね。道が田んぼのあぜ道だったり、川に橋がなかったりだったのを区画整理し、整備して、コンクリートや木造を合わせて橋を47も架けたそうです。時実さんの前の久世庸夫(くぜつねお)市長が自ら組合長になって推進しました。だからこのあたりは縦・横に道が連なって、わりと整然としています。旧城南線の道路が幅18~21メートルに整備されたのもこの時です。特に桜坂のあたりは、岩盤が堅くて、ものすごい難工事でした。当時のツルハシでは無理で、最新鋭の削岩機などをもってきて苦労したそうです。そうして、電車が走ったんです。その頃はまだ、渡辺通りなどは畑が残っていました。福岡が、西に伸びていく、という方向が、このあたりからみられるわけです。

練兵場と気象台 簡易保険局

西島

大濠公園というと、隣の24連隊が浮かびますね。城内練兵場と城外練兵場がありました。大濠公園東側の道路を越えて松の生えている土手の東側が城内練兵場で、あの土手から西側が城外練兵場で、いつも兵隊の訓練をしていました。私たちが小学生の時、城外練兵場の塹壕(ざんごう)でよく鬼ごっこをしたのを覚えています。

江頭

博多芸者の大御所(前博多検番理事長)の中野ともえさんのお話では昭和2年ころ、博多に検番が4つあって、東亜博のとき演芸舞台で踊ったそうです。練兵場を通り抜けると近いので、通してもらったんですが、兵隊さんが手を振って喜んだそうです。そのうちに禁止されたそうですが…(笑)。

西島

大濠へ行くとき私たちは電車で、「上の橋」で降りていましたね。上の橋が今の裁判所のある所で、下の橋が汐見櫓(しおみやぐら)のある所だったと思います。でも私たちの子供の頃、大濠は遠かったですね。遠足に行くような感じでしたね。

江頭

昭和20年代の中頃まで、博多の人はあまり福岡には行かなかったですよ。下駄や草履履きで、博多部中心に暮らしていました。私のところに電話がかかってきて、「もしもし、江頭さん、今日福岡へ行くけん、新聞社に寄るばい」っていうくらいでした。(笑)。

西島

そういえば大濠の南の気象台も懐かしい。子供の頃、しゃもじ形の風速計が珍しくて、風で動くのをずっと下から見ていたんです。

江頭

あれは昭和5年に博覧会の跡地にできました。その頃飛行機が発達してきたので、上空の気象を観察する必要に迫られて、文部省が設置したんです。当時は管轄が文部省でした。名島の福岡飛行場に、昭和5年8月から気象台分室ができ、昭和6年の3月には大濠に移り開庁しています。福岡県の福岡測候所も隣接してでき、この2つが昭和14年11月に国営になって1本化し、福岡管区気象台になったわけです。

野口

簡易保険局も、博覧会の跡地にできたのでしょう。

江頭

昭和9年3月でしたね。

西島

戦後はアメリカが接収して、陸軍病院にしましたね。

江頭

この簡易保険局は、当時九州・沖縄はじめ、台湾・南洋群島・関東州(遼東半島)まで管内にもっていました。局員が1,100人いて、西日本一の大官庁でした。福岡との誘致合戦で、当初は九州逓信局のあった熊本が有力と言われていたんです。この時の逓信次官が福岡出身の中野正剛さんで、各地から出願書類が回されると先生が大きな字で「福岡」と書かれたということです。だから、あれは中野さんが残してくれたと言えるわけです。

大濠の周辺

西島

気象台の横の県営プールにも、よく泳ぎに行きましたね。安かったですよ。1銭か2銭ぐらいでした。多分、今の日本庭園ができているあたりだったと思います。美術館の付近は広っぱでしたね。

江頭

プールは昭和2年10月に完成。プール開きには県内中学18校が参加するという盛大さだったらしいですよ。

西島

大濠に民家ができたのは、いまアメリカ領事館のある西側の方が先だったんですね。福岡相互銀行の創立者の四島一二三さんも戦前はここに住んでおられたそうですね。

江頭

そうそう、そして一二三会長が終戦直後、公園の空地で野菜作りをしていたということですね。亡くなられたハニーおたふく綿社長の原田憲明さんが子供の頃「あのおじいさんはこんなところで、骨折ってナスやカボチャなんかつくっているが、盗られるかもしれないのに、どうしてあんなに熱心なのだろう」というと、父親の原田平五郎さんが「あの姿が尊いんだ。人から盗られるかもしれないけれども、夫婦で来て黙々と畑仕事をしている姿を、おまえは覚えておけ」と教えられたそうです。

野口

大濠公園というと、花火を思い出すんですが、あれはいつごろから始まったのでしょうか。

江頭

あれは戦後で、昭和25年から西日本新聞の主催ですね。

西島

それからあの汐見櫓はあそこに元からあったんじゃないですね。

江頭

黒田別邸(中央区舞鶴1)にあったのを戦後に移したんです。

野口

美術館とか日本庭園とかいろいろありますが、案外人に知られていないというところはありませんか。

西島

平和台の競技場の、出口の所の右側に、大きな藤棚牡丹園がありますね。あれは前の進藤市長さんの時、植えられたのですが、案外知られていませんね。

江頭

舞鶴公園の梅園が見事ですね。ここの桜がまたすごいでしょう、それから菖蒲牡丹ですね。

西島

そばの護国神社はいつできたんでしたかね。

江頭

あれは昭和18年に、靖国神社的なものを、全県に配置するということでできたんです。

野口

あそこは、福岡の平地では一番立派な森でしょうね。40年たってますが、昔の練兵場のままの木も残っているんですね。

江頭

県内各地から献木もさかんに行われたようです。それにあの神社は護国神社形式の中でも、特に設計が素晴らしいですね。

西島

お盆の時の燈籠祭りはすごいですね。あまり知られていないですが。

野口

われわれの年代にとっては、大濠公園がデートの場所でしたね。ボートもあって…。

江頭

昭和6、7年くらいまで、園遊会もよく行われていました。野外パーティですね。イタリア使節団が来た時も、大濠で園遊会が行われました。団長はバウリッチ侯爵でしたが、接待の芸者さんが400人だったそうです。

野口

先生は、代々のアメリカ領事とご親密ですね。あの人たちは大濠公園をどう思っているんでしょうか。

西島

領事館は公園のそばですね。代々の領事さんがみな素晴らしいと言っています。特に博多にとけこんだ髭(ひげ)リチャードソンさんは、絶賛していました。文化センターのリン・ハートさんも毎朝ジョギングしていましたね。

江頭

ジョギングする人は多いですよね。ちょうど1周すると2キロだから。

みんなできれいな大濠に

西島

あの浄化ですが、何回も何回も懸案になって、今度やっと博覧会だから、ということで始まりましたけど、あれは一度水を干すんですかね。

江頭

水が30万トンだそうですが、あれを排水して、ヘドロを干し、凝固剤をまいて固めてしまう。池の中に大きな穴を掘って、その中にヘドロを埋めてしまう。その上に厚く砂をかけ、雨水、地下水、海水を3分の1ずつ注水して、水のきれいな大濠にするのだそうです。来年、64年の春、大濠が甦るんですね。

西島

魚も10万匹ですか、筑後川に移したり、大変でしたね。ボラなんかは。

江頭

海水が入らないので、鮒などの淡水魚だけだったそうです。雷魚なんか、わりと大きいのもいたんですね。

西島

水がきれいになると魚も喜びますね。

江頭

ヘドロは深いところは1メートル、平均30センチぐらいたまって水がどんよりしていましたから魚も喜びますよ。

西島

どうして、そんなにきたなくなったのですか。

江頭

江戸時代は水路がつづいていて環流していたんです。貝原益軒(かいばらえきけん)筑前國続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)では海の魚が泳いでいると記しています。明治から何度も水路を埋めたてて、水がよどんでしまったからですね。藻のような植物性プランクトンが発生し、次々沈殿してヘドロになったんだそうです。今度の大工事まで、60年間浚渫していません。毎年すこしずつしていくといいのでしょうね。

野口

総予算は62年の調査から63年の竣工にかけて約12億円だそうです。水清き大濠を見られるとは嬉しいですね。ところで、大濠公園は県の管轄なんですが、ご存じでしたか。

西島

はい。そして利用するのはほとんど福岡市民。ややこしいですね(笑)。県と市が協調するほうがいいんじゃないでしょうか。

江頭

池水が浄化されるのは結構ですが、将来も美しく、ということが大切ですね。今、地元の人が、もう少し大濠を盛んにしようと、「おおほりまつり」というのをやっています。毎年秋分の日に、「黒田25騎」に扮(ふん)したり、「荒津の舞」などとにぎやかですね。

西島

亀井さんの時「大濠公園を美しくする会」の運動が起こり、私も県の観光課に頼まれて手拭いのデザインをしたりしました。地元の人たちが、力を合わせて大濠公園をきれいにするということは嬉しいですね。

江頭

それと同時に大濠を訪ねる市民一人一人が、きれいにしようと心がけることでしょうね。

司会

どうもそこらへんが結論のようで、ありがとうございました。

  1. 大濠公園 能楽堂 TEL715-2155
    • 昭和61年3月竣工。客席590名。
  2. 西公園
    • 光雲神社、展望台、春の桜の名所。
  3. 福岡県簡易保険局 TEL715-2260
    • 簡易保険、郵便年金の締結と支払の審査ほか。
  4. 国立福岡中央病院 TEL714-0151
    • 昭和38年2月開院。収容540名。 
  5. 福岡ドーム TEL847-1006 
    • 収容人員 野球48,000名イベント52,000名 開閉式ドーム。
  6. 福岡タワー TEL823-0234
    • 地上234mと海浜タワーとしては日本一。
  7. 福岡市美術館 TEL714-6051
    • 設計 前川国男氏 昭和54年11月開館
    • 常設展示-黒田記念室、松永記念館室、東光院仏教美術室、郷土出身作家洋画室、モダンアート室、日本画工芸室ほか

      ※国宝の金印、母里太兵衛の名槍日本号、ジョアン・ミロの名作「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」ほか、内外の名品を所蔵。

  8. 舞鶴城
    • 光雲神社、展望台、春の桜の名所。
  9. NHK福岡放送局 TEL724-2800
    • 平成4年11月竣工。
    • 大濠公園50周年記念に昭和59年5月開園。
  10. 大濠公園日本庭園 TEL741-8377
    • 1.2ヘクタールの敷地につくられた築山林泉廻遊式庭園、滝が流れ、池等を配し茶室、茶会館をそなえている。
  11. 福岡武道館 TEL714-1900
    • 昭和59年9月開館。柔道、剣道、弓道、相撲場の設備がある。個人利用もできる。
  12. 福岡管区気象台 TEL741-0631
    • 昭和5年大濠に中央気象台福岡支台設置。
    • 天気予報を1日6回、ほかに各種情報を発表。