No.47 中世の博多商人

対談:昭和63年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
専修大学文学部教授 亀井 明徳氏
聞き手:
福岡シティ銀行副頭取 井上 雄介

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


アジアと結ぶ博多

司会

博多は商人の町ですが、どうも、秀吉から家康の頃に活躍した※島井宗室(しまいそうしつ)、※神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗伯(おおがそうはく)の三傑以前は、よく知られていませんね。

※本シリーズNo.3『博多の豪商』参照

亀井

今日のテーマはその知られていない時代の中世の博多商人ですね(笑)。
中世というと平安時代の終わりから鎌倉時代の頃、中国では南宋からその次のの時代にあたります。西暦では、11世紀頃から14世紀頃で、韓国は高麗(こうらい)の時代です。

井上

平清盛(たいらのきよもり)[元永元年(1118)~養和元年(1181)]とか、蒙古のジンギス・カン(1162~1227)の頃ですね。その頃の博多は、福岡の歴史の中でも輝いている時代のようですね。

亀井

全く同感です。博多の町が輝かしい時代はいつだったか、特定は難しいのですが、古くは、まず金印の時代、弥生時代ですね。それから2番めは鴻臚館(こうろかん)の時代、これが平安時代の終わりぐらいまで。
それから約300年を経て、豊臣秀吉が島津征伐にきて博多復興の町割をした時代、つまり博多の豪商たちが活躍した時代ということになると思います。
その鴻臚館と秀吉の間に入っている中世という時代に最近光があたってきてました。出土品からみてもなかなかの時代だったことが推測されてます。国際商業都市として輝かしい時代だったと思いますね。

井上

逆に、秀吉のあとは徳川時代の鎖国政策でぱっとしなくなって。
最近、また東南アジアの時代で、博多商人が復活しつつあるような感じがしますけども。

亀井

アジアと結ぼうといういまの博多の方向性は、過去から照らしてみると、非常に正しいと思うんですよ。

博多商人の登場

博多商人の登場

亀井

それで、最初に中世の博多商人がどのように登場してくるかを簡単に話しましょう。
奈良時代から平安時代にかけて、鴻臚館の時代[持統2年(688)~寛治5年(1091)]があり、主として中国との交易をしていました。
そのシステムは、ひと口で言えば国家管理の「官貿易」でした。原則として国が先に買いつけて、その残り物を商人が売買するのです。

井上

それは意外ですね。

亀井

国、つまり出先の大宰府政庁が最初に買いつけて、大和朝廷の用にあてますが、それをさらに官市場、つまり国営市場で売って儲けている。それに当然、入国税や関税も中国商人から取っていました。
システムがとても複雑で、しかも鴻臚館は出先機関で、都は平安京ですから、連絡の日数がかかって大変だったのです。その間中国の商人たちは、長い場合は6ヶ月間も、ずっと待たされていたわけで、しかも鴻臚館から出ることは禁止されていました。
彼等は早く取引をすませて帰国して次に備えたい。そこで、次第に民間人が中国の商人と直接に取引するようになったのです。
どうも国の方にはうまくごまかしてやっていたんですね。国の権力が強い時代でしたら、すぐ断罪されるでしょうが、平安時代の末期になると、貴族の荘園が増大し、天慶2年から4年(939~941)にかけて平将門(たいらのまさかど)の乱や藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱などが起こって、大和朝廷の力が地方までは及ばない状態になりつつありました。
その不正ということから、博多の町の話に入るんですが、どうも、それを最初にやったのは大宰府の役人ということのようです。

井上

それはなかなか……。

亀井

つまり、商品リストと現物とをチェックするわけですが、隠しリストを黙認するんですね。

井上

なるほど、ウラ帳簿ですね(笑)。

亀井

だから、役人に賄賂を送って、うまくはからってもらったり、またその役人が、検査担当の別の役人に賄賂を贈って見逃してもらったり……、それを推察できる史料もありますよ。

井上

その頃から。やれやれですね(笑)。

亀井

皮肉な話もたくさん残っています。たとえば、平安末期に学者として有名な大江匡房(おおえのまさふさ)[長久2年(1041)~天永2年(1111)]が、大宰府の長官になっています。清廉潔白という評判でしたが、任期を終えて京に戻る時、船2隻をしたてて引越し荷物をはこばせた。
この時、「正義の方法で手に入れた荷物」を積んだ船と「非道で得た物」を積んだ船とに分けた、と『今昔物語』に書かれています。ところが、正義の物を積んだ方が沈没して、難波の港についたのは非道の船の方だった(笑)。

井上

大宰府に赴任した役人は、莫大な財産をためて都に戻ったようですね。

亀井

こうして官貿易のシステムが崩れてきて、中国商人も次第に鴻臚館の外に居住するようになる。そうしてだいたい西暦1000年代の中頃に、東の博多部に市の中心が移っています。

井上

鴻臚館の役目が終わる頃ですね。

亀井

そうですね。博多が商業都市として勃興し始めたのですね。大宰府政庁の力が弱くなっていて、取り締まることはもうできなかったのでしょうね。

井上

おおもとの平安朝の力も弱っていて……。

つぎつぎと交易の遺物の出土

井上 雄介

亀井

そうした交易の変遷は、出土品の陶磁器からも推測できるのです。
地下鉄(昭和50年着手)をつくる時に、建設地を福岡市が発掘調査しました。西新から貫線を通って、博多駅までですね。私ども考古学者から見れば、従来全く調査ができなかったところで、福岡市を東西に掘ってくれたありがたい発掘でした。そしていくつかの遺跡が発見されたのです。
鴻臚館の前の電車通りの堀端から、福岡城の外堀の石垣が出てきました。天神と博多駅前からは何も出なかったが、川端から呉服町、祗園町までは、中世の遺物が点々と出てきました。

井上

地下鉄も博多学に思わぬ貢献を……。

亀井

大博通りの拡張工事でおこなった発掘調査でも、大量の中国の陶磁器がでてきました。地下鉄祗園町駅の西側の出口で井戸が見つかったのです。
中世に作られていたごく簡単な構造で、深さが1メートルくらい残っていました。その中から中国の青磁の完形品が350個も1度に出てきたので驚きました。ちょっと火災にあったのか、焼けて溶けたような跡がありましたが、割れていない完形品です。
これは多分、軒を並べていた焼物問屋が、何らかの災害にあって、焼物が井戸の中に投げ込まれたのではないかと思います。
それから冷泉公園寄りの発掘では白磁の破片が山盛りになって出てきました。こんなことは滅多にないんです。あたかも焼物屋の棚がひっくり返ったようだ、と報告されています。
そうした例が祗園町、呉服町、冷泉町、川端あたりに集中しています。これがだいたい鴻臚館が終わろうという1100年くらい、平安時代から鎌倉時代に入る頃です。

井上

日宋貿易の活況の証しですね。

亀井

その証しがすごい。たとえば大消費地の平安京、あそこの遺跡発掘で、小さな「パンコンテナ」という箱、それで20箱くらい中国陶磁が出れば、多いなという感じなんです。それが、博多では同じ規模の遺跡の発掘で200箱は出るというくらい大量なんです。
これは、博多が、日本における中国の品物、当時は唐物(からもの)と呼んでいましたが、その第1基地になっていた証拠ですね。そして、ここから全国にさばかれていたんでしょうね。

井上

中国の船が直接に瀬戸内海を難波(なにわ)まで行くことはなかったのですか。

亀井

少なかったと思います。それで、平清盛は兵庫県の大輪田(おおわだ)の(とまり)をつくっているんです。当時の難波は港としてあまり良くなかったのでしょう。だから、ほとんどの船が博多どまりだったんだと思います。

井上

それだけ博多が、日宋貿易の受け皿としてでき上がっていた、ということですね。

亀井

そうです。当時の中国船は、密貿易以外は全部、上海の南にある寧波(ニンポウ)、昔の明州から、ちゃんと関税も支払って出航しているんです。
(960~1127)は北方民族のうちたてたに揚子江から北を奪われ、江南にうつって南宋(1127~1279)として細々とやっているわけですよ。それで、貿易振興に活路を求めたようです。国家財政が逼迫していて、日宋貿易はなによりの財源だったんですね。
中国船は寧波の港を出て、東シナ海を一気に突っ走って博多に入りました。日本側は、検疫をきちんとやっていたようです。記録によくでてくる場所は、能古島の沖とか、志賀島の前の海で、多分その中間くらいに停船させて、厳しく検疫したようですね。
奈良時代に天然痘が入ってきて、博多から都へ広がって、朝廷の有力者が次々と死にました。博多でシャットアウトしろと厳命されていたんでしょうね。それから税関のようなところを通って、博多で交易をしていたんでしょうね。

中国留学生のスポンサー謝国明

亀井 明徳氏

井上

その頃活躍した博多の商人はどういう人たちだったのでしょう。

亀井

どうも私は、商業の主導権を握っていたのは中国の商人だと思います。当時は宋人ですが、彼らだけが独占的に貿易をしていたのではなくて、宋人と日本人が混在して交易をして町を形成していた、ということです。
後の中華街とか唐人街とかいうのは、中国人だけが集中して住んでいる街のことですが、そうではなく、当時は日本人と混ざって住んでいて、主導権は中国人が握っていたのではないかと思います。
承徳元年(1097)に、大宰府の長官が亡くなったんですね。その時の葬儀の記録に「博多にはべりける唐人ども、あまた詣で来て弔ひける」とあります。
それから、その少し後の時代に、大宰府の役人が率いる軍兵が箱崎の町を襲って、宋人の王昇の後家以下千六百余家の資財を奪うという事件が起きています。つまり王昇という商人の後家さんが箱崎に住んでいて、おそらく貿易をやっていたのでしょう。
それ以下「千六百余」がすべて中国人かどうかはわかりませんが、これは多分貿易上の争いか何かが起こったんだと思います。ですから、この当時箱崎周辺にも、相当たくさんの中国商人がいたということでしょう。

井上

その中で有名な人は?

亀井

それは謝国明(しゃこくめい)ですね。博多の承天寺(じょうてんじ)をつくった有名な人です。彼は豪商で、承天寺の建築費から、維持費まで、さらにお坊さんを呼んだり、中国に留学させたり、一切の費用を負担したといいます。つまり大スポンサーでしょうね。
彼は、大宰府の長官はじめ有力者と密接な関係を結び、宗像宮(むなかたぐう)とも姻戚関係を結んでいたようです。
宋と貿易をしていたのは荘園の有力者で、宗像宮もしていたようです。当時博多湾ぞいで荘園をもっていたのは寺社が多いんですよ。筥崎宮も、太宰府天満宮も、当時は安楽寺といったんですが、それから宇佐八幡宮、九州の寺社で日宋貿易をしていた大手はこの3つでした。
でも地元は弱いんですよ。京都からやってくる大手の寺社に負けてしまう。石清水(いわしみず)八幡宮仁和寺(にんなじ)ですね。石清水八幡宮は、筥崎宮と提携して貿易拠点を持っていました。地場の有力な寺社が京都の寺社と結んでいたわけです。仁和寺は西の今津のあたりに貿易港をつくっています。
お宮やお寺がそれぞれ荘園を経営していて、それがみな博多湾に面していたんです。

井上

昔もいろいろと系列があったわけですね(笑)。
そういえば、言葉は……。日本語を使っていたんでしょうか。

亀井

そこが問題だと思います。当然、中国の人は日本語ができません。中国商人にとっては言葉と信用取引が重要問題でした。荷物を渡して、決済は次に来た時ということを平気でやっています。そうなると、信用できる人を確保しておく必要があるわけですね。
で、どうするかというと、やはり1番信用できるのは「奥さん」です。それで、中国の商人はまず例外なく日本人の現地妻をめとっています。言葉も覚えて通訳の役目も果たしますし、生まれた子供は日中混血で、両国語を話せて頼みになる、という考えだったでしょうね。
それから、中国商人は日本名まで持っていました。たとえば、有名な人で、筥崎八幡宮に所属して「寄人(よりうど)」と呼ばれる一群の人がいました。その1人が張英(ちょうえい)で、この人の日本名は「鳥飼二郎」でした。多分、福岡市の鳥飼のあたりに住んでいたのでしょうね。

井上

謝国明も日本名をつけていましたか。

亀井

「謝太郎」といってますね。おもしろいのは、彼が亡くなったあと、その後家さん、多分日本人だと思いますが、その人が宗像宮と喧嘩をしているんです。この人は後家尼と書かれていますから、頭をまるめていますね。それから遺児とありますので、子供はいたようです。
博多湾の小呂島(おろのしま)を謝国明の所有地だと主張、宗像宮は、あれは元々こちらの土地だ、ということで、裁判にまでなっています。
鎌倉幕府の頃で、鎌倉まで行って訴えている。結末がはっきりしないのですが、多分宗像宮の勝ちではないでしょうか。

井上

謝国明はいつ頃の人ですか。

亀井

彼が亡くなったのが建長4年(1252)といいますから、もう北条氏の時代に入っていますね。

井上

謝国明を祀(まつ)った遺跡や遺物は。

亀井

承天寺に大きな楠の木があって、謝国明が植えたといいますね。JRの博多駅から三笠橋へ向かって左手の小さな公園に「謝国明の墓」と記してありますね。
彼は、困っている人たちを境内に集めて、うどんを食べさせたということです。博多のうどんはそんな古い時代からのものなんですね。うどんも元々中国ですからね。

いいところを吸収した博多文化

井上

博多はいろいろルーツが多いでしょう。

亀井

お茶饅頭もそうですね。それにしても、中国の商人は日本の風俗習慣の中に、深く入りこんでいますね。
そのいい例に篠栗の若杉山のふもとの佐谷(さたに)で発見された経塚があります。当時、末法思想で、お経を筆写して、銅の筒に入れ、地面に埋めるという風習があって、それを経塚というんです。
その経塚が佐谷でたくさん発見されたんですが、その中に宋人馮栄(ひょうえい)と彫りつけたものがありました。末法思想は日本だけで、中国にも朝鮮にもない。しかも、写経して地中に埋める風習は日本にしかありません。そこにまで彼らは登場しているわけで、宗教面でも日本に溶(と)けこんでいるんですね。

井上

世界中にチャイナタウンがあって、中国の人たちは、世界各国に土着している、そこがすごいですね。

亀井

その当時の中国でも、中国商人が海外に出て行って戻って来ないのを、困った問題だと言っているんです。南宋の時代から海外に進出しているわけで、博多に来る人などは一部ですから、中国商人は東南アジアの各国にたくさんいたということです。
ところが鎌倉時代の終わり頃になると、それまで盛んに出てきた中国の商人の名前、馮栄とか謝国明とかいう名が、資料からスーッと消えてしまうんです。
うまく説明できないのですが、混血が進んで「鳥飼二郎」のように日本名を使って日本人社会に溶けこんでしまったのか、あるいは何らかの理由で、日本に住みつけなくなったんでしょうね。

井上

それは※元寇が原因になっているのではありませんか?

※文永の役(えき)1274年・弘安の役1281年

亀井

元寇の時代も民間商人の交易は変わらずしたたかに行われているんですよ。その後、急速に中国人の名前がすーっと消えてしまっている。

井上

元寇のあとで、中国人たちが中国名では住みづらいということも(笑)。

亀井

どうでしょうか。当たっているかもしれませんよ(笑)。
現在、アジア全体を見てみますと、中国の人が大きな力を持っていますね。代表的なのはシンガポールです。誤解を招くといけないんですが、華僑社会という言い方がありますね。華僑がいろんな意味で、実質的な力をもっている社会です。日本の場合は、そういう社会ではないんですよ。
鎌倉時代、1300年頃までは中国の商人が博多でたいへんな力を持っていた。ところが、その後はふるわない。同じアジアの中で、一方では大きな力を持ち、一方では同じ経緯の後に、違った道をたどっている。まことに不思議に感じますね。

井上

そこに日本の特長や強みがあるのかもしれませんね。日本の文化は、いつも一時的には外からの影響を受けて変わるんですが、いつのまにかそれを飲み込んで、日本風にしてしまうというところがあります。

亀井

何世代かのうちに完全に吸収・同化・合併したという感じですね(笑)。

井上

近くは明治維新の時、文明開化で欧米一色でしたが、いつのまにか、日本は日本ということになっていますからね。
東京と地方にしても、福岡とか札幌とかいう場所は、東京の出先機関を大事にするんですね。でも、なんでも迎合して中央スタイルかというと、そうではない。根っこの部分は博多で変わらないんですね。いつのまにかいいところだけ取って、博多文化をつくってしまう。昔からそういう気質なんでしょうね。

景徳鎮と伊万里

亀井

そうでしょうね。私は中国の焼物が専門なんですが、焼物の染付(そめつけ)は、元来は中国から輸入されていたんですね。日本で作ろうとしてもなかなか成功しない、それがある時点で技術的に成功して、有田で作り始めるとたちまち中国を追い越して、イマリ(伊万里)が世界の商品になるわけですね。

井上

それじゃ、最近も全く同じことをしているわけですね(笑)。戦後の「安かろう悪かろう」だったのが、いつのまにか先進技術を取り込んで、アメリカを追いこしてしまった。
これも伝統なんじゃないですか。東南アジアのNIES諸国が、日本と同じことをしているわけですね。

亀井

そうでしょうね。焼物では圧倒的に中国が優勢だったんですが、1600年くらいに逆転しましたね。

井上

追い抜くまでに、どれくらい時間がかかったんでしょうね。

亀井

それはもう中国の歴史の長さを考えると、とてつもない時間ですよ。中国の焼物の起源が紀元前2000年くらいかな。そうすると3600年ぐらいかかっている。

井上

そうすると追い抜いてからせいぜい400年ですか。でも、宋や元のあの心をひきこまれる青磁の色、どうしてもかなわない色があるようですね。

亀井

中国の焼物には、色合いと形が最高度に達したいくつかの完成期があって、一例が宋の時代の青磁ですね。それは今の中国はもちろん、世界中がかかっても真似ができませんね。
焼物は人間がいくら工夫をつくしても、あとは火に任せる以外にない。考えられないような優品がときにできる……。珍重される窯変の天目茶碗なんかもそうですね。

井上

そうした1番の優品を、スポンサーの王朝が取り上げていたんでしょうね。

亀井

ええ、官窯といって、宮廷で使うものだけを作っている工房があって、そこでいいものを作らせていたんです。
ただ、その技術が、どうしたわけか、多分清の時代に消えたのですね。それをもう1度取り戻そうと、江西省北東部のかつて官窯で栄えた景徳鎮(けいとくちん)などがやり始めています。

井上

ところで、韓国の焼物はどうだったんでしょうか。

亀井

韓国の焼物は、高麗青磁ですが、日本からはあまり出土していません。中国が、安くていい焼物を作って、市場で高麗青磁に勝っていたのでしょう。
割合は、中国95パーセント、高麗青磁5パーセントくらいです。しかし近世になると李朝の焼物が名品として、お茶の世界で尊重されましたね。

清盛がつくった袖の湊

井上

ところで、謝国明など中国商人に対抗する日本側の商人は……。

亀井

宋金という人がいます。1400年代の人で、博多の豪商の草分けですね。しかし、この人にしても、せいぜい5、600年前の人なのに、あまり事績がはっきりしていない。中央の文献に博多の名はちょくちょく出てきますが、人の名前は出てきませんね。

井上

政治家とか武将でないと歴史に残らない。商人はなかなか登場してこないのですね。島井宗室や神屋宗湛の登場まで豪商が記録されていないのです。

亀井

江戸時代直前、信長秀吉の時代ですね。彼らにしても、信長や秀吉という最高権力者にかかわったから、歴史に残ったのでしょうね。

井上

ところで中国商人たちは、誰が保護をしたのですか。今と違って、領事館があったわけではないでしょうし。

亀井

彼らは南の福建とか広東の人が多いんですよ。当時の中国は宋ですが、国の援助はおそらくゼロで、全く独自にやっていたようです。

井上

中国からのもので、日本で珍重されたものは。

亀井

実用的な面では薬ですね。当時は「香薬」ですが、これが1番必要とされたでしょう。今の漢方薬ですね。『徒然草(つれづれぐさ)』を書いた吉田兼好。ちょっとつむじの曲がった人ですが、あの人が日宋貿易について嘆いているんです。
要するに、中国からくるものはみんな「奢侈品(しゃしひん)」(ぜいたく品)だ。だから、薬を除いて中国との交易はするべきではない、と……。

井上

美術品はどうですか。

亀井

仏像や絵画、そして経典が入っていますね。ごく一部の人たちでしょうが、仏典の解釈書なども求めています。
その交渉で、日本のお坊さんは中国語のできない人が多くて、筆談ですましているようですね。

井上

当時の日本では、博多が1番の国際港ですね。他はどうだったんでしょうか。

亀井

貿易で繁栄していたのはこの博多と坊津(ぼうのつ)です。それから平戸がそろそろ出てきていますね。東へいくと、赤間の関で、これは下関です。それから広島では福山のところに草戸という町があって、その港で(とも)の浦がありました。それから難波(なにわ)、このあたりでしょうか。貿易で栄えていたのは。

井上

ところで、鎌倉時代の博多の海岸線はどこらへんでしょうか。

亀井

それは難しい問題です。だいたいで言いますと、今の昭和通りと長浜通りとの中間というところでしょうね。7、800年の間にいまはすっかり埋めたてられています。
少し前に、日本通運が呉服町の角にビルを建てましたね。あそこの下から、3メートルぐらいの碇石(いかりいし)がでてきたのです。鎌倉時代の頃は、あそこが海岸のギリギリのラインだった可能性があるんですね。
天神のフタタの所からも碇石が出たんですが、あれもちょうど50メートル道路のところですね。

井上

平清盛とのかかわりあいは残っていないんでしょうか。

亀井

これが、質問されると因ってしまう(笑)。平清盛が(そで)の湊(みなと)をつくったということになっていて、ちゃんと歴史に残っているんですが、さて袖の湊はどこかというと分からない。従来からの説では、漠然と呉服町の周辺ではないかと、言われているのですが、どうもそれもはっきりしない。
清盛が生きていたのが12世紀ですね。その頃は呉服町の交差点のあたりは陸になっているから、港はつくれない。それに博多で「袖」を連想させるような地名もないんですよね。
でも、だいぶん地形の復元をして、博多の町に走っていた水路の場所も分かってきました。東西に水路が走っているんですよ。玉屋のあたりから東へ行って、丸善のあたりから南に下がり、また東へ伸びて行くという、かなり幅広い水路です。船も入れたんじゃないかと思います。櫛田神社のあたりでぬけているのか……。袖の湊と、何らかの関係があるのか。ですから、旧博多の那珂川、石堂川(御笠川)にはさまれたどこかに、袖の湊があったということでしょうね。

井上

清盛と博多のかかわりは、袖の湊しかでてこないわけですね。

亀井

そうです。清盛が佐賀県の神埼(かんぎき)の荘に中国の船を引き入れた、という話はあるんです。つまり、博多湾ではなく、有明海から中国の船をまわすという手も考えたようですね。

井上

西公園の下の唐人町はどうなんでしょうか。

亀井

あれは中国商人がまとまって住んでいた場所だと思いますね。近世になって、多分、江戸時代か、それに近い時代だと思いますね。

国際色ゆたかだった博多

井上

中国商人の博多での活躍をしるした中世の民間の書物や資料は……。

亀井

少ないですね。近世の神屋宗湛の資料でも、少ないんですよ。建物にしても、16世紀に秀吉が入ってくる前に、大友、大内、島津の戦いで、ほとんど焼き払われているんです。所蔵していた中世の記録もほとんど消失した。だから中世の寺宝も少ないんですよ。博多のお寺は由緒が古くても建物は江戸時代頃からのものでしょう。

井上

対外貿易の博多は経済力があるので、非常に魅力的なマーケットだったと思うんです。それで、大内、大友、島津と侵入してきたのでしょうが、どうして、この土地に強い豪族が出てこなかったのか、そのあたりが非常に不思議な気がします。
最初官営でスタートしたので、いわば一種の天領のような感じで、武力が育たなかったのでしょうか(笑)。

亀井

いや、むしろ商人が経済力を握っていたということが大きいのだと思いますね。だから、その結集した富を武力で奪おうということに……。

井上

なるほど、同じ商人の町の堺も同様ですね。

亀井

ええ、一種の自由都市で。堺の方は細川という庇護者がいましたが、博多は特別に強力な庇護者がいませんでしたからね。

井上

出土や伝来の陶磁器で、出色のものは……。

亀井

そうですね。玉屋コレクションに入っている経筒が重要文化財になっています。出光美術館にもいいものがありますね。

井上

沖ノ島は西の正倉院と言われていますね。あそこの宝物は博多の商人とは関係ないんですか?

亀井

あまりないでしょうね。沖ノ島は国家祭祀といいますか、遣唐使などの公的な船が、安全を祈っていろいろ祈願するところでしたから。

井上

遣唐使は菅原道真公[永和12年(845)~延喜3年(903)]の献言で中止されましたね。その後は行っていないんですか。

亀井

ええ、ありません。

井上

足利幕府が始めた勘合船貿易(かんごうぼうえき)がありましたね。

亀井

くだって、明朝時代(1368~1644)に、私貿易をおさえるために明朝と足利幕府が公認した貿易船の交易です。この時代には国書を持参して、皇帝の謁見を受けることはもうなくなっていますね。宋の時代もそうで、明の時代にやっと一度国交が回復していますけど……。

井上

福岡は今も外人さんが増えていますが、鴻臚館から足利時代までの博多は、もっと国際色豊かだったでしょう。

亀井

中国人が多かったと思いますね。商いをする人の声はうるさいことの代名詞になっていますが、鎌倉時代には、その叫び声がこの町にあふれていたでしょうね。

井上

博多弁の中に残っているのかな、と思うことがよくありますけどね。よく、「すみません」のことを、「スイマシェン」と言いますよね。あれなんか大陸のなまりでは……(笑)。

亀井

サ行の発音が全部「シャシュショ」ですからね。でも、そこらへんのことは、よくわからない(笑)。

司会

今日はいいお話をありがとうございました。

※太宰府…近世までは大宰府でしたので、その表記によりました。

亀井明徳氏の略歴

昭和44年、九大文学部大学院修了、九州歴史資料館学芸第二課参事補佐を経て、現在専修大学文学部教授。文学博士。専門は歴史考古学、東洋陶磁史。著書に『日本貿易陶磁史の研究』『西都大宰府』。第16回小山冨士夫記念賞受賞。東京都出身。住所は東京都稲城市向陽台4丁目