No.48 純粋に国を憂(うれ)いた中野正剛

対談:平成元年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡市博物館館長 進藤 一馬氏
聞き手:
福岡シティ銀行頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


中野正剛 年譜

雄姿堂々

中野正剛

四島

先程、中野さんの銅像を見てまいりましたが、立派なものですね。青空を背景に雄姿堂々という感じで。

進藤

はい。動きがあって、先生の演説のポーズがよくとらえられていますね。

四島

先生は、永年中野さんの身近にいらっしゃいましたね。中野さんが、東条独裁に反抗して自決されたのは、昭和18年ですね。
中野さんは国士といいますか、本当に国を憂える方という感じがいたします。

進藤

はい。中野先生くらい、年がら年中、国のことばかり考えていた人はいないでしょうね。政治が全てといっていい。しいて趣味と言えば、後に始められた乗馬等で、隻脚でしたから「片足で馬場馬術がやれるのは、世界でもあまりおらんぞ」と言ってお得意でした。

四島

柔道も……。

進藤

ああ、これも若い時ですね。講道館で無敵といわれた鹿児島出身の徳三宝という人がいましたが、早稲田の学生時代に試合をしてこの人に勝ってますよ。

四島

すごいですね。足が悪くても……。

進藤

中学1年の時に炎症を起こして、ちょっと跛(びっこ)をひくくらいで柔道はできました。

四島

成績は良かったそうですね。

進藤

修猷館卒業の時は、3番の成績です。優秀な人はだいたい官立の学校に行くんですが、早稲田が好きで……。
そして、親友の※緒方竹虎さんを早稲田に誘うんです。緒方さんは高等商業に入っていた、今の一橋大ですね。校長排斥の学校騒動があって、福岡に帰っておられた。先生が「商人の学校に君は向かない。早稲田に来い」と強引に誘うんです。そうして、小石川で一緒に自炊生活を始めるんですね。

※緒方竹虎-本シリーズNo.34「緒方竹虎」を参照。

反東条を通して…

四島

西郷隆盛を尊敬されていましたよね。

進藤

そうです。それから、大塩平八郎中江藤樹王陽明の学問の影響が強い人たちですね。陽明学派は、知るということは実行することによって初めて知ったといえるので、口先で知っているだけではだめだ、行動で表さなければならないという学派で、このことは先生もよく言っておられましたよ。

四島

その考えで、選挙も非推薦でたたかわれ、反東条を通されたのですね。

進藤

ええ。昭和17年4月の選挙は翼賛会選挙でした。翼賛会推薦でないものは国賊のように言って、警察が圧迫したのですからひどいものです。しかしこの時、先生は非推薦で最高点で当選しています。

四島

すごいですね。

進藤

東方会は46名の候補者をたてて、7名当選でした。非推薦で当選したのは、鳩山一郎さん、三木武吉さん等、2、30人はいたでしょう。先生は東方会をひきいて、東条独裁内閣を批判される。

四島

あの時代に、よく……。

進藤

堂々とね。また、中野先生の時局演説は名演説だというので、どこでも超満員でしょう。そこでも徹底した東条批判です。経済政策も、統制統制で、民意の調達ではなく、上から押さえてばかり。国民がこの時局に奮起して協力するような体制に持っていかなければいけない。役人が統制会社のいい地位にいて、民間人は一生懸命働いているのに、日常の商業を営利主義だというのでは、国民は納得しない……と。
昭和17年の暮れには東方会の公開演説も禁止されてしまいました。

四島

あとはペンだけですね。

進藤

そして、あの18年の元旦の朝日新聞の「戦時宰相論」ですね。「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に、謹慎に、廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ」と結んだ論説が東条首相の逆鱗(げきりん)にふれて、発売禁止になって、筆を折ることになる。それからは、演説もできない、書くこともできない。さらに東条内閣は施策や軍への反対を封じるために、18年3月に戦時刑事特別法を成立させて、言論・出版の禁止と、追い打ちをかけました。

四島

無茶ですね。

進藤

そして、6月の議会に、翼賛会だけで食糧緊急対策と企業整備の法案を衆議院に出すんです。3日間の議会でそんな大きな問題を審議できるわけがない、もっとじっくり検討すべきだと、代議士会で先生と鳩山一郎、三木武吉の3人が反対するわけです。
先生は「政党が翼賛会だけで、東条におべっかを使う者だけが用いられ、茶坊主たちが東条を誤らせている。東条首相は、自分では善意でも不逞の臣になることがあるんだ。茶坊主体制が国を誤る」と代議士会で演説された。

四島

激しいですね。ところで中野さんは、17年暮れのガダルカナル撤退のあたりから、日本は負けるかもしれない、と感じておられたようですね。

進藤

そうです。中村良三海軍大将や、経済企院の日下藤吾(くさかとうご)さんたちと、東方会で戦況や国内の生産力の問題を研究していました。日本の生産力では戦争にならない、ガダルカナルで日本の船はやられてしまって、これじゃ戦争はできない、どうすればいいか。それで、東条内閣打倒が一致した結論だったんですね。

  • ※大塩平八郎[寛政5年(1793)-天保8年(1837)]号は中斎。江戸後期の陽明学者。天保の饑饉に窮民救済を町奉行に上書したが、ききいれられず蔵書を売って救済につとめ、ついに門弟とともに救民の兵を挙げ失敗して自殺。
  • ※中江藤樹[慶長13年(16008)-慶安1年(1648)]近江(滋賀県)の人。江戸初期の儒者で、わが国陽明学派の祖といわれる。身分差を超えた人間の内面平等性を強調し、近江聖人と言われた。
  • ※王陽明(1472-1528)中国、明時代の儒学者。浙江省の人。はじめ朱子の物ごとの道理を研究して知識を明らかにする致知の学をとなえたが、後に知行合一の説をとなえ、陽明学派の祖といわれた。

東条打倒で重臣工作

四島

重臣たちに工作されたのもその頃ですね。

進藤

そうです。重臣たちが全員で東条の政策を槍玉にあげて、辞職を迫る。もう、それ以外に方法がない、と重臣工作を始められた。総理経験者の岡田啓介若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、広田弘毅(ひろたこうき)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)というような人たち、みんな賛成なんですよ。じゃあ、東条に招待されているから、そのお返しということで華族会館に招ぼう。懇談したいから総理1人で来てもらいたいということに……。その席で辞職を迫ろう……。

四島

それがうまくいかなかった……。

進藤

そうなんです。自分1人では十分な説明ができないからと、賀屋大蔵大臣とか鈴木企画院総裁とか、4、5人連れてくるんですね。重臣の方は、岡田さんが引導を渡すつもりだったのが、東条の方から「戦争は自分が責任を持ってやっている、勝算は立っている。任せてくれ」と言い切られて、うやむやになってしまったんです。
重臣からいつまでたっても連絡がこない。華族会館に聞いてみると「もう早く終わりまして、皆さんお帰りになりました」(笑)。

四島

先生は……。

進藤

がっかりされたですよ。「あの人たちは重臣じゃなくて軽臣だ。玩具の兵隊のように、ネジを巻いている間は動いているが、ネジがゆるむと止まってしまって何にもならん」と憤慨しておられました。

※広田弘毅-本シリーズNo.13「広田弘毅」を参照。

自決

四島

そういうこともあって、東条さんが逮捕させたんでしょうね。警視庁と憲兵隊に拘留され、厳しい取り調べを受けて、自決されたのですね。

進藤

警視庁は10月21日に、東方会を一斉検挙し、先生を拘留したものの、国政変乱を立証できない。25日には国会が開かれる。議会開会中は院の許諾なしには議員は逮捕できないので、先生の登院を拘束できない。警視庁は前の晩に帰すと言ったんですよ。東条はそこで、憲兵隊に手をまわすのです。その晩は警視庁にとめられ、あくる26日、憲兵隊に連れて行かれた。いろいろ尋問されて、家に帰られたのは午後の2時くらいですかね。
それから風呂に入って、髪を染めたり、家族と食事しながら雑談などして、久しぶりに帰ったので、紋付を着たいと出させました。そして「今晩自分は早く寝るけれども、新聞を見るから、電気がついていても心配するな」と言って、みんなを早く寝させたんです。
寝室の机には、馬に乗っている楠木正成の銅像が置いてありました。ムッソリーニヒットラーからもらった額も掛けてあったんですが、自害の前の日に「何だか見下ろされているようだから」と言って、取りはずされた。それから大西郷全集を持ってきておられる、少し読まれたんでしょうね。
日本刀は、家宅捜索の時に全部出したんですが、末子の泰雄君が出征するので軍刀に、という理由で1本だけ置いてあった。寝刃(ねたば)をあわせるのに砥石がないので、時計の裏でしてみたがうまくいかぬ。それで形だけ腹を切り、頸動脈を突いて見事な自害でした。知らせで駆けつけられた頭山満先生が、古武士のような見事な最期と言われました。名刺の裏側に「断十二時」と書かれていましたから。27日が命日ということです。

四島

やはり、憲兵に連れていかれた時に覚悟されたんでしょうね。

進藤

その辺はよくわからないんです。割合平然と帰ってこられて、東条との勝負はどうか、家の人が聞くと「もちろん俺の勝ちさ、今度は大きなことをやるんだ」と言っておられたそうなんですね。憲兵がどういうことを先生に訊いたかもわからないんです。「こんなことをやっていたら、戦争は負ける」といっておられたこと。東久邇宮に「殿下、しっかりしてください。日本は負けるかもしれない、宮殿下に大塔宮になっていただかなければならない」と言ったとかいうことです。そういうこと以外に流言蜚語(りゅうげんひご)となるようなことはないんですよ。

満天下を沸かせた「朝野の政治家」

四島 司

四島

実に惜しい方でしたね。中野さんを支援された安川第五郎さんや、緒方竹虎さんは、修猷館の同期ですか。

進藤

いえ、中野先生の方が安川さんより1年上です。また中野先生は緒方さんのお兄さんの大象さんと同期です。それが、先生が足の手術で中学で1年下がって、緒方さんが小学校を早く上がったりしていて、1年違いになったんですね(笑)。
緒方さんを朝日新聞に誘った先生は、今度は政治を一緒にやろうとされた。「緒方が朝日新聞を辞めきらんからつまらん」と言っていましたね。

四島

中野さんは自分が総理になるつもりだったんでしょう。

進藤

だから、緒方さんに頼むところが大きかったんでしょうね。

四島

朝日新聞時代の中野さんは……。

進藤

朝日に入って2年、わずか25歳の時、耕堂というペンネームで、「朝野の政治家」を連載、桂太郎西園寺公望(さいおんじきんもち)からはじめ、犬養木堂(いぬかいもくどう)等、8人の政治家の長所や欠点をえぐり出して書かれた。それが非常に評判になって、主筆の池辺三山が書いたんじゃないか「三山未だ老いず」なんて言われたんですが、弱冠25歳の中野先生とわかって満天下を驚かせ、一躍「朝日に中野あり」と認められたんです。
ついで「自由民権史論」や「与うる書」を連載された。桂内閣を攻撃し、何もかも独りでされるものだから、社内で孤立してしまう。最後は、先生と緒方さんと2人で、桂内閣攻撃の新聞記事を1ページつくったそうです。

四島

まだ20代でしょう。たいへんなものですね。

進藤

大正2年に、多美子夫人と結婚されてすぐ、京城特派員で行かれるんです。その頃、同じ福岡出身で、日露戦争の時諜報で大活躍された明石元二郎(あかしもとじろう)さんが、憲兵隊司令官でした。

四島

ここでも、中野さんは寺内正毅(てらうちまさたけ)さんの朝鮮の政策には批判的で……。

進藤

「総督政治論」を16回も連載して、「寺内さん個人は善政をしくつもりで一生懸命やっているけれども、善意の悪政だ」と攻撃しています。

四島

それから、ヨーロッパヘ。

進藤

留学されたのは数え年の30歳の時で、安川敬一郎さんが援助しました。新橋から発つ時、杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)とか三浦観樹(みうらかんじゅ)とか、偉い人が見送りに来ているんです。その時の旅行記、『亡国の山河』に「自分は10年前に郷党の期待を担って、修猷の先生方に上京を送られた。今日30歳にして、当代の錚々(そうそう)たる人たちに送られてヨーロッパに向かう。自分の訪欧は、帝国の進展にかかわる」と、なかなかの名文で書いてありますね。

四島

そして、帰国して政治家に。

進藤

1年位滞在し、ヨーロッパからアメリカを回って帰国後、朝日を退社され、東亜問題研究のため、「東方時論」によって論陣をはられる。この研究会が政治結社の東方会になるのです。翌年、衆議院議員に立候補しますが、落選。松永安左衛門さんが当選でした。それから大正7年12月に、第1次世界大戦の講和使節団の記者団として随行し、パリに行く。牧野伸顕(まきののぶあき)さんが全権委員で、元老の西園寺公望さんが首席全権でした。
しかし、西園寺さんの到着は、会議の大勢がようやく決した後という悠長さで、それも世話役のお花さんを連れ、畳まで持って行っている。フランスのクレマンソーやアメリカのウィルソンという巨人の中で、日本全権は弱体で「闘犬中の小羊」だと痛憤しています。よそはもう真剣勝負で出て来ているのに、というわけです。そして中国の顧維釣(こいきん)という人がずっとアメリカに行って根回しをしていて、アメリカと一緒になって日本を攻撃するんですが、日本はその時一言も反論できないくらいだったんです。
先生は「ヨーロッパ大戦で勝った国がみんな中国に拠点を持って進出している。日本は中国と仲良く貿易をしなければいかん」という意見でした。
そこで、このままじっとしてはおれないと、会議の途中で帰ってくるんですよ。4月神戸に上陸すると早々に、大阪で演説会です。講和会議の実情を訴えて、「こんなことでは日本は駄目だ。第2の維新、新人よ出よ」と訴えられる。その頃から本当に人を魅了するような演説になるんですね。腹の底からの憂国の熱情が伝わるのです。

四島

次の選挙には当選されるんですね。

進藤

第2回目の大正9年選挙で、松永さんを破って大勝するんですよ。これで政治家中野正剛が確立され、松永さんは経済界に去り電力の鬼になられるんです。

四島

何を伺っても、普通の人よりも10年か20年くらい先を走っているんですね。

進藤

先生は、いろいろなことの先が自分で見えるんでしょうね。他の人と一緒に行くのがまだるっこしいというか、とにかく自分だけが先に行ってしまうんですよ。戦後に戦犯裁判の弁護団長をされた清瀬一郎さんは「料理で云えば最初のスープだけで立って行ってしまうようなもんだ。もう少し最後までおれ」(笑)と、よく言っておられました。

※明石元二郎-本シリーズNo.25「明石元二郎」を参照。

柴田文城先生

進藤 一馬氏

四島

中野さんに影響を与えた人たちといいますと。

進藤

第1は、師範附属小学校の高等科で教えていただいた柴田文城先生です。頭山先生の縁戚で、学校へ白馬で通っていました。
中野先生の組は非常に悪かったそうで、柴田先生はある日、中野先生を呼んで「君は元気があっていい。君は将来偉くなると思う。でも、今のようなことではつまらんぞ」と戒められた。そして、クラスに非常にいじめられる子がいたので「弱い者は助けなければならない。君があの子を守ってやれ」と言われたそうです。それから人間が変わったようになって、強い者には立ち向かうが、弱い者は助ける、というふうによくなったんです。
柴田先生は、緒方さんも、その上級の真藤真太郎(しんとうしんたろう)さんも教えたんです。この3人が自分の教え子だったことが、柴田先生の自慢でした。

四島

その先生から漢詩の素養を受けられたとか。

進藤

そうです。王之渙(おうしかん)の「鸛鵲楼(かんじゃくろう)に上(のぼ)る」という有名な詩の一節、「千里の目を窮(きわ)めんと欲して、さらに上(のぼ)る一層の楼」。自決の時、子息の達彦、泰雄さんに遺した書ですが、これは、小学校の時に柴田先生と一緒に宝満山に登った時に、先生が教えたものです。登っていく途中は松原があって、よく景色が見えなかったが、登っていくにつれ景色が開けてくると、その松原と海が見えて、一層立派な景色になる。努力して登ることによって、景色が更に広がっていく、という意味の詩です。

四島

多美子夫人は三宅雪嶺(みやけせつれい)のお嬢さんですね。三宅さんは、言論界の頂点のたいへんな方でしょう。

進藤

三宅さんは頭山さんたちと『日本及び日本人』という雑誌をやっておられたんですが、古島一雄(こじまかずお)さんと頭山先生が間に立つわけですよ。三宅さんのお嬢さんですから、夫人は、帝大でなきゃ学校じゃないように思っていたでしょう。それが早稲田出で、来るなり菓子をパクバク食べて、遠慮なしの人だったので、内心ハラハラだったそうですが(笑)。

四島

進藤先生と中野先生のご縁は、どういうきっかけだったんですか。

進藤

玄洋社の社長をしていた私の父の喜平太が先生を応援していて、猶興会という後援会の会長をやっていました。大正13年に宮川一貫さんと争って25票差で勝った時など、オヤジは投票所の市役所の前に椅子を出して座っていたんです。投票に来る人の顔を見ながら、これはあっち、あれはこっち、と教えていた(笑)。

四島

喜平太先生が入口に座っておられる。それは効いたでしょうね。

進藤

そういうことが御縁で、先生の家から早稲田に通ったんです。それ以来ですから24年くらい先生についていましたね。

たいへんなお母さん思い

左 中野正剛 右 緒方竹虎
昭和15年9月(玄洋社資料館提供)

四島

私生活はどうでしたか。

進藤

質素でしたよ。青年をかわいがって、講演料や原稿料で「猶興居」をつくられ、多い時は6人から8人くらい学生の面倒をみていました。
長谷川峻君、この人は、戦後は大臣を歴任されましたが、全然縁のない東北から、先生の書生にと飛び込んできたのです。前の人吉の市長をやっていた永田正義さんもそうでした。

四島

豪傑酒を好みましたか。

進藤

いいえ、普段は1滴も飲まれませんでした。飲んでもほんの少しでした。頭山満さんも酒は飲めなかったですし。ただ食べることは好きでしたね。

四島

中野先生のご両親は……。

進藤

お父さんは、黒田藩のお船方だったそうです。よく新聞を読んでおられたが、先生はあまりお父さんと話す時間もなかったようです。しかし、大変な母親思いで、学生時代にお母さんから手紙が来ると、「病気は心配ないと書いているが大丈夫だろうか」と緒方さんに言われる。緒方さんは、「そう書いてあるから大丈夫、医者に任せておけばいい」と言うんですが、心配で心配でたまらない。「やっぱり悪いんじゃなかろうか」と、その手紙で何回も寝ている緒方さんを起こしたそうです。それだけ親孝行の中野先生が、お母さんを残して自分の命を絶つということは、なかなかできにくかったと思いますね。

四島

長男の克明さんが亡くなった時の文集を読んで、ホロッとさせられました。「シッカリシロ・チチ」という電報でしたね。克明さんは信州前穂高で遭難されたんですね。

進藤

長男が亡くなり、次男が亡くなり、奥さんが亡くなり……。その前に片足を手術して切断されている。本当に家庭的には不幸ですよ。

四島

足はいつ切断されたんですか。

進藤

大正15年でしたね。医学部の先生が、自宅で患者を診て問題になったのを、先生が間に入って、何とか片づけられた。その時知り合いになった外科の先生が、曲がった足は、手術すれば、1週間もしたら治りますよ、と言われたんですね。東京の病院を借りてその先生が手術をしたんです。処置がまずかったのか、だんだん血管が枯れていったんです。それで翌月、慶応病院で左足切断の手術を受けられたんです。

四島

ところで、太平洋戦争をどう考えておられたんですか。

進藤

始まった時、緒方さんへの電話が心配声だったという話もあります。でも、やはり日本がABCD包囲陣で押さえられて、何かやらざるをえないということはあったでしょう。

四島

三国同盟には賛成だったそうですが。

進藤

そうそう。それが戦後に批判されているんですね。当時はABCD包囲網に対抗……してということだったんでしょうが…。だからそのために、ムッソリーニに会ったり、ヒットラーに会ったりしたんですね。

四島

でも、自決の前には2人の額をはずされたとか。

進藤

どういうお考えだったのでしょうかね。ムッソリーニやヒットラーに感心して帰国したんですが、やはり日本人の本来にかえってみると、諸外国の変動というのは頼りにならん、という気がしたんじゃないでしょうかね。

四島

ちょうど同時代だと思いますが、菊竹六皷(きくたけろっこ)さんとのおつき合いは。

進藤

政党が違うこともありますが、行き来はありませんでした。でも、内心は筆を折らないことに感心していたんじゃないですか。だけど、お互いに「フーン」といって鼻であしらう感じだったんじゃないかと思います。私は2人を会わせたら面白いと思いますね(笑)。鼻っ柱の強い所も、どちらも似ているしね。

猶興会

四島

さきほどの猶興会、銅像と一緒の碑に、猶興の文がありましたね。

進藤

「豪傑之士雖無文王猶興」豪傑の士は文王無しといえどもなおおこる、という孟子の言葉ですね。中野先生が非常に好きな言葉でした。だから、後援会も「猶興会」、自分の塾も「猶興居」と名づけました。

四島

意味はどういうことですか。

進藤

文王は中国古代の周の聖王ですが、豪傑は文王の引きがなければ偉くならないようなものじゃない、豪傑は自分で興る、それが真の豪傑だという意味ですね。

四島

中野さんのいわば英雄待望、新人待望だったのですね。

進藤

中野先生はつねづね「人間は、精神の高揚した時に死ぬのが1番の幸せだ」と言っておられました。西郷さんの城山での最期は、精神が最も高揚していたときでしょう。だから、自決の時も、精神的には1番充足高揚していて、「今度は大きなことをやるぞ」と言って帰ってこられたということは、何か自分の生命を絶つことが警鐘乱打になると考えられたんじゃないでしょうか。

四島

葬儀委員長は緒方竹虎さんがされたのですね。

進藤

東条の代理人から「花輪をあげたいが、受け取ってもらえるか」と電話があったそうです。緒方さんが「あらかじめ受けるか受けぬか聞くのはおかしいじゃないか」といわれて、立消えとなった。
最近、東条の赤松秘書が総理官邸の会議の内容を出していますね。中野をなんとかして罪にしようと、一生懸命やっているんです。

四島

もし、中野先生が自決されずに戦後まで生きておられたら、どうなっていたでしょう。

進藤

うーん、もう少し我慢しておられれば、先生の時代は来たと思います。翼賛選挙の時、東方会から46人立候補しましたね。だから、中野派の代議士候補は40人以上いたということです。先生が演説の応援に行けば、第1党になったと思いますね。
東方会にいた人たちが、戦後は社会党や共産党から国会にでましたよ。特に稲富稜人さんのように農民運動をやってる人たちが社会党で出ていて、優秀な人が多かったですよ。

たいへんな雄弁

四島

私は、ちょっとあそこで自決されたというのが理解しにくいんですが。

進藤

理由は本当に分かりませんね。徳富蘇峰(とくとみそほう)さんも、墓碑文に「人、その何故たるを知る者無し」と書かれたように、実際分からないんですね。有名な馬術名人の遊佐幸平(ゆさこうへい)さんは「中野先生のように潔癖な人は、議員の身分を無視しての拘留に黙っておれなくて、自決されたんじゃないか」と言っています。1面には、これだけやってもできなかったので、諦めもあったんじゃないかとも言いますが、戦争拡大を止められなかったことへの反省もあったかもしれませんね。

四島

たいへんな雄弁家だったそうですね。

進藤

先生は海外事情にも明るく、漢学や歴史の素養が深くありましたからね。国を憂い、腹の底からの憤激が言葉になってほとばしる。本当に肺腑をえぐり、心をゆさぶる雄弁でした。私は、危局にあった日本が、先生の雄弁を必要としたのだと思います。
さらに、戦局が悪くなればなるほど、悲愴感があふれて、ますます弁舌が冴えてくる。昭和17年11月に早稲田大学で学徒出陣を前にした学生たちに行われた「天下一人をもって興る」という演説は、4時間にもわたる大演説でした。「天下ことごとく間違っている。眠っているなら目を覚まそうではないか。真剣に立ち上がれば、天下はその人に率いられる」という、先生の信念を吐露したものでした。

四島

お伺いしていますと、中野さんの決断は、やはり陽明学の考え方からですね。

先がけて民活

豪傑之士雖無文王猶興

四島

実に憂国の人ですが、政治家の中野さんは。

進藤

逓信政務次官の時、省の若手を集めて、電話民営案を練られた。当時は役所仕事で、電話を申し込んでもいつつくかわからない。それで、機器は民間の電機会社がつくれ、オペレーターは逓信省が受け持つ。そして少しでも早く多く電話の架設を進めようということなんです。
この案を閣議に出すと、井上大蔵大臣によって来年に繰り延べになった。先生は、もうやらんというのと同じことだからと、逓信政務次官をあっさり辞めてしまった。そういうところは本当に潔いんですね。

四島

まさに民活論ですね。

進藤

福岡に簡易保険局をつくられたのも中野先生です。逓信関係は、熊本に安達謙蔵(あだちけんぞう)さんがいるので、みんな熊本にいってしまう。それを、簡易保険局だけはこっちだと福岡に持ってこられました。これは一例ですが、先生という人は、国政ばかりでなく、地方の民業はどうしたら発展するかということに熱心で、次官時代に逓信省関係だけでもいろいろ施策されました。

四島

それでは、最後に進藤先生が中野先生に最もひかれるところを。

進藤

一言で云えば直情径行、天才的一面とまた子供の様な単純さがあった。純粋な熱血九州男児ということで、こういう人は珍しいんじゃないですかね。これくらい真剣に国を憂える人がもう少しいたら、日本はもっとよくなりますよ。

四島

よいお話をいろいろとありがとうございました。

進藤一馬氏の略歴

明治37年1月1日福岡市に生まれる。大正15年、早稲田大学政経科卒業、中野正剛の秘書となる。昭和19年、玄洋社社長、昭和33年衆議院議員初当選。以来4回当選。42年法務政務次官に就任。47年より61年まで福岡市長。福岡市美術館館長。平成元年福岡市博物館館長。